尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

追悼・アンジェイ・ワイダ

2016年10月11日 22時57分58秒 |  〃 (世界の映画監督)
 ポーランドの映画監督、アンジェイ・ワイダ(Andrzej Wajda 1926~2016.10.9)が亡くなった。90歳。今もなお現役の監督で、新作が作られたばかりだという。新藤兼人やアラン・レネなどに続き、1950年代から映画を作り続けてきた世界的映画監督はこれで姿を消すことになる。

 アンジェイ・ワイダの訃報は、夕刊を見て知った。新聞休刊日だったので、朝刊はなかった。この間、パソコンやケータイ電話でニュースを簡単に見ていたが、ワイダの訃報に気付かなかった。これほどの映画監督が亡くなったというのに。しかも日本との関係が非常に深かった。やはり紙の新聞がないと困るということでもあるが、もうワイダ監督の知名度も落ちてきたのかもしれない。

 アンジェイ・ワイダの名前が映画を超えて語られていたのは、50年代後半から60年代、そして1970年代後半から80年代前半のころだろう。映画で言えば、「灰とダイヤモンド」(1958)と「大理石の男」(1977)がそれぞれの時期の代表作ということになる。しかし、そういう映画の問題を超えて、前期はスターリン死後の「雪どけ」が東欧各国に広がった時期、後期は冷戦末期のポーランドで自主労組「連帯」が結成された時期という政治的、思想的な背景を持っていた。それを知らない人が多くなると、「アンジェイ・ワイダ」という名前の神話的輝きが伝わらなくなるんだろう。

 戦後の世界映画では、まず40年代後期にイタリアのネオ・レアリスモが注目され、50年代前半になると黒澤明や溝口健二らの日本映画が発見された。それに続いたのが、50年代後半の「ポーランド派」だった。ポーランドは独ソ不可侵条約の密約により、第二次大戦中は独ソに分割占領されていた。イギリスに亡命政府があったけど、ソ連軍によってナチスから解放され、戦後は「社会主義国」となった。まあ、事実上「ソ連の植民地」である。スターリン死後に東欧各国で反乱が起きるが、ポーランドでもポズナニ暴動が起きて、指導者がゴムルカに交代した。そんな時期にワイダは映画を作り始めた。

 もともとは青年期に浮世絵を見て芸術家を志したという。戦時中は対独レジスタンス活動を行った。戦後に古都クラクフの美術大学に進み、その後ウッチ映画大学に進んだ。1955年に「世代」で監督デビュー。その後、「地下水道」(1957、カンヌ映画祭審査員賞)、「灰とダイヤモンド」(1958、ヴェネツィア映画祭国際映画批評家連盟賞)で世界的に認められた。でも、「地下水道」はワルシャワで蜂起した国内抵抗派(共産党系ではない)が描かれているし、「灰とダイヤモンド」はドイツ降伏後に亡命政府派の青年が追い詰められていくさまを描いていた。どっちも「危険なテーマ」だった。

 「世代」は日本公開が遅れたが、他の2本は日本でも大きく評価された。(「灰とダイヤモンド」は59年ベストテン2位。)僕は70年代初めにフィルムセンターか自主上映で見たと思う。非常に深い感銘を受けた記憶がある。特に「灰とダイヤモンド」は、「時代に裏切られる青年」をパセティックに(悲愴に)描き出し、60年安保や学生反乱に重ねて熱狂的に受け入れる人がいた。僕もラストに死んでいく主人公、ズビグニエフ・チブルスキーの名前はすぐに覚えた。単なる映画を超える「時代の象徴」だった。「地下水道」は最近見直す機会があったが、テーマ的な問題作という以上に、白黒映画の美学的構図の素晴らしさが印象的だった。(下の写真、前が「地下水道」、後が「灰とダイヤモンド」)
  
 その後、60年代から70年代にかけては、政治的なテーマの映画より、文芸映画のような作品が多く、日本公開もされなかった映画が多い。ポーランド社会も停滞していった時期である。1975年の「約束の土地」はポーランド文芸大作の大傑作で、近代化に向かう中で揺れる若者たちが印象的。続いて、久しぶりに政治的なテーマの「大理石の男」(1977)が作られる。スターリン時代に「労働英雄」として石像が作られた男、その男が政府から迫害されていった歴史を追う若い世代を描いた。国内で大ヒットしたが、海外上映は当初禁止された。(その後カンヌに出品され受賞。)自由に映画が作れる社会ではなかったから、そういう映画が作れる時代に変わりつつあったということだろう。続編の「鉄の男」(1981)も作られ、カンヌ映画祭でパルムドール(最高賞)を獲得している。

 その後は、歴史や文学作品の映画化が多かった。フランス革命の指導者「ダントン」やナチスにとらわれた「コルチャック先生」、ドストエフスキー原作の「悪霊」、坂東玉三郎が演じた「ナスターシャ」など。それらは立派な作品ではあるものの、立派すぎるというか、もう時代との緊張感が薄まっているような感じを受けたものである。その時代の作品は、大体岩波ホールで公開されていた。近年も「菖蒲」や「ワレサ 連帯の男」などが岩波ホールで上映されたが、もう黒澤明やフェデリコ・フェリーニの晩年のような感じだったと思う。映画的な完成度はかつてと比べられないけど、やっぱり僕は見続けていた。(それだけの恩義は受けていると思うのである。)

 こうしてみると、政治的、社会的な映画を作ったという感じになるが、僕はワイダの本質は違うんだろうと思う。本質というか、彼のベースにあるのは「抒情詩人」だったのではないか。また、ソ連からの自由を求めた映画で有名になったが、ホントは「ロシア文学」の愛好者だった。だけど、そういう「文学青年」は、ポーランド現代史では政治を避けられなかった。何よりもポーランドを愛した愛国者だったワイダは、最後になってポーランド文学の最高傑作と言われる叙事詩「パン・ダデウシュ物語」(1999)を映画化している。これも大変立派な作品だったが、ポーランド文化に詳しくないと付いていけないぐらい、ポーランド的な作品だったと思う。

 そして、「カティンの森」(2007)を作った。これは第二次大戦初期にポーランド国軍の将校多数(2万人を超える)をソ連軍が虐殺した事件を描いている。ワイダ監督の父親もこの事件で虐殺された一人だった。独ソ戦直後に死体が発見され、ドイツはソ連の犯行として非難したが、ソ連は逆にドイツの犯行と主張した。戦後になっても「論争」が続き、ポーランド国内では語ることができなかった。とっくの昔にソ連の犯行と確認されているから、今ではこの事件を描いても政治的な問題性は持たないが、80歳になった監督はこれを作らずにはいられないという執念が感じられた。戦争と人間をめぐって考え込まされる、日本にとっても無縁ではない映画になっていた。

 そういう風に、ポーランドの歴史と文化の語り部のような映画人生だったけれど、僕は「白樺の林」(1970)のような文学的、詩的な作品が好きである。それと「影なす境」(1976)の題で、フィルムセンターのポーランド映画特集で大昔に英語字幕付きで上映されただけの映画がある。これはポーランド出身の作家、コンラッドの「陰影線(シャドウ・ライン)」という小説の映画化なんだけど、航海で極限状況を経験する船長の話で、映像的にも素晴らしかった。日本語字幕付きでちゃんと見てみたい作品である。クラクフに日本美術技術センターを作るなど、日本文化を愛好したことでも知られている。

 年齢が年齢だけにやむを得ないんだけど、惜しい人をなくしたと思う。とにかくポーランド映画史上、空前絶後の最大の巨匠に間違いない。ポーランドの状況が日本でも熱く語られた時期があるんだということも、今では理解できないかもしれない。「自主労組連帯」の持つ思想的意義は、むしろ今の日本にこそあるのかもしれない。今こそ改めて振り返られるべき映画群だと思う。(毎月書いている追悼特集の9月をまだ書いていない。加藤紘一、シモン・ペレス、アーノルド・パーマーなど、今では現役ではない人ばかりなので、来月にまとめて書く予定。)
コメント (5)
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