尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

小弓公方と上総武田氏-戦国時代の関東④

2018年04月22日 23時28分34秒 |  〃 (歴史・地理)
 戦国時代の関東をめぐる話がまだ残っている。最後にまとめて書いてしまいたい。細かい話とともに、関東の戦国時代の持つ意味を考えてみたい。研究書は別にして、一般向けの本として一番詳しいのは吉川弘文館の「戦争の日本史」シリーズの10巻、市村高男著「東国の戦国合戦」(2009)だろう。この本は前から持っていたが、なんだか細かそうで後回しにしていた。案の定、知らない話が満載で、人名も地名も全然覚えられない。何でこんなに知らないんだと思った。

 中でも一番ビックリしたのが「小弓公方」(おゆみ・くぼう)。公方は鎌倉公方の公方で、享徳の乱以後、古河公方堀越公方に分裂して戦いが続いた。それはこれまで書いてきたし、教科書にも出ている知識である。一方、小弓公方? 聞いたことあるか? 大体、小弓って何だ? 小弓はその後、「生実」とも書かれるようになった地名で、千葉市中央区生実に小弓城があった。緑区におゆみ野ニュータウンがあって、京成千原線に「おゆみ野駅」がある。千葉市でも一番東京から遠い辺りで、まったく知らない。京成千原線というのも初めて聞いた。首都圏でも大体そうだろう。
(小弓城跡)
 初代古河公方・足利成氏を継いで、2代目が政氏で、3代目が高基。しかし、父子の争いが起こり、ゴタゴタした。高基に僧侶になっていた異母弟がいて、古河公方の内輪もめを見て、上総武田氏(後述)がその弟を還俗させて(足利義明と名乗った)、新公方に祭り上げた。1518年のことである。(異説もある。)武田氏は古河公方に従う諸氏の下に立つのが嫌で、独自の公方を作ったのである。小弓城に迎えて、小弓公方と名乗り関東に風雲を呼んだ。細かい話は省略するとして、弱小ながら結構強くて、逆に古河公方と北条氏の連合軍ができた。1538年の第一次国府台(こうのだい)合戦で、義明父子が戦死して20年に及ぶ小弓公方は滅んだ。

 小弓公方をかついだ上総武田氏とは何だろうか。上総(かずさ)は千葉県中部の旧国名だが、京都に近い方が「上」なのに、東京から近い千葉県北部が「下総」(しもうさ)である。大昔は神奈川県から海で房総半島に渡ったのが正式ルートだったのである。源頼朝が一時逃亡したのもそのルート。半島なので、昔から独自の風土を形作ってきた。

 武田氏は源氏の有力一族で、各地で栄えた。武田は甲斐(山梨県)の戦国大名とだけ思っている人が多いと思うが、安芸(あき=広島県西部)や若狭(福井県西部)でも有力な一族が栄えた。源氏の嫡流は河内源氏2代目の源頼義の子・八幡太郎義家だが、その弟義光の次男・源義清が武田氏の祖である。武田というのは、茨城県ひたちなか市武田が由来で、武田氏館という建物が観光用に作られている。(行ったことがある。)

 武田氏の主流は甲斐の守護になった一族で、その流れの中から上総武田氏が出た。あまり詳しく書いても仕方ないから時代を飛ばすと、古河公方足利成氏の命を受けて上総に武田氏が攻め込んだ。当時は上杉氏が強かったので、そこへ古河公方方として入ったのである。だから土着の勢力じゃなくて、当初は侵略してきたわけだが、その後、戦国大名化していった。内部争いが激しく、小弓公方を担いだのは分家の真里谷(まりやつ)家。真里谷は千葉県木更津市の地名である。結局、何だかんだあって、自立はできずに北条氏に仕えて、北条氏とともに滅んだ。

 いやあ関東に公方がもう一つあったのか、千葉にも武田がいたのか。全然知らなかったから、ここで書いてみたけど、よほど詳しい人か、地元の人しか知らないだろう。そして、知らなくても日本史全般を論じるのに何の差支えもない。でも、そういう複雑な歴史が各地にあった。栃木県や群馬県なんか、もっと複雑である。茨城北部の戦国大名から、秋田の大名として続いた佐竹氏(今の秋田県知事の家系)とか、南総里見八犬伝の里見氏など、名前は知ってるけど細かくは知らなかった一族の盛衰が先の本では細かく出ている。

 戦国大名も今では「郷土の観光資源」で、地元の大名に肩入れする。目指すのは昔は天下統一、今は「大河ドラマの主人公」である。でも実際の歴史には、天下統一なんか考えずに地域の独自勢力として生き残りを図った一族も多かった。結局関東は鎌倉公方と上杉氏、後北条氏、徳川将軍家となって、「地元の戦国大名」として熱く語れる人がいない。家康が大河ドラマになっても、喜ぶのは岡崎で東京じゃない。しかし、江戸開府以来400年、江戸=東京が事実上日本の首都である。

 江戸時代前半には、産業的にも文化的にも江戸は上方に及ばなかった。元禄文化は大坂が中心だった。そういう「常識」を東京人も持っていて、関東は遅れていたと思い込んでいる。でも、それでは江戸に幕府が置かれて250年近く平和が保たれた意味がよく判らない。「周縁から歴史を見る」も大事だけど、肝心の「中央」の構造を無視しては無意味だ。鎌倉以来、畿内と関東の二本立て、それが日本政治の最大の特徴である。関東地方の歴史を知らなくては歴史の見方が偏る。

 北条氏の統治構造がそっくり徳川に引き継がれたので、案外古文書が残された。江戸時代に有力大名がいないから、転封・改易で大名家が変わることもない。在地領主が帰農して、有力な一族として村で重きを置かれて今に続いた例も多い。北条氏の統治の研究も進んでいる。秀吉が攻めてきたときは、まさに「本土決戦」間近の戦時中である。お国のために皆頑張れといった発想は、どうも戦国大名から出てきたらしい。皆が悩まされた荘園制の複雑な制度、中世の荘園公領制は戦国大名によって完全に否定され、丸ごと領主の権力が行き届く新しいシステムが作られた。百年続いた陰惨な殺し合いを経て、新しい統一権力が生まれてきた。その始まりと終わりは関東地方だった。
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