尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

成田稔、蟻田功、高見のっぽー2023年5月公表の訃報

2023年06月05日 22時04分58秒 | 追悼
 2023年5月の訃報を一気に書いた後で、「5月に公表された訃報」を3件書き残していたことに気が付いた。そこでもう一回別に書いておくことにする。国立ハンセン病資料館名誉館長国立ハンセン病療養所多磨全生園元園長成田稔氏が4月9日に亡くなった。95歳。新聞に載った時に特別に書こうかと思ったのだが、他に書きたいことが多く先送りにしてしまった。東大医学部卒業後、1955年に多磨全生園に勤務して、1981年に副園長、85年に園長となり、93年に退職し名誉園長となった。
(成田稔)
 僕が一番よく全生園に行っていた頃、「成田園長」「成田先生」という名前をよく聞いたものだが、成田氏の真骨頂はむしろ退官後の活動にあったと思う。「日本らい学会」を「日本ハンセン病学会」に改称し、「らい予防法」反対の学会声明をまとめる中心となった。それら専門家としての活動はよく知らないが、僕がすごい人だと思ったのは、ハンセン病国賠訴訟の証人尋問である。熊本、岡山、東京で訴訟が起こされ、成田氏はその東京訴訟の証人となった。僕はそれを休暇を取って傍聴に行ったのである。隔離政策は人権無視であり、その責任を取るのは「国以外にあり得ない」と強く述べた声は心に残っている。訴訟後にハンセン病資料館が国立施設に移管されると、2007年から2021年まで館長を務めた。最後までハンセン病の啓発に努めた生涯だった。

 「天然痘」の撲滅に尽力した蟻田功(ありた・いさお)氏が3月17日に死去、96歳。熊本医大を卒業後、1950年に厚生省に入省し、1962年にWHOアフリカ事務局員としてリベリアに赴任した。そこで天然痘対策を担当し、1977年にはWHOの世界天然痘根絶対策本部長に就任した。最後の流行地となったソマリアでは、紛争下にワクチン接種に奔走した。その結果、1980年に天然痘根絶宣言を出すことに成功したのである。1985年に帰国して、国立熊本病院院長に就任した。1990年には財団法人国際保健医療交流センターを設立した。1985年に朝日賞、1988年に日本国際賞を受賞したが、この人類史上の偉業を達成した責任者に対して、日本国が何も顕彰してないのは何故だろうか。
(蟻田功)
 俳優、作家の高見のっぽが1922年9月10日に死去した。88歳。訃報を半年以上伏せるように本人が希望し、誕生日の5月10日に合わせて公表された。1967年にNHK教育テレビの「なにしてあそぼう」の「ノッポさん」役に起用された。芸名は181㎝の長身だったためで、一言もしゃべらずに工作する姿が人気を呼んだ。4年後に番組が終了し、後継の「できるかな」には出演していなかったが、視聴者の要望が強く1年後に出演するようになた。1990年まで23年間、番組ではしゃべらなかったが、最後の番組で初めて声を発して話題となった。その後は絵本や児童文学を中心に活躍した。と、まあそういうことなんだけど、以上は報道等を基に書いたもので僕はほとんどこの人の記憶がない。1967年は小学校高学年で、テレビでは怪獣もの、アニメ、野球などは見ていたが、このような児童番組はもう見なかった。その後も縁がなかった。訃報で初めて自分が知らない有名人がいるという事実を知るのである。
(高見のっぽ)
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