南斗屋のブログ

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文政10年12月中旬 色川三中「家事志」

2022年12月22日 | 色川三中
文政10年12月中旬 色川三中「家事志」

文政10年12月11日(1827年)
(編集より)三中先生は本日日記をお書きになられませんでしたので、本日分は休載です。
#色川三中 #家事志

文政10年12月12日(1827年)晴
夜になってから与兵衛が鹿島から戻ってきた。居合の松岡精要様の世話で初五郎という11歳の小児を同道してきた。
#色川三中 #家事志
(コメント)
三中は行商に出ると、居合(現茨城県鹿嶋市)の松岡さんのところに宿泊しています。いつもお世話しているからというわけでもないのでしょうが、この少年を頼むとばかり、11歳の少年を与兵衛(三中の従業員)に預けました。結構無理矢理感があり、現代ではありえませんが、当時はこういうのも普通にあったのでしょう。
与兵衛は三中の行商(7月)にも同行し、行商の途中で一人で別のところにも行かされており、三中から期待をかけられている存在。鹿島(茨城県鹿嶋市)に出張していたようであり、相変わらずあちこちに行かされているようです。

文政10年12月13日(1827年)
昨夜四つ過ぎからすす掃きを始める。神棚に塵除け板を一枚張る。
#色川三中 #家事志
(コメント)
12月13日は正月事始め(正月を迎える準備を始めること)であり、三中宅もそれに従ってすす掃きをしています。夜四つ(午後10時)から始めていますが、なにかいわれがあるのでしょうか。

文政10年12月14日(1827年)
従業員として藤沢村の茂兵衛(兵左衛門ともいう)を採用。請状を提出してもらった。
(請状の写し)
藤沢村の下男兵左衛門こと茂兵衛請状
    人主 藤沢村 弥五右衛門
    請人 同村  津右衛門
    町請人    徳蔵
 茂兵衛は裏にのみ押印     
#色川三中 #家事志
(コメント)
三中は薬種商ですが、業績は絶好調のようであり、新しい従業員を採用。藤沢村は現土浦市藤沢。日記には請状(身元保証書)の写しが掲載されています。採用された本人は裏に押印しています(奥印)。

文政10年12月15日(1827年)丙戌
未の刻から雨が降り、夜に入っても止まないと思ったら、戌の刻には雷。大音声で地を動かす。電光甚し。「寒雷は日照りのもと」という人もいるし、「冬雷あれば大水あり」と記している書もある。7年ほど前に冬雷があった翌年は日照りであった。
#色川三中 #家事志
(コメント)
冬の雷。関東では珍しく、雷の音も凄い。どうも冬の雷は夏よりもパワーがあるそうです。

文政10年12月16日(1827年)丁亥 晴
西からの大風で瓦が巻き上げられた。富士山からの強風ではないかと思われるほど。
#色川三中 #家事志
(コメント)
原文では「富士西大風瓦を巻上」とあるのですが、まさか富士山から西風は吹いてこないでしょう。土浦は筑波颪(筑波山からの風)に冬は苛まれるので、そこからの連想なのかもしれません。

文政10年12月17日(1827年)
(編集より)三中先生は本日日記をお書きになられませんでしたので、休載とさせていただきます。
#色川三中 #家事志

文政10年12月18日(1827年)
債権者米四(米屋四郎兵衛)との示談で沈南蘋の掛軸を渡すことになっていたが、まだ渡していなかった。隣主人から早く渡すようにいわれて、本日渡した。
#色川三中 #家事志
(コメント)
米四(米屋四郎兵衛)とは沈南蘋の掛軸を借金の代わりに支払う(代物弁済)ことで示談したのですが(12月2日条)、いまだに渡していませんでした。こんなに立派な掛軸を子孫に残すことは子孫の為にならない等と言っていたのですが、未練を断ち切るための強がりだったようです。


文政10年12月19日(1827年)雪
古来(現つくば市)の常右衛門の孫が古今画譜を一度拝見したいといってきた。知人からの紹介であり、川口の蔵にしまってあったので、取寄せて見せた。
#色川三中 #家事志
(コメント)
原文では「古来常右衛門」とあり、「古来」は地名で、現つくば市古来。江戸時代は名字はあっても名乗らないので、名前しか分からず、地名でその人を特定していたのかなと思います。

古来 to 土浦城跡

古来 to 土浦城跡


文政10年12月20日(1827年)晴 節分
隠居しているひものや権七(80歳)を呼び、茶をふるまい、大福餅をおごって話しをした。権七は今でも本名が権七である。どうも親類らしいということを本日初めて聞いた。
#色川三中 #家事志
(コメント)
80歳の古老(ひものや権七)と話しをした記事。「権七は今でも本名が権七である」と書いていることからすると、権七という名前は幼名によくある名前で、改名せず80歳まで生きてきたようです。お茶に大福餅。節分の日ののんびりとした時が過ぎていきます。





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