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尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

「カクテル・パーティー」ー大城立裕を読む②

2020年08月18日 22時57分07秒 | 本 (日本文学)
 沖縄の作家、大城立裕(1925~)の芥川賞受賞作「カクテル・パーティー」は現在岩波現代文庫で読める。現時点で文庫で入手できるのは、先に紹介した「焼け跡の高校教師」(集英社文庫)とこれだけだと思う。何度か本になっているようだが、2011年に出た岩波現代文庫版には他では読めない「戯曲 カクテル・パーティー」が収録されていて、これが問題作なのである。

 大城立裕は90歳を超えても現役で書き続けている作家で、およそ沖縄に関するテーマなら大体書いているんじゃないかと思う。人気も知名度も沖縄以外では高いとはいえないから、文庫などにはあまり入ってないけど現代日本の重要な作家だ。この文庫には「カクテル・パーティー」の小説版、戯曲版の他に3つの小説が入っている。「亀甲墓」(かめのこうばか)、「棒兵隊」は沖縄戦、「ニライカナイの街」は米軍統治下の沖縄を描いている。

 「亀甲墓」は米軍の艦砲射撃が迫る中で、一家で大きな墓地に籠もった家族の話である。そんなところにいないで、北部の方に逃げるべきだったわけだが、画像に見るような大きな要塞のような墓なのである。しかし「鉄の暴風」と呼ばれた猛攻撃に耐えきれるもんじゃない。一家の主である老人の体験で何とかなるレベルを超えていた。しかも妻は後妻だし、娘は夫の戦死後に親が認めない男と結ばれている。そんな家族のあり方を「実験方言をもつある風土記」として描いている。方言というけど、地の文は標準語なので違和感はほとんどなかった。
(亀甲墓)
 「棒兵隊」は「郷土防衛隊」に召集された「地方人」(軍から見た一般住民を呼ぶ言葉)が「友軍」にスパイ視される中で生きていく姿を描く。「ニライカナイの街」は娘がアメリカ軍人と結ばれ子どももいる一家を描く。父と弟は闘牛に夢中で、アメリカ人のお金をあてにして強い牛を買いたい。娘は昔の男と会って、アメリカの土地を買う話を勧められる。ベトナム戦争を背景に、「アメリカ」と付き合いながら生きているエネルギッシュな民衆像を印象的に描いている。

 以上3作も興味深いのだが、情報内容としては少し古いかもしれない。今では沖縄戦で日本軍から住民がスパイ視されたという話は常識に近く衝撃性は少ない。ベトナム戦争も過去になっている。その意味では「ペリー来航110年」(1963年)を舞台にした「カクテル・パーティー」も古い。その時点では1972年に「沖縄返還」がなされるとは予測出来なかった。沖縄県の「祖国復帰」から半世紀近く経って、本土復帰運動が「正統思想」として疑われない現時点では、前半で繰り広げられる「沖縄文化論争」ももはや古びて見える。

 前半では「中国語を沖縄で学ぶ」という共通点を持つ4人が集まる。琉球政府に勤める「」、本土の新聞の記者「小川」、革命を逃れて沖縄に来た中国人弁護士「」が、共に中国を学ぶ米軍人ミラーの家を基地に訪ねるわけである。他にもミラーの知人が呼ばれていて「カクテル・パーティー」が催されるのである。ミラー夫人は「私」の娘も通う英語教室を開いていて、料理もうまく容姿も魅力的である。そんな状況で4人は沖縄文化は日本文化や中国文化とどう関わるのかと討論するのである。それは「沖縄のアイデンティティ」をめぐる論争である。

 話の途中で出席者の幼児が行方不明という情報が入る。そして帰宅すると、娘が衝撃的な事件に巻き込まれている。その「転調」が衝撃なのである。そして「ミラー」や「」のそれまで隠されていた別の像が立ち現れてくる。そこは今触れないが、ほとんど人物の会話で進行する小説なので、もともと「戯曲的」な構成になっている。「焼け跡の高校教師」を読むと、もともと劇作体験の方が早く、教員時代も高校で演劇をやっていた。本人からすると小説の「カクテル・パーティー」には書き足りないものを感じていて、戯曲版を書いたということである。
(アメリカで映画になった「カクテル・パーティー」)
 戯曲版は最初ハワイで英語版が、沖縄文学アンソロジーの中に収録されて出版された。それはハワイで上演され、アメリカで映画になったということだ。沖縄ではその映画が字幕を付けて上映されたというが、他では全然知らないだろう。戯曲では「カクテル・パーティー」が1971年に移され、プロローグ、エピローグが1995年になっている。「私」は「上原」、「娘」は「洋子」と名付けられた。洋子は高校卒業後、アメリカに留学してその地で結婚した。それが何とミラーの息子で、弁護士のベンである。スミソニアン博物館で計画された原爆展在郷軍人会が反対していて、ベンはその弁護士を担当している。

 1971年はすでに翌年の「沖縄返還」が決定している。その段階で4人の「論争」が繰り広げられるが、沖縄、アメリカ、日本、中国の「加害」と「被害」が重層的に絡み合う。それは大きな問題ではあるが、「原爆」と「真珠湾」というテーマは戦争責任そのものだ。「中国戦線での日本軍の残虐行為」と「沖縄での米軍人の性的暴力事件」は、「女性の尊厳」という問題の方が大きい。「女性の視点」からする「もう一つのカクテル・パーティー」が書かれるべきかもしれない。

 ともかく「戯曲版 カクテル・パーティー」は知られざる問題作なので、多くの人に一読を望む。著者は沖縄戦当時は上海にいて、その後日本軍に召集された。その経歴から書かれた渾身の問題作だと思う。なお、「棒兵隊」の中に焼け跡にあった首里の町を「目鼻のおちた癩病やみのように家一軒もない首里市」という表現がある。これは差別表現だと考える。少なくとも注がいる。それにしても、長らく「平和の礎」にハンセン病療養所の空襲犠牲者が刻印されなかったぐらい、沖縄の厳しい差別があったのである。また「カクテル・パーティー」の中に「小川」氏を本土の被差別出身者ではないかと考える描写があるが、全く判らない。これは差別的な描写として書かれているのではないが、全然判らない考え方なので指摘しておきたい。
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