尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

シャンタル・アケルマン映画祭ーフェミニズム作家の「発見」

2022年05月14日 22時41分18秒 |  〃 (世界の映画監督)
 ヒューマントラストシネマ渋谷で「フランス映画祭」として、ジャック・リヴェットシャンタル・アケルマンエリック・ロメールの三人の監督を特集上映している。リヴェット、ロメールの二人はフランスの「ヌーヴェル・ヴァーグ」を代表する監督だが、日本ではトリュフォー、ゴダールなどと違ってなかなか公開されなかった。80年代以後のミニシアター・ブームでようやく公開されたが、リヴェットにはまだずいぶん未公開作品が残っていたものだ。ところで、もう一人のシャンタル・アケルマンって誰だ? いや、名前を聞いたような気はするが、一度も見てないんじゃないか。この際アケルマンを集中的に見てみようと思った。
(シャンタル・アケルマン映画祭)
 シャンタル・アケルマン(Chantal Akerman、1950~2015)は、これまで日本では本格的な紹介がなされなかった。しかし、今回重要作5本を見たことで、映画史理解に大きな欠落があったのだと判った。近年になって「映画史における女性の役割」に関して、根本的な見直しが行われている。この重要な女性監督のフェミニズム映画が日本で見られなかったのは大きな問題だった。今回もっと早く見ようと思ったのだが、ゴールデンウィーク中の上映は、なんと前日に満員になった回まであった。予定を超えて3週目も上映が続いているので、やっと5本全部見られた。

 調べてみると、アケルマン作品は「ゴールデン・エイティーズ」(1986)、「カウチ・イン・ニューヨーク」(1996)など日本公開された作品もあった。しかし、20代で作った自主製作的な映画は上映されなかった。今回フランス映画祭で上映されているが、アケルマンは元々はベルギー生まれである。ユダヤ系で、母方の祖父母はホロコーストの犠牲者で、母はアウシュヴィッツを生き延びた。15歳でゴダール「気狂いピエロ」を見て、映画製作に進もうと思ったという。僕も同じように思ったものだが、アケルマンは映画学校を中退してアントワープ証券取引所でダイヤモンド株の取引で製作費を作ったというから、凄いなあと思う。
(シャンタル・アケルマン)
 代表作と言われる「ジャンヌ・ディエルマン ブリュッセル1080、コメルス河畔通り23番」(1975)は、わずか25歳で作った作品だが、フェミニズム映画の代表作と評価されている。何と200分にもなる長大な映画だが、それもほとんどが固定されたカメラでじっと主人公のジャンヌを見ているだけである。この映画は今までのすべての映画(だけでなく様々なジャンルの芸術)の欠落を静かに告発している。映画内では人々が恋愛したり、あるいは殺しあったりしているが、彼・彼女は何かを食べて生きているはずである。主人公がシェフである映画はたくさんあるが、普通その家庭の食事は描かれない。

 何しろ「ジャンヌ・ディエルマン」という映画は、ほとんどのシーンが家事のシーンなのである。ジャンヌはひたすらジャガイモの皮をむいている。そんな映画が面白いのかと思うかもしれないが、これが退屈せずに3時間20分を見てしまうから驚き。ジャンヌを演じるのは、デルフィーヌ・セイリグで、アラン・レネ「去年マリエンバードで」や「ミュリエル」、ブニュエル「ブルジョワジーの秘かな愉しみ」などに出ていた。僕のお気に入りの女優だが、彼女がひたすら家事をしている映画があったのか。カメラは極端な長回しで、クローズアップやカットバックは用いられない。説明的なセリフがないから、最初は全然判らないが、やがて彼女の暮らしが見えてくる。夫と死別し高校生の一人息子と暮らしている。
(「ジャンヌ・ディエルマン」)
 部屋を移るときはいちいち照明を消している。それも節電しているのか性格なのか、オイルショック直後の時代性なのか、全く判らない。ラジオはあるがテレビがないのも、同時代の日本では考えられない。時々買い物に行く。カナダに住む妹から手紙が来る。隣人の子どもを預かる。時々男性がやってくる。説明がないから、観客には謎で、それを自分で解明しなければならない。そして、衝撃のラスト。明確に「女性の視点」で作ることを意識して製作された傑作である。

 長くなったので、他の映画は簡単に。「私、あなた、彼、彼女」は「ジャンヌ」の前年に24歳で作ったモノクロ映画で、監督自身が演じる若い女性が小さな部屋に引きこもっている。裸で手紙を書いたり、砂糖をなめたりする様子を延々と映しながら、やがて彼女はついに部屋を出る。トラック運転手の男と出会い、知人の女性がいる町まで乗せてもらう。男の語りと性的な誘惑、女性との同性愛。レズビアン女性を真っ正面から描いた先駆的作品と言われるらしいが、それ以上に都市の孤独な女性像が鮮やか。しかし、自主映画的な感触の作品である。なお、同名の映画が2018年にウクライナで作られていて、翌年大統領に当選するゼレンスキーが主演しているという話である。
(私、あなた、彼、彼女)
 1978年の「アンナの出会い」はアケルマンのスタイルを理解するためには必見だ。監督自身を思わせる女性監督が、映画の宣伝のためヨーロッパ各地を訪れる。その歓迎風景は描かれず、ただ移動の鉄道や駅の風景、男や母親、母の知人との短い出会いが長回しで描かれる。故郷に婚約者がいたらしいが、あちこち飛び回っているうちに時間が経ってしまった。揺れるセクシャリティ、母との関係、孤独な日常などをひたすら見つめる。冒頭がドイツの駅のシーンで、普通は駅に入ってくる鉄道を前から描きそうなところ、カメラの後ろから列車が入ってくる。下りていく乗客も後ろ姿。不思議な感触の傑作だ。
(「アンナの出会い」)
 次の2作は「文芸映画」である。「囚われの女」(2000)はプルーストの原作を現代に置き換える。ブルジョワの青年が嫉妬の感情に囚われていく様を美しい映像で描いていく。なかなか面白いが、設定についていけないかも。別れることになったが、別れきれない。海辺のホテルに出掛けるが…。運転しながら女を追い続ける男、その目に映るパリの風景が魅力的。
(「囚われの女」)
 最後の「オルメイヤーの阿房宮」(2010)は、ジョセフ・コンラッドの最初の長編の映画化。カンボジアで撮影されたというが、どことも地名の出てこない東南アジアのジャングル。川の畔に住む白人のオルメイヤーは、現地の女性との間に娘ニーナをもうける。今は娘の将来にしか関心がなく、町の寄宿学校に入れて白人として教育したい。しかし、娘は学校でいじめられて、なじめない。授業料を払えず退学になったニーナは戻って来るが。「阿房宮」は秦始皇帝の宮廷の名で、原作の翻訳の名前。原題は「オルメイヤーの愚行」である。ニーナが町を彷徨うシーンやオルメイヤーが川をボートで過ぎゆくシーンなど、何という美しさだろう。白人の「愚行」を厳しく見つめる「脱植民地主義」がテーマなんだろうが、映画的なまとまりは今ひとつか。
(「オルメイヤーの阿房宮」)
 アケルマンは2015年にドキュメンタリー映画「No Home Movie」を作った後で亡くなった。うつ病による自殺と言われているらしい。記録映画を含めて、まだアケルマンには未紹介の映画が20~30本あるようだ。初期のアマチュア作品は別にしても、まだ未見の重要作が残っている可能性がある。新しい目で見れば、歴史の中に発見はいくらでもあるという好例だ。時間は大変だけど、「ジャンヌ・ディエルマン」は是非見るべき映画だろう。
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