リタイア暮らしは風の吹くまま

古希を迎えて働く奥さんからリタイア。人生の新ステージで
目指すは悠々自適で遊びたくさんの極楽とんぼ的シニア暮らし

2013年6月~その2

2013年06月25日 | 昔語り(2006~2013)
とうとう初めての年金が来た

6月6日。木曜日。午前11時30分に目覚ましで起きるいつもの木曜日。ポーチの気温はもう18度。最高気温は23度の予報。ハワイみやげの夏の空、かな?

でも、あっというまに日常に戻ってしまったような感じがする。「お帰りなさ~い」と、やけに大きな仕事がど~ん。10日以上かかるような量を正味6日でやろうというわけで、まさに昔のままの「日常」。もっとも、このクライアントについてはこれから専門にすると決めた分野だから、むげにノーとも言えないけど・・・。

ハワイから帰って来て、いの一番にチェックしたのが銀行の口座。あっ、来てる!ワタシの年金、ちゃんと入金していた。はあ、何となく肩の荷がほろっと落ちたような気分。カレシの年金3つ、ワタシの年金2つを合わせて、ざっと46万円。この先、カレシは期限の来年、ワタシは6年後に、それぞれが積み立てた個人年金を月々の年金に転換することになっていて、最終的に年金が7つ。

どうやら悠々自適の老後が送れそうな感じだから、それまではやりたい仕事だけをやって、2人で楽しいことをする資金を稼げばいい。明日をも知れない自営業の身で、ああ、ワタシもやっとここまで来たんだなあという感慨のようなものも沸いて来る。うん、life is good(人生はいいものよ)。

だけど、ほんとにいいのかなあ、こんなに大量の仕事を引き受けたりして。酷使してきた指の関節炎がしくしく痛むし、今さら徹夜なんかしたくないし、でもまあ、まだ半現役のワタシ。ここは腕をまくって、やるっきゃないな。

ハワイで見つけた「おかげさまで」

6月7日。金曜日。寝ている間に雨が降ったようで、何となく曇り空。ポーチの温度計は正午で15度。もうあと2週間で夏至だというのにね。

ひとつの案件だけど日程がきっしぎしの仕事に本格的にかかる。たしかに大量だけど、ハワイ行き前にうんうん言っていたお役所的作文のような、髪の毛を引き抜いて苦悶するような内容ではないので、とりあえず頭から訳し始めた。きのうは一応の「ノルマ」は達成しなかったけど、何とかうまく進んでいるので、つい楽観視。あたふたせずに、いざという場面になったら、しゃあねぇなぁ~と肩をすくめて、出口を探るのが極楽とんぼ流。まっ、なんとかなるっしょ。

ハワイでの会議では、アリヨシ元州知事が基調講演の中で特に感動した話があった。ハワイの日系人の間でよく使われ、日系人の「精神」としてしっかりと生きているという、「オカゲサマデ」という言葉。英語ではおおまかに「I am what I am because of you」(このワタシがあるはあなたのおかげ)と訳されているそうで、何とも絶妙な訳だと思った。そこには「誰も他の大勢の人たちの助けなしでは何も達成することができない」という思想が込められているそうな。過酷な労働環境を助け合って生きて抜いて来た日系移民たちが人生の黄昏で「Life is good」というとき、その心の底にこの「オカゲサマデ」という気持が息づいているんだろうな。

「おかげさまで」。ワタシが子供の頃には周りの大人があたりまえのように使っていたように思う。お元気ですか?おかげさまで・・・。風邪はどう?おかげさまで・・・。お仕事はどう?おかげさまで・・・。何につけても「おかげさまで」で始まったポジティブな応答。ずいぶん長いこと聞いていないような気もするけど、日本では、今でも使われているんだろうか。小町横町などで使われる「おかげで」は、何となく攻撃的というか、責任転嫁というか、他人を指弾するような、ネガティブな印象を受けることが多い。言葉遣いはそのときどきの世相を表していることが多いと思うんだけど・・・。

「おかげさまで」は他人への感謝の気持があるのに対して、「おかげで」は自分は(○○のせいで)不快な状況に陥った、恥をかいた、損をした、迷惑した、辛い、苦しい、疲れた、夢がかなわない・・・。「さま」が抜けることによって言葉の極性がポジティブからネガティブに変わって、自分の身に起きた不都合や不快感、不幸せ感の原因を他人やモノに転嫁する表現になったんじゃないかというのは、ワタシの考えすぎかなあ。もしかしたら、日本の日本人は、バブル景気の高揚感から長い閉塞感へと、社会の(遠くから見ると)急激な変化にもまれているうちに、「おかげさまで」の「さま」をどこかに置き忘れたのかもしれないな。

ハワイで出会った「おかげさまで」。忘れないようにしたいな。カナダに移民して来たワタシの人生にもいろんなことがあったけど、幸せになるために来たんだからと、幸せになるためにがんばった。カナダの国も社会も文化も人もみんなワタシにはやさしかった。いろんな人たちの助けあったから、がんばれたんだろうと思う。おかげさまで、life is good。そう、Life is good here。まだまだがんばって、幸せ貯金の恵みを心ゆくまで楽しんで、おかげさまでlife was goodと言って逝けたらいいなあ・・・。

アドレナリン大放出!さあ、いらっしゃい!

6月9日。日曜日。きのう、おとといとちょっと下り坂の天気で肌寒かったけど、今日は何とか初夏の気候。まあ、どっぷりと仕事に浸かっているときは、外の天気なんかどうでもいいんだけど。

夕方、予定通りにだいたい半分を納品。予想にたがわず9000語を超えちゃったけど、訴訟関係の文書は口数が多いからしょうがないな。原稿の量はほぼ4万字(原稿用紙100枚を隙間なくびっちり埋めた量)で、経験則では日本語の2字あたり英語1語。つまり、英語2万語の文書ができる勘定で、普通にちんたらペースでやればほぼ10日かかる作業量。

それを6日でやっつけようというわけで、半量を3日で済ませたということは、今のところ「想定どおり」。がきっと集中すると、どんどんアドレナリンが出て来て、モチベーションが糸の切れた凧みたいに天高く舞い上がって、やたらと元気もりもりになる。指が痛いのも、肩が凝るのも、目がしょぼしょぼするのもどこ吹く風で、しまいには鼻歌交じりでキーをバンバン。ま、こういうストレスには強いたちなのかもしれないけど、それを20年以上もやっているのは、やっぱり左巻きの極楽とんぼといったところか。

カレシ曰く、「頭の上でドルのサインがくるくる回っているのが見える」。うん、ワタシ、お金を稼ぐの、好きだもんね。お金はモチベーションを上げる特効薬。生活のためじゃなくて、楽しいことをするために稼いでいると思うと、ますますモチベーションが上がって、アドレナリンもますます大放出。なんだかパチンコ屋の「軍艦マーチ」が華々しく聞こえて来そうだけど、よし、あと半分、がんばるぞ。もしかして、ワタシはadrenaline junkieなのかな・・・?

忙しいときは思いつきのぐうたらメニュー(6月3日~9日)

6月10日。

6月3日(月曜日)
* 朝食: ジュース、シリアル、(パンがないから)パネットーネ、コーヒー
* 夕食: スティールヘッドの照り焼き風、野菜の混ぜご飯、ブロッコリー二(蒸)
* ランチ: タイ風明太子スパゲティーニ

6月4日(火曜日)
* 夕食: えびの中華風にんにく炒め、玄米麦ご飯、芽キャベツ(蒸)
* ランチ: (冷凍)野菜バーガー

6月5日(水曜日)
* 夕食: アルバコアまぐろのポン酢蒸し、タイの紫米のガーリックご飯、フレンチインゲン(蒸)
* ランチ: 紅しょうがたっぷりのインスタント焼きそば

6月6日(木曜日)
* 夕食: おひょうのイタリアンスパイス焼き、ミックスきのこのソテー、ミニポテト(蒸)
* ランチ: ほうれん草ナゲット+チェダーチーズ

6月7日(金曜日)
* 夕食: 鴨の足のコンフィ、ラタトゥイユ、フレンチインゲン(蒸)
* ランチ: (冷凍)豆腐ラザーニャ

仕事にはっぱをかけなくちゃ、ということで、今日は半手抜き、半カレシ好みのメニュー。地元で起業して大きくなったスーパーに行くようになって、ケベックで100年くらい営業しているブランドの鴨が手に入りやすくなった。特に調理済みのコンフィは、解凍して加熱するだけなので、忙しいときにはまたとない「手抜きグルメ」。タイムをぱらぱらと振って、味アップ。

これをスロークッカーに放り込み、カレシが大好きなラタトゥイユは準備にちょっと手間がかかるけど、これももうひとつのスロークッカーに仕込んで、どちらも「低」にセットして、夕食の手当は完了。あとは心おきなく仕事に没頭・・・。

6月8日(土曜日)
* 夕食: たらと大根の煮込み風、竹米ご飯、青梗菜(蒸)
* ランチ: インスタントラーメン

6月9日(日曜日)
* 夕食: あさりの殻焼き、ズッキーニときのこのソテー、芽キャベツ(蒸)
* ランチ: リングィーニのラタトゥイユソース

午後5時に半量納品の期限。ぎりぎりになりそうだから、前夜から差し渡し10センチはあるアサリの殻に細切れの実でグラタン風に詰めた既製品を解凍しておいて、トースターオーブンで調理。(オーブン、早く修理するか、買い換えるかしないと・・・。)既製品は手抜きのお手本だけど、仕事が詰まっているときには天の恵み。少々お高くても、「グルメ」的なものをフリーザーに常備しておけば、子供の頃、ひとり暮らしの頃に食べた温めるだけの冷凍食がトラウマになっているらしいカレシにも文句はない・・・らしい。

冷蔵庫にあった残りもののラタトゥイユ。2人前のランチには足りないなあと見ていて、アイデアの電球がポッ。トマトベースなんだから、パスタソースにしてしまえばいい。濃縮のトマトパサタを足して少しとろみをつけ、茹でたてのリングィーニの上にたっぷりと載せ、削ったパルメザンチーズをたっぷりかければ、は、フレンチだってちゃ~んといっぱしのイタリアンに化けるじゃないの。あんがいそういう「残りもの、どうしよ~」という発想からできたのがパスタソースだったりしてね。なんだか病み付きになりそうなくらいおいしかった。

大き目のスロークッカーを買ったら、まとめてラタトゥイユを作っておこうっと。

終わったあ、やったあ、ばんざ~い

6月12日。水曜日。午前11時に起床。カレシは気持良さそうにすやすやと寝ているので、起こさずにささっと身づくろいをして、オフィスへ直行。ぎっちぎちに詰まった仕事は今日の午後5時が「絶対」の期限。ハワイ会議でも、新米フリーランサー向けのセッションで言ってたなあ、「納期を厳守すること」。これ、フリーランス稼業の「信用」の基本。よほどの事情がない限り、納期を外したらクライアントの信頼をなくすから、家が汚屋敷になろうが、洗濯物が山になろうが、子供が泣こうが、鍋が焦げ付こうが、納期厳守あるのみ!

とにかく、外国では「ええ、何でそうなったの?」と言うような話で、知らない漢字言葉がいくつも出て来るし、読めない(か読みを忘れた)漢字まであるもので、そのたびに読み方や意味を調べるのにひと苦労。おかげ(さま)で、ワタシの日本語のボキャブラリもかなり豊かになった。コンピュータ時代になって日本語の文書作成がキーボードに移行してからというもの、同音異義語の「誤字」が増えて、翻訳者泣かせ。まあ、英語でも電子タイプライターになってからスペルミスが増えて、スペルチェッカーがあっても別の「単語」になっていれば引っかからないから、これも翻訳者泣かせで、このあたりは引き分け。

とにかく、ややこしい話を弁護士先生口調で、ああたら、こうたら、ああだからこうで、こうだからああで、何とか法ではこうで、どこそこの判例ではああで、あっちがあったらことをいうからこったたらことになたったんであって、詰まるところは「そりゃ、こっちゃの責任じゃにゃぁ~よ」。訴訟関係の文書はドラマの台本みたいでおもしろい。ペリー・メイスンは似合わないかなあ、あんがいホレス・ランポールにやらせたらそれっぽい雰囲気になるかなあ、なんて想像を膨らませながら、それでもひたすらサイトラ式の「ほぼ同時翻訳」。でも、しまいには、いっそのこと原稿をそっくり大阪弁に「翻訳」したら、すご~く人間味の溢れる裁判ドラマになるんじゃないかなあ、なんて考えてしまった。(大阪弁て、いいよね。)

カレシが12時半になって起きて来たところで、朝食。ひとやすみしてまたオフィスへ直行して、見直し作業。最後の行に到達したところでスペルチェックして、(品質管理部長の)カレシに「読んでわかるかどうか」をチェックしてもらって、ちょこちょこっと入った赤ペンの部分を手直し。前半を先に納品してあるので、残りの半分だけ。それでもゆうに1万語あるから、見直し作業もそれだけ時間がかかる。全体で仕上がりは2万語。うわっ、ほんとに6日でやっつけてしまった。徹夜も残業もしないでやっつけた。まだまだ捨てたもんじゃないね。ごくろうさん、えらいねぇ、と自分の背中を(仮想的に)ポン。ファイルを保存したところで、トイレに向かって猛ダッシュ・・・。

ファイルを圧縮して、納品のメールを書いて、ファイルを添付して、「送信」のボタンをカチッ。午後3時半、業務完了!やったあぁ~!カレシとパンッとハイファイブ(日本語ではハイタッチ?)。「なんかえらくややこしい話だけど、あんなのよく訳せるよなあ」と、カレシ。だって、ややこしい話だろうが何だろうが、とにかく読んで訳すのがワタシの仕事なんだもん。これでもワタシはいっぱしのプロなんからっ。「やっぱり引退なんかできないだろ?」 いえいえ、右肩下がりで引退するつもり。でも、この達成感!この爽快感!ああ、なんとも捨てがたいんだよねえ、やっぱり・・・。

枯れたはずのさぼてんの花

6月13日。木曜日。午前11時30分の目覚ましで起床。脳みそがぎゅ~っと絞ったスポンジみたいになるような仕事の後だから、心行くまで寝ていたいところだけど、どっこい今日はカレシの英語教室ダブルヘッダーの日。

カレシを送り出して、ワタシはソーダストリームの炭酸カートリッジを取り替えにモールへ。気温は16度とまあまあだけど、さすがに夏至まであと1週間。日差しはかなり強い。東西方向に歩くので必然的に行きは左側、帰りは右側の腕を焼き増し?することになる。もう2週間になるのにまだ「脱皮」中で、目も当てられない。こんなんで東京の電車に乗ったら、小町に「見苦しい。ヒジョーシキ!」トピックがいくつ立つかなあ・・・。

午後の教室から帰って来て温室に入っていたカレシが素っ頓狂な声。

「もう枯れたかと思っていたのに、ほら、これを見ろよ!」 [写真]

ワタシが来る前からカレシが宝にしていたさぼてんのひとつ。45年くらい前に苦労して手に入れたという種を蒔いて育ててきたんだけど、小さいポットのまんまなもので、どれもちっと大きくならずにいた。プラスチックのポットはぼろぼろに劣化して、あちこちが欠けているし、さぼてん自体も茶色で、生きているのか枯れているのかわからない。とげに触るとぽろっと落ちそうな気がするし・・・。[写真]

でも、よ~く見ると、シルキーな光沢があって、何だか文字通りのシルクフラワーのようにも見える。他のさぼてんは、蜘蛛の巣がかかったような丸い種類のはときどき小さいピンクの花を咲かせるけど、これはまた何とも身の丈に不相応な大きな花。

「きれいだろ?ほんとにもう枯れたと思ってたんだけどね」。あんがい、これが最後って感じで、ひと花咲かせてるのかもね。「おいおい。ま、オレ、ちょっと昼寝するから、その間、眺めていていいよ」。はあい。「ご飯ができたら起こしてくれよな」。はあい。

はて、さぼてんは何を語るのか。さぼてんの花言葉、何だろうなあ・・・。

6月も半ばなのに、寒すぎない?

6月14日。金曜日。起床は午後12時半。ああ、やっとゆっくり眠れた。今日は2人とも特にしなければならないこともない日。外は曇り空で、何だか寒そうだから、日がな1日「だらだら、ごろごろ」ということにする。それにしても、来週はもう夏至だってのに、何でこんなに肌寒いんだろうな。日差しだけは強いけど・・・。

カレシは寒いと言ってTシャツの上にフリース地のシャツを前をはだけたまま羽織っている。ずっと元々暑がり屋なんだと思っていたけど、この頃はやたらと「寒い~」とこぼすようになった感じがするなあ。まあ、これも「加齢現象」のひとつなのかもしれないけど、カレシもあと2ヵ月弱で古希。70歳まで生きる人は古来稀だったからそう呼ばれるようになったそうな。うん、やっぱり年なのよ、アナタ。古来そこまで生きるのが稀な年まで無事に生きたんだから、ひとつ、盛大にお祝いしてあげようかな。

もっとも近頃では、70代くらいではまだ「高齢」という感覚がわかなくて、ニュースなどで他界した有名人が「享年78歳でした」なんて聞くと、早過ぎるんじゃないかと思ってしまう。人生を全うしたと思えるのは、やっぱり80代の後半から先かなあ。まあ、ワタシは100歳までしぶとく生きるつもりでいるし、その頃にはもう「人生90年」が当たり前になっているかもしれないな。(一部に、今の若い世代は親の世代より長生きできそうにないという噂もあるけど・・・。)

ぶらぶらしていたら、そのうちに青空が広がって、ちょっと夏っぽい白さの雲が漂って来たけど、ポーチの温度計を見たら、午後3時でやっと14度。6月も半ばだというのに、それはないでしょうが。寒がるカレシの方が正常で、薄っぺらな3分袖のTシャツ1枚にミニスカ、素足のワタシの方がヘンだってことになってしまいそう。まあ、熱血児といえば聞こえはいいかもしれないけど、還暦過ぎの熱血児なんて、ありえないよねえ、ふつう?(もしかしたら、ある日突然「老化スイッチ」が入るのかもしれないけど。)

[写真] ベースメント(半地下)の窓は敷居がちょうどワタシの目の高さなので、通りかかりにちらっと外を見ると、目線にキンギョソウ。もう何年も前に苗を買って来て植えたものが、土いじりが苦手なワタシの「園芸」は植えっ放し主義なのに、毎年しつこく花を咲かせてくれる。英語ではsnapdragon。何でも花が「ドラゴンの顔」に似ているからなんだそうな。そういわれるとそんな気がしないでもないけど、ということは、日本人には金魚に見えたから金魚草になったということかな。

左下奥の塀際に見える小さいピンクの花はナデシコ。これまた植えっ放しの無責任ガーデナーが残したものをカレシが鉢に植えて保存してくれたので、毎年けっこう律儀に花を咲かせてくれる。たぶん、カレシのために咲いているんだろうと思うけど、もしかしたら、キンギョソウは窓越しにワタシに舌を出しているのかな。まあ、ワタシもこのキンギョソウみたいにけっこうしぶとく花を咲かせているつもりだけど、カレシが「寒い」というのに、寒くないよ~と言っているワタシは園芸種じゃなくて野生種なのかもしれないな。それでも、この時期に20度まで行かないのは、やっぱりちょっと寒すぎるか・・・。

ホラー映画じゃあるまいし

6月15日。土曜日。正午をたっぷり過ぎて目が覚めた。きのう、おとといと、よく夢を見ているようだから、きっとぐっすり眠れているんだろうな。今日の空模様は少しはまともな気温になりそうな気配・・・。

久しぶりにカレーをスロークッカーにセットして、ダウンタウンにあるHマートまで1人で行って来ようと思っていたんだけど、起きるのが遅かったせいで、下ごしらえが終わってスイッチを入れて、時計を見上げたら急にめんどくさくなって頓挫。ふむ、だらけモードが定着して来たか。

出かけるのをやめた勢いで、にんにくをローストしようと、棚からロースターを下ろして、ちょっと置こうとしたら、あら、フリーザーの上が何だかべっとべと。とりあえず濡らしたペーパータオルできれいに拭いて一件落着。ところが、30分後にフリーザーを開けようと蓋を上げたら、また上の同じところがぺっとぺと。どうやら何か透明な液体のようだけど、何なんだ。どれどれと見に来たカレシが「酒をこぼしたのかな。でも、酒臭くないね。甘い匂いはするけどさ」。とにかく、今度は洗剤をつけたスポンジで洗って、拭いてさっぱり。

それにしても、何なんだろうなあ。二度あることは三度あるとはよく言ったもので、あれだけしっかり洗って、しっかり拭いたはずなのに、1時間も経たないうちに、またまた同じところが同じくらいにべとべとになっている。もう、いったい何の冗談なんだか、気味が悪いなあ。

「何だか知らないけど、しつこいなあ。味を見てみたの?」ええっ?何なのかわかんないのに、やだ~。「でも、いったいどこから出て来るんだろうなあ」。うん、ホラー映画みたいだよね。最近はゾンビが蔓延っているらしいし・・・。

とにかく何なんだ~と、フリーザーの上の棚を見上げて行ったら、下の2段より迫り出している最上段の縁に何やらポチッと滴り(幸い赤くはなかったけど)・・・。何と、カレシが背伸びして棚から下ろしたのは、すっかり色あせたSchweppesのトニックウォーターの缶!

「うはあ、どのくらい古いのか知らないけど、アルミが腐って漏れ出したんだ」。

それでポトッと落ちるたびにしぶきが飛んでいたのか。なあんだ。でも、見つけなかったら、どうなったんだろう。突然パ~ンと破裂したのかな。そうなったら、そこら中がべとべとになるところだったな。幽霊の正体見たり、忘れられたトニックウォーター。脅かさないで欲しいなあ・・・。

お父さんたちの静かな革命

6月16日。日曜日。またまた正午過ぎに起床。やっとこの時期の普通の天候になって来た。寒がっていたカレシがさっそくクーラーをオン。ええ?24度では寒いけど、27度では暑すぎるの?ふ~ん、許容範囲が狭いというのか、何というのか・・・。

今日は父の日。ワタシもカレシも今はお父さんがいない子。まあ、私たちには子供がいないので元から「ただの日曜日」だったけど、この年になってもまだ、ワタシは20年も前に他界した父を今だによく思い出す。でも、父に比べて母のことをあまり思い出さないのは、もう33回忌を過ぎたからなのか。それとも、娘というのは母親よりも父親への思慕が強いものなのか。その辺は自分でもわからないけど、ワタシにとっては、父はお父さんであった以上に、誰よりもワタシの良き理解者であり、メンターでもあったから、それだけまだワタシの中で大きな存在なのかもしれないな。じゃあ、男であるカレシはどうなんだろう。息子にとっては、母親と父親のどっちが大きな存在なんだろうな。

きのうのNational Postに、カナダやアメリカで、父親が育児や教育に母親と同様に関与するという「静かな革命」が起きているという、父の日にちなんだ記事があった。共働きの夫婦が、両親が共に「家族」にとって理に適った家庭運営をする対等のパートナーシップを築いているという話。ある調査では、子供を持つ男性の61%が仕事よりも家族を優先しているそうだし、カナダ統計局のデータによると、両親が揃った世帯の3分の1(アメリカでは4分の1)で妻の方が収入が多く、母親が外で働き、父親が専業主夫という家庭が11%に達し、出産休暇や育児休暇を取る父親も年々増えているんだそうな。女性の社会進出と機会均等を推し進めたベビーブーム世代の子供たちが親になる年代になって、若い父親たちが静かな革命を起こしつつある、と。

でも、北米の社会にも「男が大黒柱であるべき」という観念がまだ根強く残っていて、父親たちは「男性の家庭進出と親としての機会均等」を実現するために、かって女性たちが男女の機会均等の実現に苦労したのと同じ道のりを歩み始めているのだ、と。アメリカではそういう「新型お父さん」によって育児や家事についての記事を満載した「クールな」雑誌が創刊されたという。また、父親を「役立たずの滑稽な存在」として描写する育児用品の広告やコマーシャルに抗議の声を上げ、それに大手の紙おむつメーカーが応じて、コマーシャルの内容を変更したというから、本気で社会文化そのものを変えようという行動力が感じられる。男たちが家庭での機会均等を獲得したら、本当の男女同権が実現するということかな。

日本では、「イクメン」という言葉で男性の育児参加を促そうとしているようだけど、カタカナ語にしてしまうところに、どうも何か新しい「ファッション」としてもてはやしているような印象を免れない。企業が常習的な長時間の(多くは無償の)残業という異常な勤務状態を改めて、社員の家庭優先を促す気配はまったくなさそうだし、働く夫たちも、家に帰りたくないのかどうか知らないけど、先進国なのにそういう労働環境はおかしいと声を上げ、変えなければと行動に出る様子もなさそう。(家に帰りたくないのだとすれば、それはそれで問題はまったく別のところにあることになるけど。)

日ごろ父親を身近に見ていない子供に、年に一度の「父の日」にだけ商業的なPR行事やプレゼントで「お父さん認定」してもらってもなあ、と思うんだけど、実際のところどうなの、日本のパパたち?

駅徒歩15分は近い。25度は暑すぎる

16月17日。月曜日。起床は今日も正午過ぎ。予報では下り坂のはずなのに、なぜか暑くなりそうな気配。ほんとに天の邪鬼なのがバンクーバーの天気模様ではあるけど、でも、いきなりか~っと暑くなるなんてのはなしにして欲しいな。

今日は土曜日に頓挫したダウンタウン行きを決行すべく、朝食が終わってすぐに出かけるしたく。ストラップの長いトートバッグを袈裟懸けにして「メッセンジャースタイル」。カレシ曰く、「配達おばさんって感じだな」。駅までトレッドミルに乗ったつもりで、歩け、歩けの早足15分。駅では秋から稼動する改札口で何やら作業中で、今までブランクだったスクリーンに文字が見える。「Compass」というSuicaみたいなカードが導入されるので、システムのプログラムをテストしているのかな。子供とシニア用にはオレンジ色の割引カードもあるということで、いちいち切符を買わなくて済むのはいいけど、シニアに見てもらえなくて、「ちょっと」と止められるなんてことはないだろうなあ。

Staplesでタブレットに直接装着できるマイクロSDカードというのを(お試しに)買って、Hマートでトートバッグで運べるだけの買い物をして、元の切符で帰る。昔から90分以内は全方向乗り換えのし放題なので、ちょっとした買い物なら片道切符で行って帰って来れるから便利。地下鉄になってからは時間が短縮された分、買い物に使える時間も増えた。シニアの運賃なら1区間で片道1ドル75セント(約170円)で安いもんだし、ダウンタウンへ行くなら地下鉄に限る。(駅と家の間で往復30分の運動になるしね。)Compassカードに移行してもこのシステムは継承されるらしい。まあ、廃止したら非難ごうごうになりそうだから、ほんとは増収を図りたいところだけど廃止はできないと判断したのかな。

でも、いや~暑かった。夕方までには我が家のあたりで26度まで行ったらしい。もろにハワイの天気じゃないの。そんな中を6、7キロはありそうなトートバッグを袈裟懸けにしての駅からの帰り道。股関節にもろに重量がかかって来るし、腰も痛くなって来るし、背中の筋肉も痛くなってくるし、ストラップをかけた肩も凝ってくるしで、体のあちこちが「年だ~、年だ~。いい年して、まだアラサー並みのつもり~?」と文句の大合唱。あはは、何かにつけて「疲れる、疲れた、疲弊した」と言っている今どきのハタチやアラサーの若おばさんに、重い荷物を運べるだけのエネルギーがあるのかな。

団塊の世代のおばさんは、そこのけ、そこのけと他人をかき分けて、競争に勝ち抜いてきたんだから、そのパワーを見くびっちゃあいかんぜよ。と、まあ鼻息を荒くしてみたところで、誰にでも、たとえすぐには気づかないくらいに少しずつであっても「老化」が着実に進んで行くのは自明の理。時間と同様に止められないとなると、残された課題はそれにどう対応するかだろうな。「あ、そうですか」とばかりにちゃっかりと適応してそのまま進むか、「年なんか取りたくな~い」と抵抗してみるか、「あたしゃ、どうせもう・・・」とふて腐るイジワルばあさんになるか、それとも不老不死の薬を求めて旅に出るか・・・。

そんなことをつらつら考えつつ、それでも何とか背筋を伸ばして、駅からの15分の道のりをてくてく。いつだったか、東京の不動産屋か何かのサイトで、「駅徒歩15分」は遠くて、通うのが辛い、タイヘンと書いてあってびっくりしたっけ。許容範囲は「徒歩10分」なんだそうで、距離感覚が違うのか、時間の感覚が違うのか。きょろきょろしながら歩いていたら、15分なんてあっという間に過ぎるのにね。家の掃除でもしたら15分くらいはすぐに動いてしまうのにね。ふむ、やっぱり今どきの若いもんはひ弱だってことになるかな。とにかく、大汗をかいて家に帰り着いたら、午後4時過ぎ。ポーチの温度計は何と25度。バンクーバーでは真夏日の気分。まあ、これは寒暖の感覚の違いだ。それにしても、いや、暑い、暑い・・・。

人間の心理と言葉と翻訳と演劇

6月18日。火曜日。就寝が遅かったから、起床も正午過ぎ。ゆうべ(と言うか朝方に)ざざっと雨が降って、また涼しくなってしまった。週末までずっと雨模様のぐずぐずの天気の予報。

開店休業のきのうの閉店間際に飛び込んできた仕事があるけど、2、3時間でやっつけられそうなので、今日から新しい本を読み始める。スティーブン・ピンカーの『How the Mind Works』(日本語訳は『心の仕組み』)。Folioのハードカバー本なので、やたらと大きくて厚さが5センチはある。本文は約500ページ。毎日朝食の後で5ページずつ読み進んだら100日。10ページ読んでも50日か。読み終わる頃には秋の気配が漂っているのかな。でも、重さが1キロ以上はあるから、ベッドで読むわけには行かないし、座って読むにも重過ぎる感じで、結局はテーブルの上に開いて読むしかない。はあ・・・。

スティーブン・ピンカーはモントリオールで生まれ育ち、名門マギル大学を出て、ハーヴァード大学に進んで、そのまま帰って来なかったカナダ人。けっこう多いなあ、こういう人。アメリカにはそういう人たちを飲み込んで栄養にしてしまえる容量がある。「静かなる頭脳流出」と言えるのかもしれないけど、だだっ広い国土に人間が3300万人しかなくて、(隣に10倍の人口を抱える大きいお兄ちゃんがいる)カナダでは本領を発揮する機会が足りないのかもしれない。まあ、日本ほどではないにしても、イギリスの精神的な伝統が残るカナダに、その伝統の枷を逃れてマイペースの自由があるアメリカと比べて若干の窮屈さがあるのは確かだろうな。

ピンカーが専門とする分野は実験心理学、認知科学、言語学、視覚認知学、心理言語学。人間の心理と言語は切り離せないものだけど、幅が広そうで、奥が深そうで、思わず、ああ、大学で勉強したかった~と思わせてくれる分野だな。(もっとも、何でも勉強したらおもしろそ~とつい思ってしまうんだけど。)ま、ワタシは自らの意思で大学進学をやめたことが自慢?のあまのじゃくだし、中学1年で初めて英語の教科書を見て、「言いたいことを表現できる媒体が他にもあったんだ~」と感動して英語にはまったんだけど、大学で学びたかったのが「英語」そのものだったのか、それとも言語が支配する人間性だったのかは今でもわからない。(学校が嫌いで、いい加減うんざりしていたので、さらに4年も学校になんか行きたくないと思ったのかもしれない。)

正直なところ、究極的に学歴も専門知識もなしで踏み込んだ「翻訳業」でさえ、天職だったと思うことはあるけど、翻訳と言うプロセスそのものが好きでたまらないわけではないような気もする。つらつら考えてみると、究極的に人間の心の奥にある「ひだ」が織り成す模様に関心があって、そのひだの模様(人間心理)を描く媒体としての言語に興味がわくのかもしれない。10年近く前のTEDカンファレンスでのピンカーの講演の趣旨は、「言語はいかに人間の心の動きを表すか」。究極的には、「どのように言葉を選ぶかによって、思っている以上のことを相手に伝達している」と。

気持をストレートに表現できると言われる英語にだって、能動態と受動態があり、さらに自動詞と他動詞があって、その使い方によって無限に玉虫色のニュアンスを込めることができる。玉虫色だから、思わぬ誤解や間違った印象を招くんだと思うけど、「ストレート」な英語で足りているうちは、その「玉虫色」には気づかないだろうな。それはまだ構造的に母語とは思考の流れが反対の言語を「話すこと」にこだわっている段階だからで、「聞くこと」に慣れて来て初めて言葉の「裏」が見えて来るんだと思う。でも、人間の心の奥深くには、自分の「ストーリー」を他人に伝えたい(聞いてもらいたい)という本能的な欲求があるようで、だからこそ、音楽や絵画のような言葉なしで伝えられる手段が生まれ、言語のひだに依存する文学や詩歌が生まれ、さらに身振り手振りを加えた演劇という形態が発達してきたんだろうと思う。

原稿の真意が掴めなくて苦労する要因には、だらだらと回りくどい悪文だったり、(特に日本語は)主語がない、理屈が不明瞭ということの他に、著者の意識的、無意識的な「選語」から、赤の他人であるその人の心の動きやhidden agenda(隠された動機)を探らなければならないという要素もあると思う。やりがいはあるけど本当に好きなのかどうかわからない翻訳を長年生業としてやって来られたのも、著者の心理に探りを入れなければならないことが多くて、それがある意味で作家の人物の肉付けや俳優の役作りと似たような精神的作業になっていたからかもしれないな。

まあ、ピンカー先生の本については先が長そうだから、その前に手元にある仕事をしないとね。

こだわりにもいろいろなこだわり方がある

6月19日。水曜日。午前11時50分に目覚まし。天気予報はこれから1週間ずっとぐずぐずと雨模様。最高気温は16度とか17度とか。まあ、クーラーがいらないから、節電になるかもしれないけど、今どきこの天気はないよなあ。今日は掃除の日で、起きて早々にシーラとヴァルがレクシーをお供に到着。シーラがレクシーは耳の聞こえが悪そうなのでクリニックに連れて行くと言うから、ワンちゃん用の補聴器があればいいねと混ぜっ返し。犬でも年を取ると耳が遠くなるんだろうか。(レクシーは12、3歳かな。)

オフィスの掃除が終わったところで、きのうやった仕事の見直しの作業をささっと終えて、納品。今後専念したいと知らせた分野とは畑違いの技術系の仕事だったけど、ワタシのところに回って来たのは、当たった人たちに新分野なのでと敬遠されたせいらしい。確かに新しいと言えば新しいけど、従来の技術が土台であることには変わりないし、参考資料はググればいくらでもヒットするんだから、「できない」とはなにごとだと思ってしまう。でも、近頃は自分の領域をかっちりと線引きして、「専門外」には手を出さない人が多くなっているのかもしれない。小町にも、翻訳志望の人が「特許と医療と医薬のどれがいいか」なんて聞いていたりするから、どこかで「汝、専門を持つべし」と刷り込まれて、「専門外は手を出すべからず」という流れになったのかな。

専門知識を駆使できる分野があって、それを専門とするのが理に適っているのはわかるし、何の知識もないのに「できる」というのはいい加減な話だけど、集学的、学際的、分野横断と、異分野をまたぐ研究開発が盛んな今の時代に、自分の専門領域を守るのは一見して崇高な理念のようだけど、見方を変えれば専門への「こだわり」、あるいは領域外に出ることへの不安の現われとも言えそうだし、現実論としては発展の機会を狭めることが多い。でも、ワタシのような(「専門知識」がない故の)「何でも屋」がそう言うと専門主義者に不遜だと叱られそうだけど、「こだわり」は、その性質によってはチャンスをつかみ損ねる足かせになることが往々にしてある。この仕事だって、新しい研究テーマかもしれないけど、別に突然変異で登場した「新分野」でもなかったから、「専門」にこだわったばかりに楽なひと稼ぎを逃した人たちいたってことになるか。

では、「こだわり」はプラスなのか、マイナスなのか。最近の小町にも「こだわり」についての論議があったけど、「こだわりとは何ぞや」という定義がされていないから、一方で、こだわりがないのは良い、生き易い、他方で、こだわりがない人はものごとに無頓着ということでダメ。そこで、広辞苑を見たら、「こだわり/こだわる=気にしなくてもよいような些細なことにとらわれる。拘泥する」とあった。拘泥というと、文字通りぬかるみにはまって、もがいているイメージだな。でも、和英辞書で見ると、「こだわり=1.あることに心がとらわれすぎること、2.納得できるまで自己の価値観に従うこと」となっていて、1.にはネガティブな意味合い、(広辞苑にはない)2.はポジティブな意味合いの訳語が並んでいた。「こだわり」にもいろいろな形があるということか。

芸術家のこだわりは名作を生むけど、凡人のこだわりは何を生むのか。2.の「自己の価値観」へのこだわりは、他人からは自己中と非難されそうだけど、納得(自己肯定)できればその人にとってプラス、そうでなければ1.のこだわりのようにぬかるみにはまってマイナス。一方で1.のこだわりは、常識とかマナー、社会通念、社会風俗といった自分が拠り所とする外的な価値観(建前?)に適合していない事象や人間が対象になっていることが多いかな。「自分は自分、人は人」でやり過ごせばいいのに、それができないから、ぬかるみにはまってしまう。「こだわり」もこだわり方しだいで人生にプラスにもなれば、マイナスにもなるということだけど、その決め手になるのは、自分の内と外にある価値観のどっちを基準とするか、ということになるのかな。

大ぶろしきに乗って夢を見る極楽とんぼ

6月20日。木曜日。目覚し起床の日。雨だ。ポーチの温度計は正午で15度。昼のニュースで、「春が長引いています」だって。でもまあ、明日の夏至で公式に「夏」が始まるんだから、公式には今日はまだ「春」でいいわけなんだけど、やっぱり「春が長引いている」という気分だな。

カレシを英語教室に送り出して、飛び込み仕事をひとつ。「お客さまのご指名」ということで担当を継続することにした会社の社内では訳したくない文書の仕事だけど、あちらさんはワタシのことを知らないはずだから、単に同じ人にやらせる方がセキュリティ上得策ということだろうと思う。でも、こういう2時間くらいでちゃちゃっとやっつけられる仕事は、気分的には楽ではあるけど、ちょこちょこと毎日送って来られたら出かけることもままならなくなるから困る。ま、ここはときどき程度だからいいけども。

アメリカの連邦準備委員会のバーナンキ議長が「そろそろ量的緩和を減らさんと」と言ったそうで、アメリカもカナダも株式市場がど~んと下がって、カナダドルはほぼ1セントそっくり下落。まあ、量的緩和というのは、中央銀行が市場にお金を注ぎ込んで、つまりは栄養失調児の経済にミルクを飲ませているようなもんだから、適当なところで「離乳」しないと、経済はいつまでも甘えっ子。市場経済を計画経済のように回そうというところに無理があるように思うけど。それでも、カナダドルが下がるのはちょっとうれしいな。アメリカドルで入ってくる翻訳料をカナダドルの口座に移すと手取りが増えるんだもの。もっとも、下がりすぎると、今度はカナダドル換算で申告する所得が増えてしまうから、あちらが立てばこちらが立たず。

終わった仕事をささっと納品して、「開店休業」に戻る。きのうArts Clubに月曜日が締切りの50周年記念アンケートの回答をポストに入れたとメールしておいたら、パルミーダから「楽しみにしている」とのメール。ぐずぐずしていて、期日が迫ったところであわてて生焼けのアイデアや考えをだらだらと書いて出したんだけど、どうなのかなあ。芸術監督サークルのイベントやパルミーダとのやり取りを通じて、これからボランティアとしてどんな風に劇団と関わって行きたいのかが、ぼんやりとだけど見えて来た気がする。

ワタシは永遠の劇作家志望だし、長いこと言語の意味を扱うビジネスで食べて来たし、英語を母語としない人口が大きな割合を占めるバンクーバーの言語環境が演劇界にどう影響するか理解しているつもりだから、「言語」とは無縁でない方面で関わることになるんじゃないかという気がする。まあ、言葉の壁がなくても、デジタル時代の娯楽は精神エネルギーの消費が少なくて済む受動的なものが多いから、観客に想像力を使って「参加」することを要求する舞台劇にとっては大きな脅威だと思う。

しかもバンクーバーはニューヨークやロンドンの足元にも及ばない田舎の舞台。でも、小さな舞台の火が消えて行ったら、やがてはニューヨークもロンドンも暗くなってしまうと思うな。でも、演劇には何千年もの歴史があるし、人種や民族を問わず、人類の「語る」というコミュニケーション本能を具現したものだから、まずはバンクーバーの火が消えないように、ワタシにできること(今のところは稼いだ「遊び資金」を注ぎ込むくらいだけど)をやって行きたい。そんなこんなで、今回はアーカイブを構築するプロジェクトに参加を志願した。何でもできそうなところから始めなきゃね。それにしてもまあ、人類がどうの、歴史がどうのと、極楽とんぼの夢は相も変わらず大ぶろしきだこと・・・。

お行儀の悪い花嫁さん

6月21日。金曜日。今日は夏至。公式に「夏、初日」。気温はまあまあだけど、あまりぱっとしない夏の始まり。でも、去年のちょうど今ごろも同じような天候だったらしく、台風一過で暑くなった東京から帰ってきたばかりで、2人して寒いっと文句を言っていた。地球温暖化、どうなったんだろう。もしかして、このあたりの気候は逆に寒冷化しているのかな。

今日は2人ともヒマする日。朝食後にゆっくりとピンカーの本を10ページほど読んでから、メディア巡回。月初めに北部で洪水があったお隣のアルバータ州で、今度は南部で豪雨による増水で、避難警告が間に合わないほどの急激な洪水。首相夫人の実家がある町も全域に避難命令が出され、水没するトラックから間一髪で脱出した青年と愛猫が濁流の中を泳いで救助された。ボウ川とエルボウ川が合流する百万都市カルガリーでもとうとう川が氾濫して、ホッケーアリーナの「サドルドーム」では10列目まで浸水したとか。高層ビルが林立するダウンタウンは道路が冠水して、まるでベニスのように見える。山の融雪が進むこの時期はよく洪水が起きるけど、アルバータのは北が高温、南が低温という気圧配置の「逆さま現象」が原因だそうで、ロッキー山脈のこっち側でもあちこちで避難命令が出ている。

自然の力にため息をつきながら、画面をスクロールして行ったら、はあ?という記事に遭遇。オンタリオ州ハミルトンで、友達カップルからもらった結婚祝いが気に入らなかった花嫁がプレゼントの主に文句を言い、メールでの口論に発展して、それが公になったもので、結婚式や贈物についてのエチケット論議が捲き起こっているという話。へえ。プレゼントがなかったとか、もらったプレゼントに不満だとか、プレゼントを張り込んだのにお返しがなかったとか、貧弱だったとか、この手の話は小町横町には前々からずらりとあるけど、いつのまにか太平洋のこっちにも漂着していたとは知らなかったな。

花嫁がグルメや「お遊び」の食材を詰めたバスケットの贈り主にレシートを要求し、「結婚祝いには(現金の入った)封筒を上げるものなのに、あんた達の食事に200ドルもかけて、もらったのがこれじゃ損したわ」とか、「結婚式は将来のための資金を作るもので、他人のご馳走するためのもんじゃないのよ。プレゼントなんて50年も前に廃れちゃってるのよ。ちょっとリサーチしたらどうなの。あんた達はすてきなところでステーキやチキンを食べて、お酒を飲んで、正確に言うと1人97ドルもかかったのよ。ま、30ドルのプレゼント、ありがとね」と。リサーチしろと「非常識」をなじられたカップルが花嫁と交わしたメールをフェイスブックや地元のメディアに投稿して読者の意見を求めたもので、あっという間に世界を駆け巡ってしまった、というのがことの顛末・・・。

大勢としては、マナーの悪い花嫁、エチケット違反という方へ流れているようだけど、贈物と見返りが「贈答」として一体になっている日本ならどうなっただろうな。小町横丁にはプレゼントの価値やお返しの有無、お返しの多寡に関して、もらえなかった、安物だった、少なかった等々という愚痴がけっこうある。日本では、入学、卒業、就職、成人、結婚、出産、定年退職、還暦に古希に喜寿に米寿に、葬式(死んだ後でも法要というのがある)、そしてお中元にお歳暮という「熨斗つき」の贈答が絡む行事の他に、家族や友達、恋人の間での誕生日、バレンタイン、クリスマスもあるけど、祝福や哀悼、感謝や親愛の気持を込めただけではダメなのなか。たとえば結婚式なら、式場のクラスからコストを推測して、それに見合ったご祝儀かモノじゃないと、ケチとか、常識がないとか思われるのかな。だったら、何のイベントであれ、それなりのお金を投じて、それに見合うお返しを期待しても欲張りにはならないのかな。

記事のアドバイスは「プレゼントをもらったら、きちんとお礼を言って受け取りなさい」というものだったけど、小町横町のしきたりでは「謝辞」などという形のないものだけではダメかもしれないな。だって、目に見える形がなければ、感謝のされ具合を測れないものね。プレゼントをするにしても、相手によってはそれなりに値段の張るものにしないと、「あたしってこれだけの価値しかないんだ」と心を折られてしまいそうで、難しい。どっちにしても、形のないものでは価値判断ができなくて不安なのかもしれないけど、世界中がモノやサービスの対価を示す「数字」で愛情の多寡や人の気持、はては存在価値まで量るようになったら、せち辛い世の中ではすまなくなるような、ちょっと怖いような・・・。

山は危ないからボディバッグ持参?

6月22日。土曜日。今日は「ご隠居さん」デイと決め込んで、のんびりと新聞サイトめぐり。お気に入りの「News」のフォルダに入っている新聞を上から順に読んで行く。ローカル新聞に始まって、(一応の)全国紙、Google News、欧米の新聞、英語版の日本のニュース、そして(時差の関係で)最後に日本の新聞・・・。

世界中が騒がしいときには、これだけで午後の時間が過ぎてしまう。(もっとも、この地球上の世界には騒がしくないときなんてないみたいだけど。)それで、いつもなら日本の新聞は社会、政治、経済で終わりなんだけど、今日は何しろ「ヒマをする」日。ずっと下までスクロールして行ったら、思わず、きゃはは~っ。

「何だよ、やぶらかぼうに。びっくりしてクリックするところを間違ったじゃないか」。だって、だって・・・。「何だよ、いったい」。だって、だって、ボディバッグがファッションになってるんだもん。「はあ?」ほら、腰につけるバッグとか、小さいバックパックとかあるでしょ?日本ではそういうのを「ボディバッグ」と呼んでるんだもん。それも、山登りや旅行にどうぞって・・・。(今度はカレシがきゃはは。)「英語、英語と言うわりには、they don’t have a clue, do they?(分かってないなあ)」

商品を見るとなるほどとわかるし、日本のファッション商品のカタカナ語ネーミングなんだからいいじゃないかと言ってしまえばそれまでなんだけど、はたして秀作と言っていいのかどうか・・・。

だって、「body bag」と言うと、実際にカタカナ語の「ボディバッグ」の意味にも使うことは使うけど、まずは戦争や大災害のときに収容した遺体を入れるビニール袋のことを思い浮かべるんじゃないかなあ。

「山に行くのに新しいボディバッグを買ったのよ~」なんて言われたら、ど~しよ~?

言葉は世相を映す鏡か

6月23日。日曜日。正午過ぎまでぐっすり眠って、ちょっとまだ寝足りないような気分で起床。天気はまあまあ。気温もまあまあ。ポーチの温度計は、午後4時過ぎに針が19度の目盛りからちょっとだけはみ出して、ほらっ、もうひと押しっ、がんばれっ、と熱い息を吹きかけてやりたいくらい。この週末はスーパームーンだけど、見えるかなあ。月の軌道が地球に最も近くなるのと満月が重なると、昇ってくるときに並の満月よりずっと大きくて、すごく明るく見える。今回を見逃すと来年の8月まで見られないというから、今夜は曇らないでほしいなあ。

アルバータ州の大洪水は今度はメディシンハットでボウ川下流のサウスサスカチュワン川が氾濫しそうになっている。市の中心部が冠水した石油産業の基地カルガリーではまだ何日かはマヒ状態が続くらしい。アイスホッケーのアリーナの中はまるで巨大な池。来シーズンの前哨戦が始まる9月までに復旧できるのかな。そんな中で、飼い主の青年と一緒に水没するトラックから脱出して、濁流の中を泳ぐメス猫のモモがインターネットのスターになっている。お先に失礼とばかりに水に飛び込んだそうで、尻尾を舵のように動かしてすいすい。猫は濡れるのが嫌いだと思っていたけど、モモはバスタブに水を張ってもらって泳ぐのが大好きという「ヘンな猫」。飼い主のお母さんによると「泳ぎは息子より速い」そうな。

ご隠居さんを決め込んで、小町横町の散策にでかけたら、『嫌いな言葉はありませんか?』というトピックがあった。ワタシは日本語を英語に訳すのが主な仕事なので、古語?から現代語、専門語から流行語まで、実にいろんな日本語に遭遇する。専門語はだいたいは訳語が決まっているからいいけど、ニュースレターやメディア記事、個人の作文など「普通の日本語」で書かれたものには手間取ることが多いな。「わからない」では済まされないから、いつも調べるのに大汗をかくけど、まあ、38年も日本語環境で生活して来なかったので、今どきの日本語がわからなくてもしかたがないと思う。(全体的に38年前の日本語とはずいぶん違ってい感じがする。)

「嫌い」というのはけっこう強い感情だけど、「イヤな言葉はあるか」と聞かれたら、あるあると答えるな。ワタシにだってイヤなものがあるし、好きになれないタイプの人間もいる。ただ、何にしても性に合わないからといって即座に「嫌いっ」と拒絶しないだけの話で、イヤだなあと思うものはいくらでもあって、言葉にしても然り。聞いてイヤだなあと感じる言葉や表現は日本語、英語を問わずたくさんある。日本語の場合はネガティブに感じられるものが多いかな。すでに定着している感があるヘンな「お上品言葉」もあまり好かないけど、使い手に対しては別に「嫌い」という感情はわいて来ない。だって、ワタシにとってはみんなネットですれ違うだけの顔のない不特定多数だから。

新しすぎるのか、遭遇する機会がないのか、ワタシにはさっぱりわからない言葉もあるけど、ざっと読んでみると、人間の感じ方は十人十色でおもしろいし、言葉や表現に「嫌い」と反応する(反感を持つ)聞き手の心理とそれを多用する使い手の心理の絡み合いもおもしろい。震災後にもてはやされた「絆」という言葉の空虚さや、「感動をありがとう」、「勇気を与える」、「させていただく」といった芸能人、スポーツ人が口にする言葉の白々しさを見抜いているし、「痛い」とか「惨め」、「残念」といった本来は自分の(負の)感情である言葉で他人を貶める風潮を憂い、カタカナ英語に置き換えることによる言葉の「軽薄化」を嘆いているのは、まともな言語感覚が健在だということかな。

言語は時代と共に変化するもので、流行り言葉や表現が時代の世相を反映しているとすれば、300本を超す書き込みに見る「嫌いな言葉」からは、「閉塞感」、「不安感」、「不信感」、「疎外感」といった重い空気が感じられるし、幼児化とも言えそうな「何でもちゃんづけ」は漠然とした不安に対処しようとする一種の「赤ちゃん返り現象」のようなもののように見える。カタカナ英語は今に始まったことではないけど、「リベンジ」は早々に廃れた方がいいな。日本語の「リベンジ」と英語の「revenge」は意味が違うから、英語を日本語の意味で使ったらエライことになりかねない。でもまあ、あくまでも日本語化して定着しているのなら、それでいいと思うけど。(英語にも意味が変わって定着した日本語があるし。)

目は口ほどに、口は心ほどにモノを言う

日曜日。せっかくよく寝て、何だかおもしろそうな夢を見ていたのに、カレシに起こされて、眠いよ、もうっ。小雨模様で、ポーチの気温は午後2時で16度。この調子だと20度まで届きそうにないな。日の出は午前5時8分(標準時にすると午前4時8分)、日の入りは午後9時21分(標準時で午後8時21分 )。1日の3分の2は昼間なのに・・・。

きのうのスーパームーンは見ごたえがあった。たしかにいつもより大きく見えて、輝いているといわんばかりの明るさ。キッチンの窓から月見をしながらの寝酒。だいぶ前にも書いた記憶があるけど、「嫁入り前の娘」の年頃にも関わらず天体観測に夢中だった頃、何を思ったのか広角レンズをつけて昇って来る満月に向け、視野を圧倒する月を見ているうちに、なぜかウォ~ッと叫びたい衝動に駆られたことがあったっけ。畏怖と言うのか、恐怖と言うのか、月の光に当たると気が狂うという伝説は嘘じゃないかもと思った瞬間だった。あのときの大きな満月もスーパームーンだったのかな。ワタシはやたらと「はぐれ遺伝子」を持っていそうだから、もしかしたら、アラスカの荒野で月に吼える狼の遺伝子も迷い込んでいるかもしれない、なあんて想像すると楽しいけど、これもスーパームーンの光のせい・・・?

ゆうべは眠りに落ちるまでの間、「嫌いな言葉」のトピックについてごちゃごちゃ書いていて、嫌いだという言葉に聞き手の話し手に対する心証が反映されているケースがかなりあったのをあれこれ考えているうちに、ピンカーが講演で「言葉の選択によって思っている以上に内心を暴露している」と言っていたのを思い出した。なるほど~と思ったところで眠ってしまったけど、改めて考えてみると言語心理学に踏み込むようでおもしろい。まあ、究極的にはそこに注目することによって人類共通の「普遍性」を求めようとしているんじゃないかという気もしないではない。ワタシって、何だって普通に生きるならそんなに奥深くまで考えなくてもよさそうなことをやたらと考えるように生まれついてしまったのかなあ。いったいどこの誰のどんな遺伝子をもらってしまったやら。

トピックの主が「ストレスの発散を」を呼びかけているせいか、たくさんの人たちが「嫌い」思う言葉を挙げている中で、言葉自体が嫌いというよりも、その言葉を使う「同僚/友人/家族」が嫌いなのかと思わせる書き込みがけっこうあった。小町によく上がって来る、キーボードやヒールの音、咳払いなど、他人の一挙手一投足にイライラするというトピックと同じコンテキストで、ある人に対して抱いている嫌悪感または反感を本人や周りに知られたくないか、ストレートに表現できない環境だから、その人が好んで使う言葉を「嫌い」と表明することによって自分の負の感情を転嫁しているような感じがあった。

それにしても、「嫌いな言葉」、いろいろとあるなあ。昔からある言葉の誤用・勘違いから来るものもあるけど、マニュアルの擬似ていねい語に始まって、たぶんほとんどの流行り言葉が網羅されているんじゃないかな。「生理的に無理」は人の鼻先でドアを閉めるような拒絶表現だと思うし、身内に対して「お願いする」のは変な卑屈さが感じられるし、モノに対して「○○してあげる」というのは滑稽でしかないし、「あなたのために」、「悪気はないから」、「悪いけど」、「みんなそうだから」は責任回避の枕詞かな。何とも生々しい「初マタ」には笑ってしまったけど、ちょっと品性がなさ過ぎるなあ。「シンママ」はちょっと軽すぎる感じだし、「働くママ」は選民意識のようなものが嫌われるのかな。前に仕事でお目にかかった号泣と激怒は今や「大号泣」と「大激怒」に発展しつつあるらしい。どうか「上司にミスを咎められて大号泣した」なんて書かないで・・・。

何度か「あなたがなんとなく生きた今日は昨日死んだ人の生きたかった明日」というのが挙げられていたけど、たぶん偉い人がその人の思いを込めて言ったのだと思うから、その人の言葉として聞いて「嫌い」という人はいないだろうな。嫌いと言う人は、その言葉を偉そうに引用する人たちが嫌いなんだろうと思うな。「こんな崇高な言葉を引用して無知な人を啓蒙する自分!」に陶酔している自称ヒューマニストが口にしそうなせりふだもの。たいていの人はそれぞれに毎日を真っ当に生きているのに、「あなたは死んだ人の日を生きているんだ」なんて、まるで人の人生を横取りしたと非難しているように聞こえる。偉い人にそう言われたのなら「さすが」と思うかもしれないけど、そうでなければ「あなたの○○はワタシが欲しかったのに手に入れられなかった○○なのよ」なんて言われているようで気色が悪い。まあ、こういう人はどこにでもいそうだから、「偽善者」として舞台の照明の中に立たせてみたら、悲劇になるのか、喜劇になるのか・・・。

その気になったときにはまじめに料理(6月17日~23日)

6月17日(月曜日)
* 夕食: 紅ザケの照り焼き風、牛肉とごぼうの混ぜご飯、さやいんげん(蒸)
* ランチ: たっぷりのニラ入りジョン

6月18日(火曜日)
* 夕食: おひょうのタイ風スパイス焼き、ミックスきのこのソテー、アスパラガス(蒸)
* ランチ: たらこソースのヴェルミチェリ

6月19日(水曜日)
* 夕食: ロックフィッシュのチーズ焼き、ほうれん草のリゾット、ミニ・ズッキーニ(蒸)
* ランチ: バミゴレン

ロックフィッシュにイタリアンスパイスを振り、削ったモッツァレラチーズをたっぷり載せて、さらにスパイスを振って、トースターオーブンでこんがり。ミニ・ズッキーニはワタシの人差し指くらいの太さで、「ベビーズッキーニ」として売っている。ベビーなのかミニなのかは不明・・・。

バミゴレンはインドネシアの焼きそば。スーパーで売っているオランダ製の袋入りソースの素を使う。今日は麺に太いビーフンを使って、冷凍の茹でえびとねぎをたっぷり。

6月20日(木曜日)
* 夕食: ひらめのカニもどきロール、アスパラガス入りクスクス、芽キャベツ(蒸)
* ランチ: カレシ特製のツナの丸パンサンドイッチ

仕事を終えたところで、カレシを英語教室夜の部に送り出すために特急で夕食の支度。それでも気分がすっきりしたのか、解凍したひらめを見てアイデア電球がポッ。

常備の塩ヨーグルトにレモンとコリアンダーとパン粉を加えて混ぜたものをひらめの上に伸ばし、カニもどきを2本ずつ置いてくるくる。さっとサラダ油を塗ってトースターオーブンで焼いている間に、クスクスを炊いて、さっとソテーしたアスパラガスの尻尾を混ぜ、芽キャベツを蒸して、できあがり。急いだわりにはけっこう見られるディナーとなった。味はもちろん?上々・・・。

久しぶりにカレシがツナ缶でサンドイッチを作ってくれた。Solidというぶつ切りのアルバコアまぐろの缶詰(シーチキンと呼ばれるあれ)を開けて身をほぐし、赤玉ねぎや隠し味(マヨネーズに塩ヨーグルトを混ぜているらしい)と混ぜたのをトーストした丸パンに挟む。ひと口食べて「ちょっと水っぽいな」。ぶつ切りよりは身の崩れたのをオイル漬けにしたchunkの方が味があるかもしれないな。この次のショッピングではchunkの缶を買っておくね。

6月21日(金曜日)
* 夕食: カキフライ、ししとうの素上げ、ミニズッキーニとパティパン(蒸)
* ランチ: タイのインスタント麺(ねぎ風味)

6月22日(土曜日)
* 夕食: 鶏肉のギョーザ、大豆もやしのナムル、八穀米ご飯。
* ランチ: ねぎとたけのこ入りインスタント焼きそば

豚のひき肉の代わりに鶏もものひき肉を使う我が家のギョーザ。台湾キャベツ、まずしょうが、にんにく7、8かけ、コチュジャン少々をフードプロセッサにかけ、ひき肉とごま油を加えてさらにガガーッ。最後にニラをたっぷりと入れてみじん切りになる程度にジャッジャッ。あまりたっぷりとニラを入れたので、出来上がった具は緑色。

今日は28個できたので、お代わりをお皿に出して残った8個をくっつかないようにアルミホイルの上に並べて冷凍。これはランチに食べるラーメンの具として取っておく。

6月23日(日曜日)
* 夕食: ポンパーノのライムジンジャー焼き、マダガスカルのピンク米、さやいんげん(蒸)
* ランチ: たこやき(冷凍)

ゴールデンポンパーノは丸っこくて、おちょぼ口に小さな目がポチッとついていている見た目がかわいい魚(日本名はマルコバンらしい)。アジアからの輸入もので、銀色の皮にはうろこがなくて、ヒレが黄色いのが特徴。ラベルに「生きたまま瞬間冷凍」と書いてあるので、自分で頭を取り、はらわたを取って3枚開きにする。骨も皮も硬めなので2種類の包丁を使い分けてのけっこう手間のかかる作業。今日は骨が親指に刺さって血が出てきてしまった。だけど、脂の乗った身はおいしい。ライムジュースと蜂蜜しょうがジュースにつけておいて、軽く粉をまぶしてムニエルにしたら、美味。うん、手間をかけるだけの価値はある。


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