尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

開高健のサントリー時代ー開高健を読む③

2021年02月22日 23時21分59秒 | 本 (日本文学)
 開高健寿屋宣伝部に勤めていたことは芥川賞受賞時から有名だった。「寿屋」は現在のサントリーだが、戦前来宣伝広告の上手な会社だった。僕も昔のウイスキーやビールのCMをよく覚えている。現在もビールの「金麦」や缶コーヒーの「BOSS」など有名だろう。またサントリー宣伝部には芥川賞作家の開高健だけでなく、1963年に「江分利満氏の優雅な生活」で直木賞を受賞した山口瞳もいた。そんなサントリーで開高健はどのように働いていたのだろうか。
(『洋酒天国』とその時代)
 それがよく判る本が小玉武『洋酒天国』とその時代」(ちくま文庫)である。2007年に出て、織田作之助賞を受けた。小玉氏はサントリー宣伝部で開高、山口の後輩として働いた人物だが、単なる会社員ではない。早稲田大学新聞部では在学中に大隈講堂で開高健、大江健三郎の講演会を実施して、学生時代から開高を知っていた。サントリーでは広報部長、文化事業部長を歴任し、「サントリー・クォータリー」を創刊し編集長を長く務めた。サントリーの文化的な面を伝えるには絶好のポジションにいた。本来は「小玉武を読む」だけど、まあ「開高健を読む」として書く。

 開高健は作家活動を続けながら、本業としては芥川賞受賞前から雑誌「洋酒天国」の編集長をしていた。この雑誌は知る人ぞ知る存在で、僕も名前を聞いたことはあった。1956年に創刊され、1963年に休刊したから、もちろん読んだことはない。そもそも市販した雑誌ではなく、サントリーが全国展開した「トリスバー」の常連に無料で配られた宣伝雑誌である。それがいかに都会的でオシャレで知的好奇心に満ちた雑誌だったかは、小玉著に余すところなく書かれている。僕の時代でいえば「面白半分」とか「ビックリハウス」みたいなものか。僕の世代だとトリスバーそのものを知らないんだけど、時代相は何となく通じる。

 そして1961年1月に新聞広告のコピーで開高健の最高傑作が生まれる。
 「人間」らしく
 やりたいナ

 トリスを飲んで
 「人間」らしく
 やりたいナ

 「人間」なんだからナ (「ナ」は小文字)

 トリスを飲むことが「人間らしく」あった時代だった。もっと時代が後になるが、70年代には「ネスカフェ ゴールドブレンド」のテレビCMで著名人が「違いのわかる男」と呼ばれていた。今ならば違いが分かる「人」は、自分で豆を選ぶところから始めるだろう。だから、日本はまだ貧しかったのだが、欧米に憧れる洋風の生活がウイスキーやコーヒーからスタートしたのである。
(柳原良平作の「アンクルトリス」)
 では開高健はなぜ寿屋に入社したのか。それは妻の詩人・牧羊子(本名初子)との入れ替わりだった。7歳年上の牧羊子とは、大阪の同人雑誌で知り合って学生時代に同棲して子どもが出来た。牧羊子は当時珍しい「リケジョ」で、寿屋の実験室で働いていた。二代目社長になる佐治敬三は自分の趣味のような「ホームサイエンス」という雑誌を作っていた。それはアイディアが早過ぎて売れなかったけれど、牧羊子も編集に加わっていた。そして開高健にコピーを書かせて買い取ったりしてた。1954年2月に正式に入社し、代わりにその時に牧羊子が退社した。

 だから大阪で勤め始めたのである。最初は全国を営業で回ったり、労働組合でも活躍するなどしていた。そのようなことは小玉氏だからこそ、サントリーの内情が調査できたのだろう。そして今も使われる「アンクルトリス」を生み出した柳原良平や遅れて中途入社した山口瞳ら多士済々の顔ぶれが集結して、独自の社風の中ではつらつと活躍する。この本はまさに高度成長期の「多幸感」がいっぱい詰まっていて、読む側も面白い時代だなあと感じ入るしかない。開高、山口は後にサントリーの70年史を書いているぐらいだ。正式の社史の中に小説みたいな叙述がある。今では山口瞳・開高健「やってみなはれ みとくんなはれ」として新潮文庫に入っている。

 それを読むと、創業者の鳥井信治郎が傑物だった。そして宣伝の巧みさは昔からだった。有名な「赤玉ポートワイン」のポスターは一度は見たことがあるだろう。(この製品は今も「赤玉スイートワイン」の名で売られている。ポートワインはポルトガルのポルトということだから、クレームが寄せられたという。)鳥居の長男吉太郎が31歳で亡くなり、次男の佐治敬三(名前だけ親族の姓を名乗っていた)が後継となった。佐治敬三は独自の文化人的経営者で生前は誰もが知っている人だった。開高とは終生の友人となった。東京にはサントリーホールやサントリー美術館があり、サントリーの文化事業の恩恵を受けている。
(赤玉ポートワインの広告)
 僕は開高健があんなに世界を飛びまわり、ヴェトナムで従軍したりしたから、当然ながら60年代初期に退社して作家に専念したのだと思っていた。それが実は間違いだったことが小玉著でよく判る。サントリーは確かに従業員の社外活動に許容的だったが、忙しくて遅刻すれば給与をキッチリ差し引いたという。そのため「サン・アド」という別会社を作って開高健も非常勤取締役となった。80年代初期には出版社の「TBSブリタニカ」にサントリーが出資し、開高も関わった。「ニューズウィーク日本版」などの発足に尽力したのだという。この会社は「ジャパン・アズ・ナンバーワン」(ヴォーゲル)や「不確実性の時代」(ガルブレイス)をヒットさせた会社である。

 「『洋酒天国』とその時代」はただサントリー文化人に止まらず、植草甚一や山本周五郎などの興味深いエピソードが詰まっている。自分が前に記事を書いた「夜の蝶」や大岡昇平「花影」をめぐる問題も書かれている。「戦後酒場史」であり「戦後文壇史」でもある。貴重な名著だが、やはり一読して脳裏に印象付けられるのは開高健ではないか。
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