リタイア暮らしは風の吹くまま

古希を迎えて働く奥さんからリタイア。人生の新ステージで
目指すは悠々自適で遊びたくさんの極楽とんぼ的シニア暮らし

2011年1月~その2

2011年01月21日 | 昔語り(2006~2013)
雪が降ると世界は美しく見える

1月11日。火曜日。なんだかわけのわからない夢を見ているうちに目が覚めた。ちょうど正午。天気はまだまあまあ。それでもやっぱり午後8時頃には雪が降り始めて、10センチから15センチ積もると言っているから、今日と明日英語教室があるカレシは朝ごはんを食べながら、どうしよう、どうしよう。でも、トーストを食べ終わる頃には、「今週は休み」に決定。(どうも、実際のところは、あんまり気乗りがしなかったのは先生の方だったらしいけど・・・。)

メールを開けたら、超特急の仕事。編集者の時間帯で考えると作業時間は1時間ほど。わわわ。もっともごく小さい仕事だからいいけど、慌てることは慌てるな。とにかくコーヒーを飲みながら、パカパカとキーを叩いて、終了。編集者に回したのは午後2時ぎりぎりでほっ。やれやれ。ちょっと焦ったけど、このくらいの超特急だと小さい仕事でも割増料金でけっこうな実入りになるから、まあ、文句は言えないな。なんたって地球は丸いから、違う時間帯に住んでいる人たちと組んで仕事をしているとなかなかスリリングな場面に出くわすから。

ここのところ、夕食メニューは「エクスペリメンタル」。実験メニューと言えばかっこいいけど、要するにかなりの思いつきのぶっつけ本番。仕事のペースが緩慢なときにだけできることで、思いつきでやる方にはけっこうおもしろい。日曜日は、エビとえのきとアスパラガスの茎をヒラメに巻き込んだのを台湾キャベツで巻いて、海鮮キャベツロール。ダシとめんつゆで煮たらおいしかった。きのうは白身のタラと赤みの紅ザケの尻尾の部分を別々の味つけでブレンダーで練って作った二色の魚コロッケ。これもけっこう良かった。連続ヒットで気を良くして、今日は軽く燻製したギンダラを大根としいたけで煮てみた。ダシはギンダラの燻製した塩味だけ。これがけっこういけたから、残ったスープを取っておいて、そうめんを煮てみようかな。

午後7時35分。カレシが「雪だ~」と言って来た。ええ?午後8時って言ったでしょ?30分近くも早いんじゃないの。でも、天気予報としては相当の精度と言えるだろうな。ちらちらと降り出したけど、空の色を見るとかなり本気で降りそう。そんなときにカレシが「IGAに行こう」と提案。雪が降り出したのに、どうして?「たぶんが道路が空いているだろうし、スーパーも込んでいないだろうし、雪が積もり過ぎる前に帰って来られるだろうし、トラックを走らせてバッテリをチャージしておきたいし、野菜が底を尽いてしまったし、ついでに酒屋によってジンを買って来ないとマティニを作れないし・・・」。ふ~ん、珍しくお出かけに乗り気だなあ、こんな天気なのに。

それほど寒くないから、雪はかなりのべた雪。確かに交通量は少ない。鼻先にプラウを付けた市のトラックとすれ違った。カルガリーのディスクジョッキーが「あんなの、除雪プラウじゃなくて、スクイージーじゃん」と評したとか。スクイージーというのは窓拭き用の道具で、片側のゴムのブレードでガラス面の水をふき取るようになっている。ジョッキー氏は「バンクーバーの除雪なんかへなちょこもいいとこ」と言いたかったんだろうけど、う~ん、当たってないとは言えないなあ。

平常の夕食に使う魚類が品薄になっていたので、遠洋漁業。アメリカなまずのトレイを2枚、ホタテを1枚、ニジマスを1尾、オヒョウを2枚、紅ザケの半身を1枚。魚のフリーザーでは、久しぶりにオレンジラフィーがあったので、ありったけ(と言ってもトレイ3枚だけど)をいただき。オヒョウのほっぺたもトレイを3枚。ついでに大きなイワシの大きなトレイ。これくらい大きいと開き甲斐もあるってもの。一度「イワシのつみれ」と言うのを作ってみたいなあ、と取らぬ魚の皮算用。丸ごとの鶏を見て、けさシンガポールで買った料理本を見ていて興味を持った「サムゲタン」を作ってみようという気になったけど、もち米も朝鮮人参も手持ちがないから一応お預け。でも、雪の降る夜のスープとしては最高に幸せな味じゃないかなあ。

スーパーを出た頃には、もう見渡す限りの雪景色。とにかくわさわさとひたすら降っているという感じがする。道路の車線が見えないので運転はちょっと危なっかしい。酒屋に寄ってジンを買っての帰り道、横道に曲がろうとしたら、ズルッとスリップしてヒヤリ。全天候タイヤだけど、やっぱり滑るなあ。朝の通勤は大変だろうな。無事帰り着いて、魚のトレイをはずしてフリーザーバッグに入れる処理に約1時間。5センチくらいは積もったかな。予報によると、夜半からじわじわと気温が上がって、午前9時にはプラス4度で、雪はそのまま雨になり、午後2時には7度まで上がるとか。ふむ、べちゃべちゃ、ぐしゃぐしゃか。

午後11時を過ぎて、気温はプラス1度。街灯の下で華麗に舞っている?雪のひらが、心なしか大きくなって来たように見える。「ゆぅ~きぃ~はふぅ~るぅ~。あなたはこないぃ~」と、青春時代に大好きだったアダモの歌を思い出して口ずさんでみる。心地よい家の中にいて見ている限りでは雪は美しい。雪景色も美しい。世界中が静まり返って、そして悲しいくらいに美しい・・・。

マイセックスで孤族予備軍

1月12日。水曜日。目覚めは正午。ベッドルームが明るい。ということは、雨は降っていないのか。なんかがっかりしたような気分で起きてみたら、空模様は薄曇。いやあ、けっこう降ったなあ。15センチくらいはありそうで、せいぜい12時間でこの積雪量はやっぱりちょっとした「大雪」かな。でも、車の通る道路は解けてしまっている。ゆうべ融雪塩をまいておいた歩道は真っ白になっていたけど、5センチも積もっているかどうか。たぶん塩の量が足りなかったんだろうな。ま、何ごとも経験。この次はもう少し多めにまいてみるか。(この次はない方がいいんだけど。)

英語教室を休みにしたせいか、カレシはのんびりモード。同窓会の広報用ブログを作ると言って、アカウントを作ったまではいいけど、ブログの仕組みがさっぱりわかっていない。「書き込めないよ」、「編集できないよ」、「コメントはどうやって書くの」、「なんでパスワードをつけるの」、「特定の人だけに記事を書くときはどうするの」・・・。あなたのブログの設定なんか知らないって。まあ、知らないと言いつつも自分の設定を基準にして、こんな機能、あんな機能があるはずだと、いちいち指南するワタシも、カレシののんびりモードが感染したのか、なんかヒマなんだなあ。曇って来たけど、いつまで待っても雨は降って来ない。午後4時の気温はプラス6度。春っ気がさして来てしまいそう。

いつものように新聞サイトを見ていたら、厚生労働省の調査で日本人の男性18%、女性48%がセックスに関心がないか、嫌悪感を持っていると言う結果が出たという記事があってびっくり。十代に絞ると数字はもっと高くなる。さらに、「めんどうだから」という理由を挙げた回答者が全体の40%もいたというからますますびっくり。異性と関わるのがめんどうくさいということらしい。たしかにセックスは究極の人との関わりじゃないかと思う。それが「めんどうくさい」というのは、何か大変な心理的な地殻変動でも起こっているんじゃないのかなあ。毎日の新聞には児童買春や盗撮、痴漢行為と言った記事があって、性暴力がなくなる気配はないし、ゲームもマンガもセックスが氾濫していて、女性たちはと言えばコンカツ、コンカツと走り回っているようだし、どう見ても「めんどうくさい」からセックスに無関心/嫌いという調査結果とは大きく矛盾しているような感じがする。

でもよく見ると、未成年者がそういう性犯罪の対象になっているケースが多いし、モニターや紙の上の二次元のイメージに「萌えて」いるようで、日本はチャイルドポルノ大国だと言われながら規制は生ぬるいままだし、「性」そのものへの関心が薄れているのではないと思う。つまりは対等な異性と「直接」関わるセックスががめんどうくさいってことだろうな。考えたら、痴漢もレイプも買春もポルノもみんな自分だけの、いわば「マイセックス」。これでは政府がいくら子育て支援策を打ち出してもまったくの的外れになってしまうじゃないの。セックスがなければ肝心の子供が生まれないんだから、子育ても何もあったもんじゃない。何とか結婚しても、「忙しくて」、「疲れていて」40%がセックスレス状態。そうだろうな、サラリーマンはやれ残業だ、やれ飲み会だと深夜まで家に帰れない(帰らない)んだから・・・。

異性と関わるのがめんどうということは、他人と関わるのがめんどうくさい、ひいては人と人とのつながりがめんどうくさいということかもしれない。だとしたら、このままではみんな「孤族予備軍」。まるで、それまでカッチン、カッチンと快調に動いていた「社会」というキカイに不具合が起きて、部品がばらばらと外れてしまったようなイメージが浮かんでくるんだけど、どうしてこんなことになってしまったんだろう。バブルの狂乱の影響なのかな。それとも、社会のいたるところでKYだ、マナー違反だ、非常識だ、不愉快だ、迷惑だと、言葉の端々から一挙手一投足、はては頭のてっぺんからつま先の外見や服装まで、いちいちダメ出しをされるもので、自分から動く気力が失せて、めんどうくさくなってしまったのかな。たしかに、小町の井戸端を見渡すと、まるで一億人の口うるさい小姑にストーカーされているような感じがしないでもない。

長い閉塞状態にみんな疲れてうつっぽくなっているだけなのかもしれないけど、それだけならいいんだけど、やっぱり何か大変なことになりつつあるのではないかという気がする。

近くで死なれては迷惑なんて、そんな・・・

1月13日。木曜日。暖かいというか、生暖かいというか、午後1時の気温はプラス8度。昨日の午後1時はまだ白い風景だったのに、起出して外を見たら、「え、雪が降ったのは夢だったの?」という感じ。冷え込んでみたり、春の陽気になってみたりで、マザーネイチャーはまるでアルミのやかん・・・。

歯医者に行くカレシを送り出して、2010年度の年末処理を少しだけ。おとといあたりから指の関節がほぼ全部痛い。関節がいびつになって来る変形性関節炎。長いことキーを叩き続けてきたのと老化が原因らしいけど、なぜか手を動かしていないときにキ~ンと痛くなったりする。つまりは、キーを叩き始めると痛いことは忘れてしまうわけで、ワタシってけっこう都合のいい人・・・。

新聞を見ていたら、ブリティシュコロンビア大学の敷地内にある高層マンションの隣にキリスト教系の慈善団体がホスピスを建設しようとしたら、マンションの中国系住人の猛反対で計画が宙に浮いているという記事があった。全体の80%を占める中国系のオーナーたちが、「そんなに多くの死んで行く人が近くにいるのは(我々にとって)文化的タブー」だということで、反対デモを計画しているとか。記者は「アジアでは「死」は悪運を招くものとしてタブー視されている」と説明しているけど、「身近に死んで行く人がいてもらっては困る」ってのは、(縁起が悪いから)死ぬんだったらどっかよそへ行って死んでくれ」と突っぱねているわけだし、普通の人にはちょっと理解できないだろうな。そんな冷たいこと言っても、人間はみんないずれは死ぬのに・・・。

夕方のテレビでは、ホスピス反対の先頭に立っている人たちが、「子供が怯える」、「(自分たちや家族に)病気や倒産や離婚のような悪運を運んでくる」、はては「近くに死んで行く人がいると考えるだけでも恐ろしい」と、(かなり必死の形相で)反対の理由をまくしたてていたので、移民して来てまだ日が浅くて、ばっちり母国にいる気分なんだろうなと思って見ていたけど、そのうちに「マンションの価値が下がってしまう」と言い出したもので、迷信や文化的タブー云々というのは建て前であって、どうやらこっちの方が本音じゃないかという印象に変わってしまった。そうでなくても移民集団の中でも圧倒的な割合を占めて、嫌でも目立つ中国人移民。その数の力を頼んで中国の風習や迷信をごり押しで通そうとしているというイメージを持たれたら、先々めんどうなことにならないとも限らないな。多重文化主義の許容性にも限界というものはあるんだから。

だけど、中国人の人間観、生命観、家族観、あるいは人間関係の概念は、いったいどういうものなんだろうな。家族の誰かが死を迎えるときにはどうしているんだろう。まさかよそへ行って死ねと言うわけじゃないだろうな。ドラッグや犯罪者の更生支援施設に反対が起きるのはよくあるけど、由緒ある高級住宅地の邸宅が遺言で寄付されて、子供のホスピスになったときに住民が反対したという話は聞かないな。ホスピスは不治の病気で命を限られた人が、家族に見守られて穏やかな気持で命を終えられるようにしようという安らぎの場で、人間は誰もがそうやって家族を見送ることに思いやりや共感を持つものだと思っていたけど、そうでもないのかなあ。望んだわけでもないのに死んで行かなければならない人たちに対して、自分たちに災厄がふりかかると困るから近くで死なれては迷惑千万というのは、「臭いからあっちへ行け」といういじめっ子の幼児性と通じるものがあるような感じもするんだけどな。(まあ、迷信にはそういう性格もあるようだけど。)

だいたい、二十一世紀のデジタル時代に、いい年をして幽霊が怖いも何もないもんだと思うけど、大学は中国からの留学生や研究投資を呼び込みたいだろうから、最後にモノを言うのは「お金」ということで、このホスピス建設の申請はたぶん不許可になるんだろうと思うな。

お役所仕事の心理学

1月14日。金曜日。朝方にかなりの雨が降ったらしいけど、起きたら日が差していて、正午の気温はプラス10度。まるで100メートルダッシュで春が来てしまったような感じ。(どうせまた100メートルダッシュで冬に戻るのかもしれないけど。)

けさは9時前に道路を清掃するトラックの轟音で目が覚めた。きのうの夕方に道路向かいの歩道に臨時の「駐車禁止」の標識が立っているのに気がついて、カレシが出て行って見たら、「道路清掃のため、午前9時から午後5時まで駐車禁止(月~金)」。月曜日から金曜日までの「どれか1日。」の午前9時から午後5時までの間に標識が立っている側の路肩を清掃するということで、かなりいい加減な標識なんだけど、月曜日から金曜日の間といっても明けたら金曜日だから来るだろうと思っていた。まあ、何度も「いつ」と書いていない標識を立てて行って、カレシが市役所に苦情を言ったことがあるから、のんきなお役所仕事も少しは向上したのかもしれない。

ところが、正午に起きたら、また轟音が近づいて来る。外を見たら、小型の清掃トラックがちょうどカレシのトラックの後を掃いていた。何でこっち側を掃いているの?と思ったら、いつのまにか向こう側にあった標識がこっち側に移動しているじゃないの。寝る前の午前3時に我が家の側は駐車禁止になっていないのを確かめたのになあ。てことはけさになって移したんだ。そんな直前になって標識を立てたって誰も見ていないから、ゆうべからずらっと路上駐車のまま。どこかへ移動しようにも数が多すぎる(市が民間のトウトラックを呼んで無料で適当な場所に移動してくれる)。そこで、駐車している車がなくて、小型の清掃トラックが入れるところだけをちょこちょこと掃いて回っているってわけかな。このあたりでなるほど~と思ったんだけど、朝食が済んだ頃にもっと大きな清掃車が来て道路の向こう側を掃除して行った。夕方になってもこっち側に移った(月曜から金曜までの「駐車禁止」の標識はまだ残っているけど、これって来週の月曜日から金曜日のいずれかの日に掃除に来るってことなのかな。てことは、清掃が済むまでは念のために毎晩トラックをよそへ動かしておかなければならないってことかなあ。どうなってんだろう・・・。

お役所、お役人のやることには見るからにあほらしいことが多いけど、ときとしてあんまり巧妙なもので、時間が経ってから思い出してやっと理解するようなこともやる。そんな例に出会ったのが、10月末にデンバーへ行ったときのアメリカ入国管理官。カナダの空港からアメリカへ飛ぶときは、どういうわけかカナダ側の空港のアメリカ行き専用ターミナルで入国審査と通関をする仕組みになっている。カナダ人は指紋を取られないから、入管の手続きはふつうパスポートを見せて、何の用でどこへ行って、いつ帰ってくるかと聞かれて終わり。ところが、デンバーへ行ったときは2人のパスポートを一緒に出したら、入国管理官が立ち上がってワタシのだけを天井の照明にかざしてためつすがめつ。そして、こっちを見ないでやぶから棒に「キミたち、夫婦?」と質問。もちろん2人は反射的に口をそろえて「イエス」。そうしたら、どさっと椅子に腰をおろした管理官氏、2つのパスポートを読み取り機に通して、にこやかに「Have a nice day」。

搭乗口に向かって歩きながら、2人して「何だったんだろう、あれ」。明らかにワタシのパスポートだけを偽造じゃないかと疑った感じだよね。異人種カップルだからかなあ。でも今までこんなことは一度もなかったよねえ。異人種カップルなんぞ、バンクーバーの空港じゃあ珍しくもなんともないしねえ。ホームランドセキュリティか移民局あたりから「アジア人がカナダのパスポートを出したら詳しく調べるべし」とかいう特別な通達でも出ていたのかなあ。まあ、後になってもっともらしい答を出したのはバーバラだった。「パスポートの生年月日と見かけの年令が合ってなかったのよ」と。つまり、ワタシが偽造パスポートでカレシと夫婦を装ってアメリカに密入国しようとしたと疑われたということらしい。あら、やだ。(そういえば、数年前にニューオーリンズのホテルでも「結婚してどのくらい?」と聞かれたっけ。30年と言ったらお口ポカンだったけど、あれも・・・?)

まあ、今だから「あら、やだ」で済むんだけど、これがひと昔前の「独身妄想」のカレシだったら、イエスと言うのに一瞬ためらったりして、エライことになっていたかもしれないな。お役所って、時には「あれ?」と思うような心理作戦に出てくることもあるから、油断がならない。

美は不公平でも老いはみんな平等

1月15日。土曜日。湿っぽいけど、暖か。正午でもう10度まで行ってしまっている。今夜から日曜日の夜までに40ミリも雨が降るんだそう。雨で40ミリと言うと、雪になって降ってきたら何センチくらい積もるのかな。でも、あんまり春っぽい陽気なもので、ストラビンスキーの『春の祭典』を聞かせたら、植物は芽を出し、動物は萌えてしまうんじゃないのかなあ。だって、春だもん・・・ね。

今日はカレシがヘアカットとの予約を入れていたので、いっしょに行ってワタシの予約を来週に入れた。なにしろ去年の4月からずっとカットしていないもので、前髪が鼻のてっぺんに届くほど伸びてしまって、目の前にかかって邪魔なことはなはだしい。おまけに顔の皮膚を刺激してかゆくなって来るし、一度は垂れ下がってきた髪の毛をコンタクトレンズと一緒に目の中に入れてしまって、いや痛かったの何のって。それにしても、若い頃に比べると髪の量が目に見えて少なくなったなあ。頭の上の毛をすくって持ち上げたら、かなりの白髪が目立つし・・・。

まだ年令よりもいくらか若く見てもらえて、その調子に乗って若々しい気分でいられるのはいいことなんだけど、実年令は本人の意向にはおかまいなしに重なって行くしくみになっているから、黙っていても、誰にでもやがて「老後」が来てしまう。この時間の流ればかりは健康サプリも美肌ローションもボトックスも止めることはできない。止められないと(たぶん)わかっていても、止めたいと思い、「止められる」と囁く巨大産業の甘言に乗って永遠の美肌への夢を買ってしまうのが人間なんだろうけど。でも、年を取るのが嫌だ(怖い)という理由が「老後の不安」だとしたら、どんなに努力して外見の「若さ」を保ったところで、結局は無駄じゃないかと思うんだけどね。働いていれば、一定の年令で「定年」になって老後が始まるんだし、働いていなくたって、配偶者が定年退職すれば自分も否応なしに「老後の生活」に入ってしまうわけだし・・・。

小町のいろんなトピックを見渡してみると、老後の生活が不安でいても立ってもいられない様子が手に取るようにわかる。婚活に熱心な女性たちには、(自分の)老後が心配だから早くそれなりの収入の男と結婚して子供を産んでおきたい人が多いようだし、子持ち派と子なし派の論争でも、子供を持たない選択をした人たちの老後を誰が見るのか(自分の子供に負担がかかって来る)というのが対立の焦点になることが多い。独身の兄弟姉妹がいれば、親亡き後の老後のめんどうが自分に降りかかってくるのはごめんだというし、夫婦の間でもどっちがどっちの親のめんどうをみるかでもめているところが多いし、はては(自分の老後を視野に入れて)手塩にかけて育てた子供がめんどうを見てくれないと嘆いている老親たちも多い。

でも、どのトピックからも自助の精神があまり感じられないのは、やっぱり安心できる老後を誰かに提供してもらいたい、誰かに依存したいということなのかな。(そのくせ他人に対しては「頼られるのは嫌だから、寄りかかって来ないで」と言ってる感じだけど。)たしかに、年金制度はごちゃごちゃのようだし、雇用もめちゃくちゃに不安定らしいし、国の予算の半分以上が借金でまかなわれるというし、年を取ってからの暮らしに不安を感じるのはわかるな。先立つものがあれば介護施設に入ってめんどうをみてもらうこともできるだろうけど、その先立つものがなくては老後は貧乏になるし、最悪の場合ホームレスで孤独死なんてことになりかねないしね。(そうならないために年金制度があるんだし、そうなりかねない事情がある人たちのためにはお金(税金)を出し合ってめんどうをみる社会の仕組みがあるはずなんだけど・・・。)

昔から「寄らば大樹の陰」というけれど、どんな大樹だって、虫食いになったり、大風が吹いたりして、いつ倒れるかわからない。あてになるかどうかわからないものに寄りかかるよりは、自分の根をできるかぎり太く、深く伸ばした方が安心できるんじゃないのかな。ま、かなりの自助自立エネルギーが要求されるけど、後になってから楽じゃないかと・・・。

窓のない家ならいいのかな?

1月16日。日曜日。今日も記録的な暖かさ。日曜日なのに近くの家の新築工事現場で重機を使って何やら作業をしていて、最初に目が覚めたのは10時過ぎ。(市の騒音防止条例では、日曜日は午前10時前に騒音を出す機械を使うことはできない。)そのままうとうとしたけど、11時半には起きてしまった。眺望270度の二階の窓から見える範囲に新築中の家が2軒。まあ、12月は住宅の建築許可の発行件数が大幅に増えたそうだから、高すぎるとか何とか言いながらも、新しい家がどんどん建っているということか。土地の値段と工費とマージンと不動産屋の手数料を合計したら、こんなごく普通の住宅地でもやっぱり軽く100万ドルを超えるな。古い家の建て替えが多いと言うことは、その値段でも売れるってことか・・・。

そろそろ次の仕事にかかろうかなあと思いながらのんびりとオフィスに下りて、PCが立ち上がるのを待っている間にきのうから見始めた『ストレスと身体』というDVDを見る。講師は『シマウマはなぜ胃潰瘍にならないか』という本を書いたスタンフォード大学の教授で、縮れた長髪を後で束ねてひげもじゃの神経病学者。立て板に水のようなかなりの早口の講義なんだけど、その話しっぷりがめちゃくちゃにおもしろくて、とうとうぶっ続けで3コマ(1時間半)も見てしまった。もう30年も夏休みごとにアフリカへ行って野生のヒヒを相手に、ストレスによる病気の研究をしているとか。うん、こういう先生がいたら、学校での勉強もストレスなんかまったく感じなくて、毎日の講義が楽しいだろうなあ。

ストレスと心臓、ストレスとメタボリックシンドロームの関係がわかったところで、小町をのぞいて見たら、カーテンを開ける、開けないの議論をやっていた。マンションで窓のレースのカーテンを妻は閉めておきたいのに夫は開けたがるから夫婦喧嘩になる。勝敗はどっちかという相談なんだけど、まあ、そんなことでの夫婦喧嘩は犬も食わないからいいとして、閉める派と閉めない派が喧々諤々の大?論争。日が当たりすぎるからレースのカーテンを閉めると言うのはわかるな。まぶしいし、夏だったら家の中が暑くなるものね。(ガラス越しでも紫外線は危険だから閉めておけという人もいるけど。)散らかっている家の中を他人に見られたら恥ずかしいから閉めておく、というのはどうかなあ。恥ずかしかったら掃除すればいいじゃないかと思うけど、ま、そのヒマがないのかもしれない。家の間取りや不在や家族構成までわかると「泥棒に入られるかもしれない」から、「子供が狙われるかもしれない」から、閉めないのは防犯上危険というのは「リスク管理派」なんだろうけど、日本がそんなにも物騒なところになったなんて信じられないな。

それにしても神経質な人たちが多いなあと思うんだけど、それも家の外がすぐ道路だったりして、通る人の目が気になるんだろうし、それに「安全」の観念も違うだろうから、そういう環境ではしょうがないか。それでも、他人に見られたくない、目が合ったら嫌だ、見ていると思われたら嫌・・・これって一種の視線恐怖症じゃないのかな。なんだかじっと息を殺して、身を潜めて暮らしているようで、読んでいるうちに緊張感が伝わってきたけど、常にそういう精神的なストレスにさらされていると心臓や血圧に良くないと思うよ。カレシもカーテンやブラインドを閉めたがる方で、わりとアスペっぽい性格だから外の光や音への反応が違うんだろうと思っていたけど、はて・・・。

特にびっくりしたのは、「迷惑だから閉めろ」という意見。曰く、「丸見えにされる周囲の人たちにとって迷惑」、「目のやり場に困るのでレースのカーテンだけでも閉めておいて欲しい」、「覗く気がなくても目に入ってしまって気分を害する者もいる」、「見ないようにするのはけっこう気疲れするから迷惑」、「開けっ放しにされると、逆に見られているような気がして気が休まらない」云々。しまいには、カーテンを開けっ放しの人には相手の立場に立って考えられない人が多いという意見まで飛び出す始末で、なんだかみんな人間嫌いなの?つまりは「私が気分を害したり、気疲れしなくてもいいように(私に)気を遣え」ということなの?人が住んでいるところではおちおち道路も歩けないような雰囲気で、すごいストレスになりそう・・・。

古女房の家庭経営管理学

1月17日。月曜日。轟音が近づいてきて目が覚めた。午前8時43分。どんどん近づいてきて、ぐわ~っと家の外を通過して、かなり急激に遠ざかって行った。道路清掃車のお通り。やれやれという気分になって寝なおして、起床は1時近く。この頃は工事だのなんだのと騒音が多くて、少しくらい早めに寝ても、睡眠時間が半分も行かないうちにいったん目が覚めてから本格的に眠るもので、起きる時間がどんどん遅くなる傾向がある。困ったもんだけど・・・。

ま、とにかく道路清掃が済んで駐車禁止の標識が消えたのは何より。ごそごそと起き出したカレシはトラックを元の場所へ戻すために早速外へ出て行った。家の防犯アラームの解除を忘れなかったのはエライ。寝るしたくをする頃になってトラックを動かさないのかと聞いたら、「何で?」と来た。道路掃除が来るから、寝ているうちにトラックをどこかへ持って行かれるよと言ったら、「勝手に持って行けばいい」とけんか腰。おいおい、ワタシは市役所じゃないんだから、けんかを売られても「あ、そう」と返品するしかないからね。ほんとに「あ、そう」と言ったら、ものの数分もしないうちに「トウトラックの騒音で目を覚まされるのは嫌だから、動かすことにした」と言って外へ出て行った。あっ、そう。でも、押すボタンを間違えたらしく、トラックのアラームがけたたましく鳴り出した。午前3時半。んっとにまったく近所迷惑・・・。

目が点になるようなカレシの行動の決定心理を見ているとおもしろい。ワタシが「○○したら?」と言うと、たいていまずは「ヤダっ!」という反応。このあたりがわかって来るまでは、ここでなぜ○○をすべきかという説諭になってしまって、カレシは実際にするべきとわかっていても亀のように頭を引っ込めてひたすら拒否に出る。結局はしょうがないからワタシが自分でやる。そこでカレシが「オレのもの」と見ているものが絡むと、今度は自分の縄張りを侵害されたと怒り出し、いくらカレシがやらないから、ワタシがやらなければならなかったと説明しても、謝るまで怒っていることが多かった。それで、次は差し出がましいことはしないでおくと、今度は「オマエがやらなかったから(支障が起きた)」と怒る。これは「ああいえばこういう」型のモラハラ族の常套手段なんだろうけど、そこがわからないうちはつい振り回されて疲れてしまう。

そこで、基本的に「提案/サジェスチョンは1度きり」のポリシーを導入して、こっちの「○○したら」というサジェスチョンに拒否や反論が返って来たら、「あ、そう」でピリオド。カレシにはこれがなぜか効き目があるようで、たいていはその「○○」をやる。そのときになんたらかんたらと「やる」理由を並べるからおかしくてしかたがないけど、よけいなことは言わずに「うん」とだけ返事。とにかく、やらなければならないことをやってもらうためにそれとなくやる気にさせるのが狙いなので、カレシのようにとりあえず抵抗してみなければ気がすまない性格には放任主義で行くわけで、カレシとしては自分の発案、自分の主導という気分になって顔が立つし、ワタシもやるべきことが平和裏に実行されるので、めでたし、めでたし。

カレシは手先が不器用なので、そそっかしいワタシよりも物を落としたり、ひっくり返したりすることが多い。時には「あぶないな~」と思って見ている目の前で事故が起きる。その瞬間にカレシはパニック状態で自己防衛モードのスイッチが入って、ああだこうだと「自分の落ち度ではない」理由を並べるけど、ワタシの方はさっと後始末を開始する。ただし、後始末をしてやるというのではなくて、後始末の「行動」をデモンストレーションするだけ。後始末をしながらカレシの言い訳に反論したり、叱ったり文句を言ったりはしないから、カレシは突っ立っているわけにも行かなくなって後始末に加わる。そこでワタシは「手伝い役」に回る・・・要は、何か問題が起きたときに現場をほったらかして責任追及に向かいがちなカレシの視点を「とりあえず何をすべきか」に向けるのが狙い。後始末が終わる頃にはカレシも落ち着いて、自分なりの原因究明をする気持になっていることが多いから、うんうんと聞いていればけんかにもならずじまい。

いうなれば一種の亭主操縦術なのかもしれないけど、こういう戦術は「2人の家庭」を運営して行く上で必要なことにだけ発動しないと、険悪な心理戦に発展しかねないから、かなりの自制が必要になる。それでも、誰だって結婚したときはどんな優しくてかわいい恋女房に見えたとしても、何十年も頭を使って「かみさん業」をやって来れば、良し悪しはともかくとしていろんな「家庭経営管理」の知恵がつくものらしい。知識はパワーなりと言うけど、知恵もパワーなり。つまりは、古女房は強しってことなのかなあ。

どっちの方角に向いているか

1月18日。火曜日。めずらしく静かな朝。と言っても午前11時半だけど、AMだから朝は朝。何だかちょっと冷えてきた。まあ、まだ1月も中旬なんだし、2月になってドカンと寒波が来ることだってあるから、雪さえ降らなければいいか。どれくらい昔だろうな、クリスマスがぽかぽかと暖かで、2月になってマイナス10度というような寒波が来て、「先に春が来てから冬なんて、狂ってるねえ」とあいさつ代わりに愚痴っていた時期があった。そんな冬が2、3年続いたような・・・。

きのう入って来た急ぎの仕事をささっと済ませて、納品ついでに(郵便事情がおかしいので)郵便物が届いているかどうか聞いてみたら、きのう配達されたと言って来た。郵便局へ持ち込んだのは12月15日。。それが太平洋を越えるのに1ヵ月もかかるなんて、大昔の帆船だってもっと早く行けると思うけどなあ。年が明けたというのにまだクリスマスカードがちらほらと届いていてヘンだと思っていたけど、定形外郵便や小包は、アメリカから2週間半、オーストラリアから3週間、ドイツからはなんと5週間(!)。どっち方向を見ても遅れているということは、問題はやっぱりヨーロッパとアジアの間にある「カナダ」なんだろうなあ。まあ、カナダポストは国営だった頃から非効率で不親切なんだけど、いくら郵便物が爆発的に増える季節ではあっても、この遅れは異常だな。テロリストが郵便物に爆発物を仕掛けたりするから、神経質になっていると言うことも考えられるけど、12月には東京から1週間で着いた小包もあったし、ふむ・・・。

大学構内の超お高いコンドミニアムの隣にホスピスが建設されることになって、コンドミニアムの中国系の住人たちが「我々の文化にとってタブー」ということで猛反対しているという話で、中国系カナダ人の団体が、反対する住人たちは中国文化をネガティブな形で持ち出して「中国系カナダ人の評判を傷つけている」として、反論する記者会見を開いた。曰く、中国の文化には敬老と介護の伝統がある、ホスピスが家族にあく運をもたらし、幽霊に悩まされるというのは奇怪な理由で「未知のものに対する恐れと無知」に基づいている。中国系カナダ人の全国組織の会長曰く、「自分は香港の人口が密集したハッピーバレー地区の墓地の隣で育ったが、みんな繁栄しているよ」と。そう、不老不死じゃないんだから、中国だってみんないずれは死んで墓地に葬られるはずで、家族は墓参りだってするだろうにね。

市民教育教会とか言う団体の(中国系名前の)会長は「一部の新移民による自分たちが知らないことへの恐怖感に尽きる」と言っている。でも、外国に移民すること自体が「未知」の世界に自ら飛び込むことじゃないかと思うけどなあ。地元で生まれ育った人たちには超高嶺の花のコンドミニアムを買えるくらいの裕福な移民だったらそれなりの広い視野や教養があるはずだろうに、まさか「これが我々の文化・習慣なんだ!」と凄めば、言葉や文化や習慣が違ってもどうってことないやと思っているわけじゃないだろうな。移住先のあちこちでそういう押し付けやごり押しをやっては反感を買っている人たちもいることを知らないのかな。何世代も苦労してカナダに地位を築いてきた中国系カナダ人が懸念しているのはそこなんだけど、情報管制がある国から来た人たちだから、どんなに高学歴でもあんがい知らないのかも・・・。

まあ、日本人でもそういう「無知」なタイプが世界中にいるのは、小町やローカルの日本語掲示板を見れば一目瞭然だけど、日本の文化や習慣を押し付けてその土地の習慣や制度の変更を迫れるだけの勢力がないから、同胞の間だけで移住先の文化や習慣、(配偶者も含めて)その土地の人間を劣等と見下したり、同胞に「日本人らしさ」、「日本人の誇り」を押し付けることで日本の文化や習慣の固持を図って、排他的という評判を取ったり、威圧的だという反感を買わずに済んでいるだけで、バブルの頃にはその芽が見えていた。ま、「異なるもの」と交わるには誰でも大なり小なりの違和感を克服しなければならないはずだけど、概して教養や視野に広がりのない(内向きの)人がそういう状況に遭遇したときに「自分が慣れ親しんで来た通り」を願うのは人種に関わらず共通する心理なのかもしれない。

それでも、ホスピス反対の根幹にあるのは「資産価値」の問題に尽きることは間違いないと思う。ずっと昔読んだ雑誌に、戦前にアメリカに移民したアジア人のうちで、中国人は少しでもお金が貯まると土地を買ってアメリカに根付き、巨富を築いた一族もいたのに対して、日本人は「故郷に錦を飾って帰る」ことが成功目標だったから、新天地に根を下ろすという考えはあまりなかったと書いてあった。どうやら移住先でどっちに顔を向けているかという違いは今もなおそれほど変わっていないのかもしれないな。(ローマ神話にはヤヌスという前と後ろに顔のある門や入口の守護神がいるけど、その名にちなんだ月が1月(January)・・・関係ないか。)

余談だけど、例のホスピスは元々大学の学生寮の近くに建設する計画だったのが、学生寮側から「静かにしなければならないのは苦痛」という理由で反対があったために、問題の場所に変更したのだそうな。まさに、人はいろいろ、文化もいろいろ・・・。

ストレスとダイエットは孫の代まで

1月19日。水曜日。ゴミの収集日で、リサイクル車のドシャンガッシャンで目が覚めたのが午前6時54分。どうしてこの頃はこんな早くに来るんだろうな。「収集日の午前7時までに出せ」ってことは、午前7時より前には来ないということじゃないかと思うんだけど。ひょっとして時計が夏時間のままになってたりして。むにゃむにゃと考えているうちにまた眠りに戻ったのはいいけど、今度は何かに追われて逃げ回っている夢を見た。こういう怖い夢はだいたい危機一髪!というところで目が覚めてくれる。(なぜか自分が殺された夢を見たことがあったけど、あれは怖くなかった。なにしろ後から誰かにいきなり頭をガンッとやられて、あ、ワタシ、死んじゃった・・・ヘンな夢。)

追われて逃げる夢では、足が地面にくっついて動けないときと、ふわふわと空間を遊泳しているようなときがあるから不思議なんだけど、けさのはなぜか朝もやのようなピンクっぽい色をした空間を鉄腕アトムみたいな感じでヒュ~ンと飛んで逃げ回っていたような気がする。ふむ、悪夢のはずなのに、ヘンなの。鉄腕アトムといっても、まんがを読んだわけじゃないから、ただそんな感じがしただけだし。(子供のときは『まぼろし探偵』が好きで、男の子の雑誌を買って読んだし、どうやって手に入れたのか覚えていないけど、親に内緒でおもちゃのピストルを持っていたことがあった・・・ヘンな女の子。)

カレシを教室に送り出して、『ストレスと身体』の講義の第6回目を見る。テーマは「ストレスと成長」で、まずはストレスの胎児への影響。成人病は胎児期から始まる(FOAD)という説があるそうで、第二次大戦中にナチドイツがレジスタンス活動への報復処置としてオランダへの食料輸送路を断ったため、オランダは「飢餓の冬」に見舞われて何万人もの餓死者を出したという。そのときに妊娠初期の胎児だった人たちは、飢餓に備えるための栄養分や脂肪の備蓄効率が高くて、成人してからメタボ症候群になる確率が普通の20倍にもなり、その中で女性たちが成長して生んだ次世代も同様にメタボ症候群になりやすい体質なのだそう。今ではその孫世代にも同じ傾向が見られると言うから、三つ子の魂なんとやら。見ていて、日本のニュースに低体重で生まれると大人になって生活習慣病になりやすいというのがあったのを思い出した。

さっそく記事を検索して、じっくり読んでみたら、オランダの「飢餓の冬」のことが引用されていた。日本では早産でもないのに低体重の赤ちゃんが増えていて、厚生労働省の統計から計算すると、低出生体重児が約10%と、先進国中ではトップクラスとか。さらに、若い女性の痩せ願望で、20代の女性ではBMIが18.5以下の「やせ過ぎ」が20%以上もいて、カロリー摂取量は年々減少し、妊婦でさえカロリー不足なんだそうな。つまり、おなかの中で戦争中のオランダの胎児と同じような飢餓状態に置かれた赤ちゃんは、ストレスホルモンのグルココルチコイドが生まれつき多く、生理的に常にストレス状態になるために成人病になりやすいという。(ただし、「適切な育児と生活習慣指導で、発症は抑制することが可能」と考えられている・・・。)

新聞記事では言及していなかったけど、いつもグルココルチコイドが多いと、学習能力や記憶力にも悪影響があるし、不安症にもなりやすいそうで、サポルスキー先生の講義と、新聞の記事から垣間見る世相や小町などの掲示板での人間模様の印象を重ね合わせて見て、な~るほど、そういうことだったのかなあ、と勝手にヘンに納得した気がした。そういう状況で低体重で生まれたのが女の子の場合は、効率的に栄養を蓄えるようにプログラミングされているので、大人になって妊娠したときに本来赤ちゃんに行くべき栄養分を横取りしてしまうために、太らないためのダイエットをしなくたって低出生体重の赤ちゃんが生まれて、そのコマンドやがて大人になって成人病になる可能性が高く、おまけに学習力や記憶の問題や情緒不安定に悩まされるかもしれない・・・という悪循環になってしまうらしい。

まあ、飽食の国で命を授かったのに飢餓にさらされて生まれてくる赤ちゃんもかわいそうだけど、国の将来にとってもなんか危機的な状況じゃないのか・・・と、ヘンな心配、かな?

健康な食生活はお金がかかる

1月20日。木曜日。ヘンな夢も見ずにわりとよく寝て、わりとすっきりと起きたら、カレシが「雪が降った~」と頓狂な声。そんな予報なかったけどなあ、と思って窓の外を見たら、ほんと、芝生がうっすらと白くなっている。まあ、ここんところちょっと冷えていたから、雨と雪の境目のきわどい温度だったんだろうな。もっとも、昼のテレビニュースを見たら、バーナビーやニューウェストミンスターのあたりは「うっすらと白く」なんてもんじゃない。テレビカメラの目の前で通りがかった車がスリップして、くるりと方向転換。今来たこの道は、危ない、危ない・・・。

午前4時には雪が降るような気配はなかったから、雨が雪に変わったのは明け方か。かなり突然のことだったらしく、気象台はあわてて「降雪注意報」を出したけど時遅し。交差点の赤信号で止まって、信号が変る頃になって突然左折(あ、日本では右折かな)のシグナルを出すようなもので、直進すると信じて後に付いた後続車はみんな立ち往生・・・ま、そんな感じかな。この「降雪注意報」も午後には早々に解除になったと言うから、いったい何だったんだ?なんか二十一世紀になってから多いなあ、このknee-jerk reactionと言うヤツ。足を組んた膝のお皿のあたりをポンと叩くと、足がピョンと跳ね上がる、あれ。反射的な行動のことを言うんだけど、コンピュータやビデオゲームが普及して、何でもかんでも「クリック!」の世紀だからなのかな。ちなみに、降雪注意報を出してから解除するまでの積雪量はせいぜい3センチかそこいら。雪国の人が聞いたら、おなかを抱えて笑い転げそう・・・。

今日はいくつもの新聞サイトにウォルマートが健康な食品の販売を拡大すると言う記事があった。口うるさいほど健全な食生活が叫ばれている今になってなんでウォルマートが?と思うけど、実は何日か前に、ウォルマートが進出するとその地域の低所得層の肥満率が高まる傾向があるという研究結果が発表さればかり。ウォルマートは一度だけ入ってみたことがあるけど、要は何でもあって何でも安いメガスーパーという印象だった。そのウォルマートが店を出すとどうしてその町の特に低所得の人たちが太るのか?それは、加工食品の値段が安くなるので、それだけ多く買って、買っただけ多く食べるようになるからだそうな。加工肉製品とかレンジで温めるだけの冷凍食のような安くて手軽な加工食品は、低コストで満足感を与えるために塩分や糖分、飽和脂肪が多く使われていて、その分カロリーがぐんと高くなるということらしい。

太古の時代から塩は食品の保存料だし、脂はエネルギーの素。ストレスにさらされた後は甘い炭水化物が食べたくなるそうな。だから、加工食品や冷凍食には塩がたっぷり入っていて、ほんとはうま味なんかないのをカムフラージュしているし、動物性脂肪はそれだけで「食べた!満足!」という気分になるらしいから、たっぷりの大サービス。最近の日本人は動物性の脂が好きなんだと思うことがあるけど、最高級のビーフは肉に脂が混じった「霜降り」だし、マグロならトロ、それも大トロといった感じで、どっちにしても脂肪を味わうために食べられるという感じがするんだけどな。動物を捕まえて主食にして来た狩猟民族と違って農耕民族だから、ひょっとしたら食べられるときにまとめ食いする習慣がついたのかもしれない。

昔はごくごくたま~に食べられる程度だったから健康問題は起きなかったんだろうけど、今では人工的に脂肪分の多い牛やマグロを作れる時代。マグロなんか蓄養とか言う方法で、地中海あたりでまだ産卵していないような若いマグロを捕獲しては囲いの中で超高脂肪の餌を与えて、日本向けに魚体の40%が「トロ」という超メタボのマグロに育てるんだそうな。(まだ産卵したことがないのを捕獲するわけだから、地中海のマグロ資源は増えないどころか、どんどん減って絶滅してしまう・・・それが先のマグロ漁獲規制問題の論点だった。)なんだか、ガチョウに無理に大食いさせて脂肪肝(フォアグラ)にしたのをありがたがって食べるのと似ているな。

話がずれて来てしまったけど、いわゆる「美食」はたしかにお金がかかるけど、そういうのは普通の人はたまに食べるだけだからまだいい。現代は普通に健康的な食生活を維持するにもお金がかかるようになって来たもので、低所得層は健康面でも割を食っているという・・・という話。


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