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仮刑律的例 26 長崎府からの刑律問合

2024年04月06日 | 仮刑律的例
仮刑律的例 26 長崎府からの刑律問合

【長崎府からの伺】
明治2年正月、長崎府からの問い合わせ。
刑律は、新律の御布令まで、故幕府への御委任に基づく刑律(公事方御定書)が継続されますが、
・磔刑は君父を弑する大逆に限ること
・その他の重罪や焚刑は梟首とすること
・追放や所払いは徒刑に変えること
・流刑は蝦夷地に限られること
・百両以下の窃盗罪は死罪とはならないこと
と修正する旨定められています。
また、死刑については勅裁を経ることが必要で、府藩県とも刑法官に伺いを出すべき旨の行政官からの御布令もでています。
しかし、これまで当地においては徒刑を行ったことがありませんので、徒刑の取り計らい方等につき、問い合わせいたします。
【伺い①】
一、これまで長崎で行われていた入墨・敲・追放や所払いなどの御仕置きを申し付けていた無宿者、又は無罪であっても無宿であり、所々を立ち回って風儀がよろしくない者は、同所大黒町にある人足寄場へ送っていました。銘々のスキルに従って仕事をさせて、説諭を加え、その罪の軽重や身の慎み方の良し悪しに応じて、寄場にいる年限や月限を定めます。期限が来て、身寄りの者の引き受けの願い出がある場合は引き渡しを致します。以上が旧幕府時からの仕来りであります。
今般、この寄場を徒刑場に換え、追放や所払いを徒罪に換えますが、従前と同様、銘々のスキルに従って仕事をさせ、年限が来て、身寄りのものが引き受けの願い出をすれば引き渡す扱いとさせていただきたくお伺い致します。
【返答①】そのとおりでよい。

(コメント)
長崎府の伺いを読むと、長崎府が人足寄場をどのように運用していたのかが分かります。
* 長崎では旧幕府時代から、無宿者は人足寄場へ送られていた。人足寄場は大黒町(現長崎市大黒町)にあった。
* 寄場では、スキルに応じて仕事をさせ、罪の軽重や改心の有無に応じて滞在期間を定めていた。
* 身寄りの引き受けがあれば引き渡しをしていた。


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【伺い②】
一、徒刑の年限は、先例がないため当分の間次の通りでよいか伺います。
- 敲の上、重追放相当者- 1800日
- 重追放- 1440日
- 中追放- 1080日
- 軽追放- 720日
- 長崎市中郷中払- 540日
- 長崎払- 360日
- 所払- 200日
【返答②】徒刑の年限は行政官布告のとおりとせよ。
(明治元年10月行政官布告抜粋)
徒刑は、その地域の特性にもよるであろうから、当面府藩県はそれぞれの考えによって徒刑の執行を行われたい。この点はいずれ新律制定により制度設計を明らかにする。

(コメント)
徒刑というのは現在の懲役刑です。徒刑は江戸時代にはなかったものですが、「追放や所払いは徒刑に変えること」というのが明治政府の方針ですので、府藩県は徒刑期間をどのようにすべきか戸惑いました。明治政府はこの点について、「徒刑は、その地域の特性にもよるであろうから、当面府藩県はそれぞれの考えによって徒刑の執行を行われたい。」というばかりで具体的な指示を出さなかったので、なおさらです。長崎府の徒刑期間案は、この時期の徒刑期間が分かり、大変興味深いものです。
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【伺い③】
一、徒刑場の囲いを破ったり乗り越えて逃げたりする者には、御仕置きを行うことを承知してください。
【返答③】返答②に同じ。
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【伺い④】
窃盗の被害金額が百両以下の場合は死罪とはしないと行政官布告にあります。これは、手元にある品をはからずも盗んだ場合、戸が開いていた場合、家の中に人がいなかった場合の規定と受け止めております。
窃盗の際に人を殺し又は傷つけた場合、計画的に徒党を組んで押込みをした場合、家の中に忍入ったり土蔵破りをした場合、追剥や追い落としをした場合は、被害金額の多少によらず、長崎府の先例どおりに仕置をしてよいかお伺いします。
また、入墨の上重敲・入墨敲・重敲・敲相当の罪状の者は、行政官のご布告により徒刑に換えますが、次のように換えることでよいか伺います。
- 入墨の上重敲相当の者: 入墨の上、200日の徒刑
- 入墨敲:入墨の上、100日徒刑
- 入墨:400日徒刑
- 重敲:200日徒刑
- 敲:100日徒刑
- なお、入墨を入れる場合は左手の甲に「長崎府二百日徒刑」「長崎府百日徒刑」と入れるように致します。
【返答④】笞刑は五十又は百の二通りと仮に定めたので、それに従うこと。入墨等については、新律が制定されるまでは、従前のとおりで良い。

(コメント)
この伺いには2つ質問がありますので、問の内容毎に見てみましょう。
1 次のような場合は死罪を検討してよい。
・窃盗の際に人を殺し又は傷つけた場合
・計画的に徒党を組んで押込みをした場合
・家の中に忍入ったり土蔵破りをした場合
・追剥や追い落としをした場合
1 長崎府では、入墨の上重敲・入墨敲・重敲・敲の刑を行っていたところ、敲刑を徒刑に変えなければならないと考えていたようです。
しかし、明治政府はこの時期は笞刑を認めており、その数は50回又は100回の二通りと仮に定めていました。
また、入墨を入れる刑も認められていました。

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【伺い⑤】
御仕置の伺書については、旧幕府のときのようなもので良いでしょうか。幕府のときに雛形が用意されておりましたが、その通りでよいかお伺いします。
【返答⑤】そのとおりでよい。
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