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尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

藤村志保、ジェームス三木、石森史郎、増位山他ー2025年6月の訃報

2025年07月07日 19時44分16秒 | 追悼

 2025年6月の訃報、日本人編。長嶋茂雄はこの後別に書く予定。まず女優の藤村志保が6月12日死去、86歳。1962年市川崑監督『破戒』(大映)でデビュー。原作者の島崎藤村と役名志保から芸名が付けられたのは有名。座頭市や眠狂四郎シリーズなど大映の看板シリーズで、楚々とした娘役で存在感を示した。中でも時代劇の名匠三隅研二監督の文芸女性映画『古都憂愁 姉いもうと』『なみだ川』(ともに1967年)では主演して魅力的。大河ドラマ『太閤記』(1965)のねね役などテレビでも活躍、バラエティ番組にも出たけれど、僕には60年代の魅力的な姿が忘れがたい人である。

(藤村志保)

 脚本家のジェームス三木が6月14日死去、91歳。本名は山下清泉(きよもと)。元々は俳優志望で俳優座養成所に入るも目が出ず、歌手に転向。その時の芸名がジェームス三木だった。歌手も成功せず脚本を書き始め、60年代後半から採用された。『赤い鳥逃げた?』『さらば青春の光』など当時好きだった映画も書いている。しかし、最大の成功を収めたのはテレビの朝ドラ『澪つくし』で最高視聴率55.3%を記録した。他にも大河ドラマ『独眼竜政宗』『八代将軍吉宗』『葵 徳川三代』などで知られる。舞台作品も多数。監督もした『善人の条件』という映画は選挙がテーマで授業で使った。92年には妻から「女性遍歴」を暴露され騒がれた。

(ジェームス三木)

 脚本家の石森史郎(いしもり・ふみお)が6月9日死去、93歳。この人は僕の大好きな斉藤耕一監督『旅の重さ』(1972)の脚本家である。同じ斉藤監督『約束』やその頃の松竹の漫画実写映画『同棲時代』『愛と誠』『博多っ子純情』などもこの人が手掛けていた。その前は日活で活動していたが、松竹に移りその後フリーになった。朝ドラ『水色の時』(1975、大竹しのぶ主演)も評判となり、70年代が活躍の絶頂期。その後は『青春デンデンデケデケ』『理由』など大林宣彦監督とのコンビも多い。多くのテレビドラマも手掛けた他、小説も書いている。原作を巧みに映画向きに仕立てる職人的手腕にたけた人だった。

(石森史郎)

 大相撲の元大関増位山が6月15日死去、76歳。元大関の初代増位山の長男として生まれ、父親の三保ヶ関部屋に入門。技巧派として知られ技能賞5回受賞。80年初場所後に大関に昇進したが、6場所で引退した。当時の大関は貴ノ花ひとりで、直前3場所31勝での昇進となった。史上初の親子大関だったが、大関としてはほとんど活躍出来なかった。しかし、この人はむしろ歌手として知られ、現役時代の1974年「そんな夕子にほれました」(120万枚)、1977年の「そんな女のひとりごと」(130万枚)のレコードが大ヒットした。今の相撲協会では許可されないことだが、結局増位山は演歌歌手として記憶される人だろう。

 (増位山) 

 指揮者で山形交響楽団創設者の村川千秋が6月25日死去、92歳。東京芸大卒業後、アメリカに留学して指揮を学び、1966年に帰国後、東京交響楽団の客演指揮者としてデビューした。その後中央や世界を目指すのではなく、故郷の山形県に1972年に東北初のプロオーケストラ、山形交響楽団を創設。半世紀以上にわたって指揮者として活躍した。『フィンランディア』などシベリウス作品に定評があった。山形県関係の多くの文化賞を受賞している。映画監督村川透の兄にあたる。

(村川千秋)

 三味線奏者で浪曲に合わせて演奏する「曲師」として活躍した沢村豊子が6月18日死去、88歳。玉川奈々福さんの曲師を務めていたので、僕も何度か聞いてる。今月の訃報で実際に接したことがある唯一の人。21年に松尾芸能賞功労賞受賞。福岡出身だが、幼少期から三味線が好きで、戦後すぐから浅草に出て厳しい修行を積んだ。並々ならぬ実力を感じさせる人だった。

(沢村豊子)

 映画会社「ユーロスペース」代表の堀越謙三が6月19日死去、80歳。ドイツに留学してヴェンダース監督の映画と出会い、日本に紹介する場を作った。それが1977年に渋谷に開設した「ユーロスペース」である。最初は「ニュー・ジャーマン・シネマ」を上映したが、後にキアロスタミ、カウリスマキなど世界の映画を紹介した。その後、映画製作にも乗り出し、カラックス、オゾンなどの映画を製作した。97年には「映画美学校」、2005年には東京芸大大学院映像研究科を立ち上げ教授に就任するなど次世代育成にも尽力した。僕は一番最初のドイツ映画上映から(昔の)ユーロスペースで見てきたが、この人の名前は知らなかった。

(堀越謙三)

 映画監督の栗山富夫が6月18日死去、84歳。松竹で『釣りバカ日誌』第1作を監督し、11作担当した人である。他に『祝辞』(芸術選奨新人賞)、『ハラスのいた日々』など。元日活の映画監督武田一成が6月12日死去、94歳。50年代に鈴木清順監督の助監督を務め、67年に監督昇進して、『盛り場流し唄 新宿の女』などを撮った。その後ロマンポルノになると、『おんなの細道 濡れた海峡』『私の中の娼婦』などの佳作を監督。また児童映画『先生のつうしんぼ』(1977)は高く評価された。

(栗山富夫)(武田一成)

 哲学者で「草刈十字軍」運動創設者の足立原實(あだちはら・みのる)が6月30日死去、94歳。東大農学部を卒業し、「地べたの哲学」「土に根ざした思想」を唱えた。富山県の大谷技術短大に職を得て、富山を中心に様々な活動を展開した。1974年に始まった「草刈十字軍」はヘリコプターによる除草剤散布に反対し、ボランティアによって草刈りを行うというもので、当時大きな反響を呼んだ。1997年には加藤剛主演で映画化もされたが、若者の参加が減り2016年で活動を終了した。その他、中国での植林活動なども行った。「農」を基にした哲学を提唱、実践した人だった。「草刈十字軍」って、懐かしいなあと思い出した。

(足立原實)(映画チラシ)

 他に、元京都大総長の宇宙科学者松本紘(ひろし)が15日死去、82歳。元大相撲幕内藤ノ川の服部祐児が6日死去、64歳。マチュア横綱、学生横綱2度獲得で期待されたが、腰痛で東前頭3枚目が最高位だった。気象学者の増田善信が9日死去、101歳。広島原爆の「黒い雨」降雨範囲を従来の4倍とする研究をまとめた。72歳で写真を始めユニークな自撮り写真でインスタグラムフォロワー数38万人の西本喜美子が9日死去、97歳。元競輪選手でもあった。ミステリーや冒険小説の評論家の関口苑生(えんせい)が12日死去、72歳。元森永製菓社長松崎昭雄が25日死去、92歳。元首相夫人安倍昭恵氏の父である。空手家の山崎照朝が22日死去、77歳。「あしたのジョー」の力石徹のモデルとも言われた伝説の空手家で、Wikipediaに長大な説明がある。


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