尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

広島県の中学生自殺問題①

2016年03月12日 00時12分27秒 |  〃 (教師論)
 緊急に「広島県の中学生自殺問題」を何回か書きたいと思う。「自殺」という言葉は本来不適当だと僕は思っているのだが、各マスコミが使っているのでここではそう表記する。2015年12月、広島県府中町の中学で、3年生の男子生徒が自殺した。その問題が今になって明るみに出たのは、遺族が他の生徒の高校受験に配慮していたのだと判断できる。

 ニュースなどでは「進路指導のミス」と報じられているが、その報じ方には以下に書くように僕には異論がある。確かに「ミス」はあった。人間にはミスがつきものなので、「ミスを防ぐ施策」がなくてはならない。それが今回はうまく機能していなかった。(というか、「なかった」とも言える。)だけど、この学校の指導には「ミス」以上の「本質的な大間違い」があったと思うのである。 

 今回の問題は、簡単に書くと以下のようなことになると理解している。
中学生が私立高校への「専願推薦」を希望していた。(この制度の問題は次回に書く。公立高校が第一希望の生徒が、私立高校を一つにしぼって志願し、公立に落ちた時に進学する。この制度を利用せず「一般受験」しても、ほとんど合格できない。「学校推薦」が必要である。)
学校側は、推薦に関する内規を昨年11月に変更した。それまでは、3年時の問題行動だけを見たのに対し、「1年時からの触法行為」を見ることにした。
学校の共有サーバーに残された1年時の指導記録に、その生徒の万引きが書かれていた。しかし、それは本来は別人の行為で、「誤記」だった。それは当時の会議で指摘され、紙の上では訂正されたが、元のパソコン上の記録は訂正されなかった。(誤記の原因は単純な打ち間違いらしい。)
その記録をもとに、学年主任は担任教諭に対して、この生徒に万引き歴があることを本人に確認するように求めた。担任は5回にわたって「面談」したが、生徒がはっきりとした反論をしなかったため、確認されたと誤認した。(この「面談」は廊下でなされたものらしく、僕には「面談」とは言えないように思われる。また、この記録は学校側の情報なので、遺族側に疑問もあるようである。)
担任は、12月の三者面談を前に、そのこと(1年時に万引きがあったため、専願推薦はできないこと)を保護者に伝えると言った。生徒は三者面談に日に、面談に現れず自殺した。

 以上の中で、③(誤記問題)④(本人への確認)は、明らかなミスである。しかも、かなり大きな問題をはらんでいるミスである。だから、ニュースでもそこが焦点になっている感じがする。その結果、なぜ担任は確認したと思ったのか、あるいはなぜ誤記が訂正されなかったかなどと、言ってみれば「現場の責任追及」がなされている。だけど、この問題の一番重大なポイントは、②の「内規変更」ではないか。これさえなければ、「誤記」は問題にならないまま眠っていただろうし、担任が確認する必要もないからミスがおきるわけもない。だが、多くのマスコミも「1年時からの問題行動」を対象にした内規変更の是非を取り上げていないように思う。

 一体、学年途中で推薦の内規を変えていいのだろうか。本来、1年時からの問題行動を進路指導にも使うんだったら、入学式後の保護者会で親に周知しておかないといけないのではないだろうか。「誤記」ばかり問題になるが、誤記ではなく本当に万引きがあったとしても、本来は1年時の指導で終わったはずの出来事が突然よみがえって来ていいのか。これでは「教育」ではなく、「懲罰」ではないか。成人の裁判であっても、一度決着した刑罰を本人に不利に変更することは許されない。(本人に有利な「再審」は新証拠があれば認められる。)ましてや、未成年の場合は、「刑罰」ではなく「教育」が目的である。犯罪に関与してもマスコミ等に実名は出ない。教師は立場上、生徒の名前と行為を知ることになるが、それは「教育的指導」を行うためであって、その指導が終了した後で、他の目的に使うことはおかしいのではないだろうか。

 そう言うと、「では、万引きした過去のある生徒を学校が推薦していいのか」などと言われるかもしれない。その答えは「いい」ということになる。生活上の問題があっても、学校が指導してその後問題が起きていない。それなら、学校の指導が有効だったということで、今さら何の問題もないではないか。もちろん、生徒がみな進路に向って頑張る3年生後半にもなって、問題行動を繰り返しているような場合は、当然推薦はできないという結論になるだろう。しかし、それは考える順番が逆で、機械的に判断するのではなく、推薦を希望する生徒をいったん「できるだけ皆を推薦する」という方向で考えて、「例外的に推薦できない生徒はいるか」と判断していくべき問題だろう。(3年になっても落ち着かない生徒は、そもそも推薦を申し出てこないだろうが。)

 以上に書いたことは、「机上の空論」ではない。僕が中学で進路指導を行ったのはもうだいぶ前(80年代)になるが、中学教員として、またその後の高校教員としても、「生活指導歴がある生徒」を上級学校や会社に推薦している。もちろん、どんな進路希望であれ、本人、親とともに面談して決めていくわけで、その中で学校の方針、進路指導、生活指導に従っていることが前提となる。そんな中で、1年の時に万引きがありますねなどと言うのだろうか。この学年は多分1年時を知らない主任や担任で構成されていたのだろうけど、3年時に頑張っていれば、それ以前のことなど持ち出さないものではないのだろうか。学校側の規定がどうであれ、「この生徒は推薦していいのではないか」と頑張るのが、担任や学年主任の仕事ではないかと思う。

 それとともに、学校で一番多くある問題行動は何だろう思う。小さないじめ、万引き、喫煙ではないかと思う。ところが、これらはいずれも「暗数」が多い行動である。つまり、学校側が認知できる数より、はるかに多くの万引きや喫煙が起こっているはずだということである。今回の万引きはコンビニだというが、個人商店などでは学校には通報しない事も多いに違いない。それに「万引きに成功したケース」は問題にならない。万引きに失敗して捕まったとしても、警察、家庭、学校のどこに連絡するかはさまざまだろう。全部学校に通報されるわけでもないのに、推薦不可などと言いだしたら、たまたま学校に通報された生徒だけが不利である。喫煙やいじめなども同様で、学校がたまたまうまく知ることができたケースのみ、生徒を不利に扱うことになってしまう。

 中学1年生と言えば、12歳か13歳。刑事責任は問われない年齢である。いくつかの小学校から集まって、中学生となる。初めはいろんなことがある。適応できなかったり、強弱の関係が作られたりする。そんな中で、遊戯的に、あるいは「パシリ」(親分子分関係で命令されて弱いものが万引きして貢ぐ)だったり、「障害」や「病気」が背景にあったり、家庭の貧困や虐待があったり…。万引きの原因もさまざまである。一律に「推薦不可」ということ自体が教育的配慮に欠けるように思うのである。

 ニュースでは「非行歴」と呼んでいる。だが、警察沙汰にもならず、ましてや家庭裁判所や児童相談所にも関わらないようなけケースではないか。これは「問題行動」でいいし、学校からすれば「生徒指導」の問題である。「指導」なんだから、今後は一緒にがんばろうということで終わる。反省文をたくさん書かされたりするのは、本人は「一種の懲罰」と受け取るかもしれないが、学校としてはあくまでも「指導」なのである。そういう時に、「これで君は高校への推薦はダメになったよ」と突き放すのか。それとも「今後、勉強や部活をみんなと一緒に頑張って、希望の進路を実現しよう。学校も応援するよ」と言うのか。前者のような対応をすれば「再犯」を後押しするようなものではないか。

 もちろん、学校推薦を行っても、成功する場合ばかりではない。高校も、大学も、会社も、うまくいかずに辞めてしまうことはたくさんある。だけど、「生活指導歴」があっても推薦をした生徒が、次の学校で問題行動を起こしてしまったということがあるだろうか。それほどないのではないか。(むしろ、在学中はおとなしかった子が…というケースを見聞きすることが多い。)人間はそれほど信頼を裏切れないものだ。たまに裏切られることもあるけれど、人間を相手にした仕事では「裏切られるのも仕事のうち」なんではないかと思う。
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ルーニー・マーラが素晴らしい、映画「キャロル」

2016年03月08日 23時27分19秒 |  〃  (新作外国映画)
 旧作映画を見ることが多いが、新作映画も見ないとどんどん終わってしまう。タランティーノの新作や「オデッセイ」もあるが、まずはパトリシア・ハイスミス原作のトッド・ヘインズ監督「キャロル」。50年代のニューヨークを舞台にした、同性愛の映画である。ルーニー・マーラがカンヌ映画祭で女優賞を取っていて、今年のアカデミー賞でもケイト・ブランシェットが主演、ルーニー・マーラが助演でノミネートされたが、どちらも受賞には至らなかった。一方、作品賞や監督賞にはノミネートされていない。トッド・ヘインズ監督のかつての作品、「エデンより彼方へ」(2002)や「アイム・ノット・ゼア」(2007)も作品賞にはノミネートされなかった。作家性が高く、アカデミー賞に向かない映画を作っているというべきだろう。

 見てみると、50年代の風俗を丁寧に再現しながら、同性愛への偏見の強い時代を浮き彫りにしていく傑作だった。単に性的マイノリティを描くに止まらず、「愛の映画」として、また50年代の「自分探し」物語として出来がいい。タイトルロールのケイト・ブランシェットも素晴らしいのだが、デパート店員としてキャロルと出会うテレーズ・ベリベット役のルーニー・マーラがあまりにも素晴らしいので驚いた。「ミレニアム」をアメリカでリメイクした「ドラゴン・タトゥーの女」で、リスベット役を演じてアカデミー賞主演女優賞にノミネートされた人である。1985年生まれだが、もっと若い役柄をやって不自然さがない。

 キャロルは裕福な夫と娘がいるが、夫のお飾りで空疎な暮らしに愛想をつかし、離婚を考えている。クリスマス前にデパートで買い物をして、手袋を忘れる。店員のテレーズが郵送することになるが、それをきっかけに関係が始まるのである。テレーズは付き合っている男もいるが、今の生活に納得せず写真家を目指している。キャロルに魅惑されたテレーズは、誘われるままキャロルの屋敷を訪れるようになるが、そこに夫が現れ、二人のようすを邪推する。夫が「離婚後の娘の親権は認めない」と主張を変えたことにキャロルは絶望し、クリスマスの家にいられないとドライブに出る。その旅行にテレーズを誘い、同行することになる。行方も定めぬ西へのドライブが、素晴らしいロード・ムーヴィーで、そこまで二人は結ばれていない。旅の途中で結ばれると、それは「罠」に落ちることにも通じていた。

 「愛」にはその時代ごとの「手続き」があるわけで、特に性的に結ばれるには昔は高いハードルがあった。というか、法的に結婚するまでは性交渉はタブーだったのが多くの社会である。(今もイスラム社会では同じだが。まだどんな社会でも、金と権力を持つ男のための売春制度はあったわけだが。)だけど、異性愛なら結婚までガマンすればいいとしても、同性愛の場合は絶対に結婚できないわけだから、そこが難しい。妊娠の恐れがないから秘密にしやすいとも言えるが、特に欧米では社会的偏見や制裁が強く、ハードルは非常に高いだろう。この物語にあるように、すでに子供がいる場合、子育てにふさわしくないとみなされる。「異常性愛」という「精神疾患」として扱われた時代だからだろう。

 だから、キャロルとテレーズがいかに結ばれるか、あるいは結ばれないかが、時代相の中で丁寧に描写される。それが面倒くさいと言えば、そういう風にも見えるが、そこにある心理的サスペンスが見所なのである。特に、キャロルの服や帽子、装身具などとテレーズの衣装や帽子などの違いがとても面白い。ケイト・ブランシェットは「ブルー・ジャスミン」でオスカー受賞の勘違い女も記憶に新しい。今回もさすがにうまいもので、すでに娘もありながら同性愛に目覚める美貌の女性という役柄を見事に演じて、嘘くさくない。だけど、最初は自信なげだが、だんだん自らの生き方を見つけていくテレーズはもっと素晴らしい。仕事も新しく見つけても、やはり孤独な姿が心を打つ。ルーニー・マーラの真骨頂である。この二人の演技を見るためだけでも、何回も見直したい映画。

 パトリシア・ハイスミス(1921~1995)は、アメリカ生まれの女性ミステリー作家だが、「キャロル」は別名義で1952年に書いたノンミステリー。日本でも河出文庫から翻訳が出て、僕もハイスミスがこういう作品を書いていたことを知った。ハイスミスの作品に見られる異様なまでのサスペンス、不安の描出は、単に現代人一般のものではなく、同姓愛者という背景があったのかと判ると、よく納得できた感じがする。ハイスミス作品は多くが映画化されていて、いくつ挙げられるかは映画マニア度を測る度合とも言える。「太陽がいっぱい」(リメイクは「リプリー」)、ヒッチコックの「見知らぬ乗客」、ヴェンダースの「アメリカの友人」(リプリーシリーズ3作目の映画化)あたりは初級レベル。シャブロルが映画化した「ふくろうの叫び」も素晴らしいが、去年日本公開の「ギリシャに消えた嘘」もあった。ヴィゴ・モーテンセン、キルスティン・ダンストのキャストはいいし、ギリシャ風景もキレイなんだけど、映画は大したことなかった。今後、ハイスミスの小説、及び映画化を論じるとき、「キャロル」を最初に書くことになるだろう。
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津島祐子、エーコ、オーレル・ニコレ、ガリ等ー2016年2月の訃報

2016年03月06日 21時45分52秒 | 追悼
 毎月、追悼と日本、世界の情勢報告を書いておくということで、まず2月の訃報特集。2月は書かなくてもいいかなと中旬まで思わないでもなかったのだが、18日に作家の津島祐子の訃報が伝えられた。68歳、肺がん。昔ならともかく、今では「若い」感じがしてしまう。だけど、父だった太宰治や盟友だった中上健次、いや、若くして亡くなった2番目の子(長男)を思うだけでも、それなりに長く生きたというべきかもしれない。僕は若い頃に何冊か読んだまま、持っているけど読んでない本が多い。

 読んだ本の中では、「草の臥所(ふしど)」や「山を走る女」「火の河のほとりで」などで、その圧倒的な筆力が印象的だった。特に泉鏡花賞を受けた「草の臥所」の、草が風になびくさまの描写は忘れがたく、冬に伊豆の金冠山に登った時に、これが「草の臥所」だと思った思い出がある。ある時期までシングルマザーを描く作品が多いが、近年は少数民族の文化を描く作品が多いという。長い作品も多く、僕にとって今後に読む楽しみを残している作家である。

 津島祐子は第一回野間文芸新人賞の受賞者(1979年)である。日本では純文学の新人賞としては芥川賞だけが突出して知名度が高い。でも、80年代初期に重要な作家を取りこぼしている。この時期は野間文芸新人賞の方が、津島祐子、立松和平、村上春樹、島田雅彦、佐伯一麦、リービ英雄などを押さえていて、意義が大きい。(一方、1988年に新潮社が三島由紀夫賞を創設し、高橋源一郎が第一回受賞者となった。最近は鹿島田真希、本谷有希子のように三賞総取りの新人もいる。)

 津島祐子は、言うまでもなく太宰治の次女だけど、1947年3月生まれで1948年6月に死んだ父親は全く知らない。長女の園子は1941年生まれだから、多少は覚えているかもしれない。(間に長男がいたが15歳で亡くなっている。)姉は大蔵官僚とパリで結婚して、津島姓を名乗った義兄、津島雄二は津島家の故郷青森で選挙に出た。厚生大臣などを務めた有力政治家で、今は息子の津島淳が後継となっている。しかし、次女の津島祐子(本名里子)は全く違う世界に生きた。母親は文学に触れさせたくなかったというが、結局は作家として生きることを選んだ。1同じ年生まれの作家、太田治子は異母妹。

 その直後にイタリアの作家、哲学者、記号学者のウンベルト・エーコ(2.19没、84歳)が亡くなった。何と言っても「薔薇の名前」(1980)が世界的に大ベストセラーになったことが有名。なかなか日本では翻訳が出ず、映画が公開された1987年に間に合わなかった。1990年にようやく上下巻で刊行され、その年の各種ミステリーのベストワンになった。その年から僕の枕元にあるので、もう四半世紀の時間が経過したもののまだ読んでない。当初はジャン・ジャック・アノー監督の映画(ショーン・コネリーが名演)をよく覚えていたから、後回しになったまま。その後の小説の翻訳(「フーコーの振り子」「前日島」「パウドリーノ」「プラハの墓地」)は全部買ってあるので、そろそろ読まないとこっちの人生も終わりかねない。記号論や文学評論などの翻訳もかなり出ていて、名前はずいぶん前から知っていると思うが、一つも読んでない人だった。そういうこともある。

 ところで、1月を書いた時にはまだ報じられていなかったが、フルート奏者オーレル・ニコレが1月29日に亡くなっていた。90歳。僕はフルートをよく聞いた時があって、ニコレの日本公演も聞いている。とても有名な人で、多くの作曲家もニコレのために曲を書いている。ジャン=ピエール・ランパルの華麗なるフルートに対し、ニコレは内面性を求めるような感じを受けた。今は余りクラシックのコンサートに行くことがなくなったが、ランパルもゴールウェイも直接聞いている。

 外国人では、元国連事務総長のブトロス・ガリ(2.13没、93歳)が亡くなった。第6代で、92年から96年まで務めた。エジプトのコプト教徒(キリスト教)で、外務大臣などを務めた後、初のアフリカ出身事務総長となった。しかし、ソマリア内戦へのPKOで大被害を出し、アメリカが事務総長再任に拒否権を行使した。2期連続務めるのが普通の国連事務総長として、一期のみで退任せざるを得なかった。

 アメリカの脇役俳優、ジョージ・ケネディが28日に亡くなった。(91歳)ポール・ニューマン主演の「暴力脱獄」(1967)でアカデミー賞助演男優賞。70年代のパニック映画なんかには大体出ていて、その頃はよく見た顔である。日本映画の「人間の証明」「復活の日」にも出演している。どっちも角川映画だから、今年の角川映画40年祭で見られるのかもしれない。(まだ上映作品が未発表。)ポーランドの映画監督で「ポゼッション」などがあるアンジェイ・ズラウスキー(2.17没、75歳)の訃報もあった。

 アメリカで非常に評判が高い「アラバマ物語」の作者、ハーパー・リー(2.19没、89歳)は、日本ではその評判がよく判らない。アメリカでは、映画化された時にグレゴリー・ペック(アカデミー賞主演男優賞)が演じた弁護士アティカス・フィンチが米映画史上のヒーロー№1に選ばれている。(2位がインディアナ・ジョーンズ、3位が007、4位が「カサブランカ」でボギーが演じたリック、5位が「真昼の決闘」でゲーリー・クーパーが演じたウィル・ケイン保安官というのだから、「アラバマ物語」の評価が著しく高いことに驚く。なお、6位が「羊たちの沈黙」のジョディ・フォスター。)白人女性を暴行した罪で裁かれる黒人青年を弁護するという設定。原作は1960年に発表され、ベストセラーになりピューリッツァー賞を得た。その後の作品はなかったが、その前に書いていた原稿が見つかり、2015年に刊行された。小さい頃、トルーマン・カポーティが隣人だったということで、いろいろ交友関係があった。

 日本では、政治学者の京極純一(2.1没、92歳)、放送作家、コント作家の「はかま満緒」(本名袴充夫、2.16没、78歳)、スト権スト時の国労書記長で、後に総評の事務局長、社会党衆議院議員を務めた富塚三夫(2.20没、86歳)も亡くなった。はかま満緒や富塚三夫は、たまたま同じ「みつお」だが、30年ぐらい前なら誰でも知っているような名前だったが、訃報は小さく気付かなかった人もいるかもしれない。画家の合田佐和子(2.19没、75歳)は、天井桟敷や状況劇場のポスターを書いたから、見たことがある人も多いはずである。田原睦夫(2.19没、72歳)は、弁護士出身の最高裁判事で、東京都の国旗国歌問題で、職務命令は憲法違反という少数意見を書いた。最高裁は70歳退官だから、退官後の人生が少なかった。宝生閑(2.1没、81歳)、三川泉(2.13没。93歳)はいずれも能楽界の人間国宝だとあるが、知らない世界と名前も知らないんだなと思う。(下の写真は、はかま、富塚、合田)
  
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葛飾区教育資料館

2016年03月05日 22時06分19秒 | 東京関東散歩
 「葛飾区教育資料館」という場所がある。東京23区の東北の端の方だけど、旧水元小学校の建物に昔の教育資料が展示されている。だけど、耐震性の問題等で、今月(2016年3月)いっぱいで公開が終わる。中味の資料は他へ移動され、外観だけなら見られるということだが、中へ入れるうちに一度見ておこうかなと行ってみた。誰も入場者がいなくて、確かに閉館もやむを得ないか。
   
 この建物が建てられたのは、1925年(大正14年)のこと。水元尋常高等小学校の増築校舎の2教室だった。1982年まで使われていたというから、50年以上になる。水元小の改築で、校舎の南に移築され「教育資料館」となった。大正時代の木造校舎が保存されているのは全国的にも珍しいという。関東大震災直後の建築のため、木材不足から米国産の松材が多く使用されている。

 中には当時の教室の様子が再現されたり、昔の教科書などがズラッと展示されている。また、農具や玩具なども廊下に並んでいる。当時の水道の蛇口を見ると、関東式、関西式などがあったと知ることができる。まあ、いかにも古い学校が資料館になっているところに特有の、雑然たる「過去」が死んだように封印されていて、今の人がじっくり見る場所ではない感じがする。
   
 ところで、ここは戦時中のある出来事によっても記憶されている。それは1942年4月18日の、アメリカ軍による日本本土初空襲、いわゆる「ドーリットル空襲」である。まだ西太平洋の制海権を大日本帝国が握っていた時期に、米軍空母がひそかに日本近海に近づき、選ばれた16機のB-25爆撃機によって日本を空襲しようという一種の「特攻作戦」だった。ドーリットル中佐が指揮したので、「ドーリットル空襲」と言われる。突然の奇襲により、日本各地で87名の死者が出たが、その一人が水元国民学校の高等科生徒石出巳之助だった。機銃掃射による。軍事目標を標的にしていたが、東京では早稲田中学も爆撃されている。また、民間人に対する機銃掃射もかなりあった。

 ドーリットル隊の各機は、基本的には中国の国民政府地区を目指す計画だったが、日本軍につかまり捕虜となった隊員もいた。(8人が軍事裁判で死刑とされた。)他にソ連に向かった機もあり、そこらへんの運命はかなり興味深いが、今は触れない。当時の日本はまだ大勝利と浮かれていた時期で、やすやすと米機に本土上空を突破され、一機も撃墜できなかったことに衝撃を受けた出来事だった。この時の銃弾がこの資料館に保存されている。また、戦時中の日の丸の寄せ書きなどもある。東京大空襲に3年先立つ都内の民間戦死者の記憶が残されているのは貴重だろう。ところで、上下に開ける窓も面白い。建物が白くてきれい。隣に今の水元小が立つ。
   
 葛飾区教育資料館は、JR、京成線の金町駅からバス。(都心からは、地下鉄千代田線に乗っていくのが一般的か。)駅を出て南口から京成バス「戸ヶ崎操車場」行き。水元小学校下車後、少し戻って「水元医院」を曲がるとすぐ。地理を知らないと歩いていける距離ではない。駐車場はなし。月火は休み。入場無料。近くに都内屈指の広さを誇る水元公園があり、5分ほど。そっちの駐車場は利用できる。水元公園というのは、名前はよく聞くけど行ったことがなく、ちょっと寄ってみた。カワヅザクラがきれいに咲いていた。水辺では多くの人が釣りをしていて、鳥も多い。ちゃんと訪れてみたい場所。
   
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グアテマラ映画「火の山のマリア」

2016年03月04日 23時47分36秒 |  〃  (新作外国映画)
 岩波ホールでグアテマラ映画「火の山のマリア」を上映している。(25日まで。)岩波ホールで公開される映画は全部見ることにしていた時期もあるが、最近はもう半分も見ていないかもしれない。しかし、今回はグアテマラという珍しさに惹かれて見てみたいと思った。ベルリン映画祭銀熊賞ということだから、作品的にも一定の期待は持てるだろう。マヤ人の少女という物語も面白そうだ。

 映画の話の前に、グアテマラとはどこかということを書いておいた方がいいと思う。中央アメリカの中で、一番メキシコに近いところにある国である。グアテマラの東北部にベリーズという小国があるが、ここは1981年の独立まで「イギリス領ホンジュラス」と呼ばれた英連邦所属国で、公用語は英語。メキシコ以南の国々は、そのベリーズを除いてスペイン語かポルトガル語(ブラジル)が公用語で、ラテンアメリカと言われるわけである。だからグアテマラの公用語はスペイン語だが、映画で見ると原住民のマヤ人にはスペイン語をしゃべれない人が多いことが判る。

 この地域には、狭い地峡に多くの小国がズラッと並んでいて、全部言える人は少ないだろう。パナマ運河のあるパナマとか、その隣にあってワールドカップの活躍も記憶に新しいコスタリカ、さらに次が長い内戦が続き、レーガン政権時代にアメリカが暗躍したニカラグア。聞いたことがあるという国名もそこらへんが多いのではないか。グアテマラは、メキシコの向こうはアメリカだと映画の中でも言っているが、「国境には火山があるが」というセリフもある。メキシコとの国境地帯には、4000メートルを超える火山がある。題名の「火の山」の由来である。(写真で見ると、タカナ山という山ではないかと思う。)グアテマラの人口は1547万、面積は北海道と四国を合わせたより少し大きい。

 といった知識はこの映画を調べて知ったことで、ずいぶん世界各国の映画を見ている僕も中央アメリカの映画は2本目だと思う。もう一本はニカラグア内戦を描く「アルシノとコンドル」(1979、モスクワ映画祭金賞)で岩波ホールで公開された。だけど監督のミゲル・リッティンはチリ人で、亡命中に撮った作品である。一種のラテンアメリカ左翼映画人連帯映画であって、まだ中央アメリカ諸国では本格的な自主製作ができなかったのだろう。それを言えば、この映画もフランスとの合作で、フランスやイタリアで映画を学んだ若き監督、ハイロ・ブスタマンテ(1977~)によって作られた。だけど、この映画は監督が幼少期を過ごしたマヤ族のコミュニティに題材を取り、代表的な産業であるコーヒーのプランテーションを舞台にしている。本格的に中央アメリカの地を生きる人々によって作られた映画だと思う。

 南北アメリカ大陸の先住民と言えば、数万年前に分かれた「われらの同胞」(モンゴロイド=いわゆる「黄色人種」)だけど、この映画を見ていると「火の山」と共生するアニミズム的な自然感覚が似ているような気もする。毒蛇もいる厳しい自然環境の中で、ほとんど迷信とともに生きている。何だろう、これはという気もするが、これがグアテマラ国民の4割を占めるというマヤ人の生きる場なんだろう。「マヤ」と言えば、メキシコのユカタン半島に築かれた遺跡が名高いが、民族的にはメキシコ南部からグアテマラ、ホンジュラスなどに住む人々の人々の集団を「マヤ」と言うのだそうだ。

 マリアはそんな人々の中で暮らす17歳の少女。コーヒー農園の主任は、妻を亡くし、後添えにマリアを望んでいる。有利な縁組に両親も賛成だが、マリアはよく知らない年上の男性に嫁ぐことに気が進まない。言い寄ってくる若者に祭の夜に身を任せてしまう。その若者はアメリカを目指すと旅立つが、マリアは一回だけの交わりで身ごもってしまう。まあ、こういう展開は話としてはありきたりだけど、風景や風習が新鮮で退屈しない。母はマリアの子をおろそうと、さまざまな迷信を試すが、子どもは生まれてくる運命にあったということで、もう覚悟を決める。というのも、こうなったら農園にいられるはずもなく、どこかへ去るしかない。だけど、毒蛇を退治して、強引に種まきをしてしまえば、簡単に追い出せないだろう。妊婦が蛇退治をすれば大丈夫という迷信を信じてマリアは毒蛇の中に進んで行く。

 こうして、アレマ、アレマと思う間もなく、悲劇のジェットコースターになっていくが、結局マリアは毒蛇にかまれて瀕死の状態で町の病院に運ばれる。だけど、両親の言葉は医者に通じない。両者をつなぐのは、バイリンガルの農園主任しかいない。そして彼の「通訳」により、事態は思わぬ展開を見せていく。一体、真相はなんで、どういう結末になるか。もちろん映画は「ある終わり方」をするしかないけれど、その苦さの向こうにどんな波乱が待っているのだろうか。この映画を見ると、役人や医者の支配層はスペイン語のみ。一方、農園のマヤ人は母語(カクチケル語)のみ。農園のサブリーダー層のみバイリンガルで、支配層の下部を支えている。そういう言語的分断状況がくっきりと描かれている。

 そんな中でたくましく生き抜く「女性映画」として、素朴だが力強い映画だった。社会的関心抜きにただ楽しめるかというと、そういうエンタメ系の文法で作られた映画ではない。素朴なドキュメンタリーの力強さに近いような迫力がある。映画を見る楽しさ、意義は、こんなことにもある。「世界を見る映画」というタイプの佳作。映像は力強く、印象的で、忘れがたい。神話的な映画とも言えるだろう。

 なお、中央アメリカで自ら作られた映画は少ないが、舞台になっている映画はかなりある。オリヴァー・ストーンがエルサルバドル内戦を描いた「サルバドル」、19世紀にニカラグアの支配者となったアメリカ人を描くアレックス・コックスの怪作「ウォーカー」、ケン・ローチがニカラグア女性とスコットランド男性の恋愛を扱う「カルラの歌」、余命短い少年がコスタリカで幻の蝶を探す「天国の青い蝶」、ホンジュラスの密林に移住した一家を描く「モスキート・コースト」、ジョン・ル・カレ原作の映画化「テイラー・オブ・パナマ」…と見てない映画もあるが、結構数多い。アメリカに近いから、政治的経済的関係も深く、ロケにも使われる。ついでに、「ジュラシック・パーク」もコスタリカの島にあることになっている。
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「砦」という芝居、松下竜一さんのこと

2016年03月03日 21時31分59秒 | 演劇
 今年の冬は風邪をひかずに乗り切れるかと思ったのだが、やっぱりそううまくいかずに体調が悪化した。そういう時に限って、お芝居を予約していたりする。そんなときに見たのは、トム・プロジェクによる「」。東京芸術劇場シアターウェストで、6日まで。

 題名を見ただけで、内容を察知できる人はどのくらいいるだろう。この劇の原作は松下竜一(1937~2004)の「砦に拠る」(1977)。熊本県の下筌(しもうけ)ダム反対運動で、「蜂の巣城」と称した「砦」を築き、国に徹底抗戦した室原知幸を描く傑作ノンフィクションである。作・演出は東憲司、主演は村井國夫藤田弓子。他に3人出ている。村井は「室原王国」の暴君でもあった老人を印象深く演じているが、その妻として一生を尽くしてきた妻・ヨシさんを演じる藤田弓子が素晴らしかった。

 僕は松下竜一さんの「随伴者」で、ほぼすべての作品を読んでいる。松下さんが出していた「草の根通信」の熱心な読者で、河出書房から出た「松下竜一 その仕事」という全30巻の作品集を全部著者から買っていた。そういう因縁もあるから是非見たいし、見ないわけにはいかない。だが同時に、集団的自衛権、辺野古問題、原発再稼働といった「現在」を考えると、まさに「今を撃つ」迫真性がこの話にはある。どんなに孤立しても、一人で国家権力に向って立ち続けた室原知幸を忘れないこと。それはまさに、今語り継いでいくべき「抵抗」であるだろう。

 熊本県の山奥の村の山林王、室原知幸は村でただ一人「東京の大学」を出て「大学さん」と呼ばれている。村議会議員を務めたこともあるが、人付き合いの悪い孤高の「インテリ」で、村では浮いている。そこに降って湧いたダム建設計画。村を守れ、先祖から受け継いだ「墳墓の地」を守れと村は沸騰し、室原は請われて反対運動の先頭に立つ。その時に彼は釘を刺した。俺は一度言い出したら絶対に止めない、皆も最後まで必ず付き合うかと。村人は誓い、反対運動がスタートした。

 ダム計画が始まるのが1957年。反対運動は1960年前後に高まりを見せ、全国的にも有名になった。それは室原が建設阻止のために築いた「蜂の巣城」と称した「砦」にある。後に三里塚で築かれた砦や鉄塔の先駆けと言っていい。この名前は黒澤明が「マクベス」を翻案した映画「蜘蛛の巣城」のパロディである。また、同時に多くの裁判を提起、法廷闘争も繰り広げた。そういう意味でも、松下竜一らが起こした「環境権」裁判や反原発訴訟の先駆けでもある。演劇では反対運動の衝突などを再現することは難しいが、村人が自ら築き上げた「蜂の巣城」は舞台の奥に大きく組まれている。

 しかし、この劇の焦点は室原知幸とヨシの夫婦二人の関係にある。明治の九州男児であるから、当然のごとく室原は横暴を極め、妻を従えている。10日にいっぺん、頭髪を整える以外にほとんど妻を顧みない。それは反対運動の村人との関係にも言えることで、山林王が山を売り、費用を一切持って酒も出す代わりに、絶対服従を要求する。砦が有名となり、裁判にも打って出て、室原は全国的有名人となった。そんな横暴でとっつきにくい男を村井國夫はなるほどこんな感じかと悠然と演じる。一方、それを受ける藤田弓子は、夫を支えつつ「生活」を続ける難しい役柄を巧みに演じている。

 「室原王国旗」を縫い続け、その多くを燃やしてしまう妻の生き方。その「王国旗」とは「赤地に白丸」という痛快さである。民をいたぶる「国家」と正対し、ついに日本国家の中にあって独立王国となってしまったというわけだ。この室原知幸をめぐっては、佐木隆三大将とわたし」という小説もあるけど、今は松下竜一「砦に拠る」で知られているだろう。(ちくま文庫に電子版がある。)松下竜一を有名にした貧乏な豆腐屋の青春記「豆腐屋の四季」がテレビドラマになった時、松下青年役だった緒形拳が、この「砦に拠る」の映画化、自身の室原知幸役を熱望していたというが、果たすことなく亡くなった。

 松下竜一に関しては、2015年3月に下嶋哲郎「いま、松下竜一を読む」(岩波書店)という本が出た。この機会に読んでみて、まさに「いま、読む」ことの意味を考えさせられた。副題が「やさしさは強靭な抵抗力をなりうるか」である。貧しき環境の中でも、愛を求める「やさしい」青年だった松下竜一。生まれ育った大分県中津では、テレビドラマにまでなり「模範青年」と思われていた。そんな彼がやがて「環境運動家」となり、国に抵抗するノンフィクション作家になると人は去っていく。さらに、「爆弾テロ」犯描いた「狼煙を見よ」を書くに至り、長年の読者からも疑問を投げかけられる。

 そんな時期にも、僕は「おやおや、いつのまにか松下センセが僕の方に近づいてきてしまった」と思っていた。死刑廃止運動に共感し、反日武装戦線への死刑判決への反対運動にも参加したことがあったからだ。晩年になって「枯れる」のが日本人の多くだが、松下竜一は年を取るとともにむしろ「過激化」していった。病身を押して、反原発や反基地など多くの「現場」に立ち続けた。それもこれも、「やさしさ」を一貫させた人生だったからだ。そのことが個人的な事情を含めて、詳細に明かされている。

 松下竜一の本としては、今まで挙げた本の他に、大杉榮・伊藤野枝の間に生まれた人生を描く「ルイズ 父に貰いし名は」、赤軍派のハイジャック事件で「超法規的に釈放」された刑事犯泉水博の義侠を描く「怒りていう、逃亡にはあらず」、冤罪事件の甲山事件を一審裁判中に書いた「記憶の闇」など、傑作ノンフィクションは数多い。また、豊前環境権裁判と呼ばれた火力発電所反対運動で描かれた「海を殺すもの」への抗議、電気文明への再考をうながす「暗闇の思想」などの著書は、原発事故や辺野古問題を抱えた今こそ読まれるべき同時代性を持っている。

 だけど、僕が「草の根通信」が来るたびに、まず読んだのは最後の方にあるエッセイである。そこには、家族や友人との間で繰り広げられる、涙なくして読めない可笑しな出来事が軽妙に描かれていた。その時の自称が「松下センセ」である。僕がセンセを直に見たのは、ただ一回、「狼煙を見よ」の講演が東京であった時だけだ。「どろんこサブウ」という谷津干潟を守った青年を描いた児童文学が出た時に、当時千葉県に住んでいた僕のもとに、出版記念パーティの案内が送られてきたけど行かなかった。

 1998年に中津で「松下竜一展」が開かれ、緒形拳の講演があるという時は是非行きたいと思い、休暇も取って飛行機も宿も予約した。しかし突然体調不良となり、毎日点滴になってしまい泣く泣くキャンセルぜざるを得なかった。そんなこんなで実際に言葉を交わすことはなかったのだが、病気に倒れて休刊する直前の「草の根通信」には、僕の話が載っている。九州ではなかなか見られないだろう数々の映画チラシを送った話である。大の映画ファンである松下センセは、岩波ホールやユーロスペースなんかのチラシを見るだけで元気と思ったのである。(なお、下嶋著には「緒形拳」の名が時々「緒方」になったり、「美濃忠魂碑訴訟」(124頁)とか信じられない校正ミスがあり、ちょっとビックリ。)
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