何回も書いた戦後左翼史論をもう少し。結局、池上彰・佐藤優氏の本は自分の体験を交えながら振り返っているところが面白いのである。両氏の本に挑んだ大塚氏の本でも、自らの体験や思いが語られる。だんだん自分のことも書くべきかと思ってきたわけである。そこで何回か書くことにした。もっとも僕には語るほどの「左翼」体験はない。それどころか、厳密に言えば「左翼」だったことは一度も無い。だけど、「左派」的なスタンスに立ったことはある。それは何故か。
(一般的な政党の左右)
「左翼」「右翼」は、いわば数直線上の概念である。基準点をどこに置くかで、相対的に左右が変わってくる。僕より右にいる人には僕が左に見える。しかし、僕より左にいる人からは僕は右ということになって、批判されたことも多いのである。根本の「数直線的世界理解」で良いのかという問題もあるが、それは一応置いておく。問題は「基準点」をどこに取るかということを先に決めなければ、議論が先に進まないといいうことなのである。
戦後日本ではごく僅かの期間を除いて、自由民主党が権力の座にある。(自民党結成前も、後に合同する自由党、民主党の政権が長かった。)だから、日本の現状は良くも悪くも自民党に一番大きな政治的責任がある。「戦後教育は左翼が支配してきた」などと「妄想」をたくましくする人もいるけど、現実は逆である。戦後日本の教育は、自民党と文部省(現・文部科学省)に大きな責任がある。教育現場で長く働いてきて、文部省(文科省)のトップダウン的な「改革」に振り回された。
2006年の第一次安倍政権による「教育基本法改正」「教員免許更新制」がその頂点だが、僕はもちろん大反対だった。自民党政権に反対する人はみな左翼だというようなレベルの人から、左翼と思われても僕は何とも思わない。僕は左翼じゃないけど、間違いなく「反右翼」なのである。近代日本では「右翼」が支配して悲惨な戦争が起こった。戦後の右派もその歴史を直視しない。日本では「右派」(狭義の「右翼」だけでなく、宗教右派を含む)の危険性に反対することが大切だと思っているのだ。
(教育基本法改正反対反対デモ)
取り上げた本では、「左翼党派」の盛衰、思想性、内情が取り上げられている。このように「左翼」を党派中心に語ること自体がどうなんだろうと思う。実際に「左翼党派」に加盟した人はごく僅かだろう。僕もそうだし、そもそもどこかの政党の忠実な支持者だったことが一度も無いのである。僕をどこかの党の支持者だと思っている人もいるかもしれないけど、実際は「意志的な無党派票」でしかない。常に政治状況を考えて「戦略的投票」をしているだけである。
いや昔の社会党や民主党、今なら立憲民主党なり共産党なり…に投票したことならある。でも本当に支持していた人に入れたことなど、多分2回しかない。1980年の参院選全国区(当時)の中山千夏さん(革新自由連合=当選)と2001年参院選比例区の森元美代治さん(民主党=落選)である。森元さんはハンセン病療養所多磨全生園の元自治会長で、個人的知り合い。党派の問題ではなく、ハンセン病元患者が選挙に出たら支援しないわけにいかない。後は情勢を見て入れている。選挙をサボったことはない。社会科教員が選挙に行かないようになったら、亡国の兆しありだろう。
僕は別にそのことを誇っているわけではない。大塚さんは阪神ファンだと書いているが、僕はプロ野球をよく見ていた子どもの頃にさかのぼっても、特にファンだった球団がなかった。毎年巨人が優勝するんじゃ面白くないなあと思ってはいた。これは歌手や俳優でも同じ。いいなと思った人なら何人もいるし、ずいぶんレコードも持っている。だけどファンクラブに入ろうなんて思ったことはない。誰の追っかけもしたことがない。そこまで入れ込めない。まあ趣味のレベルなら、それでもいいだろう。
問題は政治や思想なんかである。僕が政治にも関心を持って新聞を読み始めた頃、それは1967年、68年頃だけど、ベトナム戦争やチェコ事件があった。チェコ事件というのは、「人間の顔をした社会主義」を目指したチェコの自由化(「プラハの春」)を、ソ連を中心としたワルシャワ条約機構軍が侵攻して押しつぶした事件である。1968年8月に起こり、僕は非常なショックを受けた。ベトナム戦争だけを見て「ソ連は平和勢力」なのかと思っていたからだ。それ以後はもっと慎重にニュースを見るようになった。
(プラハに侵攻したソ連の戦車)
僕は「政治少年」ではなく、文学や映画に関心を持つようになっていく。それは本来の性分でもあるだろうが、時代の反映でもあったと思う。60年代末の大学闘争最盛期に大学生だったら、どういう行動を取ったかは自分でも判らない。だから、当時どういう立場を取った人でも、僕にはその行動を批判したりすることは出来ない。僕は72年の連合赤軍事件(リンチ殺人事件やあさま山荘事件)以後の寒々とした雰囲気を覚えているわけである。僕は何かを信じるのも、信じたフリをするのも嫌だ。そう思ってきただけである。だから左翼じゃないけど、戦略的スタンスとしての「反右翼」なのである。
(一般的な政党の左右)
「左翼」「右翼」は、いわば数直線上の概念である。基準点をどこに置くかで、相対的に左右が変わってくる。僕より右にいる人には僕が左に見える。しかし、僕より左にいる人からは僕は右ということになって、批判されたことも多いのである。根本の「数直線的世界理解」で良いのかという問題もあるが、それは一応置いておく。問題は「基準点」をどこに取るかということを先に決めなければ、議論が先に進まないといいうことなのである。
戦後日本ではごく僅かの期間を除いて、自由民主党が権力の座にある。(自民党結成前も、後に合同する自由党、民主党の政権が長かった。)だから、日本の現状は良くも悪くも自民党に一番大きな政治的責任がある。「戦後教育は左翼が支配してきた」などと「妄想」をたくましくする人もいるけど、現実は逆である。戦後日本の教育は、自民党と文部省(現・文部科学省)に大きな責任がある。教育現場で長く働いてきて、文部省(文科省)のトップダウン的な「改革」に振り回された。
2006年の第一次安倍政権による「教育基本法改正」「教員免許更新制」がその頂点だが、僕はもちろん大反対だった。自民党政権に反対する人はみな左翼だというようなレベルの人から、左翼と思われても僕は何とも思わない。僕は左翼じゃないけど、間違いなく「反右翼」なのである。近代日本では「右翼」が支配して悲惨な戦争が起こった。戦後の右派もその歴史を直視しない。日本では「右派」(狭義の「右翼」だけでなく、宗教右派を含む)の危険性に反対することが大切だと思っているのだ。
(教育基本法改正反対反対デモ)
取り上げた本では、「左翼党派」の盛衰、思想性、内情が取り上げられている。このように「左翼」を党派中心に語ること自体がどうなんだろうと思う。実際に「左翼党派」に加盟した人はごく僅かだろう。僕もそうだし、そもそもどこかの政党の忠実な支持者だったことが一度も無いのである。僕をどこかの党の支持者だと思っている人もいるかもしれないけど、実際は「意志的な無党派票」でしかない。常に政治状況を考えて「戦略的投票」をしているだけである。
いや昔の社会党や民主党、今なら立憲民主党なり共産党なり…に投票したことならある。でも本当に支持していた人に入れたことなど、多分2回しかない。1980年の参院選全国区(当時)の中山千夏さん(革新自由連合=当選)と2001年参院選比例区の森元美代治さん(民主党=落選)である。森元さんはハンセン病療養所多磨全生園の元自治会長で、個人的知り合い。党派の問題ではなく、ハンセン病元患者が選挙に出たら支援しないわけにいかない。後は情勢を見て入れている。選挙をサボったことはない。社会科教員が選挙に行かないようになったら、亡国の兆しありだろう。
僕は別にそのことを誇っているわけではない。大塚さんは阪神ファンだと書いているが、僕はプロ野球をよく見ていた子どもの頃にさかのぼっても、特にファンだった球団がなかった。毎年巨人が優勝するんじゃ面白くないなあと思ってはいた。これは歌手や俳優でも同じ。いいなと思った人なら何人もいるし、ずいぶんレコードも持っている。だけどファンクラブに入ろうなんて思ったことはない。誰の追っかけもしたことがない。そこまで入れ込めない。まあ趣味のレベルなら、それでもいいだろう。
問題は政治や思想なんかである。僕が政治にも関心を持って新聞を読み始めた頃、それは1967年、68年頃だけど、ベトナム戦争やチェコ事件があった。チェコ事件というのは、「人間の顔をした社会主義」を目指したチェコの自由化(「プラハの春」)を、ソ連を中心としたワルシャワ条約機構軍が侵攻して押しつぶした事件である。1968年8月に起こり、僕は非常なショックを受けた。ベトナム戦争だけを見て「ソ連は平和勢力」なのかと思っていたからだ。それ以後はもっと慎重にニュースを見るようになった。
(プラハに侵攻したソ連の戦車)
僕は「政治少年」ではなく、文学や映画に関心を持つようになっていく。それは本来の性分でもあるだろうが、時代の反映でもあったと思う。60年代末の大学闘争最盛期に大学生だったら、どういう行動を取ったかは自分でも判らない。だから、当時どういう立場を取った人でも、僕にはその行動を批判したりすることは出来ない。僕は72年の連合赤軍事件(リンチ殺人事件やあさま山荘事件)以後の寒々とした雰囲気を覚えているわけである。僕は何かを信じるのも、信じたフリをするのも嫌だ。そう思ってきただけである。だから左翼じゃないけど、戦略的スタンスとしての「反右翼」なのである。
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