石井裕也監督のタイプの異なる作品が同時に公開されている。『月』と『愛にイナズマ』である。石井監督には『舟を編む』『映画 夜空はいつでも最高密度の青色だ』など高く評価された映画があるが、僕は今ひとつピンと来なかった。コロナ禍最中に作られた『茜色に焼かれる』(2021)はとても良かったと思うが、どちらかというと相性が悪い監督かもしれない。今回の2本の作品は表面的には全く違う感触の映画だが、果たしてどう評価すれば良いのだろうか。

最初に公開された『月』は、『福田村事件』を越えるかもしれない本年屈指の「問題作」である。辺見庸原作を基にしながら、監督自ら脚本も書き新しい登場人物を作り出している。テーマは紛れもなく「相模原障害者施設襲撃事件」である。故あって今は書けなくなった作家、堂島洋子(宮沢りえ)が障害者施設に非正規職員として働き始める。その職場には作家を目指して賞に応募し続けている坪内陽子(二階堂ふみ)や障害者に紙芝居を自作して見せているサト君(磯村勇斗)らがいる。
(宮沢りえは森の中の施設へ行く)
施設には全く感覚を失った人などもいて、職員の中には入所者を差別したり虐待する人もいる。洋子はそれを見て施設長に訴えに行くが、非正規の立場をわきまえろと言われる。洋子は彼女を「師匠」と呼ぶ夫・堂島昌平(オダギリジョー)と暮らしているが、二人には乗り越えられない悲しみがあった。二人の家庭を描きながら、施設の中では「サト君」をめぐって問題が起きる。同僚にいじめられている彼は、次第に自分で声を挙げられない障害者には価値がないと思うようになっていく。一方、陽子(二階堂ふみ)は洋子の小説をきれい事だと痛烈に批判する。主要登場人物はお互いに批判しあい、そして「その日」を迎える…。
(サト君)
原作は障害者の一人称で語られていて、宮沢りえの役は映画オリジナルだという。(原作は未読。)この映画は急逝したプロデューサー河村光庸(スターサンズ)の遺作で、現代日本では非常に貴重な企画だろう。だが劇映画として成立させるためには、「宮沢りえ」的な役柄が必要なのか。今さらだが、今回も女優賞レベルの存在感を示していて、映画としては堂島洋子をめぐる物語として見る者を深く感動させる。だが、それでも「事件」は止められない。それあって作られた物語なので、サト君が悔い改めるという「きれい事」になるはずがない。そのことを皆が判っているから、画面に一貫して重苦しい雰囲気が漂っている。
この勇気ある映画に僕は完全には納得出来なかった。「優生思想」を乗り越えるにはどうすべきか。いくら批判されても考えを変えなくなったサト君をどう理解すれば良いのか。それはもちろん誰にも出来ないことかもしれない。この映画の登場人物は一生懸命止めようとしているが、果たされない。どうすれば良かったのか、深い問いを残して映画は終わる。この重い問いを共有出来る人は是非見るべき問題作。磯村勇斗は今年ずいぶん出ている。大変な役だが、頑張っていることを評価したい。
一方『愛にイナズマ』は石井監督のオリジナル脚本で、恋愛コメディというか、家族ドラマというか、名付けようがない不思議な映画である。見た後は何だか「良いものを見た感」があるが、どうも語りにくい。それは人生における「名付けようがないもの」を描いているからだろう。26歳の折村花子(松岡茉優)は「映画監督」である。世間に知られてるほどではないが、短編で評価されウィキペディアにも載っているとか。今度『消えた女』というオリジナル脚本で商業映画デビューの予定。これは監督自身の母親がある日突然いなくなってしまった体験を基にしている。しかし、プロデューサーや助監督は「突然消える」はあり得ない、「理由」がなくてはと言う。折村はコロナ禍で追いつめられながら、脚本を書き直している。

常にカメラを持ち歩いている花子は、ある日「空気を読まない」舘正夫(窪田正孝)を町で見かけ、後を付けてバーに行く。そこで運命的な出会いを果たすのだが、一方花子の映画は危機にある。業界の常識を押しつけてくるプロデューサーに欺され、いつの間にか「病気のため降板」とされ、自分のシナリオのまま助監督が監督に昇進することになっていた。映画を諦めるのか。「舐められたまま終われない」と花子は正夫とともに、父(佐藤浩市)を訪ねてカメラを回す。『消えた女』の真実を突きとめようと、父に本当のことを話してくれと言うのである。家族をめぐるドキュメント映画製作に路線変更したのである。
その後、長男(池松壮亮)、次男(若葉竜也)も呼び寄せられ、家族がそろう。正夫がカメラを回しながら、花子が皆を問い詰めて母の真相を聞き出そうとするが…。その結果、驚くべき真相が次々と明かされていく。この映画は何なんだろう。前半の「業界ではこうやってる」は、大阪芸術大出身で若くして短編で認められた石井監督自身が言われてきたことかもしれない。物語には「理由」がいるのか。確かに理由なく人は消えないのが普通だろうが、花子と正夫の出会いは理由なく突然起こった。このような理由なき突発事こそ、人生を支えているとも言える。だが展開する物語は面白いけれど、今ひとつ理解出来ない部分がある。
(折村家の人々+舘正夫)
『愛にイナズマ』は松岡茉優の魅力で成立していると思う。『月』の宮沢りえと同様に女優の映画かもしれない。今までの監督の映画でも満島ひかりや尾野真千子など女優の魅力が際立っていた。『月』は障害者自身が入所者として出演しているという。一方、『愛にイナズマ』は兄弟を含めて、脇役が面白い。益岡徹、高良健吾、三浦貴大など皆印象的だが、ホンのちょっとした出番だが趣里が携帯ショップ店員として出ている。このような出来事に僕も直面したので、すごく共感した。本当に携帯電話の解約は大変なのである。この2作はいずれも見るに値する映画だが、評価が難しいという意味でも共通している。

最初に公開された『月』は、『福田村事件』を越えるかもしれない本年屈指の「問題作」である。辺見庸原作を基にしながら、監督自ら脚本も書き新しい登場人物を作り出している。テーマは紛れもなく「相模原障害者施設襲撃事件」である。故あって今は書けなくなった作家、堂島洋子(宮沢りえ)が障害者施設に非正規職員として働き始める。その職場には作家を目指して賞に応募し続けている坪内陽子(二階堂ふみ)や障害者に紙芝居を自作して見せているサト君(磯村勇斗)らがいる。

施設には全く感覚を失った人などもいて、職員の中には入所者を差別したり虐待する人もいる。洋子はそれを見て施設長に訴えに行くが、非正規の立場をわきまえろと言われる。洋子は彼女を「師匠」と呼ぶ夫・堂島昌平(オダギリジョー)と暮らしているが、二人には乗り越えられない悲しみがあった。二人の家庭を描きながら、施設の中では「サト君」をめぐって問題が起きる。同僚にいじめられている彼は、次第に自分で声を挙げられない障害者には価値がないと思うようになっていく。一方、陽子(二階堂ふみ)は洋子の小説をきれい事だと痛烈に批判する。主要登場人物はお互いに批判しあい、そして「その日」を迎える…。

原作は障害者の一人称で語られていて、宮沢りえの役は映画オリジナルだという。(原作は未読。)この映画は急逝したプロデューサー河村光庸(スターサンズ)の遺作で、現代日本では非常に貴重な企画だろう。だが劇映画として成立させるためには、「宮沢りえ」的な役柄が必要なのか。今さらだが、今回も女優賞レベルの存在感を示していて、映画としては堂島洋子をめぐる物語として見る者を深く感動させる。だが、それでも「事件」は止められない。それあって作られた物語なので、サト君が悔い改めるという「きれい事」になるはずがない。そのことを皆が判っているから、画面に一貫して重苦しい雰囲気が漂っている。
この勇気ある映画に僕は完全には納得出来なかった。「優生思想」を乗り越えるにはどうすべきか。いくら批判されても考えを変えなくなったサト君をどう理解すれば良いのか。それはもちろん誰にも出来ないことかもしれない。この映画の登場人物は一生懸命止めようとしているが、果たされない。どうすれば良かったのか、深い問いを残して映画は終わる。この重い問いを共有出来る人は是非見るべき問題作。磯村勇斗は今年ずいぶん出ている。大変な役だが、頑張っていることを評価したい。
一方『愛にイナズマ』は石井監督のオリジナル脚本で、恋愛コメディというか、家族ドラマというか、名付けようがない不思議な映画である。見た後は何だか「良いものを見た感」があるが、どうも語りにくい。それは人生における「名付けようがないもの」を描いているからだろう。26歳の折村花子(松岡茉優)は「映画監督」である。世間に知られてるほどではないが、短編で評価されウィキペディアにも載っているとか。今度『消えた女』というオリジナル脚本で商業映画デビューの予定。これは監督自身の母親がある日突然いなくなってしまった体験を基にしている。しかし、プロデューサーや助監督は「突然消える」はあり得ない、「理由」がなくてはと言う。折村はコロナ禍で追いつめられながら、脚本を書き直している。

常にカメラを持ち歩いている花子は、ある日「空気を読まない」舘正夫(窪田正孝)を町で見かけ、後を付けてバーに行く。そこで運命的な出会いを果たすのだが、一方花子の映画は危機にある。業界の常識を押しつけてくるプロデューサーに欺され、いつの間にか「病気のため降板」とされ、自分のシナリオのまま助監督が監督に昇進することになっていた。映画を諦めるのか。「舐められたまま終われない」と花子は正夫とともに、父(佐藤浩市)を訪ねてカメラを回す。『消えた女』の真実を突きとめようと、父に本当のことを話してくれと言うのである。家族をめぐるドキュメント映画製作に路線変更したのである。
その後、長男(池松壮亮)、次男(若葉竜也)も呼び寄せられ、家族がそろう。正夫がカメラを回しながら、花子が皆を問い詰めて母の真相を聞き出そうとするが…。その結果、驚くべき真相が次々と明かされていく。この映画は何なんだろう。前半の「業界ではこうやってる」は、大阪芸術大出身で若くして短編で認められた石井監督自身が言われてきたことかもしれない。物語には「理由」がいるのか。確かに理由なく人は消えないのが普通だろうが、花子と正夫の出会いは理由なく突然起こった。このような理由なき突発事こそ、人生を支えているとも言える。だが展開する物語は面白いけれど、今ひとつ理解出来ない部分がある。

『愛にイナズマ』は松岡茉優の魅力で成立していると思う。『月』の宮沢りえと同様に女優の映画かもしれない。今までの監督の映画でも満島ひかりや尾野真千子など女優の魅力が際立っていた。『月』は障害者自身が入所者として出演しているという。一方、『愛にイナズマ』は兄弟を含めて、脇役が面白い。益岡徹、高良健吾、三浦貴大など皆印象的だが、ホンのちょっとした出番だが趣里が携帯ショップ店員として出ている。このような出来事に僕も直面したので、すごく共感した。本当に携帯電話の解約は大変なのである。この2作はいずれも見るに値する映画だが、評価が難しいという意味でも共通している。
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