三笠宮崇仁(みかさのみや・たかひと 1915.12.2~2016.10.27)が亡くなった。皇族として初めて百歳を迎えた人物だが、NHKのニュースでは「明治以後の皇族として初めて百歳を超えた」と伝えていた。では、明治以前にはいたのか。いないだろ、そんな人。神話時代の伝説的な天皇にさかのぼれば、確かに100歳を超えた天皇(当時は「大王」(オホキミ)だが)が何人もいる。第5代孝昭天皇は113歳、6代孝安天皇は137歳、7代孝霊天皇は128歳…といった具合である。そういう事例を持ち出してイチャモンを付ける輩がいると心配しているのか。そういう姿勢は、厳正なる歴史学者だった三笠宮を冒涜する行為ではないかと思う。そう思うから、ここに三笠宮の生涯を書いておきたい。
三笠宮のことを書いておこうかと思ったことが今までに何回かあった。一つは昨年に100歳を迎えた時、あるいは2014年に次男の桂宮が亡くなった時などである。三笠宮は5人の子女に恵まれた。そして、2人の女児は存命だけど、3人の男児はすでにない。「逆縁」である。それも三男の高円宮(たかまどのみや)が2002年、長男の寛仁(ともひと)が2012年、そして長らく闘病中だった次男桂宮が2014年と、元気な順番に亡くなってしまった。「皇族のあり方」なんていう問題とは別に、「長寿であることは、悲しみも多い」と感じないではいられなかった。それにしても、聖路加病院で亡くなり、主治医は105歳の日野原先生というんだから、驚くやら感心するやら…。
三笠宮は戦後になって、東大で歴史学を学び始めた。戦時中の経験から、「歴史を学ぶことの重要性」を痛感したからである。そして、非常に優れた古代オリエント学者になった。一般向けの本も多く、僕も読んだことがある。皇族の余技なんかではない。ホンモノの歴史学者である。そのことを認めない人はいないだろう。古代オリエント学会や中近東文化センターの設立の中心となり、学界への貢献も大きい。「古代オリエント」というと、浮世離れした好事家的学問と思うかもしれないが、それは違う。「戦争」を考え詰めると、「国家の起源」に行きつく。メソポタミアやエジプト、そしてアナトリア半島などの歴史を研究することは、現代に真っすぐつながっている。
戦後に歴史学を研究した理由に、戦時中の軍隊経験があったことは広く知られている。皇族男子は軍人になることが宿命だった時代である。次男の秩父宮は陸軍、三男の高松宮は海軍。よって四男の三笠宮はふたたび陸軍となる。学習院から陸軍士官学校へ進み、騎兵連隊で現場体験を積んだのちに陸軍大学校を卒業した。1943年からは実際に中国戦線に参謀として勤務した。「若杉参謀」(若杉は印にちなむ)と名乗って勤務したため、皇族と知らなかった人もいたと言われる。その時に日本軍の残虐行為、軍紀の乱れを知り、戒める意見を具申した。後になって自己批判した人はいるが、いかに皇族として身分が守られていたとはいえ、戦時中の時点で日本軍の実態を厳しく批判した人物がいたということは、歴史に残して忘れてはいけないことだろう。
戦後になっても、戦争の実態を証言し、戦前回帰の動きを批判した。例えば、「紀元節復活」への反対は有名である。2月11日は戦前に「紀元節」と呼ばれていた。「初代神武天皇が紀元前660年に即位した日」は、日本書紀などによれば、1月1日である。それをわざわざ「太陽暦に換算すれば、2月11日」と明治になって決めた。つまり「紀元節」は近代の産物である。戦後になって廃止されたが、それを「建国記念日」と名を変えて復活させようという動きが占領中から起こっていた。そして1963年に「結党以来一度も強行採決を考えたことがない」自民党によって、内閣委員会で強行採決された。その後、反対運動に一定の配慮をしたのだろう、「建国記念の日」と「の」の一字を加えて成立した。
「建国」の「記念日」ではなく、「記念する日」の意を込めたことにより、かろうじて「天皇制の神話を祝うことを強制する」ことがいくぶん避けられたわけである。確かに小さなことである。でも、その経緯を知ってか知らずか、今回の訃報に際しても「建国記念日」などと書いている人もいる。
戦時中の日本軍による残虐行使を知ってショックを受けたことは、今回多くの報道がなされている。その衝撃を自分ひとりの胸にしまうことなく、昭和天皇に中国で見た「反日映画」を見せることまでした。(そのことは以前に「昭和天皇が見た戦争映画②」の中で紹介した。)何度も何度も三笠宮が戦時体験に触れているのは、「歴史修正主義」が戦後の日本にはびこり続けたからである。(たまたま産経新聞を見たら、和平を進めたことは出ていても、残虐行為の問題には触れていない。ダンスなどのレクリエーションを取り上げ「庶民的で親しまれた」などと言うだけで「追悼」と言えるだろうか。)最後に、今の時点においても有効性があるのが残念なんだけど、三笠宮の言葉を紹介して起きたいと思う。
「偽りを述べる者が愛国者とたたえられ、真実を語る者が売国奴と罵られた世の中を、私は経験してきた。」 この言葉は今を生きる多くの人にも、心の中に大切にしまっておいてほしい言葉である。しばらくの間、この言葉が有効性を失うことはないだろう。
三笠宮のことを書いておこうかと思ったことが今までに何回かあった。一つは昨年に100歳を迎えた時、あるいは2014年に次男の桂宮が亡くなった時などである。三笠宮は5人の子女に恵まれた。そして、2人の女児は存命だけど、3人の男児はすでにない。「逆縁」である。それも三男の高円宮(たかまどのみや)が2002年、長男の寛仁(ともひと)が2012年、そして長らく闘病中だった次男桂宮が2014年と、元気な順番に亡くなってしまった。「皇族のあり方」なんていう問題とは別に、「長寿であることは、悲しみも多い」と感じないではいられなかった。それにしても、聖路加病院で亡くなり、主治医は105歳の日野原先生というんだから、驚くやら感心するやら…。
三笠宮は戦後になって、東大で歴史学を学び始めた。戦時中の経験から、「歴史を学ぶことの重要性」を痛感したからである。そして、非常に優れた古代オリエント学者になった。一般向けの本も多く、僕も読んだことがある。皇族の余技なんかではない。ホンモノの歴史学者である。そのことを認めない人はいないだろう。古代オリエント学会や中近東文化センターの設立の中心となり、学界への貢献も大きい。「古代オリエント」というと、浮世離れした好事家的学問と思うかもしれないが、それは違う。「戦争」を考え詰めると、「国家の起源」に行きつく。メソポタミアやエジプト、そしてアナトリア半島などの歴史を研究することは、現代に真っすぐつながっている。
戦後に歴史学を研究した理由に、戦時中の軍隊経験があったことは広く知られている。皇族男子は軍人になることが宿命だった時代である。次男の秩父宮は陸軍、三男の高松宮は海軍。よって四男の三笠宮はふたたび陸軍となる。学習院から陸軍士官学校へ進み、騎兵連隊で現場体験を積んだのちに陸軍大学校を卒業した。1943年からは実際に中国戦線に参謀として勤務した。「若杉参謀」(若杉は印にちなむ)と名乗って勤務したため、皇族と知らなかった人もいたと言われる。その時に日本軍の残虐行為、軍紀の乱れを知り、戒める意見を具申した。後になって自己批判した人はいるが、いかに皇族として身分が守られていたとはいえ、戦時中の時点で日本軍の実態を厳しく批判した人物がいたということは、歴史に残して忘れてはいけないことだろう。
戦後になっても、戦争の実態を証言し、戦前回帰の動きを批判した。例えば、「紀元節復活」への反対は有名である。2月11日は戦前に「紀元節」と呼ばれていた。「初代神武天皇が紀元前660年に即位した日」は、日本書紀などによれば、1月1日である。それをわざわざ「太陽暦に換算すれば、2月11日」と明治になって決めた。つまり「紀元節」は近代の産物である。戦後になって廃止されたが、それを「建国記念日」と名を変えて復活させようという動きが占領中から起こっていた。そして1963年に「結党以来一度も強行採決を考えたことがない」自民党によって、内閣委員会で強行採決された。その後、反対運動に一定の配慮をしたのだろう、「建国記念の日」と「の」の一字を加えて成立した。
「建国」の「記念日」ではなく、「記念する日」の意を込めたことにより、かろうじて「天皇制の神話を祝うことを強制する」ことがいくぶん避けられたわけである。確かに小さなことである。でも、その経緯を知ってか知らずか、今回の訃報に際しても「建国記念日」などと書いている人もいる。
戦時中の日本軍による残虐行使を知ってショックを受けたことは、今回多くの報道がなされている。その衝撃を自分ひとりの胸にしまうことなく、昭和天皇に中国で見た「反日映画」を見せることまでした。(そのことは以前に「昭和天皇が見た戦争映画②」の中で紹介した。)何度も何度も三笠宮が戦時体験に触れているのは、「歴史修正主義」が戦後の日本にはびこり続けたからである。(たまたま産経新聞を見たら、和平を進めたことは出ていても、残虐行為の問題には触れていない。ダンスなどのレクリエーションを取り上げ「庶民的で親しまれた」などと言うだけで「追悼」と言えるだろうか。)最後に、今の時点においても有効性があるのが残念なんだけど、三笠宮の言葉を紹介して起きたいと思う。
「偽りを述べる者が愛国者とたたえられ、真実を語る者が売国奴と罵られた世の中を、私は経験してきた。」 この言葉は今を生きる多くの人にも、心の中に大切にしまっておいてほしい言葉である。しばらくの間、この言葉が有効性を失うことはないだろう。