尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

昭和天皇が見た戦争映画①(1941~1942)

2015年09月29日 00時21分26秒 |  〃 (歴史・地理)
 一つ前の記事で紹介した原武史「『昭和天皇実録』を読む」(岩波新書)の最後に面白い資料が掲載されている。「太平洋戦争期における天皇の映画鑑賞一覧」というものである。特に、対米英との戦争が開始されて以来、かなりの数の映画を見ていることがそこには示されている。この表からどのようなことが判るのか、映画史に関心があるものとして考えてみたい。

 当時の映画を評価する「モノサシ」は、今のようにたくさんの映画賞、映画祭がある時代ではないので、基本的には「キネマ旬報ベストテン」を使う。「キネマ旬報」は1919年に映画ファンの学生による外国映画批評誌として創刊された。1924年(大正13年)以来、寄稿する批評家の投票によるベストテンを選定してきた。(当初は外国映画だけで、日本映画は1926年から。10本選出じゃない年もある。)これは世界的にも非常に価値のあることではないか。(何しろ、最初の年の「芸術的にもっとも優れた映画」部門で、1位がチャップリンの「巴里の女性」、2位がルビッチの「結婚哲学」なのだから。)

 1940年に日中戦争下の雑誌統制で、「キネマ旬報」は「映画旬報」になる。太平洋戦争が始まると、米英の映画が公開できなくなり、1941、42年は日本映画のみの選出となっている。今はこの期間も「キネ旬ベストテン」に含めて考える人が多いだろう。しかし、1943年~1945年はもはやベストテン選出は中止されている。1943年(昭和18年)は「映画評論」だけがベストテンを選出し、これを参考にすることが多い。映画名だけ紹介しておくと、①無法松の一生②姿三四郎③海軍④花咲く港⑤望楼の決死隊⑤決戦の大空へ⑤熱風⑧愛機南へ飛ぶ⑨シンガポール総攻撃⑩風雪の春 である。
 
 ところで、原氏の表では、誰と見ているかが詳細に紹介されている。皇族が一緒に見ているのだが、天皇と皇后だけのことも多く、また天皇一家の子どもたちが加わることもある。高松宮(三弟)や三笠宮(四弟)が同席していることも多い。(結核療養中の次弟、秩父宮は同席していない。)子どもたちと違い、弟は軍隊体験があり戦場もある程度知っている。そこでは議論とまではいかなくても、感想を言い合うこともあっただろうか。すでに公刊されている高松宮日記と照合する作業が必要だろう。

 また、ミッドウェー海戦(1942年6月)の敗北ですでに戦況が悪化しているにもかかわらず、1942年11月に「ハワイ・マレー沖海戦」を見ていることなどを指して、原氏は「客観的な戦局の判断を見誤らせたということはなかったのでしょうか」と述べている。(130頁)しかし、それは映画観賞の問題なのだろうか。日本軍が負けている、残虐行為を行ったなどという映画は日本では作れないのだから、映画で戦局を理解すること自体が無理である。映画(劇映画であれ、記録映画であれ)は製作を決定してから完成までは長い時間がかかるものである。
(「ハワイ・マレー沖海戦」)
 1941年12月のハワイ・マレー沖海戦が一年後に映画として見られるというのは、奇跡的に早い出来事である。もちろん、これは海軍省の厳命で、開戦一年目の「大詔奉戴日」(宣戦布告した12月8日にちなみ、毎月8日を記念日とした。)までの完成を目指したものである。公開は1942年12月3日であるのに、天皇は11月28日、つまり公開前に見ている。天皇一人である。映画会社(東宝)も天皇もこの機会を待ち望んでいたのではないか。

 「太平洋戦争」下という限定があるので、一覧表は1941年12月から始まっている。それ以前はどうだったのか気になるが、とりあえず一覧をもとに判る範囲で簡単に解説しておきたい。
1941年
・「仏印の印象」(12.14)や「香港と新嘉坡(シンガポール)」(12.20)などはニュース映画だろう。「女警」(12.20)は「新中国建設」に奮闘する北京の女性警官を描く記録映画。占領下中国の記録映画。
・「或る日の干潟」は干潟の生物を撮影した下村兼史監督の有名なドキュメント映画で、生物学者としての関心から見たのだろう。日本の記録映画史に残る作品である。皇后、皇太子と見ているから、皇太子の誕生祝でもあったろう。(12.23)
(「或る日の干潟」)
1942年前半
・「機関銃」「村長の手記」を1月10日に見ているが、記録映画。短編記録映画は、以下省略
・「将軍と参謀と兵」(田口哲監督) ベストテン3位。山西省の作戦を描く国策映画。(3.8)
・「建国十年」 溥儀から贈られたという映画を皇后、弟たちと見ている。(4.7)
米国海兵慰問用の漫画映画を皇后、女子とともに見る。(4.24)
・「北京ノ花」「ミッキーの捕鯨船」 4.29の誕生日に見た映画。前の記述にある映画とこの映画は、時間的にみて2月のシンガポール陥落により入手したアメリカ映画の可能性がある。正規の輸入は途絶え、フィリピン戦は続いているので、シンガポールか、または上海、香港等から「戦利品」として運ばれたのではないだろうか。
・「オイラの捕鯨船」 日本の漫画映画。(5.10)
・「オルドス越えて」(5.26)や「オロチョン」「建設満洲」(6.2)などは「満州国」の記録映画。
・「青い鳥」 これは明らかに1940年製作の米映画、シャーリー・テンプルがミチルに扮したウォルター・ラング監督のカラー映画である。どこから来たかは不明だが。1940年製作だから、日本公開を目指していたのかもしれないが、どこかからの「戦利品」かもしれない。(6.16)

1942年後半
・「空の神兵」 日本映画新社による陸軍全面協力の記録映画。落下傘部隊の話で、主題歌でも知られる。(8.7)
・「マレー戦記・進撃の記録」(8.22)、「ビルマ戦記」(8.30)などは、題を見れば判る記録映画。
・「桃太郎の海鷲」 瀬尾光世監督による有名な国策アニメ。真珠湾攻撃がモデル。日本のアニメ史ではよく論及される映画である。皇后と皇太子初め子どもたちと見た。(10.18)
・「英国崩るるの日」(田中重雄監督) ベストテン10位。香港攻略を描いた映画。田中重雄は戦前から1960年代にかけて活躍した職人監督。戦後の大映で若尾文子主演の「永すぎた春」や「東京おにぎり娘」などを作った。唯一のベストテン入りがこの国策映画。(11.21)
・「ハワイ・マレー沖海戦」 山本嘉次郎監督、円谷英二特撮による、あまりにも有名な戦争映画。42年のベストテン1位。特撮場面が有名だが、予科練で一人前の兵士へと鍛えられていく若者の物語をドキュメントタッチで描く。これを見て兵隊を志願した若者もいたなどとして、戦後「戦犯映画」と見なされた戦時中を代表する国策戦争映画。天皇の感想をぜひ知りたいものである。(11.28)
・「東洋の凱歌」 フィリピン攻略戦の記録映画。(12.1)

 以下、延々と続くのだが、時間と字数により、この辺で一度切っておきたい。最後に簡単な分析をしようと思ったのだが、それも次回回し。あまりにもたくさん見ているので、見通しが甘かった。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 豊下楢彦と原武史、昭和天皇... | トップ | 昭和天皇が見た戦争映画②(19... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

 〃 (歴史・地理)」カテゴリの最新記事