嘉永5年12月上旬・大原幽学刑事裁判
大原幽学の弟子五郎兵衛が記した大原幽学刑事裁判の記録「五郎兵衛日記」の現代語訳(大意)。
嘉永5年12月4日(1852年)
奉行所から差紙(呼出状)が届いた。6日までに江戸に出頭しなければならない。呼出されたのは、長沼村(現千葉県成田市)では私と元俊医師。荒海村(現千葉県成田市)では平右衛門である。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
大原幽学の弟子五郎兵衛の日記は、差紙(呼出状)が長沼村(現千葉県成田市)に届いたところから始まります。ここに大原幽学の名前が見えないのは、五郎兵衛よりも先に呼出されており、既に江戸で裁判中だからです。
長沼村の位置
嘉永5年12月5日(1852年)
長沼村を元俊医師、差添人の甚右衛門と共に出立。大森(現印西市大森)に四ツ時(午前10時)着。御役所で用事を済ませ、八つ時(午後2時)に大森を立つ。鎌ヶ谷宿の鹿嶋屋に泊まる。
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(コメント)
大原幽学は長部村(現旭市長部)に住んでいるのですが、五郎兵衛は長沼村(現成田市長沼)の村人です。長沼村は淀藩(山城国)が治めており、淀藩の役所(陣屋)は大森(現印西市大森)にありました。ここで用を済ませ、木下街道の宿場である鎌ヶ谷宿(現鎌ケ谷市)で宿泊です。
淀藩(現京都市伏見区)の位置。それ以前は稲葉氏は佐倉藩であったが、国替えで淀藩となりました。国替えでも所領が千葉県内に一部残ったため、役所を大森(現印西市大森)に置いて管理していたのですね。
嘉永5年12月6日(1852年)
朝七つ半(午前5時)、鎌ヶ谷宿を出立。江戸に九つ(正午)着。蓮屋という宿屋に宿泊することが決まった。差添人の甚右衛門が稲葉様の御役所に御添翰(承認書)をいただく手続きを行った。
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(コメント)
本日の旅程は鎌ケ谷宿〜江戸。蓮屋は江戸
本銀町(ほんしろがねちょう)にあった公事宿。公事宿は馬喰町周辺にあったといわれますが、現在の神田駅周辺にまで広がっていたようです。本銀町の名は今はありませんが、通りの名として残っています(本銀通り)
甚右衛門という者が差添人として同行しています。呼出された本人だけでなく、名主などが当事者の差添人として、当事者とともに、奉行所に出頭します。
「稲葉様」は淀藩の藩主。稲葉氏は山城国に来る前に佐倉藩(現佐倉市)の藩主だっため、淀藩に国替えとなってからも佐倉藩周辺の領地を持っていました。
嘉永5年12月7日(1852年)
江戸に着いたので、御奉行所に着届を提出。奉行所からは「その方どもは牛渡村一件のことで呼び出されたのだな。おって呼出すまで宿に控えておれ」との仰せ渡し。
元俊医師と共に邑楽屋に行き、大先生(大原幽学)ほかご一同とお会いした。大先生は、「皆に言っておくが、今回のことはよくよく心得て行動しなさい。これまで学んだことをよくよく腹の内に置き、答えるときは手短かに申上げなさい。」とのお話があった。その後、蓮屋に帰り泊まる。
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(コメント)
奉行所に江戸に到着したことを届けでました(着届)。本件は「牛渡村一件」と呼ばれており、呼出しがあるまで公事宿(蓮屋)で待機しなければなりません。着届のあとは関係者で打合せ。大原幽学は邑楽屋という別の公事宿に泊まっています。
嘉永5年12月8日(1852年)
八つ時(午後2時)、元俊医師、差添人の甚右衛門と共に邑楽屋へ行く。大先生(大原幽学)からは、「とにかく顔を柔らかに。心を静かにして慎んで申し上げるように。欲をだしてはいけない。」とのお話があった。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
奉行所に着届は出しましたが、呼出しはなし。待つしかありません。本日も大原幽学の止宿先の邑楽屋で打合せ。幽学はこれからの裁判への心得を説いています。
嘉永5年12月9日(1852年)
四つ時(午前10時)に大先生(大原幽学)の宿泊先の邑楽屋に行き、中食。日暮れに蓮屋に戻る。深夜、新材木町(現中央区日本橋)で火事。
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(コメント)
・待機3日目。本日も奉行所からの呼出しはなし。幽学の宿泊先に行っていますが、中食を食べた記載のみ。幽学の言葉が記録されていないところをみると、打合せはなかったのかもしれません。
嘉永5年12月10日(1852年)
四つ時(午前10時)に大先生(大原幽学)の宿泊先の邑楽屋に行く。
晩五つ時(午後8時)に奉行所から呼出しの御沙汰あり。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
待機4日目。本日も奉行所からの呼出しはなしと思いきや、夜に奉行所から呼び出しがきました。明日は奉行所に行かなければなりません。