村上春樹の6年ぶりの短編集「一人称単数」(文藝春秋)が出た。6年前の「女のいない男たち」はまあ書くこともないと思ったんだけど、今回は初めて父を語った「猫を棄てる」(文藝春秋)も出たので簡単に書いておきたい。一つ一つの作品を詳しく書くつもりはなく、そういう情報や評価を知りたい人は他のサイトで調べて欲しい。20世紀の頃と違って、僕も村上春樹の新刊が出たらすぐに読もうというまでの熱はなくなっている。でも、やっぱり手に取ってしまうわけだ。
「一人称単数」は同名の書き下ろし短編と、「文學界」に2018年から2020年にかけて断続的に掲載された7つの短編で構成されている。いずれも「一人称単数」で語られた話で、一種の「奇妙な味」風の短編が多いけど、かつてなく懐古的なムードに満ちている。やはり村上春樹も「老い」の段階に入ったのだろう。だから、読む側もいろんな過去の出来事を思い出してしまって、短い作品なのに読み進まなかったりする。
例えば「クリーム」では過去にピアノ教室で一緒だった女性からリサイタルの知らせが来て、バスで六甲山の奥の方に出掛ける。しかし、会場についても開催するムードがない。「誰かに会えない」「自分だけ除け者にされる」というのは、村上作品で繰り返されるパターンだ。ここで自分の同級生のリサイタルとか、会えなかった知り合い、自分で行き着かなかった映画館や劇場のことなどを思い出すのである。今はスマホがあるから、場所が判らない時は案内して貰える。
「会いたい相手と会えない」「相手の連絡先をなくしてしまう」というシーンは、「ウィズ・ザ・ビートルズ」や「石のまくらに」などでも見られる。メールアドレスを知らない相手とデートすることは普通ないだろうから、21世紀になった頃からは急用とか勘違いはメールで連絡できるようになった。昔はそれが出来なかったから、悩みも大きかった。日常の中にずいぶん「実存的不安」が満ちていたのである。「石のまくらに」は同じような状況は自分になかったから、どうも今ひとつ入り込めない。しかし引用されている短歌は共感できるものだ。
僕が一番面白いと思ったのは「ウィズ・ザ・ビートルズ」で、高校時代の男女交際を振り返りながら思わぬ深い地点に到達する。村上春樹はビートルズが好きじゃないというのに、よくビートルズが出てくる。それが「時代」かもしれない。ラジオにビートルズが掛かってない時は、ローリングストーンズの「サティスファクション」や、バーズの「ミスター・タンブリンマン」や、テンプテーションズの「マイ・ガール」や…が流れていた。これが懐かしいのである。よく判るのである。時代は数年違うけれど、ラジオには大体同じような曲が掛かっていた。
主人公は冒頭で高校の廊下でビートルズのLPレコードを抱えた少女に出会う。そして強く惹かれたが、名前も知らず後に会うこともなかった、というエピソードが書かれている。ビートルズのレコードじゃないけれど、僕も似たような思い出がある。当時は生徒数が多く、学年が同じでも名前と顔が一致しない人がいっぱいいた。(PTA会員名簿が配布されるから、全校生徒の名前は判るけど。)しかし、村上春樹の高校では「名札」は着用していなかったのか。僕は「名札」を付けなければいけなかったから、知らない女生徒の名字も何となく判ったのである。
「謝肉祭」はシューマンの音楽と「醜い女性」の関わりがラストで見事に転調する。非常に興味深い短編だが、「醜い」という形容がよく判らなかった。僕もずいぶん多くの人に接したから、「美人じゃない」という形容なら理解できるが「醜い」とまでいうのはどういうんだろう。うまく頭の中にイメージが浮かばないのである。多分「醜い」というのは「独特な魅力」がある顔立ちなんじゃないだろうか。「品川猿」は鮮やかな奇譚。他に表題作と「チャーリー・パーカー・プレイズ・ボサノヴァ」と「ヤクルト・スワローズ詩集」を掲載。どっちも世界中で村上春樹しか書かない文章だ。
「一人称単数」はところどころ引っ掛かる点がないでもないが、ずいぶん昔のことを思い出してしまった。1970年に村上春樹は大学生だったが、僕は中学生だった。これは大きな目で見れば、20世紀中頃、日本の敗戦後に生まれたという共通性があるのかと思う。若い世代からすれば、同じようなものかもしれない。だが激動の60年代にあっては、数年の違いが大きな違いとなる。僕からすれば、二世代ぐらい上という感じがしてしまう。しかし、今まで家族を語らなかった村上春樹が初めて父について語った「猫を棄てる 父親について語るとき」を読めば、やはり同じ日本社会で年を取っていることが判る。当たり前だけど。
この本は非常に重要な本で、村上春樹理解のために必読だが、それだけでなく「兵士と戦後」という意味で重い読後感がある。台湾の女性イラストレーター、高妍(ガオ・ イェン)の絵が素晴らしいので、是非見て欲しい。題名だけ見ると、猫好きは読まない方がいい気がするかもしれないが、読んでみればそういう話ではない。実際、昔は(というのは1950年代だが)、犬や猫を棄てるのは「よくあること」だった。犬だって放し飼いが多かったし、ペットに避妊手術をするなんて誰も思いつきもしなかった(し、思いついてもそんな手術は出来なかっただろう。)
ここでは父の軍歴が細かく記述される。なかなか調べる気持ちにならなかった理由も明かされている。それは父が南京攻略戦に参加していたのではという思いからだ。実際はどうだったか、それは本書に当たって欲しいが、何度も召集される世代で本当に気の毒だ。僕の父の場合は、ちょうど「学徒出陣」の世代で、やはり数年違っている。そして僧侶の家の次男に生まれて、教師として生きたが毎日読経を欠かさなかった。それは恐らくは中国戦線の体験が背景にあるのだろうと著者は推測する。村上春樹の作品の多くに「日本軍」が出てくる内的必然が自らの言葉で語られている。それはすごく大切な言葉だと思った。
「一人称単数」は同名の書き下ろし短編と、「文學界」に2018年から2020年にかけて断続的に掲載された7つの短編で構成されている。いずれも「一人称単数」で語られた話で、一種の「奇妙な味」風の短編が多いけど、かつてなく懐古的なムードに満ちている。やはり村上春樹も「老い」の段階に入ったのだろう。だから、読む側もいろんな過去の出来事を思い出してしまって、短い作品なのに読み進まなかったりする。
例えば「クリーム」では過去にピアノ教室で一緒だった女性からリサイタルの知らせが来て、バスで六甲山の奥の方に出掛ける。しかし、会場についても開催するムードがない。「誰かに会えない」「自分だけ除け者にされる」というのは、村上作品で繰り返されるパターンだ。ここで自分の同級生のリサイタルとか、会えなかった知り合い、自分で行き着かなかった映画館や劇場のことなどを思い出すのである。今はスマホがあるから、場所が判らない時は案内して貰える。
「会いたい相手と会えない」「相手の連絡先をなくしてしまう」というシーンは、「ウィズ・ザ・ビートルズ」や「石のまくらに」などでも見られる。メールアドレスを知らない相手とデートすることは普通ないだろうから、21世紀になった頃からは急用とか勘違いはメールで連絡できるようになった。昔はそれが出来なかったから、悩みも大きかった。日常の中にずいぶん「実存的不安」が満ちていたのである。「石のまくらに」は同じような状況は自分になかったから、どうも今ひとつ入り込めない。しかし引用されている短歌は共感できるものだ。
僕が一番面白いと思ったのは「ウィズ・ザ・ビートルズ」で、高校時代の男女交際を振り返りながら思わぬ深い地点に到達する。村上春樹はビートルズが好きじゃないというのに、よくビートルズが出てくる。それが「時代」かもしれない。ラジオにビートルズが掛かってない時は、ローリングストーンズの「サティスファクション」や、バーズの「ミスター・タンブリンマン」や、テンプテーションズの「マイ・ガール」や…が流れていた。これが懐かしいのである。よく判るのである。時代は数年違うけれど、ラジオには大体同じような曲が掛かっていた。
主人公は冒頭で高校の廊下でビートルズのLPレコードを抱えた少女に出会う。そして強く惹かれたが、名前も知らず後に会うこともなかった、というエピソードが書かれている。ビートルズのレコードじゃないけれど、僕も似たような思い出がある。当時は生徒数が多く、学年が同じでも名前と顔が一致しない人がいっぱいいた。(PTA会員名簿が配布されるから、全校生徒の名前は判るけど。)しかし、村上春樹の高校では「名札」は着用していなかったのか。僕は「名札」を付けなければいけなかったから、知らない女生徒の名字も何となく判ったのである。
「謝肉祭」はシューマンの音楽と「醜い女性」の関わりがラストで見事に転調する。非常に興味深い短編だが、「醜い」という形容がよく判らなかった。僕もずいぶん多くの人に接したから、「美人じゃない」という形容なら理解できるが「醜い」とまでいうのはどういうんだろう。うまく頭の中にイメージが浮かばないのである。多分「醜い」というのは「独特な魅力」がある顔立ちなんじゃないだろうか。「品川猿」は鮮やかな奇譚。他に表題作と「チャーリー・パーカー・プレイズ・ボサノヴァ」と「ヤクルト・スワローズ詩集」を掲載。どっちも世界中で村上春樹しか書かない文章だ。
「一人称単数」はところどころ引っ掛かる点がないでもないが、ずいぶん昔のことを思い出してしまった。1970年に村上春樹は大学生だったが、僕は中学生だった。これは大きな目で見れば、20世紀中頃、日本の敗戦後に生まれたという共通性があるのかと思う。若い世代からすれば、同じようなものかもしれない。だが激動の60年代にあっては、数年の違いが大きな違いとなる。僕からすれば、二世代ぐらい上という感じがしてしまう。しかし、今まで家族を語らなかった村上春樹が初めて父について語った「猫を棄てる 父親について語るとき」を読めば、やはり同じ日本社会で年を取っていることが判る。当たり前だけど。
この本は非常に重要な本で、村上春樹理解のために必読だが、それだけでなく「兵士と戦後」という意味で重い読後感がある。台湾の女性イラストレーター、高妍(ガオ・ イェン)の絵が素晴らしいので、是非見て欲しい。題名だけ見ると、猫好きは読まない方がいい気がするかもしれないが、読んでみればそういう話ではない。実際、昔は(というのは1950年代だが)、犬や猫を棄てるのは「よくあること」だった。犬だって放し飼いが多かったし、ペットに避妊手術をするなんて誰も思いつきもしなかった(し、思いついてもそんな手術は出来なかっただろう。)
ここでは父の軍歴が細かく記述される。なかなか調べる気持ちにならなかった理由も明かされている。それは父が南京攻略戦に参加していたのではという思いからだ。実際はどうだったか、それは本書に当たって欲しいが、何度も召集される世代で本当に気の毒だ。僕の父の場合は、ちょうど「学徒出陣」の世代で、やはり数年違っている。そして僧侶の家の次男に生まれて、教師として生きたが毎日読経を欠かさなかった。それは恐らくは中国戦線の体験が背景にあるのだろうと著者は推測する。村上春樹の作品の多くに「日本軍」が出てくる内的必然が自らの言葉で語られている。それはすごく大切な言葉だと思った。