南斗屋のブログ

基本、月曜と木曜に更新します

休眠抵当権と農家共同救護社

2019年10月31日 | 歴史を振り返る

 休眠抵当権の抹消について調べていました。
 休眠抵当権とは、古い抵当権、放置された昔の抵当権のことをいいます。法律上の用語ではありませんが、不動産を売買する際には休眠抵当権の問題が生じうることから、使われている言葉です。

 「休眠抵当権」で検索して調べていると、沼津河川国道事務所用地第二課の佐久間隆行氏の「休眠抵当権の抹消について」という論文に行き当たりました。
 道路を作るためには用地買収が欠かせませんので、休眠抵当権の抹消の問題はよく出てくる問題なのでしょう。
 この論文自体は、どのようにして休眠抵当権を抹消するのか、いかに効率的に抹消するのかという観点から書かれたものなのですが、例として挙げられていた抵当権の事案が興味深いものでした。

 昭和2年7月に設定された抵当権で、抵当権者は「上河津農家共同救護社」でした。
 佐久間氏は、抵当権抹消についての協力の可否を確認するため、上河津農家共同救護社の法人登記を確認するため、下田の法務局に調査を行いました。
 結果、上河津農家共同救護社は昭和18年以降登記事項の変動がないことがわかり、実質的な活動が終了してから長い期間が経っていることが窺われました。しかし、閉鎖登記は行われておらず、解散の登記はなされていませんでした。


 佐久間氏は、どこか権利を承継した団体かないかを確認するため、地元の農協や近隣の金融機関、町役場や地元の司法書士、地区の長老にまで聞き込みをしますが、上河津農家共同救護社のことを知る者はいません。

 そこで、インターネットにより検索をしたところ、「静岡県報徳社事蹟」という国立国会図書館の蔵書の中に上河津農家共同救護社の名前を見つけるのです。同書は静岡県が明治39年4月に出版したものでした。同書には、農家共同救護社が、農家の共同救護を目的とした報徳の事業を実行する目的で設立された団体との記載があったことから、報徳思想と関係があることが判明し、佐久間氏は公益社団法人大日本報徳社や出版社である静岡県にも問い合わせを行いましたが、得られるところはありませんでした。

 佐久間氏の論文では、農家共同救護社への調査はここまでで、この先は抵当権の抹消の法律上の問題に移っていくのですが、私としては、農家共同救護社への興味が出てきましたので、さらに調べてみました。

 すると、「地方改良運動と模範村・稲取村」(田口有希夫・岡部守;農村計画学会誌 20, 229-234, 2001)に行き当たりました。
 同論文では、明治の三大模範村と称された静岡県賀茂郡稲取村(現静岡県賀茂郡東伊豆町)に関するものです。
 稲取村には田村又吉という農家が農村振興を行っており、同人は二宮尊徳の報徳思想を持論としていた。明治28年に田村又吉は報徳教育者である片平信明を訪問し、片平から報徳社設立の教示を得て帰村し、「農家共同救護社」を設立したというのです。

 農家共同救護社は、同論文によれば、明治30年に「共同救護社」、明治32年に「社団法人救護社」となったとされております。救護社の組合員は、農産物、養蚕業の収入の1割以上を毎年積み立て、これを元金とし貧困農家に対し産業資金として貸し付けを行いました。組合員は、この資金をもとに養蚕業、植林に着手し、大きな発展を遂げたとされています。

 このように農家共同救護社は、今でいえば、信用組合のようなもので、組合員に対して貸し付けを行う金融機関としての機能を有していたことがわかります。 
 佐久間氏が見た休眠抵当権者の「上河津農家共同救護社」もそのような理念のもとに、河津町内にある土地の所有者に貸し付けを行い、抵当権を設定したものと思われます。
 しかし、歴史の中に埋もれてしまい、周囲に知られることもなく、抵当権者として登記簿の中に埋もれていたのです。


この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 和解事例1566から1570まで | トップ | 和解事例、1571から1575まで »
最新の画像もっと見る