終戦直前陸軍内部に指令が出されます。一にふ号作戦 二に731部隊の証拠を徹底的に隠滅せよ。
ふ号作戦 風船爆弾を偏西風にのせるというアイデアを出したのは14才の中学生中西薫君 ともいわれています。つくったのは日本中の女学生 中学生 徴用された若い女性たち
アメリカ政府は風船爆弾に日本が生物兵器を乗せるのではないか 特攻兵が乗ってくるのではないかとたいへん恐れました。そこで国民がパニ。ックを起こさないよう風船爆弾のことを秘密にしたのです。偏西風が吹くのは11月から春まで それでアメリカは偏西風が吹く秋までに戦争を終わらせようとしたようです。8/21 アメリカのトリニティで世界初の原爆実験が成功…..
実際には原爆は投下されたわけではない。地上爆破という説 マスタードガスだったという説もあります。
子どもたちの作文を見て 不思議なのは B29 という叫び声があがり ゆらゆら パラシュートが落ちてきたという下りです。
原爆って そんなに軽いものなのだろうか!?
もっと不思議なのは 学校の反対を押し切って 「その日」学徒勤労動員で 「偶然」 建物の疎開作業が行われた ということ....
それも 爆心地のすぐそばで.... (アメリカは戦後 被爆者を集め検査したが治療はしなかった。なぜ.....
「遇然」 陸軍の第二軍が ヒロシマに 集結させられていたこと。(陸軍は徹底抗戦だった)
プルトニウム型原爆 ファットマンは長崎ではなく 小倉に落とされる予定でした。
小倉工廠が 日本で唯一の一貫した風船爆弾製造を 行っていました。
少女たちは ヒロポンを飲まされ 働かされていました。自殺した少女もおりました。
戦争の体験談を 読んで しみじみ思うのは 明治以降 子どもたちは
まったく 大切にされなかったということ 14歳から 毒ガス工場 で 731部隊で
働かせていた 事実はほとんど 知られていないのではないでしょうか?
満蒙開拓青少年義勇軍は 関東軍代わりの 兵隊だったことも。
この国は 少年少女を消耗し 殺人に加担させた国でした。
この国はそのような 過去をもち 今も 変わらないようです。
一少女の記録 だいぶ前 ネットでみつけたものです。
........作業場は蒸気が立ち込め、床はびちょびちょで、化学薬品が入った糊がもんぺについてバリバリになってしまいます。それを家で洗濯するとボロボロになるのです。母に「工場で何をしているんだい?」と聞かれましたが、監督の軍人さんから、作業内容は例え家族であっても絶対に話してはいけないと言われていたので、言えませんでした。
朝七時から夜の七時までの十二時間労働で、中腰の無理な姿勢で、神経を使う細かい作業を続けました。それで腰痛になったり、指が外側にそり曲がってしまい、今も曲がったままの友だちもいます。休憩はお昼の一時間だけ。班ごとに成績が張り出されるのでお国のため天皇陛下のために一枚でも多くつくらなくてはと、お昼時間に食い込んで作業しました。食事はご飯に大豆粕を入れて炊いたもので、おかずは毎日カブと油揚げを煮たものだけ。だからカブや大豆製品は今でも苦手です。お腹はいつも空いていました。
私はその頃、「風船に爆弾をぶら下げてアメリカに飛ばす」と聞かされたとき、そんな夢みたいなことを、と思っていました。
ところが戦後、あれが風船爆弾だったこと、細菌兵器を積んで飛ばす計画さえあったことを知り、愕然としました。それから本当のことを調べ始めました。風船爆弾は当時の科学の最高水準の技術を集め、巨額の費用を投じてつくられた、世界ではじめての大陸間横断兵器でした。冬のジェット気流に乗せれば燃料がなくても太平洋を横断したのです。二日前後でアメリカ大陸に到着、爆弾が落とされるようになっていました。約九千三○○個が飛ばされ、285個ほどがアメリカに到着したそうです。
なかでも、ピクニックに来ていた五人の子供と妊娠中の牧師のおくさんの六人が爆死したと知ったときは、頭をひっぱたかれたようでした 亡くなった子供達はわたしたちと同じ年頃 十一才から十四才……..私たちは何の疑いもなく夢中で風船爆弾を作っていたのです。それが、殺人兵器だとは知らずに・・・