林芙美子の旅行記が文庫に2冊入っている。一つは岩波文庫の『下駄で歩いた巴里』で、2003年に出て今も入手出来る。その本のことは知っていたが、中公文庫でも2022年に『愉快なる地図 台湾・樺太・パリへ』という本が出ていることに気付いた。この両書にはけっこう同じ文章が入っていて、最初は損したかなと思ったけど、日本各地の紀行は前者、台湾紀行は後者にしかないので、やはり両方読む意味はある。同じ文章なのに、後者では「下駄で歩いたパリー」とカタカナになっているのが不思議。
(中公文庫)
作家が旅行記を書くことは多い。ここでもブルース・チャトウィン『パタゴニア』とかポール・セローのユーラシア大陸鉄道大紀行(『鉄道大バザール』『ゴースト・トレインは東の星へ』)などを紹介した。他にもスタインベックが愛犬とともにアメリカを旅した『チャーリーとの旅』も良い。日本でも『土佐日記』の昔から様々な紀行があり、西行、芭蕉など旅に死す放浪詩人が文人の理想だった。現代でも梨木香歩『エストニア紀行』、村上春樹『遠い太鼓』『辺境・近境』などいっぱい思いつく。一生懸命探せばもっといろいろ見つかるだろう。
(岩波文庫)
林芙美子の紀行は素晴らしく面白いんだけど、まとまったものではない。お金もないのに外国へ飛び出し、雑誌や新聞に書き送ったような印象記が多い。だけど、文章が生き生きとしているし、何よりも旅することが好き。天性の旅行者だったのである。それは幼い頃から行商の両親に連れられて各地を転々とした生育歴から来るものだろう。だから林芙美子は「旅のことを考えると、お金も家も名誉も何もいりません。恋だって私はすててしまいます。」(林芙美子選集第7巻あとがき)と言い切る。
(パリの林芙美子)
実際に林芙美子は結婚して夫がいても、常にひとり旅を好んだ。パリやロンドンまで、シベリア鉄道でひとり旅。「満州」や北京へもひとり旅。樺太や北海道もひとり旅なのである。言葉も判らず、一人でシベリア鉄道に乗って「社会主義社会」の中を行く。ソ連幻想に全く冒されていない林芙美子は冷静にソ連社会の貧しさを見つめている。と同時にロシア人の温かさも印象的に書き残す。パリでも一人で宿を借り、半年も滞在する。カフェへ行ってクロワッサンを食べ、バゲットをかじりながら街を行く。
とても100年近く昔の女性とは思えない。「女ひとり旅」はずっと難しかった。旅館がなかなか泊めてくれないのである。何か事情があり自殺しに旅に出たのかと思われた。70年代に「アンアン」「ノンノ」などを持った女性の旅ブームが起きたが、友人同士で旅するものだった。『男はつらいよ 柴又慕情』では事情を抱えた吉永小百合が友人2人と3人で旅に出て寅さんと知り合う。女が一人で旅しているのは、ドサ回りの三流歌手リリー(浅丘ルリ子)ぐらいのものである。70年代でもそんな感じだったのに、1930年代に林芙美子は一人で植民地を旅して、一人で飲み屋に入る。その自由なエネルギーが素晴らしい。
時代はちょうど満州事変から日中戦争へ至る頃である。戦争が近づく足音を聞きながら、満州からシベリアへ入る。満州事変直前にハルピンに行くのも貴重な証言になっている。ヨーロッパでは中国人が開く抗日集会にも出掛けて共感している。世界中どこでも皆愛国者だと感じたのである。まだ『放浪記』がベストセラーになる前、ようやく多少知られてきた時に台湾への講演旅行メンバーに選ばれた。それはひとり旅じゃなく、総督府へのあいさつ回りなどを強いられ迷惑だった。その後一人で旅に出るのは、その影響もあるかもしれない。しかし、どこでも街へ出て一人で飲み食べ、自分で感じている。
樺太(サハリン)への旅も凄い。もちろん当時日本領だった「南樺太」を訪れたのだが、これもスポンサーなしのひとり旅である。今のように飛行機で行ける時代じゃない。鉄道を延々と乗り継ぎ津軽海峡、宗谷海峡を船で越えるのである。そして着いた樺太では枯れ山が目立つことを見落としていない。王子製紙による乱伐の影響である。そして北へ北へと旅をし、現地の子どもたちを教える小学校に出掛ける。見るべきものを見ている旅人だったのである。そして旅行者として凄みを感じたのは、その樺太からの帰途、ふと思い立って滝川で下車して道東に出掛けたことである。
(北海道滝川で泊まった三浦華園)
滝川はもうすぐ途中まで廃線となる根室本線への分岐で、そこで泊まった上記画像の宿は今も残っているらしい。そして釧路まで行って、摩周湖などを見ている。ひとり旅と言っても、全部自分で手配するのではなく、現地の新聞社などの支援を受けているが、それにしても樺太一人旅の直後にさらに思い立って下車するなんて、どういう人だろう。また伊豆の下田へ行った紀行では、1934年に始まった黒船祭を記録した。もうすぐ戦争となる日米関係だが、その時はグルー大使が駆逐艦に乗って下田まで来て大歓迎を受けた。そんな記述も貴重な証言である。
(中公文庫)
作家が旅行記を書くことは多い。ここでもブルース・チャトウィン『パタゴニア』とかポール・セローのユーラシア大陸鉄道大紀行(『鉄道大バザール』『ゴースト・トレインは東の星へ』)などを紹介した。他にもスタインベックが愛犬とともにアメリカを旅した『チャーリーとの旅』も良い。日本でも『土佐日記』の昔から様々な紀行があり、西行、芭蕉など旅に死す放浪詩人が文人の理想だった。現代でも梨木香歩『エストニア紀行』、村上春樹『遠い太鼓』『辺境・近境』などいっぱい思いつく。一生懸命探せばもっといろいろ見つかるだろう。
(岩波文庫)
林芙美子の紀行は素晴らしく面白いんだけど、まとまったものではない。お金もないのに外国へ飛び出し、雑誌や新聞に書き送ったような印象記が多い。だけど、文章が生き生きとしているし、何よりも旅することが好き。天性の旅行者だったのである。それは幼い頃から行商の両親に連れられて各地を転々とした生育歴から来るものだろう。だから林芙美子は「旅のことを考えると、お金も家も名誉も何もいりません。恋だって私はすててしまいます。」(林芙美子選集第7巻あとがき)と言い切る。
(パリの林芙美子)
実際に林芙美子は結婚して夫がいても、常にひとり旅を好んだ。パリやロンドンまで、シベリア鉄道でひとり旅。「満州」や北京へもひとり旅。樺太や北海道もひとり旅なのである。言葉も判らず、一人でシベリア鉄道に乗って「社会主義社会」の中を行く。ソ連幻想に全く冒されていない林芙美子は冷静にソ連社会の貧しさを見つめている。と同時にロシア人の温かさも印象的に書き残す。パリでも一人で宿を借り、半年も滞在する。カフェへ行ってクロワッサンを食べ、バゲットをかじりながら街を行く。
とても100年近く昔の女性とは思えない。「女ひとり旅」はずっと難しかった。旅館がなかなか泊めてくれないのである。何か事情があり自殺しに旅に出たのかと思われた。70年代に「アンアン」「ノンノ」などを持った女性の旅ブームが起きたが、友人同士で旅するものだった。『男はつらいよ 柴又慕情』では事情を抱えた吉永小百合が友人2人と3人で旅に出て寅さんと知り合う。女が一人で旅しているのは、ドサ回りの三流歌手リリー(浅丘ルリ子)ぐらいのものである。70年代でもそんな感じだったのに、1930年代に林芙美子は一人で植民地を旅して、一人で飲み屋に入る。その自由なエネルギーが素晴らしい。
時代はちょうど満州事変から日中戦争へ至る頃である。戦争が近づく足音を聞きながら、満州からシベリアへ入る。満州事変直前にハルピンに行くのも貴重な証言になっている。ヨーロッパでは中国人が開く抗日集会にも出掛けて共感している。世界中どこでも皆愛国者だと感じたのである。まだ『放浪記』がベストセラーになる前、ようやく多少知られてきた時に台湾への講演旅行メンバーに選ばれた。それはひとり旅じゃなく、総督府へのあいさつ回りなどを強いられ迷惑だった。その後一人で旅に出るのは、その影響もあるかもしれない。しかし、どこでも街へ出て一人で飲み食べ、自分で感じている。
樺太(サハリン)への旅も凄い。もちろん当時日本領だった「南樺太」を訪れたのだが、これもスポンサーなしのひとり旅である。今のように飛行機で行ける時代じゃない。鉄道を延々と乗り継ぎ津軽海峡、宗谷海峡を船で越えるのである。そして着いた樺太では枯れ山が目立つことを見落としていない。王子製紙による乱伐の影響である。そして北へ北へと旅をし、現地の子どもたちを教える小学校に出掛ける。見るべきものを見ている旅人だったのである。そして旅行者として凄みを感じたのは、その樺太からの帰途、ふと思い立って滝川で下車して道東に出掛けたことである。
(北海道滝川で泊まった三浦華園)
滝川はもうすぐ途中まで廃線となる根室本線への分岐で、そこで泊まった上記画像の宿は今も残っているらしい。そして釧路まで行って、摩周湖などを見ている。ひとり旅と言っても、全部自分で手配するのではなく、現地の新聞社などの支援を受けているが、それにしても樺太一人旅の直後にさらに思い立って下車するなんて、どういう人だろう。また伊豆の下田へ行った紀行では、1934年に始まった黒船祭を記録した。もうすぐ戦争となる日米関係だが、その時はグルー大使が駆逐艦に乗って下田まで来て大歓迎を受けた。そんな記述も貴重な証言である。