南斗屋のブログ

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戦犯裁判中、教誨を行った花山信勝

2021年10月25日 | 横浜BC級戦犯裁判
(戦犯裁判中、教誨を行った花山信勝)
 花山信勝(はなやま しんしょう)は、東京裁判及び横浜BC級戦犯裁判の教誨師を務めた人物です。
 戦犯裁判では、未決・既決の区別なくの教誨が行われていたようです。
 死刑判決が多数でたこともあり、教誨師の役割は非常に重要でした。

(BC級戦犯についても教誨を行う)
 花山は、「巣鴨の生と死ーある教誨師の記録」(中公文庫)という著作を残しています。
 ウィキペディアでは、「1946年(昭和21年)2月から巣鴨拘置所の教誨師となり、東條英機ら七人のA級戦犯の処刑に立ち会った」と記されており、A級戦犯の教誨を務めたという点のみ指摘されておりますが、BC級戦犯の教誨も行っていることも見過ごすことはできません。花山は、横浜BC級戦犯において死刑を宣告されたうち27人について付き添いを行っています。前掲書では1章を割いて27人の死刑前後の様子について記録しています(前掲書第4章「二十七死刑囚の記録」)。

(教誨師となった経緯)
 花山は、1898年金沢市生まれ、1924年東京大学大学院修了、1946~1959年、東京大学教授。退官後は、本願寺派の北米開教区開教総長を十年務める、との経歴を有しており、1995年3月に没しております(前掲書)。
 東京大学の教授を務めながら、教誨師を務めたことになります。
 花山は、教誨師となった経緯を次のように記しています。
 1946年(昭和21年)1月下旬のある日に花山は友人から「ある話」を聞きます。花山が聞いた話というのは、米軍が、巣鴨の拘置所で、日本の仏教僧を一人送ることを政府に対して要求している、司法省行刑局の第一課長中尾文策氏がその選考にあたって、仏教各界から物色しているというものでした。
 花山は、「では、君と二人で、二人三脚でやってみょうか」と気軽に話をしたのですが、その友人とやらは教誨師を受けなかったのでしょう、花山一人が教誨師の職につくこととなったのです。
 ところで、このエピソードからは、教誨師は、米軍が要求していたことがわかります。これは、米軍には従軍教誨師がいることと関係があるのでしょう。
 日本軍には教誨師がいたのかどうか…。そのようなことを聞いたことがなありませんが、いなかったとすれば、やはり彼我の文化の違いを感じざるを得ません。

(キリスト教の教誨師は米軍が行っていた)
 花山は仏教僧として教誨師となりましたが、キリスト教はどうだったのかというと、米軍が担当していたようです。
 「キリスト教徒の戦犯者については、米軍の従軍教誨師であるチャプレンがいるから、その人によって司式し、説教は、2世の通訳をつければ足るのだけれども、仏教については未知であるから、どうしても仏教の僧侶がいるということになったわけである。」と花山は記しています。

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