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尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

「ヒロシマ・ナガサキ」ー「戦争と文学」を読む③

2020年08月10日 22時34分38秒 | 本 (日本文学)
 集英社文庫の「戦争と文学」を毎月読むシリーズ。8月は原爆文学を読んだ。できれば6日、そうじゃくても9日には書きたかったけど、750頁を超える大冊なので読み終わらなかった。この本を読むと、原爆投下から75年、ずいぶん多岐にわたる文学表現が積み重ねられて来たことが判る。原著は2012年に出たので、2017年に亡くなった林京子のインタビューが掲載されているのも貴重だ。この一冊は最低限の基準として読んでおきたいと思う本だった。
(カバー=石内都「ひろしま #43」)
 最初の「Ⅰ」に「被爆者」自身によって書かれた3作が納められている。そのうち2つは前に読んでるので、今回は「Ⅱ」「Ⅲ」を先に読んだけど、やはり順番に書いていきたい。原民喜の「夏の花」は、昔から名高くて、今も新潮文庫、岩波文庫に入っているから入手しやすい。次の大田洋子屍の町」は名前は有名だが初めて読んだ。170頁もあって、案外長いので驚いた。二人ともすでに文学活動をしていたので、原民喜は「アッシャー家の崩壊」を思い出している。大田洋子も妹によく死体を見られると問われて「人間の目と作家の目で見ている」と答えている。
(原民喜)
 この2作はとりわけ「証言」的性格が強い。その時点では「原子爆弾」だと判っていた人はいなかった。あれこれデマや間違った治療法が出てくるが、当時の人は判らなかったので、それを克明に報告している。しかし、まさに爆心直下にいた人々は即死しているので、「証言」できない。残されたものは全て「生き残った人々」の証言なのである。すでに戦争末期で物資不足の中、周辺の村に住む人々は広島に救援に行っている。しかし、それらの「二次被爆者」が一ヶ月経った頃から続々と死んでしまった。「放射線」の被害など皆知らなかったから、被爆直後に広島へ入ってしまったのである。そのことが核兵器の恐ろしさだが、当時の人々の恐怖が伝わってくる。
(大田洋子)
 「屍の町」では被爆後に一家で村の方へ疎開している。バスがなかなか来なくて、移動も大変だ。当然広島で起こったこと全部を知っている人はいない。部分的な証言しか出来ないわけだが、その意味では「屍の町」はある時点で広島市内の様子は途中で終わってしまう。その代わりにその秋に「枕崎台風」を初め水害が相次いだということなど、この作品で知った。水源地の山林地帯が戦時下に荒れてしまい、全国で水害が多かったという。
 
 長崎の被爆証言文学は少ないが、1975年になって現れた林京子祭りの場」は「原爆証言文学」の最高の達成だと思う。先の2作は占領期に書かれて、世に広く事態を知らせた意味は大きかった。しかし、今となってみると「途中で終わってる」感じが強い。「祭りの場」は被爆30年を経って、「感傷はいらない」と書かれた稀有の記録文学である。
(林京子)
 僕は発表当時に読んで非常に大きな影響を受けた。時間が経って判ったことも書かれている「祭りの場」の意味は大きい。戦後の日本文学にあって「原爆文学」は独自の位置を占めているが、いま改めて林京子の業績を再評価する必要があると思う。著者は高等女学校生で三菱の兵器工場に動員されていて被爆した。勤労動員の実情を伝える意味でも大きな意味がある。長崎を史上最後の「被爆都市」にするために、全世界の人々に核兵器の被害の恐ろしさを伝えていく必要がある。取りあえず、日本人はまず「祭りの場」を読んで欲しい。

 被爆直後の凄惨な様子はここでは引用しない。僕が伝えきれる問題ではない。「Ⅱ」では、まず川上宗薫の「残存者」があって驚いた。川上宗薫は芥川賞候補に5回選ばれて受賞できず、その後「官能小説」で有名になった。それしか知らなかったけれど、長崎で母と二人の妹を失った。主人公が初めて長崎に帰る設定の小説で、被爆後の様子を描いている。中山士朗という知らない作家の「死の影」は、被爆後の広島にハエが増大して死体にウジがたかる様子を冷徹に見つめている。動けない身体にウジが湧く描写はちょっと想像したくないぐらいの迫真性があった。

 井上ひさし少年口伝隊一九四五」はさすがの筆力で感動的。井上光晴夏の客」、後藤みな子炭塵のふる町」は広島、長崎の被爆者が差別的に見られた現実を描く。金在南暗やみの夕顔」は長崎で被爆して、釜山で暮らしている女性と娘の暮らしを描いて衝撃的。名前も知らなかった作家だったが、今回一番衝撃的で深刻な「韓国における被爆者問題」を突きつけている。美輪明宏」もあまり読んだ人はいないと思うけれど、実によく出来ているので是非。
 
 芥川賞作家、青来有一は長崎に生まれて、被爆体験はない世代だが原爆を描き続けている。「」という小説は、生まれた直後に被爆して親兄弟も知らず、拾われた女性の養子として生きてきた男性を主人公にしている。いま被爆体験のエッセイを書こうとしているが、妻が屋根に何かいるという。夫婦関係や義理の親子関係などを丹念に描いていて、「原爆」は一瞬だったがその後の何十年の生活が人間にはあると実感する。非常に優れた文学的達成で、読み応えがあった。小説的には一番出来がいいと思った。
(青来有一)
 続いて最後に第五福竜丸事件の橋爪健死の灰は天を覆う」、原発問題が絡む水上勉金槌の話」、核兵器の実験地を取り上げる小田実『三千軍兵』の墓」、祖母の生を探る若い孫を描く田口ランディ似島めぐり」など多彩な問題が扱われる。中では小説的には大江健三郎アトミック・エイジの守護神」が圧倒的に面白い。60年代の大江の才能は輝いていた。他に詩、俳句、短歌、川柳を収録。長いけれど、読んで良かった。ただし長すぎて、最初の方で読んだことを忘れてしまう。いろんなことをもっと考えたと思うんだが、最後は何とか読み終えることを目標とするようになってしまった。ちょっと収録作品が多かったかもしれない。
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ブラジル映画「ぶあいそうな手紙」

2020年08月09日 23時08分06秒 |  〃  (新作外国映画)
 ブラジル映画「ぶあいそうな手紙」という映画を見る気になったのは、南部のポルトアレグレで撮影されたと知ったからである。ブラジル10位の大都市で、人口148万人ほど。南部にあって、ウルグアイに近い。僕は小さい頃から地図を見るのが大好きで、字面だけで興味を引かれる町が世界中にあった。ブラジルのポルトアレグレとかレシフェ、チリのバルバライソなんかも名前の響きが気になった都市である。まあ見てみれば、確かにロケはしているけど、ほとんどは古いアパートの中で進行する映画だった。でも珍しいぐらい「男性老人映画」だった。

 78歳のエルネストは、もう眼が非常に悪くなっている。妻はすでに亡く、息子がサンパウロにいる。隣の部屋に住むハビエルと時々チェスをするぐらい。ホームヘルパーの女性が来ているが、昼間は何とか壁伝いに外食に出たりしている。そんなエルネストに珍しく手紙が来るが、自分では眼が悪いから読みにくい。ヘルパーさんに読んで貰おうとするが、ウルグアイから来たスペイン語の手紙なので、ポルトガル語のブラジル人には読みにくい。

 そんな時に、門のところで犬を連れた若い女性と出会う。上の階に住む女性の姪で、病気をしたおばに代わって犬の散歩を頼まれているという。そのビアという目が大きな女性なら、手紙を読めるんじゃないかと頼んでみたら、やはりスペイン語の手紙を上手に読んだ。それは若き日の友人の妻からで、友人が死んだという知らせだった。昔は3人でよく遊んだり議論したらしい。その後、エルネストはブラジルに移って48年。会うこともなかった女性からの手紙に、返事を書きたくてもエルネストは書けない。そこでビアは彼に代わって書くという。
(エルネストとビア)
 このビアとは何者か。素性の判らない人間を入れるもんじゃないと言うヘルパーは、逆にエルネストがクビにしてしまった。しかし、実際ビアの様子にはおかしな感じも見受けられ、どうなってしまうんだろう。ありそうな展開としては、「若い女性にイカレてしまう老人」「老人をたぶらかして財産などをねらう女」「年の差を超えて惹かれ合ってしまう男女」などがあり得るけど、この映画はそういう展開にはならず、最後まで「手紙の代筆」が軸となって進んで行く。
 
 世界に映画は多いけれど、「お爺さん映画」は少ないと思う。「お婆さん映画」の方が多いし、一家を描く中で「老夫婦」が出てくる映画ならいっぱい思いつく。大体、大スクリーンでクローズアップするのに耐えられるのは若いうちだ。世界中の映画の大部分は、10代20代のヘテロセクシャルの男女がくっついたり離れたり、過去や未来に行ったりゾンビになったりする映画である。老人を主人公にすること自体が珍しい。世界中で男の寿命の方が短いから、独居男性老人自体が少ないはずだ。かつての若きスターの老後まで付き合うファンも少ないだろう。
(アナ・ルイーザ・アゼヴェード監督)
 アート映画や社会派映画を探せば、男性老人映画も少しは見つかる(ベルイマン「野いちご」など)と思うけど、この映画ほど生活臭はしない。何だか僕は身につまされてしまった。監督はアナ・ルイーザ・アゼヴェード(1959~)という女性である。派手なところはないが、ていねいな演出が良かった。あまり見ることが出来ない外国の映画を見るのが大好きなんだけど、これは外国事情と言うより「老人事情」を探る映画だった。俳優の名前を書いても仕方ないから書かないけど、ところどころでブラジルのカエターノ・ヴェローゾの歌がうまく使われて情緒を盛り上げる。年を取ったら、出来ないことを取り繕ったりせずに生きたいもんだと思った。
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李登輝、ジョン・ルイス+外山滋比古ー2020年7月の訃報③

2020年08月07日 22時46分19秒 | 追悼
 「台湾」の李登輝元総統が7月30日に死去した。97歳。日本でも訃報は大きく報道された。台湾では「民主先生」と呼ばれているらしい。「台湾」の直接選挙で選ばれた最初の総統である。いま「台湾」と書いたが、日本は「中華民国」を未承認なので、「地域」とみなすことになる。(1972年に中華人民共和国を承認したことにより、「中華民国」の国家承認は取り消された。)本来のタテマエとしては、李登輝は中国全土を支配するべき「中華民国」の最高責任者だったわけだ。
(李登輝)
 1945年に大日本帝国がポツダム宣言を受諾したことにより、日本の植民地だった地域は「解放」された。日清戦争以来、50年間日本の植民地だった台湾は中華民国に返還された。しかし、やってきた中国の国民党は独裁政治を行う。1947年には「2・28事件」と呼ばれる大規模な弾圧事件が起きた。その後、国共内戦に敗れた国民党と蔣介石が台湾に逃れて、一党独裁の支配を続けた。1975年に蔣介石が死亡し、蔣経国が後継となった。農業経済学者だった李登輝は、何度か危ない目に合いつつも、逆に国民党に入党して政界に進出していった。

 1978年に台北市長、1981年に台湾省主席、1984年には副総統に指名されるなど、順調に「出世」しているが、蒋経国が後継として考えていたのかは判らない。結局、1988年に蒋経国が死去した後に、規約に基づいて総統代行に就任した。そして、1990年に正式に総統に選任され、任期中に総統の直接選挙制を取り入れた。1996年に実施された直接選挙で、李登輝が得票率54%で当選し初代民選総統になったわけである。晩年の評価を含めて、この民主化プロセスをどう評価するべきだろうか。それは一端置いて、他の人を先に。

 アメリカの下院議員、ジョン・ルイスが7月17日に死去、80歳。ジョージア州選出で、1987年年から2020年まで下院議員を17期務めた。この人の名前は知らなかったけれど、公民権運動を中心的に担った一人で、非常に尊敬される黒人政治家だったという。1963年の「ワシントン大行進」を主導した「Big Six」の一人で、1965年には投票権を求める行進中にアラバマ州で警官から頭蓋骨を折る重傷を負ったこともある。こういう人は国内的な知名度は高くても、外国では知らないことが多い。訃報で初めて知った人物だ。
(ジョン・ルイス)
 ところで昨日報道されたときに気付かなかったのだが、英文学者、評論家の外山滋比古(とやま・しげひこ)が7月30日に死去していた。96歳。お茶の水女子大名誉教授。近代読者論やエディター論、シェークスピア論などで知られるが、それ以上に1983年に書かれた「思考の整理学」(ちくま文庫)が大ベストセラーになって知られることになった。確かに若い時に一度読んでもいいと思うけど、割合と当たり前の本だと思った。ものすごく多数の一般向けのエッセイを出しているが、それも一定の「常識」を説く感じかなと思う。
(外山滋比古)
 さて、李登輝に戻って、多くの国が「民主化」された80年代以後の世界において、「比較民主化学」を考えると李登輝と台湾はどう位置づけられるのだろうか。ラテンアメリカの多くの国で起こった軍事独裁の崩壊、ソ連のゴルバチョフ書記長登場と「ペレストロイカ」、「冷戦崩壊」と東欧諸国の民主化、スペインとポルトガルの一党独裁の崩壊、韓国、フィリピン、インドネシアなどのアジア諸国の民主化、南アフリカのアパルトヘイトの終焉など、実に様々な諸国で様々な「民主化」がほぼ同時的に起こっていたのである。

 台湾でも勇敢な民主化運動が存在し、その在野の勢力との相互関係の中で民主化が進んでいった。しかし、韓国やフィリピンで「体制打倒」が民主化だったのに対し、台湾では李登輝のリーダシップの下で「上からの民主化」性が強かったのは確かだろう。スペインの民主化やソ連のゴルバチョフに近かったかもしれない。では李登輝自身はどのように考えていたのだろうか。戦後の台湾社会では、戦後に大陸から移住した「外省人」の支配が続いたが、李登輝はもともと台湾に生まれた「本省人」として初めて最高権力者となった。

 もともと内心では「台湾独立派」であって、「体制内改革」を目論んで国民党で出世する道を選んだという解釈は成り立つのだろうか。どうも僕には判らないけれど、独裁政権では「テクノクラート」(技術官僚)が出世することが多い。経済運営には彼らの存在が必要だし、政権には「副」として「長」を支える人物も必要だ。根っからの政党政治家ではない学者出身者は「副」に選ばれやすい。例えばインドネシアのスハルト体制で副大統領になったハビビは、スハルト退陣後に憲法に従って昇格し東ティモールの独立を認めることになる。

 李登輝が何を考えていたのかは、確定的な史料はまだないと思う。ただ総統退陣後に「台湾団結連盟」の事実上のリーダーとなり、国民党とも民進党とも別の小グループを作った。政界的には影響力は小さくなったうえ、台湾社会を大きく揺るがした反原発運動や同性婚問題では、明らかに保守派の立場にたった。台湾独立を超えて、「親日」的な姿勢を見せることも多く、単に「民主化のリーダー」としてのみとらえることは出来ないと思う。1993年に司馬遼太郎が台湾を訪れ親交を結んだ。自民党の森元首相が弔問に行くらしいが、実は日本なら「保守」になるのである。

 東欧でも自由獲得後30年も経って、今ではポーランドやハンガリーなど極右政治家が権力を握るようになった。チェコでも2018年の「チェコ事件30年」に対して親ロシア派の大統領はメッセージを発しなかった。「自由な選挙」をすれば、自国の運命を自ら決められるはずだが、実際はそう簡単ではなかった。グローバリズムの中で、自国民が自国をあり方を決められないと考え、むしろかつての時代の方がよかったと「旧宗主国」を懐かしむ。そういう例を見ると、「中国」という強大な存在を前にして、生まれ育った時代の「旧宗主国」に近づいた政治家だったと言うべきか。

 僕は2001年に亡くなった戴国煇先生の遺著「愛憎李登輝」(邦訳名「李登輝・その虚像と実像」、草風館)の、李登輝への訣別宣言が忘れられない。なお、李登輝が司馬遼太郎に1993年に語った「台湾人である悲しみ」を、世界の人々に知らしめたのは1989年の映画、ホウ・シャオシェンの「悲情城市」だろう。この映画の衝撃と感動は永遠に忘れられない。
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山本寛斎、岡井隆、弘田三枝子他ー2020年7月の訃報②

2020年08月06日 22時27分52秒 | 追悼
 ファッションデザイナー山本寛斎が7月21日に死去、76歳。普通誰もが「やまもと・かんさい」として知っていると思うが、本名は「のぶよし」と読むんだという。装苑賞を受賞した後、コシノジュンコなどの下で働き、1971年に独立してロンドンで日本人初のファッションショーを開いた。そこで認められデヴィッド・ボウイのステージ衣装を手掛けた。外国旅行へ行くのも大変だった時代に世界の主要都市に進出したのは、まさに高度成長時代の青春だった。
(山本寛斎)
 次第にイヴェント・プロデューサーのような仕事を手掛けるようになり、2005年には愛知万博の開幕イヴェントを担当した。演劇やコンサートを盛り込んだ「スーパーショー」を企画し、1993年にはモスクワで12万人を動員した。なんてことが記事には書かれているけれど、僕は全く知らない。強烈な色彩感覚で知られたと言うけど、僕にとっては名前を知ってただけだった。

 歌人の岡井隆が7月10日に死去、92歳。僕は短歌や俳句の世界をほとんど知らないので、岡井隆の訃報がすごく大きいのに驚いた。というか、それは新聞の話だから、テレビやネットニュースではどうなのかは知らない。医者だったというし、なかなかドラマチックな人生を送った人のようだ。短歌では寺山修司、塚本邦雄とともに「前衛短歌の三雄」と言われた。しかし、1992年に歌会始の選者を引き受け、さらに皇族の和歌御用掛を務めたことを「転向」と批判されたという。僕は元々の事実を知らないので、そういうことがあったんだと思った。代表作とよく出てくるのは、「海こえてかなしき婚をあせりたる権力のやわらかき部分見ゆ」。60年安保の時の歌。
(岡井隆)
 歌手の弘田三枝子が7月21日に死去、73歳。そう言えば「ヴァケーション」や「夢見るシャンソン人形」などの曲があった。60年代前半のことで、僕は世代的に直接は知らないんだけど、ラジオでよくかかっていた。底抜けに明るくて、ちょっぴり切ないアメリカのポップスを多くの人が聞いていた時代だ。その後低迷するが、1969年に「人形の家」が大ヒットした。同時にダイエットブックを出版し、ベストセラーになった。そう言えば、そんなこともあったなあ。ヒット歌手としてはその頃で終わった感じだが、その後も歌手は続けていたようだ。
(弘田三枝子)
 7月21日に俳優・歌手の三浦春馬が自殺したと報じられた。30歳。新聞ではそんなに大きくないけれど、ネット界、テレビ、週刊誌などでは一番大きく報じられた訃報だろう。もっとも僕は名前と顔が判る程度で、テレビドラマをほとんど見ないので、あまり書くことが出来ない。映画も「恋空」「奈緒子」「永遠の0」など僕が見てない映画が多い。(「東京公園」という映画を見ていることを調べて知ったが、全然主演者を覚えてなかった。)舞台でも活躍していたので、今後が期待される俳優だった。背景に何があったのか知らないし、知りたいとも思わないけれど。
(三浦春馬)
飯島周(いたる)が18日に死去、89歳。ほとんど知らないと思うけれど、僕はこの人の本をずいぶん読んでいる。それはチェコ語学者で、カレル・チャペックの本をいっぱい翻訳してるからだ。平凡社新書で「カレル・チャペック 小さな国の大きな作家」というとてもいい本も書いている。
旭堂南陵(きょくどう・なんりょう)が30日に死去、70歳。講談師だが、僕が知っているのは1989年の参院選に兵庫から出馬して当選したから。リクルート事件の年で、社会党から出馬して一期務めた。その頃は旭堂小南陵だった。89年はトップ当選だったが、95年は社会党を離れて「平和・市民」という小グループから出て惨敗した。
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モリコーネ、デ・ハヴィランド、A・パーカーー2020年7月の訃報①

2020年08月05日 22時40分54秒 | 追悼
 2020年7月の訃報では、日本の映画監督森崎東を独立して書いたので、他の人について書きたい。李登輝を別に書きたいので、3回になる。まず外国の映画関係者から。イタリアの映画音楽家、エンニオ・モリコーネ(Ennio Morricone)が7月6日に没、91歳。2018年にフランシス・レイ、2019年にミシェル・ルグランが亡くなり、今度エンニオ・モリコーネが亡くなった。これでもう、ヨーロッパ映画の風格を感じさせる映画音楽の巨匠も皆いなくなったのか。
(オスカー受賞のモリコーネ)
 エンニオ・モリコーネと言えば、「マカロニ・ウエスタン」である。日本で「マカロニ」、アメリカでは「スパゲッティ」を付けて呼ばれたイタリア製西部劇は、当時は残虐描写で非難されたがモリコーネの音楽はヒットした。「荒野の用心棒」「夕陽のガンマン」などは、映画は知らなくても音楽を聴けば知ってる人が多いと思う。その時代の映画では、最近リバイバルされたセルジオ・レオーネ監督の「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ザ・ウエスト」で壮大にして叙情的な音楽を堪能することが出来た。しかし、よく履歴を見てみれば「アルジェの戦い」やパゾリーニ監督の作品、ベルトルッチの大作「1900年」などイタリア映画の傑作、名作をいくつも手掛けていたのだった。
(「ニュー・シネマ・パラダイス」)
 モリコーネの映画音楽といえば、新人監督ジュゼッペ・トルナトーレの「ニュー・シネマ・パラダイス」を思い起こす人が多いのではないだろうか。これはモリコーネ音楽がなければ、ずいぶん印象が違ったと思う。その後もトルナトーレ監督とは組み続けて、音楽の魅力を伝えた。70年代後半からは、アメリカ映画もずいぶん手掛けた。「天国の日々」「アンタッチャブル」が代表作だと思う。2016年になってタランティーノ監督の「ヘイトフル・エイト」でアカデミー賞作曲賞を受賞したが、これは生涯功労賞みたいなものだろうか。

 世界的にも映画音楽のあり方が変わって、美しいメロディを誰もが口ずさむ映画音楽というのも、なくなりつつある。ディミトリ・ティオムキンヴィクター・ヤングジョン・バリーモーリス・ジャールなど有名な人がいっぱいいた。今では名前がすぐ出てくるのは、ジョン・ウィリアムス久石譲ぐらいだろう。 

 アメリカの女優、オリヴィア・デ・ハヴィランド(Olivia de Havilland)が7月25日に死去した。なんと104歳だった。アカデミー賞主演女優賞を2回受賞した名優だが、あまりに大昔の人で名前も知らないという人が多かっただろう。妹のジョーン・フォンテインも「断崖」でアカデミー賞を受けていて、今のところ姉妹で受賞した唯一の例になっている。妹は2013年に96歳で亡くなったが、その時に姉はまだ存命であるとここで書いたと思う。しかし、もうそんなことは忘れていて、オリヴィア・デ・ハヴィランドはまだ生きていたのかとビックリした。この姉妹は不仲で有名だったそうだが、どちらも宣教師をしていた父の任地、東京で生まれた。
(オリヴィア・デ・ハヴィランド)
 オリヴィア・デ・ハヴィランドが受けたアカデミー賞というのは、「遙かなる我が子」(1946)と「女相続人」(1949)という映画である。もう70年以上も前の映画だが、ワイラー監督「女相続人」はミニシアター全盛期にリバイバルされたことがある。ヘンリー・ジェームズ原作の本格的心理ドラマで、大いに見応えがあった。しかし、今でも記憶されているのは「風と共に去りぬ」だろう。スカーレット・オハラの友人、メラニーを演じてアカデミー助演女優賞にノミネートされた。妹の方はスカーレット役をねらっていて、メラニー役を逃したという。受賞は黒人メイド役のハティ・マクダニエルで黒人の初受賞だったが、現在改めて人種問題の描き方が問題になっている。今でも見られている映画が少なく、その点で現在の知名度が薄れたかもしれない。

 イギリス出身の映画監督、アラン・パーカーが7月31日に死去、76歳。そういう人が多いと思うけれど、僕はこの人の名前を「小さな恋のメロディ」(1971)の脚本家として覚えた。マーク・レスターとトレーシー・ハイドは今どうしているのだろうか。その後「ダウンタウン物語」(1976)で監督に進出。これは子どもだけを使ってギャング映画のパロディを作ったもので、すごく面白かった。ジョディ・フォスターはこれで覚えた。そして1978年の「ミッドナイト・エクスプレス」でアカデミー賞作品賞、監督賞にノミネートされた。これはトルコの劣悪な囚人処遇を告発した映画だが、いくら何でも欧米的視点からのみ描いている違和感があった。
(アラン・パーカー)
 その後、「フェーム」「ピンク・フロイド ザ・ウォール」「バーディ」「ミシシッピ・バーニング」「愛と哀しみの旅路」「ザ・コミットメンツ」「エビータ」「アンジェラの灰」など、安定した力量で社会派的映画や音楽映画(ミュージカルなど)を作り続けた。60年代の公民権運動中に殺された学生を描く「ミシシッピ・バーニング」で再びアカデミー賞作品賞、監督賞にノミネートされた。あまり大成功した映画が少ない中で、代表作はそれではないかと思う。
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「海辺の映画館-キネマの玉手箱」、大林宣彦監督の遺作

2020年08月03日 22時43分20秒 | 映画 (新作日本映画)
 大林宣彦監督の遺作海辺の映画館ーキネマの玉手箱」がようやく公開された。これは「8月6日」より前に公開しないといけない映画だった。しかし、東京ではわずか2館の上映で、上映時間が179分にも及ぶ長大な映画である。よほどの映画ファン以外は見るのも大変だ。日本映画史に残る「大問題作」だと思ったのだが、どう評価するべきだろうか。

 山田洋次監督の「母べえ」の中で、戦局悪化の時節柄、檀れいが故郷の広島に帰るというシーンがある。見ている観客としては「広島に帰っちゃダメだ」と言いたくなるが、当時を生きる人々に先々のことは判らない。ウッディ・アレンの「カイロの紫のバラ」のように、スクリーンの中に飛び込めるんだったら止められるんだけど。それをやってるのが「海辺の映画館」である。ここでは移動演劇隊として広島で被ばくした「さくら隊」を救えるか。タランティーノだったら、いくらでも歴史を改変して救うんだろうが、大林監督の映画では起こった事実は変えられない。

 尾道の映画館、「瀬戸内キネマ」が閉館することになり、最後に戦争映画のオールナイト上映が行われる。そこに現れた3人の若い男たちが映画の中に入り込む。それはいいんだけど、何しろ幕末の新選組戊辰戦争から始まるので、どうしても長くなる。そこで「希子」(のりこ)という名前の少女を守るというミッションが与えられる。時間を超えていくつもの場面が描かれるが、希子は満州では中国人になり、遊郭に売られたり、沖縄戦や広島にも現れる。しかし、ここまでエピソードが多いと、一つ一つは短くなってしまうし説明過多になるのは避けられない。

 大林監督が最後に作った4本の映画(「この空の花ー長岡花火物語」「野のなななのか」「花筐/HANAGATAMI」「海辺の映画館-キネマの玉手箱」)は、どれもシネマ・エッセイ的な構成になっている。中では「HOUSE」以前にシナリオが作られていた「花筺」が一番「物語」的な作品だが、それでも自由な構成で物語を再構築している。そういう映画もあってもいいと思うけれど、やはり映画はドキュメンタリーであっても、「物語」としての構成が求められると思う。

 闘病を続けながら作られたのだろうが、どうも各エピソードが羅列的、説明的で僕は今ひとつ納得できなかった。後半になって「沖縄戦」「広島」が中心テーマになってくると、さすがに緊迫感が違ってくる。それはやはり日本人にとって、非常に特別なテーマだということがあると思う。それにしても、3人の若者や希子(吉田玲)のセリフが棒読みだから、どうもエピソード羅列的だなという印象を強める。希子がもう少し魅力的だったらと思うんだけど、いくら何でも幼い感じがした。映画はずっとナレーションで進行し、折々に字幕で説明されるがそこにも間違いや誤解がある。
(吉田玲演じる希子)
 例えば、山口淑子が後に「代議士」になったと出るが、代議士は衆議院議員の別称で参議院議員はそう言わない。「八路軍」が「中国の人民解放軍」というのも、微妙かもしれないが「後の」とか「現在の」がないとおかしいだろう。「八路軍」とは、国共合作中なんだからタテマエ上は国民政府の下にある「中国国民革命軍」の第八路軍のことである。事実上は華北にあった中国共産党軍の総称として使われたが。それ以上に問題なのは「西郷隆盛が長州に裏切られて」とか「坂本竜馬殺害犯の問題」(諸説あるといえばあるけれど、京都見廻組が定説であるのは疑えない)など、どうも安易に書き飛ばしている感じがした。

 そのような問題もあるけれど、一番大きいと思うのは「日清戦争」「日露戦争」が出て来ないために、「植民地」の問題に触れられないこと。近代日本の戦争はすべて植民地争奪の侵略戦争なんだから、そこを描かないと「戦争」を理解出来ない。そして帝国陸海軍は天皇が直接率いるとされたため、国民が自由に批判することが不可能だった。やはり「植民地」と「天皇制」は直接的には商業映画の枠内では描きにくいのだろうか。

 この映画では、観客がスクリーンに飛び込んでも過去は変えられない。変えられるのは未来だけだ。当たり前のことなんだけど、そこで映画では観客に向けて、未来を変えるのは観客の役目だと訴える。それが映画のメッセージとすると、かつてない「問題作」と言えるかもしれない。ただ、そういうテーマ性を重視して3時間近いエッセイ的映画を作ると観客が少なくなる。全国の大スクリーンは他の映画に占められている。テーマ性より物語性を重視しないと、観客が多くならない。この背理をどう考えるべきか、僕にはよく判らない。
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「LETO」と「ドヴラートフ」ーレニングラードの地下文化

2020年08月02日 22時01分57秒 |  〃  (新作外国映画)
 ロシア映画「LETO」が面白かった。ちょっと前に見た「ドヴラートフ」という映画は、あまりにも暗いなあと思って書かなかったが、どちらもソ連崩壊前の「レニングラード」の文化を描いている。「ドヴラートフ」はユーロスペースでの上映は終わったようだが、一応まとめて紹介したい。

 レニングラードはソ連崩壊後、帝政時代のサンクトペテルブルクに戻されたが、これは町を作ったピョートル大帝から取ったドイツ語である。首都モスクワに対抗心があったのか独自の文化風土があり、映画でも「モスフィルム」に対して「レンフィルム」では、ソクーロフやアレクセイ・ゲルマンなどの映画作家を生み出した。「ドヴラートフ」は1971年の作家たち、「LETO」は1980年代のロックンロールを描く。どちらも「アンダーグラウンド」の文化である。

 「LETO」は遊び精神に満ちた映像が楽しい。モノクロ映像を中心に、ところどころカラーになる。マイクがやってる「ズーパーク」というロックバンドが、友人立ちと一緒に海(湖?)に行ったとき、ギター片手にヴィクトルが現れる。やがてマイクの妻、ナターシャとヴィクトルが仲良くなって行くが…。T・レックス、ルー・リード、セックス・ピストルズなど「西側」のロック音楽に憧れた彼ら。音楽にもセリフにも、当時のロックミュージシャンがいっぱい出てくる。

 ロシアの人なら誰でも判るんだろうけど、マイクやヴィクトルは実在人物である。かつて日本でも公開された「僕の無事を祈ってくれ」(1988)という映画があったが、主演俳優のヴィクトル・ツォイは大人気のロックスターということだった。その後、1990年にラトビアで事故死した。わずか28歳だった。どうも顔つきがアジア系だなと思ったら、ヴィクトルはカザフの朝鮮族だった。日本支配を逃れてソ連領に移住した朝鮮人は、スターリン時代に極東から中央アジアに強制移住させられた。ヴィクトルを演じたユ・テオは何だか韓流スターみたいだなと思ったら、ドイツ生まれで韓国で活躍しているという。セリフと歌は吹き替えだとある。
(ヴィクトル・ツォイ)
 これを見ると、地区党委員会の下にある文化組織として「ロッククラブ」というのもあった。完全に弾圧することは出来なくなって、党の統制下で一部認めたということらしい。そこでは体を揺らしてリズムを取ると、係員が注意に回っている。もちろん立ちあがって熱狂することなどは許されない。そんな「ロック」があるのかという感じだが、もし自由があったならという思いで映像を改変して楽しんでいる。監督はキリル・セレブレンニコフという人で、演劇界、映画界で活躍しつつも、アートプロジェクト資金の横領容疑で自宅軟禁になりながら映画を完成したという。政権からにらまれているらしい。「レト」は夏という意味で歌詞に歌われている。

 「ドヴラートフ レニングラードの作家たち」は、アレクセイ・ゲルマン・ジュニアが監督して、ベルリン映画祭銀熊賞を得た。ドヴラートフはソ連では一冊も出版出来ず、アメリカ亡命後に出版された小説で今は19世紀の大小説家につながる大作家とされているらしい。僕は名前を知らなかったが、レニングラードでは後にノーベル賞を受けた詩人ブロツキーなどと文学談義を交わすが、ひたすら飲んでいる。11月の革命記念日前後を描くが、もう雪が降っていて寒そうだ。内容も風景も寒くて、ちょっとこれは一般向きではないなと思った。

 1960年代から70年代にかけて、ソ連では19世紀の作家たちの映画化作品がたくさん作られた。それは「民族文化」として西側諸国への「輸出」「外貨獲得」を名目にすれば製作しやすかったのだと思う。しかし、帝政時代の「遅れたロシア」にいらだつ知識人の姿は、明らかに当時のソ連への批判が隠されていた。今回の2作品を見ると、今ソ連末期の閉塞状況を描く意味はどこにあるのかなと思った。直接描いていなくても、統制が強くなるプーチン政権下の閉塞感が背景にあるのかと思った。ロシアの社会状況も心配しながら見たわけである。
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