尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

当然の無罪判決、東電旧経営陣「強制起訴訴訟」

2023年01月20日 22時57分23秒 | 社会(世の中の出来事)
 あまり書きたくないなあと思うんだけど、こういう記事を書くのも自分の役割(の一つ)かと思う。1月19日に東電旧経営陣に対する強制起訴裁判の控訴審で、東京高裁の判決が出た。一審に続き無罪判決だったが、僕に言わせればまことに当然の判決である。その「当然」である理由を書いておきたいのである。この判決に対し、朝日新聞社会面では「市民感覚とずれている」という被害者(双葉病院入院患者の遺族)の声を大きく掲載している。もしこの判決が「市民感覚とずれている」んだったら、そういう「市民」が「裁判員」を務めて大丈夫なんだろうか。(なお、この裁判は「業務上過失傷害事件」だから裁判員裁判の対象ではない。)
(「不当判決」との訴え)
 一応前提として書いて置くが、2011年3月11日の東日本大震災による大津波で、福島第一原子力発電所の全電源が喪失してメルトダウンの大事故が起きた。この地震の前に、それまでの地震予測よりもっと大きな津波が予測されるという新しい知見が出ていた。それを東電も、また日本政府も重大視しなかったわけである。この点については沢山の情報をウェブ上でも得られるので、ここでは省略する。そのような経過に関しては争いがない。ここまで読むと、確かに「市民感覚」では「あの時、津波対策をしていれば良かった」と思う。だが、ここでの真の争点はその対策見送りが、刑法上の「業務上過失」に相当するかどうかである。
(テレビニュースから)
 上記テレビニュースの画像にあるように、「長期評価の信頼性」を「刑事裁判は認めず」「株主代表訴訟は認める」「避難者訴訟は判断せず」と違いがある。これを「民事裁判と刑事裁判で違って良いのか」という人がいる。もちろん、違って良いのである。何故なら、というのもバカバカしいけど、刑事裁判と民事裁判では違うのである。私人間の争いである民事訴訟では、相手側より少しでも有利な証拠を提出すれば勝てる。それは簡単に言ってしまえば「51対49」でも良い。刑事と民事で違った判断になったケースはいっぱいある。日本じゃないけど、アメリカのO・J・シンプソン裁判が有名である。

 しかし、刑事裁判は国家権力と個人の争いだから、絶対的な証拠が求められる。「51対49」ではほとんど差がないから「疑わしきは罰せず」である。「100対ゼロ」の証拠がなくてはいけない。今回の場合であれば、当該役員の任期中に「ほぼ確実に大津波が来る可能性」の立証が求められる。それは極めて難しいだろう。というか、不可能だ。毎年のように起こる集中豪雨の被害と違って、10メートルを超えるような大津波は千年レベルの出来事である。そうすると、確かに事前に対策を講じていなかった経営判断、それを見過ごした政治責任は非常に重いけれど、刑法上の責任があると判断するのは僕の常識では非常に難しいのである。

 判決の前にあるテレビ番組で「市民感覚に沿った判断を望みたい」というコメンテーターの発言があった。これは困ったなと僕は思ったのである。裁判官は「市民感覚」などではなく、「憲法と法律」のみに沿った判断をして貰わないと困る。法律は国会が制定するわけで、国会は全国民の選挙で選ばれた国会議員によって構成される。従って、法律の制定(改正)は国民のコントロールのもとにある。これが議会制民主主義であって、裁判官が法を越えて「市民感覚」で裁いてはいけない。
 
 なお、それ以前に今回は控訴審であって、一審を覆す証拠取り調べが行われずに早期に結審していた。従って、当然「無罪」判断の継続が予測されたのであって、マスコミは事前にそういう解説をする必要がある。それは判決の評価とは別である。だけど、「判決がどうなるかは判らない」というのは、明らかにミスリードである。司法記者は無罪の記事しか準備していなかっただろう。

 ところで、今回の裁判は「検察審査会」が2回にわたって「起訴相当」を議決した場合は、強制的に起訴されるという仕組みによって起訴された。しかし、この制度が2009年に出来て以来、「明石花火大会事故」「JR西日本福知山線事故」「小沢一郎政治資金規正法違反事件」など重大な裁判が行われたが、以上の裁判は皆無罪か免訴だった。小さな事件で有罪もあるが、ほとんど無意味な制度になっているのではないか。ただし、裁判になって新たに判明した事実もあるとされる。

 僕はこの制度は基本的にもう止めた方がよいと思っている。何でかというと、検察審査会は検察官が不起訴にした事件の記録を調べる権限しかないからだ。強制起訴出来る強大な権限があるというのに、被告発人及びその弁護士が反論する場がない。検察官が取り調べた記録を見るだけである。これは「被告人の弁護権」の観点から、非常に大きな欠陥だと思う。そこでどうしたらよいのかは、昔書いたけど10年以上前だから覚えている人はいないだろう。改めて簡単に書いておくと、「付審判請求制度の拡大」である。

 「付審判請求」は最近あまり聞かないから知らない人が多いだろう。警察官の拷問など(特別公務員暴行陵虐罪)は検察に告発しても、検察官が警官を呼んで形式的な取り調べをして終わる可能性が高い。そこで直接裁判所に審判を求めることが出来るのである。「付審判請求」を裁判員制度対象裁判にして、あらゆる不起訴事件の申し立てをできるようにする。申立てられた人はもちろん弁護士を立てて対抗出来る。そこで正式裁判を行うかどうか、裁判官に裁判員が加わって判断するわけである。こういう制度に変更する方がずっと良いのではないか。
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