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窃盗の被害が5両以下は笞50回、10両以下は笞100回。仮刑律的例 23 刑律問合

2024年01月29日 | 仮刑律的例
窃盗の被害が5両以下は笞50回、10両以下は笞100回。仮刑律的例 23 刑律問合

(明治元年十一月四日、京都府からの伺)
昨日(11/3)、行政官から以下のような達を受けました。
新しい律を公布されるまでは、幕府が制定した刑律(公事方御定書)に基いて行うが、死刑は天皇の御勅裁を経ること、追放刑・所払い刑は徒刑へと変更すること、流刑は蝦夷地に限ること、窃盗については旧例のとおり被害額百両以下は死刑にしないとの達。
府は、以下の点に疑問を持ちましたので、どのように取り計らうべきかお伺い致します。

【伺い①】その場で盗心を生じて窃盗に及び大金を取得した者、計画的な犯行でない者については死刑でよいでしょうか。それとも減軽してもよろしいものでしょうか。
【返答】ふと悪心を生じて窃盗した者の刑罰は一等軽くしてよい。

【伺い②】笞刑は廃止でしょうか。これまでどおり笞刑を行う場合は、金額の多少と笞数を教えてください。
【返答】新しい律が定められるまでは、幕府が制定した刑律(公事方御定書)のとおり重敲、軽敲といった笞刑を行う。もっとも、金銀の相場が制定当時と変わっているので、以下のとおり仮に定める。
5両以下は笞50回
10両以下は笞100回
20両以下は徒1年
40両以下は徒1年半
60両以下は徒2年
80両以下は徒2年半
100両以下は徒3年


【伺い③】徒刑は被害額の多少で刑の日数を変えるのでしょうか。また、徒刑は盗賊に対してだけに科すものでしょうか。盗賊以外にも徒刑を科して良いのであれば、その犯罪を予めお教えください。
【返答】徒刑は盗賊に対してだけ科すものではない。どのような犯罪でも徒刑を科してよいので、その犯罪を予め教えるというのは難しい。なお、刑の軽重は、死刑、流刑、徒刑の順である。

【伺い④】流刑につきましては、遠・中・近の区別がありますが、どのような犯罪の場合に、どのような刑を行えばよいか予めお教えください。
【返答】漢土(中国)では流刑は、3000里、2500里、2000里の区別があるが、故幕府律(公事方御定書)では、遠・中・近の区別はない。京・大阪からは何島、江戸からは何島に流刑にせよとの定めのみがある。
流刑にすべき者:追放刑にしたのに追放場所から戻った者、女犯の僧、15歳以下で死罪にあたる罪を犯した者。それ以外は一つ一つ答えることはできない。

【伺い⑤】強盗、追剥、追落はいずれも重罪であり、金額の多少にかかわらずに取り扱うということでよろしいでしょうか。また、この三者に違いがあるのかもお教え願えますか。
【返答】故幕府の律書(公事方御定書)では、追剥は獄門、追落は死罪と区別している。それ以外は、強盗、追剥、追落はいずれも重罪であり、金額の多少で取り扱いを変える必要はない。

【伺い⑥】盗物と知っていながら、又は怪しい品と気がつきながら、盗賊から買い取った者の刑律について伺います。
【返答】故幕府の律書(公事方御定書)では、盗賊と知りながら買い取った者は、所払いとある。

【伺い⑦】盗賊と知りながら、宿を貸した者の処置につき伺います。
【返答】死罪になるべき盗人に宿を貸した物は田畑取り上げの上で所払い。村役人、名主、組頭、五人組はいずれも過料を申し付ける。死罪とはならない盗人に宿を貸した場合は、一等軽くすべきである。


【コメント】
・京都府からの伺いです。具体的な事件についての問い合わせではありません。法律上の問題といった体の質問です。
・【伺い①】は、計画的でない窃盗の量刑についての質問。計画的でない窃盗は一等減じて刑を量定すべきというのが明治政府の方針です。
・【伺い②】は笞刑についてのもの。京都府は笞刑は廃止か?と考えていたようですが、明治政府は、この時点では笞刑は存続する意向です。窃盗の被害額が5両以下は笞50回、10両以下は笞100回と仮に定めています。それ以上の額は徒刑にすべきとの考えです。
・【伺い③】は徒刑についてのもの。徒刑は、公事方御定書には規定がなく、明治になってから新しく導入された刑ですので、京都府がその適用に戸惑うのも無理はありません。明治政府の布令(明治元年十月晦日)は、概略次のように規定していました。
①新律の布令までは幕府に委任していた刑律(公事方御定書)によるべきであるが、追放・所払は徒刑に換えるべき。
②徒刑は、その地域の特性にもよるであろうから、当面府藩県はそれぞれの考えによって徒刑の執行を行われたい。この点はいずれ新律制定により制度設計を明らかにする。
追放・所払は徒刑に置き換えよとの指示はなされていますが、それ以外に徒刑を科してよいかどうかは不明なことから、京都府は政府に伺いを行ったのでしょう。
明治政府は、徒刑は盗賊に対してだけ科すものではなく、どのような犯罪でも徒刑を科すことはできるという立場を取っています。
・【伺い④】は流刑についてのもの。流刑は島流しのことです。京都府は「流刑は遠・中・近の区別がある」としていますが、これはそういう慣習となっていたもので、公事方御定書にはそのような規定はありません(明治政府の返答でもこの点を指摘)。
明治政府は、流刑は蝦夷地に限るとして、流罪を限定する方針を打ち出しておりました。
・【伺い⑤】は強盗、追剥、追落についてのもの。これらは「重罪」とされ、いずれも死罪以上の刑。現代の感覚からすると、死罪よりも上があることが分かりづらいのですが、この時代は犯罪者の死なせ方、その後の遺体の処理の方法により、死罪よりも重い刑があると考えていました。
・【伺い⑥】は、盗んだ物と知っていながら、又は怪しい品と気がつきながら、盗賊から買い取った者の刑律について。今の「盗品等関与罪」ですね。公事方御定書では、所払いにしていたのですね。もっとも、明治政府は所払いの刑は徒刑に変更せよという方針でした。
・【伺い⑦】盗賊と知りながら、宿を貸した者の処置。死罪になるべき盗人か否かで区別し、死罪になるべき場合は重く処罰されます。村役人、名主、組頭、五人組は、宿を貸した者が出たこと自体の責任を取らされるというのも、この時代の特徴。村内で宿泊する者はちゃんと管理しておかないといけないことになっており、管理不行届により処罰されてしまいます。

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