米大統領選の話はまだ続くのだが、ちょっと置いて本の話。(ところで、米大統領選の開票作業はまだ続いている。どういうことなのか判らないけど、両候補の得票数も毎日少しづつ変わっている。クリントン票はついにトランプ票を100万票も上回った。選挙人数は変わらないけど。でも、ホントどうなってるんだろう。確認作業や海外の投票などが加わったりしているんだろうか。)
このブログを見ている限りでは、僕はニュースや映画の記事が多いなと自分でも思う。でも、本当は「本を読む」方が日々の暮らしでは大事なのである。本を読まない日はないし。だけど、映画は一日で完結するから、感想も書きやすい。本の場合、長編は読み終わるまでずいぶん長くかかる。それに、自分だけで大切に読んでいたいといった思いもしてきて、つい書かずじまいになることもある。いま、ちょっとこのブログの「カテゴリー」整理をしてるんだけど、本のことはあんまり書いてないなあと思った。
ということで、最近読んでるアメリカ文学の話である。今年はずっとアメリカ大統領選のニュースが続いた。政治や経済も大事だけど、その国の文化を知りたいなあと思うと、本を読みたくなる。アメリカの場合、音楽や映画も大事だけど、僕はやっぱり本が読みたいのである。だから、ずっとアメリカ文学を読みたいと思ってたんだけど、やっと10月から取り組んでいる。
大統領選というより、「村上柴田翻訳堂」の本がたまってきたので、早く読んでしまいたいということが大きい。これは新潮文庫で1月から刊行されている米英文学の新刊、復刊シリーズである。村上春樹と柴田元幸がそれぞれ新訳を2冊刊行し、残り6冊が復刊される。いま一番信用できる翻訳家(の何人か)に入る両人が新訳に取り組む意義は、リンク先の「ごあいさつ」を読んでほしい。
僕は昔からアメリカ文学が大好きで、村上春樹が営々と翻訳しているアメリカの作家は、ほぼ全員をそれ以前の訳で読んできた。フィッツジェラルド、サリンジャー、カポーティ、チャンドラー、ジョン・アーヴィング…。もちろん村上春樹しか訳していないレイモンド・カーヴァーなんかは村上訳で初めて知ったわけだが、他の人は前から読んでいた。ずいぶん前のフィッツジェラルドはともかく、戦後の作品は数十年前の翻訳が残っている。サリンジャーやチャンドラーなんか、ずっと従来の本が読まれてきた。
でも、確かにチャンドラーの前の訳は古くなっていた。全訳じゃないのもあったし、40~50年代のカリフォルニアの生活様式が、50年代の日本では理解不能だったこともある。マンションやスーパーマーケット、マイカーなんかがない社会では、チャンドラーは完全には理解できなかったのである。だから、今後は「ロング・グッドバイ」(最高傑作)や「大いなる眠り」は村上訳がベースとして読まれていくだろう。
カポーティの「ティファニーで朝食を」も同様。名前だけ映画の原作として知られているが、実は第二次大戦中のニューヨークを舞台にした「不思議な女の子」の話である。この小説の面白さ、奥深さは村上春樹訳で初めてよく判った気がした。実に面白いんでビックリした。こんなに面白かったのか。新潮文庫は「冷血」でさえ新訳を出しているんだから、ここはぜひとも「遠い声、遠い部屋」も新訳して欲しい。数年前に、昔大好きだったこの本を再読したら、翻訳が古びてしまっていたことに愕然とした。
さて、今度の「村上柴田翻訳堂」で村上春樹がまず訳したのは、カーソン・マッカラーズだった。1967年に50歳で亡くなった南部の女性作家である。カポーティやフラナリ―・オコナー、そして巨匠フォークナーなんかも入れることがある「南部ゴシック」系の作家である。昔はほとんどが文庫に入っていたけど、気づいてみれば今は一冊もない。僕もほとんど読んでいる好きな作家で、確かにこれはもったいない事態だった。そこで村上春樹訳で「結婚式のメンバー」が刊行されたわけである。
あれ、これは読んでなかったかなあ、名前に記憶がないなあ。と思ったら、加島祥造訳で今はなき福武文庫から出ていた「夏の黄昏」という本で読んでいた。まさに夏の黄昏に展開される、12歳の少女の物語である。フランキーは南部の町で大人になりつつある。「思春期」の訪れを持て余している。自分の世界の中に、大人の女が育ちつつあることを受け入れられない。まだ世の中の仕組みも、セックスのことも、何もよく判っていない。そんなちょっと変わった少女が、兄の結婚式を控えて、一緒に家出するんだと決意する物語である。そしてどうなるか?
実に新鮮で、この小説は新しく日本でも多くのファンを獲得するだろう。いやあ、これもこんなに面白かったっけとあらためて感心した。ちょっとエキセントリックでもあるマッカラーズの文学世界。その下に潜んでいる「永遠の少女」性が、今もなおこれほど新鮮だったのか。自分が世界で受け入れられていない、ここから出て行かなくてはいけないと思い込んでいる、世界中の多くの若い(あるいは年老いた)人々に捧げられたような物語である。でも、読んだ人は、そのイノセントな世界がどれほど残酷に「現実」というものに傷つけられるかを知って、「畏れ」を感じざるを得ないだろう。
いかにも、南部の夏の夕方というムードを漂わせる描写もうまい。「南部ゴシック」を改めてちゃんと読み直したいなあという気にさせる小説だった。こうなったら、デビュー作「心はさびしい狩人」(映画化題名「愛すれど心さびしく」)もぜひ新訳を出してほしいと思う。かつて新潮文庫に河野一郎訳で入っていた。他の訳者の翻訳もあるらしいけど、それがいいのならそれでもいい。アメリカ文学が好きな人には、それなりに知られている作家だけど、一般的にはそんなに知名度はないだろう。でも、とてもユニークな作家で、それはフラナリー・オコナーにも言えるけど、忘れがたい作家なのである。
アレレ、これだけで長くなってしまったので、他の小説は次回に回したい。最後に、11月末に刊行されるはずの、村上春樹新訳の本について。それは新潮社のサイトに数か月前に予告が出ていて、柴田元幸はナサニエル・ウェスト「イナゴの日/クール・ミリオン」となっている。「イナゴの日」は映画化されているし、ウェストは「孤独な娘」が岩波文庫に最近入って、僕も読んだ。だけど、村上訳はジョン・ニコルズ「卵を産まない郭公」だって出ている。誰、それ? 何、それ? さっそく検索したけれど、どうも作家についてはよく判らない。(刊行は2017年2月の予定。)
でも、この作品については判った。これは1969年のアメリカ映画「くちづけ」の原作である。そんな映画知らないぞって言われるかもしれない。同名の映画が日本にもあった(2013年、堤幸彦監督)。増村保造のデビュー作も「くちづけ」である。それじゃやない。ライザ・ミネリの本格的映画主演第一作である。ジュディ・ガーランドとヴィンセント・ミネリの娘であるライザ・ミネリは、20歳になる前からブロードウェイのミュージカルスターだったけど、歌もダンスもない一般映画の女優も始めたわけである。でも、少し後の「キャバレー」があんまり素晴らしくて、もう「くちづけ」なんて映画は誰も覚えてないに違いない。
でも、僕はこの映画を見ている。忘れられないというほど大好きではないけど、検索して出てきたら映画のことは思い出した。多分、文芸座のオールナイトで見たんじゃないか。学生時代はそんなこともできたのである。結構傷つき、傷つけあうシビアな青春映画だったと思う。アメリカ青春映画によくあるような、「心を病む」展開だったと思う。この小説を村上春樹が選んだ理由はなんだろう。映画を見てないことはないだろう。それにしても、この作家は全然知らない。いやあ、期待はするんだけど、ちょっと心配もあるような…。
このブログを見ている限りでは、僕はニュースや映画の記事が多いなと自分でも思う。でも、本当は「本を読む」方が日々の暮らしでは大事なのである。本を読まない日はないし。だけど、映画は一日で完結するから、感想も書きやすい。本の場合、長編は読み終わるまでずいぶん長くかかる。それに、自分だけで大切に読んでいたいといった思いもしてきて、つい書かずじまいになることもある。いま、ちょっとこのブログの「カテゴリー」整理をしてるんだけど、本のことはあんまり書いてないなあと思った。
ということで、最近読んでるアメリカ文学の話である。今年はずっとアメリカ大統領選のニュースが続いた。政治や経済も大事だけど、その国の文化を知りたいなあと思うと、本を読みたくなる。アメリカの場合、音楽や映画も大事だけど、僕はやっぱり本が読みたいのである。だから、ずっとアメリカ文学を読みたいと思ってたんだけど、やっと10月から取り組んでいる。
大統領選というより、「村上柴田翻訳堂」の本がたまってきたので、早く読んでしまいたいということが大きい。これは新潮文庫で1月から刊行されている米英文学の新刊、復刊シリーズである。村上春樹と柴田元幸がそれぞれ新訳を2冊刊行し、残り6冊が復刊される。いま一番信用できる翻訳家(の何人か)に入る両人が新訳に取り組む意義は、リンク先の「ごあいさつ」を読んでほしい。
僕は昔からアメリカ文学が大好きで、村上春樹が営々と翻訳しているアメリカの作家は、ほぼ全員をそれ以前の訳で読んできた。フィッツジェラルド、サリンジャー、カポーティ、チャンドラー、ジョン・アーヴィング…。もちろん村上春樹しか訳していないレイモンド・カーヴァーなんかは村上訳で初めて知ったわけだが、他の人は前から読んでいた。ずいぶん前のフィッツジェラルドはともかく、戦後の作品は数十年前の翻訳が残っている。サリンジャーやチャンドラーなんか、ずっと従来の本が読まれてきた。
でも、確かにチャンドラーの前の訳は古くなっていた。全訳じゃないのもあったし、40~50年代のカリフォルニアの生活様式が、50年代の日本では理解不能だったこともある。マンションやスーパーマーケット、マイカーなんかがない社会では、チャンドラーは完全には理解できなかったのである。だから、今後は「ロング・グッドバイ」(最高傑作)や「大いなる眠り」は村上訳がベースとして読まれていくだろう。
カポーティの「ティファニーで朝食を」も同様。名前だけ映画の原作として知られているが、実は第二次大戦中のニューヨークを舞台にした「不思議な女の子」の話である。この小説の面白さ、奥深さは村上春樹訳で初めてよく判った気がした。実に面白いんでビックリした。こんなに面白かったのか。新潮文庫は「冷血」でさえ新訳を出しているんだから、ここはぜひとも「遠い声、遠い部屋」も新訳して欲しい。数年前に、昔大好きだったこの本を再読したら、翻訳が古びてしまっていたことに愕然とした。
さて、今度の「村上柴田翻訳堂」で村上春樹がまず訳したのは、カーソン・マッカラーズだった。1967年に50歳で亡くなった南部の女性作家である。カポーティやフラナリ―・オコナー、そして巨匠フォークナーなんかも入れることがある「南部ゴシック」系の作家である。昔はほとんどが文庫に入っていたけど、気づいてみれば今は一冊もない。僕もほとんど読んでいる好きな作家で、確かにこれはもったいない事態だった。そこで村上春樹訳で「結婚式のメンバー」が刊行されたわけである。
あれ、これは読んでなかったかなあ、名前に記憶がないなあ。と思ったら、加島祥造訳で今はなき福武文庫から出ていた「夏の黄昏」という本で読んでいた。まさに夏の黄昏に展開される、12歳の少女の物語である。フランキーは南部の町で大人になりつつある。「思春期」の訪れを持て余している。自分の世界の中に、大人の女が育ちつつあることを受け入れられない。まだ世の中の仕組みも、セックスのことも、何もよく判っていない。そんなちょっと変わった少女が、兄の結婚式を控えて、一緒に家出するんだと決意する物語である。そしてどうなるか?
実に新鮮で、この小説は新しく日本でも多くのファンを獲得するだろう。いやあ、これもこんなに面白かったっけとあらためて感心した。ちょっとエキセントリックでもあるマッカラーズの文学世界。その下に潜んでいる「永遠の少女」性が、今もなおこれほど新鮮だったのか。自分が世界で受け入れられていない、ここから出て行かなくてはいけないと思い込んでいる、世界中の多くの若い(あるいは年老いた)人々に捧げられたような物語である。でも、読んだ人は、そのイノセントな世界がどれほど残酷に「現実」というものに傷つけられるかを知って、「畏れ」を感じざるを得ないだろう。
いかにも、南部の夏の夕方というムードを漂わせる描写もうまい。「南部ゴシック」を改めてちゃんと読み直したいなあという気にさせる小説だった。こうなったら、デビュー作「心はさびしい狩人」(映画化題名「愛すれど心さびしく」)もぜひ新訳を出してほしいと思う。かつて新潮文庫に河野一郎訳で入っていた。他の訳者の翻訳もあるらしいけど、それがいいのならそれでもいい。アメリカ文学が好きな人には、それなりに知られている作家だけど、一般的にはそんなに知名度はないだろう。でも、とてもユニークな作家で、それはフラナリー・オコナーにも言えるけど、忘れがたい作家なのである。
アレレ、これだけで長くなってしまったので、他の小説は次回に回したい。最後に、11月末に刊行されるはずの、村上春樹新訳の本について。それは新潮社のサイトに数か月前に予告が出ていて、柴田元幸はナサニエル・ウェスト「イナゴの日/クール・ミリオン」となっている。「イナゴの日」は映画化されているし、ウェストは「孤独な娘」が岩波文庫に最近入って、僕も読んだ。だけど、村上訳はジョン・ニコルズ「卵を産まない郭公」だって出ている。誰、それ? 何、それ? さっそく検索したけれど、どうも作家についてはよく判らない。(刊行は2017年2月の予定。)
でも、この作品については判った。これは1969年のアメリカ映画「くちづけ」の原作である。そんな映画知らないぞって言われるかもしれない。同名の映画が日本にもあった(2013年、堤幸彦監督)。増村保造のデビュー作も「くちづけ」である。それじゃやない。ライザ・ミネリの本格的映画主演第一作である。ジュディ・ガーランドとヴィンセント・ミネリの娘であるライザ・ミネリは、20歳になる前からブロードウェイのミュージカルスターだったけど、歌もダンスもない一般映画の女優も始めたわけである。でも、少し後の「キャバレー」があんまり素晴らしくて、もう「くちづけ」なんて映画は誰も覚えてないに違いない。
でも、僕はこの映画を見ている。忘れられないというほど大好きではないけど、検索して出てきたら映画のことは思い出した。多分、文芸座のオールナイトで見たんじゃないか。学生時代はそんなこともできたのである。結構傷つき、傷つけあうシビアな青春映画だったと思う。アメリカ青春映画によくあるような、「心を病む」展開だったと思う。この小説を村上春樹が選んだ理由はなんだろう。映画を見てないことはないだろう。それにしても、この作家は全然知らない。いやあ、期待はするんだけど、ちょっと心配もあるような…。
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