大原幽学の門人 菅谷幸左衛門
(はじめに)
大原幽学の刑事裁判を記した『五郎兵衛日記』には大原幽学の門人の名が多く記されています。しかし、同日記を読んでいるだけでは、門人のがどのような人なのかはわかりにくいです。木村礎編『大原幽学とその周辺』は、大原幽学の門人について解説していますので、同書をもとに門人を紹介していきます。
今回は「幸左衛門」こと、菅谷幸左衛門です。
(十日市場村、林家の婿となる)
菅谷幸左衛門は文政4年(1821年)の生まれ。大原幽学の刑事裁判か始まったのは嘉永5年(1852年)ですので、このとき幸左衛門31歳。幸左衛門は香取郡諸徳寺村の出身。諸徳寺は千葉県旭市清和甲にあたるものと思われます。同地域には諸徳寺城跡があります。
幸左衛門が大原幽学に入門したのは、天保8年(1837年)、幸左衛門17歳(数え)のときのことです。
翌天保9年(1838年)、幸左衛門は海上郡十日市場村の林家の婿となります。このとき、幸左衛門18歳(数え)。十日市場村の林家の当主は林伊兵衛。林伊兵衛は、組与力給地四ヶ村の割元名主を勤めた村内最有力の地主であり、農業以外にも醤油、漁業、呉服商、雑貨商を営み富裕な暮らしをしていました。
跡取り息子として、正太郎がいたものの、生活は乱れており、また伊兵衛自身病身であったため、家を継がせるために幸左衛門を婿に取ったのです(森伊兵衛の娘すわと結婚)。
(林家での苦労)
「林家では幸左衛門を素直に迎え入れることをしなかった。家の者は幸左衛門を軽蔑した。また幸左衛門が性学を学んでいるということで嘲弄した」(木村礎編『大原幽学とその周辺』)。
林家では幸左衛門は歓迎されなかったようです。正太郎という跡取り息子がいるのに、婿となったのですから、当主は別として、他の者には金目当ての結婚と受け取られたでしょう。将来の当主の地位を奪われたと正太郎は考えたでしょうから、正太郎に同情的なものは、幸左衛門を憎んだことでしょう。大原幽学の説く「性学」もこのころは受けが悪かったようで、幸左衛門にとってマイナスイメージとなっています。
普通の者ならばここで心が折れてしまってもやむを得ない状況です。しかも、幸左衛門はまだ二十歳にもなっていないのです。
しかし、幸左衛門は違いました。
後に「性質は柔和・沈着・実直・胆量のあるもの」といわれただけの人物らしく、「幸左衛門の誠意は伊兵衛及び正太郎を性学に赴かせ、改心させることに成功」しました。また、林家の乱れた家政も改革。さらに十日市場村への性学浸透の端緒にもなったのです。
(諸徳寺村に帰る)
天保12年(1841年)、諸徳寺村の父親が亡くなったため、幸左衛門は妻子を連れて諸徳寺村に戻りました。幸左衛門にはもともと伊兵衛の財産には興味がなかったのでしょう。
十日市場での数年間の苦労は、大原幽学の門人の中でもトップクラスの人材へと幸左衛門を磨きあげたようです。
菅谷幸左衛門は明治35(1902)年12月20日に死去。享年82歳でした。
付:諸徳寺村の変遷
江戸時代の諸徳寺村
⇒明治13年合併、清和村
⇒明治22年合併、庄内村
⇒明治23年中和村に改称
⇒昭和30年合併、干潟町
⇒平成17年合併、旭市(現在旭市清和甲)