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尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

サルトルの「出口なし」を見る

2018年09月20日 21時22分04秒 | 演劇
 シス・カンパニー公演、ジャン=ポール・サルトル作の「出口なし」(小川絵梨子演出・上演台本、新国立劇場小劇場)を見た。サルトルというより、大竹しのぶをしばらく見てないなあという程度の動機。発売初日に買った時、19日午後2時のB席しかなかった。大竹しのぶと言えば、この舞台の上演中(8.25~9.24)である9月1日に母親が亡くなった。亡き母の名前は聖書にちなむ「江すてる」だということだが、今回の劇で共演している多部未華子の役名が「エステル」だった。大竹しのぶは何度も「エステル」とセリフで呼ぶ。聴いてる観客としても何だか深い感慨を覚えた。

 演劇公演は長いときが多いけど、今回は1時間20分とすごく短い。サルトルがナチス占領中のパリで書いてパリ解放直前に上演された一幕ものである。設定は簡単で、とある密室に2人の女と1人の男が集められる。窓も鏡もない部屋で、何が何だかわからない。男はジャーナリストのガルサン(段田安則)、女は郵便局員のイネス(大竹しのぶ)、そして年が離れた裕福な夫がいたエステル(多部未華子)。他に門番みたいな役があるが、ほとんどこの3人で進行する。

 この3人はお互いに知らない間柄で、同じ場所にいるから自分の話をし始めるが理解しあう気持ちもない。出口なき密室で傷つけあう3人。しかし段々わかってくるけど、3人は死者でありここは地獄なのである。地獄と言っても拷問のような身体的に苦しい目には合わない。その代りに知らない人間どうしで永遠に密室に幽閉されるという刑罰を受けているのである。しかし彼らの人生には地獄に落とされるほどの悪をなしたのだろうか。

 サルトルと言えば「実存主義」であり、「アンガージュマン」(参加)である。70年代には世界的にもっとも有名な作家・思想家だったが、その後サルトルの失墜が起こった。実際にサルトルの様々な「参加」の選択は今となれば間違いが多かったと思う。でも21世紀になって、サルトル後の様々な思想家たちも相対化して見られるようになり、サルトルもちょっと見直されている。僕も「アルトナの幽閉者」の公演や仏文学者鈴木道彦(「嘔吐」の新翻訳者)の講演について書いた。

 何度たたいても開かなかった密室の扉が、ラスト近くで突然開くシーンがる。皆出て行けばいいはずだが、それでも突然の事態に皆留まることを選択する。「地獄」の中にあえて留まる。それはパリ占領下のサルトル自身のことなんだろうが、僕は見ているうちにこれは現代の話だと思った。トランプ政権のような、あるいは安倍政権のような、あるいはシリアで、ガザで、ミャンマーで、今までの経験では理解できない時代になっている。僕らは「地獄」にいるのではないのか。そして、そこから逃げられない以上は「引き受けて」「参加」するしかないんじゃないか。

 短いドラマだけど、それがサルトルを今見る意味なのかと思った。サルトルは小説以上に戯曲を書いていて、50年代のサルトルにはもっと注目すべき劇があると思う。役者では大竹しのぶ、段田安則がうまくて安定しているのは当たり前。そんな二人に絡む多部未華子が全く遜色ない頑張りでとても良かった。最近は舞台によく出ているが見たことがなかった。テレビドラマも映画でもあまり見てない。UQモバイルのCMぐらいしか思い浮かばないけど、ずいぶん存在感があった。
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1 コメント

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取れませんでしたが (さすらい日乗)
2018-10-01 08:01:28
チケットが取れず、行けませんでした。
小川絵梨子の演出は、どうでしたでしょうか。
私は、『マリアの首』を見てあきれたのですが。
田中千禾夫の名作を、飯場の「土方」の怒鳴りあいにしてしまい、唖然としたのですが。

サルトルは、現在は劇の方が良いという意見もあります。私は学生時代に『アルトナの幽閉者』をやったことがあります。
数年前に新国立劇場が上演して、良い戯曲だと思いました。
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