何回か使ってそろそろ「新型コロナウイルス以後の世界」を考えたいと思う。「アフターコロナ」という言葉もあるようだが、ここでは「ポストコロナ」と呼びたい。パンデミックによって、世界は大きく変わった。いずれ元に戻ってしまうという人もいれば、不可逆的な変化をもたらすという人もいる。そう簡単に二者択一にはならないだろう。新たに現れて定着するものもあれば、いつの間にか元に戻るものもあるだろう。ウイルス危機を乗り越えられず、ひっそりと消え去ってしまうものも多いに違いない。
「ポストコロナ」で検索すると、下の画像が見つかった。なんだろうと思ったら、立憲民主党だった。「ポストコロナ社会の理念」と銘打って、「支え合いの重要性」「自己責任論の限界」「再分配の必要性」と三つの論点をあげている。僕が今まで書いてきたこととつながる面が多い。反対する気は全然ないけど、というか方向性としては大賛成なんだけど、こういう方向に世界は変わるのだろうか。
「三密」を避けろと言われたときに、もっと深く考えてみるべきだった。ウイルスはもともと動物から人間に感染したが、ウイルス自体は自分では動けない。中には蚊やネズミが媒介する感染症もあるが、新型コロナウイルスは人から人へしか感染が広がらない。「密」に接触してもウイルスが「自然発生」するわけじゃない。感染していない人どうしが濃密に接触しても、感染はしない。要するに「密」を避けろというのは、「誰が感染しているか判らない」から「人を見たら感染者と思え」ということだ。他人には誰が感染しているか判りようがないから、「全員と距離を取れ」ということである。
2月頃から日本での感染例が報告され始めた。特に当初はクルーズ船ダイヤモンド・プリンセス号が大きく報道されていた。下船した客が千葉県のホテルに一時滞在していた時に、ホテル前の海岸に激励のメッセージを書く人が現れたことがあった。日本でも当初は「連帯」のムードが強かったのである。この世界的苦難を共に頑張って乗りきろうという気持ちがあふれていた。しかし、3月以後感染者数が増えていくと、次第に変わっていったように思う。増えたといっても、日本国内では欧米に比べて感染者も死者も少なかった。最近の抗体検査でも思った以上に感染者は少なかった。
外国の感染爆発ニュースが大きく報道される日々に、日本では現実の感染者は少なかった。感染者が一番多い東京に住んでいても、身近なところに感染者がいた人はほとんどいなかった。自分も一人も知らない。もちろん報道された芸能人などは何人か知っているが、個人的な知り合いは誰もいない。この「感染者数が少なかったこと」が、「感染者や家族への差別視」を生んだ。ごく一部だからこそ、「感染者ではない証明」が難しい。ほとんどの人は感染していないにも関わらず、厳しい感染予防策を求められた。もちろん「誰が感染者か判らない」のは事実だから、皆が従わざるを得ない。
「他人事」だったときと違って、「皆が感染者である可能性」が生まれたときに、「監視社会」が進む。感染者がごく一部であるからこそ、「監視」が厳しくなる。もしもっと多くの感染者、死者が出ていたら、社会の雰囲気は違っていただろう。「誰もに感染可能性がある」のだから、「寛容」な雰囲気が生まれたと思う。感染者が現実には少なかったことから、「不注意で感染し、周囲に感染を広げた責任がある」とみなされた。合理的な感染リスクを超えて、「逸脱」行動には激しいバッシングが寄せられたのだ。
(中国の「監視」システム)
今は公的な施設では、入場に体温測定やマスク着用が必須になっている。学校では今まで当たり前に行われてきた多くの学習が出来なくなっている。今後もしばらくは「監視社会化」が進行すると思う。「感染リスクがある」と主張されると、反論は難しい。韓国の「K防疫」は「成功」とされたが、スマホアプリを駆使した「個人情報監視」と思える。日韓対立を背景にしてか、日本では「反安倍政権」的左派が評価し、「安倍支持」の右派が感情的に反発していた。
今後日本でも「監視」技術整備が進むと、この「ねじれ」は解消されるのだろうか。僕には心配の方が多い。「異常時対応」が「常態化」して、「監視社会になれてしまう」のではないか。今では街に「防犯カメラ」(という名前の監視カメラ)にあることが当たり前になってしまったように。世界のどこでも「少数派排除」という問題はあると思う。だが特に日本では「集団同調圧力」が強い。
今後の日本社会では、「感染リスク防止」の名の下に同じような行動が出来ない高齢者や障害者への排除、危険視が進むのは間違いないと思っている。もちろん、日本社会を「連帯」の方向に変えていくこと、「自己責任」から「支え合い」へという旗を高く掲げることは大切だ。今後も折に触れて発信したいと思うが、冷静に判断するならば今後の世界は「監視社会化」の方向ではないかと認識している。
「ポストコロナ」で検索すると、下の画像が見つかった。なんだろうと思ったら、立憲民主党だった。「ポストコロナ社会の理念」と銘打って、「支え合いの重要性」「自己責任論の限界」「再分配の必要性」と三つの論点をあげている。僕が今まで書いてきたこととつながる面が多い。反対する気は全然ないけど、というか方向性としては大賛成なんだけど、こういう方向に世界は変わるのだろうか。
「三密」を避けろと言われたときに、もっと深く考えてみるべきだった。ウイルスはもともと動物から人間に感染したが、ウイルス自体は自分では動けない。中には蚊やネズミが媒介する感染症もあるが、新型コロナウイルスは人から人へしか感染が広がらない。「密」に接触してもウイルスが「自然発生」するわけじゃない。感染していない人どうしが濃密に接触しても、感染はしない。要するに「密」を避けろというのは、「誰が感染しているか判らない」から「人を見たら感染者と思え」ということだ。他人には誰が感染しているか判りようがないから、「全員と距離を取れ」ということである。
2月頃から日本での感染例が報告され始めた。特に当初はクルーズ船ダイヤモンド・プリンセス号が大きく報道されていた。下船した客が千葉県のホテルに一時滞在していた時に、ホテル前の海岸に激励のメッセージを書く人が現れたことがあった。日本でも当初は「連帯」のムードが強かったのである。この世界的苦難を共に頑張って乗りきろうという気持ちがあふれていた。しかし、3月以後感染者数が増えていくと、次第に変わっていったように思う。増えたといっても、日本国内では欧米に比べて感染者も死者も少なかった。最近の抗体検査でも思った以上に感染者は少なかった。
外国の感染爆発ニュースが大きく報道される日々に、日本では現実の感染者は少なかった。感染者が一番多い東京に住んでいても、身近なところに感染者がいた人はほとんどいなかった。自分も一人も知らない。もちろん報道された芸能人などは何人か知っているが、個人的な知り合いは誰もいない。この「感染者数が少なかったこと」が、「感染者や家族への差別視」を生んだ。ごく一部だからこそ、「感染者ではない証明」が難しい。ほとんどの人は感染していないにも関わらず、厳しい感染予防策を求められた。もちろん「誰が感染者か判らない」のは事実だから、皆が従わざるを得ない。
「他人事」だったときと違って、「皆が感染者である可能性」が生まれたときに、「監視社会」が進む。感染者がごく一部であるからこそ、「監視」が厳しくなる。もしもっと多くの感染者、死者が出ていたら、社会の雰囲気は違っていただろう。「誰もに感染可能性がある」のだから、「寛容」な雰囲気が生まれたと思う。感染者が現実には少なかったことから、「不注意で感染し、周囲に感染を広げた責任がある」とみなされた。合理的な感染リスクを超えて、「逸脱」行動には激しいバッシングが寄せられたのだ。
(中国の「監視」システム)
今は公的な施設では、入場に体温測定やマスク着用が必須になっている。学校では今まで当たり前に行われてきた多くの学習が出来なくなっている。今後もしばらくは「監視社会化」が進行すると思う。「感染リスクがある」と主張されると、反論は難しい。韓国の「K防疫」は「成功」とされたが、スマホアプリを駆使した「個人情報監視」と思える。日韓対立を背景にしてか、日本では「反安倍政権」的左派が評価し、「安倍支持」の右派が感情的に反発していた。
今後日本でも「監視」技術整備が進むと、この「ねじれ」は解消されるのだろうか。僕には心配の方が多い。「異常時対応」が「常態化」して、「監視社会になれてしまう」のではないか。今では街に「防犯カメラ」(という名前の監視カメラ)にあることが当たり前になってしまったように。世界のどこでも「少数派排除」という問題はあると思う。だが特に日本では「集団同調圧力」が強い。
今後の日本社会では、「感染リスク防止」の名の下に同じような行動が出来ない高齢者や障害者への排除、危険視が進むのは間違いないと思っている。もちろん、日本社会を「連帯」の方向に変えていくこと、「自己責任」から「支え合い」へという旗を高く掲げることは大切だ。今後も折に触れて発信したいと思うが、冷静に判断するならば今後の世界は「監視社会化」の方向ではないかと認識している。