東京新聞9月20日(木)に掲載されたドリアン助川の「樹木希林さんを悼む」という追悼文に、とても心打たれたので紹介しておきたい。できれば図書館等で全文を読んで欲しい。(画像で新聞記事を添付するのは著作権法上の問題があるらしいので、ここではしない。)
ドリアン助川(1962~)は、ウィキペディアでは「作家、詩人、歌手」となっている。僕は最初に「叫ぶ詩人」として名前を知った。90年に「叫ぶ詩人の会」を作ってロックに乗せて叫ぶような詩人として活動したのである。ラジオの深夜放送などでも活躍していたが、1999年に「叫ぶ詩人の会」を解散。2年ほどニューヨークに滞在して、帰国後は「明川哲也」の名前で主に執筆とライブハウスで活動した。2011年11月から「ドリアン助川」に名前を戻して作家として活動している。
2013年に刊行された「あん」(現在ポプラ文庫)で、ハンセン病問題をテーマとした。この本は世界12か国で翻訳出版されているという。「あん」は2016年に河瀨直美監督によって映画化され、カンヌ映画祭「ある視点」部門を初め世界各国で上映された。ドリアン助川と樹木希林の関係も、この「あん」の映画化からである。樹木希林は映画の中で、ハンセン病療養所・多磨全生園に住む元ハンセン病患者「徳江」を一度見たら忘れられないほどの深みを持って演じた。
(左から河瀨直美、樹木希林、永瀬正敏、右端ドリアン助川)
僕はこの「あん」の原作と映画はそれほど高く評価したわけじゃない。樹木希林が「餡」のもととなる小豆を煮詰めてゆく長いシーンは非常に素晴らしい。(小川紳介監督の「ニッポン国古屋敷村」の稲や蚕を映すシーンを思い出した。)でもその餡は「どら焼き」の餡という設定である。だったら餡と同じぐらい「どら焼きの皮」も重視して欲しいと僕は思った。あんこが美味しいのは大前提であり、僕が時々「うさぎや」のどら焼きを食べたくなるのは、あの皮の素晴らしさによるのだから。
ハンセン病に関する記述も僕には知ってることばかりで、ちょっと失望したんだけど、これは子ども向けなんだからやむを得ない。僕は1980年夏に韓国のハンセン病回復者定着村でワークキャンプをした。その次の冬に皆でハンセン病療養所の多磨全生園を訪れたと記憶している。ハンセン病と書いたけど、当時はまだ「らい病」(法律用語として)である。資料館もまだ出来てなかった。教員になってからは、生徒を引率して何回も見学に来た思い出もある。そういう意味では年季が入ってる。だから「あん」はちょっとセンチメンタルに見えてしまうのである。
それはともかく、追悼文。「この春、食事をご一緒した際に、樹木希林さんはご自分の体が映ったCTスキャンの画像を無言で差し出した。宴席でのその行為はあまりに唐突であり、私や関係者から言葉を奪った。「もう、治しようがないのよ」と始まっている。
「小説『あん』に映画化のチャンスが訪れたとき、私は希林さんに手紙を書いた。ハンセン病療養所でお菓子を作り続け、哲学者へとかわっていくヒロインの徳江。彼女を演じられるのは、希林さん、あなたしかいないのです、と。希林さんからは色よい返事をいただいたが「私は人の裏側ばかり見ている腹黒い人間なのよ、決して善人じゃありません」とも言われた。」
「映画『あん』(河瀨直美監督)が完成してから、どれだけ一緒に旅をさせてもらったことだろう。全国を回るPRの旅、カンヌをはじめとする世界各地の映画祭、あるいは小さな町や離島で行われる上映会まで、希林さんは実によくおつき合いしてくださった。そしてその旅の中で、希林さんがおっしゃっていることの半分は正しく、半分は正しくないとすぐにわかったのだった。」
「なかば紛争状態にあったウクライナでの映画祭。周囲からは止められたが、『そういうところだからこそ行ってあげたいわよね』と希林さんはおっしゃり、二人だけで現地に向かった。『あん』を見終わったあと、目頭を押さえているウクライナの人々を希林さんは静かに抱きしめた。」
「福島県・会津の山間部の中学校では、映画の感想を言えずに固まってしまった女生徒を、希林さんはやはり全身で抱きしめた。『私も同じだったんだよ。ひとこともしゃべれない子だった。でも、胸の中にはたくさんの言葉があるよね。』女生徒は無言のままうなずいた。」
「ウクライナの映画祭からの帰り、希林さんは自宅に戻らず、なぜかそのまま沖縄へ向かった。翌日、辺野古埋め立てを阻止しようとする沖縄のおばあたちと腕を組む希林さんの姿があった。映画祭からの衣装そのままで。」(終)
ドリアン助川(1962~)は、ウィキペディアでは「作家、詩人、歌手」となっている。僕は最初に「叫ぶ詩人」として名前を知った。90年に「叫ぶ詩人の会」を作ってロックに乗せて叫ぶような詩人として活動したのである。ラジオの深夜放送などでも活躍していたが、1999年に「叫ぶ詩人の会」を解散。2年ほどニューヨークに滞在して、帰国後は「明川哲也」の名前で主に執筆とライブハウスで活動した。2011年11月から「ドリアン助川」に名前を戻して作家として活動している。
2013年に刊行された「あん」(現在ポプラ文庫)で、ハンセン病問題をテーマとした。この本は世界12か国で翻訳出版されているという。「あん」は2016年に河瀨直美監督によって映画化され、カンヌ映画祭「ある視点」部門を初め世界各国で上映された。ドリアン助川と樹木希林の関係も、この「あん」の映画化からである。樹木希林は映画の中で、ハンセン病療養所・多磨全生園に住む元ハンセン病患者「徳江」を一度見たら忘れられないほどの深みを持って演じた。

僕はこの「あん」の原作と映画はそれほど高く評価したわけじゃない。樹木希林が「餡」のもととなる小豆を煮詰めてゆく長いシーンは非常に素晴らしい。(小川紳介監督の「ニッポン国古屋敷村」の稲や蚕を映すシーンを思い出した。)でもその餡は「どら焼き」の餡という設定である。だったら餡と同じぐらい「どら焼きの皮」も重視して欲しいと僕は思った。あんこが美味しいのは大前提であり、僕が時々「うさぎや」のどら焼きを食べたくなるのは、あの皮の素晴らしさによるのだから。
ハンセン病に関する記述も僕には知ってることばかりで、ちょっと失望したんだけど、これは子ども向けなんだからやむを得ない。僕は1980年夏に韓国のハンセン病回復者定着村でワークキャンプをした。その次の冬に皆でハンセン病療養所の多磨全生園を訪れたと記憶している。ハンセン病と書いたけど、当時はまだ「らい病」(法律用語として)である。資料館もまだ出来てなかった。教員になってからは、生徒を引率して何回も見学に来た思い出もある。そういう意味では年季が入ってる。だから「あん」はちょっとセンチメンタルに見えてしまうのである。
それはともかく、追悼文。「この春、食事をご一緒した際に、樹木希林さんはご自分の体が映ったCTスキャンの画像を無言で差し出した。宴席でのその行為はあまりに唐突であり、私や関係者から言葉を奪った。「もう、治しようがないのよ」と始まっている。
「小説『あん』に映画化のチャンスが訪れたとき、私は希林さんに手紙を書いた。ハンセン病療養所でお菓子を作り続け、哲学者へとかわっていくヒロインの徳江。彼女を演じられるのは、希林さん、あなたしかいないのです、と。希林さんからは色よい返事をいただいたが「私は人の裏側ばかり見ている腹黒い人間なのよ、決して善人じゃありません」とも言われた。」
「映画『あん』(河瀨直美監督)が完成してから、どれだけ一緒に旅をさせてもらったことだろう。全国を回るPRの旅、カンヌをはじめとする世界各地の映画祭、あるいは小さな町や離島で行われる上映会まで、希林さんは実によくおつき合いしてくださった。そしてその旅の中で、希林さんがおっしゃっていることの半分は正しく、半分は正しくないとすぐにわかったのだった。」
「なかば紛争状態にあったウクライナでの映画祭。周囲からは止められたが、『そういうところだからこそ行ってあげたいわよね』と希林さんはおっしゃり、二人だけで現地に向かった。『あん』を見終わったあと、目頭を押さえているウクライナの人々を希林さんは静かに抱きしめた。」
「福島県・会津の山間部の中学校では、映画の感想を言えずに固まってしまった女生徒を、希林さんはやはり全身で抱きしめた。『私も同じだったんだよ。ひとこともしゃべれない子だった。でも、胸の中にはたくさんの言葉があるよね。』女生徒は無言のままうなずいた。」
「ウクライナの映画祭からの帰り、希林さんは自宅に戻らず、なぜかそのまま沖縄へ向かった。翌日、辺野古埋め立てを阻止しようとする沖縄のおばあたちと腕を組む希林さんの姿があった。映画祭からの衣装そのままで。」(終)
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