尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

中西太、上岡龍太郎、ティナ・ターナー等ー2023年5月の訃報

2023年06月04日 22時48分47秒 | 追悼
 2023年5月の訃報特集。ミステリー作家の原尞を別に書いたので、その他の人を内外合わせて1回で。誰かが亡くなるのは避けがたいが、5月は比較的大きな訃報が少なかった。若い人だと知らない訃報が多くなるが、その方が良いんだろう。

 スポーツ関係の訃報が多かったので、まずまとめて。元プロ野球選手の中西太が11日死去、90歳。パリーグで西鉄ライオンズの黄金時代を支えて、ホームラン王5回を獲得した。出身は香川で、高松一高時代に夏2回、春1回甲子園に出場し「四国の怪童」と呼ばれたという。1952年に西鉄(現西武)に入団、新人王となった。西鉄は三原脩監督のもとで56年から3年連続で日本一となり、中西は主力として支えた。62年から69年まで、西鉄で選手兼監督になり63年に優勝した。69年の「黒い霧事件」(八百長疑惑)で辞任し、その後日本ハム、阪神でも監督を務めた。しかし、監督としてはあまり良い成績を残せなかった。

 「情の人」で監督に向かないが、むしろ打撃を若い選手に教えるのが「天職」だと言い、打撃コーチとして評価が高かった。ヤクルト、阪神、近鉄、巨人、ロッテでコーチを務めて、若松勉、岡田彰布、掛布雅之らを育てた。妻は三原監督の長女で、三原監督の影響を受け継ぐ人だった。三冠王にはなっていないが、二冠王4回という記録を持つ。(最多は王の5回。)50年代が活躍の中心だったから、一番すごかった時期はナマでは知らない。むしろ監督として下位チームを率いた印象があるが、僕の若いときは「西鉄黄金時代」を語る人が多かったことは記憶している。
(中西太)
 東映フライヤーズ(現日本ハム)で活躍した毒島章一が11日死去、87歳。「毒島」は「ぶすじま」と読む。毒が「ぶす」だという知識をこの人から得た。1954年に東映に入団、すぐに主力打者となり、71年まで東映一筋に過ごした。1962年のリーグ初優勝に貢献したが、タイトルには縁がなかった。通算安打1977本とわずかに2千本に届かなかった。通算三塁打数が106本で、2位という記録を持っている。引退後は東映、西武などでコーチやスカウトとして活躍した。
(毒島章一)
 元バレーボール選手の横田忠義が9日死去、75歳。19歳で代表入りし、68年メキシコ五輪銀メダル、72年ミュンヘン五輪金メダルを獲得した。大古、森田とともに「三本柱」と呼ばれ、男子バレー黄金時代を築いた。その時代にいかに人気があり、日本中の女子生徒がバレーボール選手に憧れたかは小川洋子『ミーナの行進』に描かれている。76年モントリオール五輪4位で、78年引退。94~95年には全日本女子の監督を務めた。
(横田忠義)
 女子体操選手として、64年東京五輪団体銅メダルを獲得した池田敬子が13日死去、89歳。1954年にローマで開かれた世界選手権で、平均台の金メダルを獲得した。2017年の村上茉愛(床運動)まで出なかった記録である。メルボルン、ローマ、東京と3回五輪に出場し、女子体操界の牽引者として長く活動した。旧姓は田中で、池田は結婚後の姓。結婚、出産後も現役を続け活躍した先駆者の一人である。日体大が女子入学を認めた一期生で、卒業後も大学に残り、日体大教授、副学長を務めた。
(池田敬子)
 元漫才師、元タレントの上岡龍太郎が19日死去、81歳。夕刊紙が「伝説の芸人死す」と見出しを付け、なるほどと思った。元は59年から「漫画トリオ」で活躍した「横山パンチ」である。60年代半ばのお笑いブームで全国的に知られたが、68年に横山ノックが参議院議員に当選して事実上解散した。その後、上岡龍太郎名義で関西のテレビ、ラジオの司会者として有名になった。『鶴瓶上岡パペポTV』『探偵!ナイトスクープ』などは東京でも放送されたが、僕はテレビを持たない時期だったので全く見てない。2000年に引退を表明して、以後は全く公の場に出なかった。その消え方こそ最高の「芸」だったかも。理路整然たる毒舌で知られ、選挙出馬を求める声があった。大阪には横山ノック、西川きよしの「芸人枠」があるなどと言われ、上岡の出馬を期待する声も多かった。もし出ていたら、大阪がここまで「維新」の牙城にならなかったかもしれない。
(上岡龍太郎)
 歌舞伎役者の4代目市川段四郎が18日に死去、76歳。この死亡は「自殺」と言われているが、現時点では謎が多く未だよく判らない点が多い。兄が3代目市川猿之助(現猿翁)で、兄を支えるとともに市川一門の重鎮として重要な役を務めた。歌舞伎は詳しくないから語れないが。テレビなどで何度も報道された「事件」のことは書かない。ここでは猿翁、段四郎の母親について。父は3代目段四郎だが、母は女優の高杉早苗。戦前の松竹映画で活躍し、結婚で引退した。戦後の経済困窮で復帰し、70年代まで映画、テレビに出ていた。猿翁、段四郎の間に脚本家市川靖子がいたが、2003年に亡くなった。
(市川段四郎)
篠原睦治(むつはる)、8日没、84歳。臨床心理学、障害者問題が専門で、和光大で長く教えた。
いなせ家半七、11日没、64歳。落語家。5代目春風亭柳朝に弟子入りし、師匠没後に兄弟子小朝門下に移籍した。
浅草駒太夫、22日没、82歳。新聞の訃報は「ダンサー」だが、Wikipediaでは「ストリッパー」である。浅草などで「花魁ショー」で知られ、引退興行にはそうそうたる顔ぶれが集まったという。しかし、引退後も度々復帰していたことはWikipediaに非常に詳しい記述がある。晩年は浅草で「喫茶ベル」を経営していた。

 アメリカの歌手、ティナ・ターナーが24日死去、83歳。「ロックンロールの女王」と呼ばれた。テネシー州出身だが、最後はスイス市民権を取りスイスで亡くなった。1960年にアイク・ターナーと組んで「アイク・アンド・ティナ・ターナー」として活動を始め、60年代半ばには大成功した。日本のラジオでも「プラウド・メアリー」などがよく掛かっていて、「アイキャンティナターナー」という歌手だと思い込んでいた。アイク・ターナーと組む前に相互に他に交際相手がいたが、やがて二人は結ばれ結婚した。しかし、成功とともにアイクは酒と麻薬に溺れ、家庭内暴力がひどくなった。その悩みから「創価学会インターナショナル」に入会し、78年に正式に離婚した。その後ソロ活動を行い、1984年に「愛の魔力」などのヒットを生んだ。自伝を書いて家庭内暴力などを明かし、映画化されたことでも知られる。
(ティナ・ターナー)
 オーストリア出身の俳優、ヘルムート・バーガーが19日死去、78歳。イタリアの巨匠ルキノ・ヴィスコンティに見出され、映画に出演するようになった。『地獄に堕ちた勇者ども』で圧倒的な存在感を示し、『ルードヴィヒ』ではタイトルロールの狂王を演じ、『家族の肖像』でも記憶される。ヴィスコンティが「発見」した美形だから、他にも青春映画などにも出ている。しかし、ヴィスコンティの公然たるパートナーでもあり、監督死後は自ら「未亡人」と述べたともいう関係だった。
(ヘルムート・バーガー)
 アメリカの前衛映画作家、ケネス・アンガーが11日に死去、96歳。60年代から70年代にかけて、前衛的な実験映画をたくさん製作した。同性愛を公言し当初は「ゲイ・ポルノ」と扱われたこともあったが、アメリカを代表する実験映画作家である。『スコピオ・ライジング』、『ルシファー・ライジング』など主要な映画は『マジック・ランタン・サイクル』にまとめられ、日本でも上映された。また、50年代までのハリウッドのスキャンダルをまとめた『ハリウッド・バビロン』を1959年にパリで出版したことでも有名。
(ケネス・アンガー)
 フランスの小説家、批評家フィリップ・ソレルスが5日死去、86歳。実験的な作風で知られたヌーヴォ・ロマンの代表的な作家。『公園』(1960)で知られた。他にも『女たち』『秘密』など邦訳も多いが、句読点なしで書かれた『楽園』(1981)は未だ翻訳されていない。、批評家としてはポスト構造主義、政治的にはマルクス主義からマオイストを経て、最後は伝統回帰したと言われる。美術批評も多く、邦訳もされている。思想家ジュリア・クリスティヴァと結婚していた。
(フィチップ・ソレルス)
 ソ連出身でニューヨークで活動した現代美術家イリヤ・カバコフが27日死去、89歳。ウクライナのドニエプルペトロフスクで生まれ、モスクワの美術学校で学んだ。その後30年間「国家公認」の挿絵画家をしながら、非公認のアート活動を続けた。80年代後半にニューヨークへ移住、同郷のエミリアと知り合って、92年に結婚した。日本でも大地の芸術祭などで知られている。2008年に世界文化賞を受賞している。
(イリヤ・カバコフ夫妻)(人生のアーチ)
ジョン・ダニング、23日死去、81歳。アメリカのミステリー作家。デンヴァーで新聞記者をしていたが、辞職して作家を目指した。出版社とトラブって、作家を諦め稀覯本中心の古書店をやっていた。92年にその体験を生かした『死の蔵書』でカムバック。96年に日本で翻訳されると「このミステリーがすごい!」の1位になった。シリーズ化され、ハヤカワ文庫から刊行されている。
ハラルド・ツア・ハウゼン、28日死去、87歳。1983年に子宮頸がんを引き起こすパピローマウイルスを発見し、2008年にノーベル生理学医学賞を受賞した。
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1 コメント

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池田敬子さんは (指田 文夫)
2023-06-06 21:18:39
池田敬子さんは、横浜市の教育委員をされていました。何度か見たことがありますが、意外と背が低いなと思いました。
当然にも、相当に太られてもいましたが、堂々たる貫禄でした。
ただ、横浜市では特に何か成果を残された、ということはなかったようです。その後の、ヤンキー先生のようなひどさはありませんでした。
細郷道一市長の時代ですが、まだ良識があったようです。
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