「誤報にもさまざまなケースがある。字の間違いなどの単純ミスが一番多いだろう。テレビの字幕には変換ミスがいっぱいある。データの読み間違い、予告記事の早打ち(官庁発表の早期報道なら、マスコミ内の問題だけど、準備していた追悼記事を早く出してしまえば大変な誤報となる)など単純なものもあるが、冤罪事件のような深刻な誤報も存在する。また、記事そのものが全くの思い込み、あるいは極端ものは記事そのものが「ねつ造」なんてこともあった。これらのミスはまあ各紙にあったことである。(長くなるから実例は省略する。)
では今回の朝日の記事は、どういう種類の「誤報」だろうか。それは「文脈理解」という観点から見た誤報だと思う。「文脈」は英語で言えば、コンテクスト(context)。辞書を見ると「文における個々の語または個々の文の間の論理的な関係・続き具合。文の脈絡。コンテクスト」などとある。吉田調書も「文書記録」だが、ここではもっと広く「歴史上の文脈」という使い方もする言葉として考えたい。世の中のすべての出来事は、前があり後があって起こっている。その続き具合を丁寧にたどって考えるということである。原発事故があったからこそ、われわれは吉田氏の名前を知っているわけだが、もちろん吉田氏は所長になる前からの長い東電勤務があり、長い「原発との関わり」があって事故に直面した。東電関係は吉田調書しか公開されていないので、事故そのものや会社事情なども吉田氏の目を通して見ることになる。そのような「吉田氏の関わりという文脈」で見てみる必要がある。
吉田所長と言えば、「政府や本店にも直言し、事故対応に務めた現場リーダーの鑑」のようなイメージが作られている。原発事故版「プロジェクトX」で、なんだか中島みゆきの歌が聞こえてくるような。ところで、僕が直接読んでみると必ずしもそのような印象を受けなかった。とにかく、世界で最初の「事象」に追いまくられ、官邸や本店の対応に苛立っている。当時は4号機が定期点検中だったので、下請け労働者(「協力企業」と言っている)が第一原発内の敷地にはいっぱいいた。仕事ができなくなり、いつのまにか労働者の数は減っていっている。当時、何人いたかは誰にも把握できない。そんな中で、管理責任者として当面の事故対応に必要ない人員の「待避」にも気を配らないといけない。しかし、それは決して「当面の最も重大な配慮事項」ではなかったのは当然である。全面撤退をめぐる官邸と本店の「いざこざ」があったわけだけど、事故現場の吉田氏にはそれは全く意味をなさない出来事だった。本人は事故を放置して撤退しようなどとは全然思ってなかったのだから。
だから、「職員9割撤退」が「命令違反」だろうが、そうは言えないと考えようが、それ自体が「全体の文脈からみれば、本質的には重大な問題ではない」というのが明らかだろう。しかし、「吉田所長には事態が掌握できていたのか」と問うなら、それは全くできていないのである。原発事故は誰にも初めてでどうなるか判らない段階があったということである。本来は「原子力安全・保安院」が政府内で担当するべきものだったのだが、全く機能しなかった。また「原子力安全委員会」の斑目委員長も全く有効な助言ができていない。そこで官邸が直接乗り出さざるを得なくなるわけだが、そのことを批判(または称賛)することよりも、それまで設置されていた機関がまったく意味をなさなかったということの方が重大な問題ではないかと思う。それは「自民党政権による原発依存政策」の中で作られてきたシステムである。自民党は朝日新聞を批判するより先に自らを検証しないといけない。
一方、東電の人事政策は原発のみを異動させるのではなく、吉田氏も本店勤務で総合的な電源計画にタッチしたりしている。しかし、もともとは原子核工学が専門なので、現場は原発しか経験していない。電事連(電気事業連合会)出向中には「もんじゅ」事故対応に明け暮れ、福島第二発電部長時代も事故対応に追われた。直前の仕事は本店の原子力設備管理部長。この時に中越沖地震があり、柏崎刈羽原発が大きな被害を受けた。このように仕事人生のほとんどが事故対応なので、本当に気の毒な仕事だと思ったけど、そういう技術をこのまま維持していいのかというような「悩み」は感じられない。むしろ中越沖で「想定震動」を上回ったけど、原発そのものは無事だったことで「原発安全神話」を自分で再確認してしまったように感じられる。「成功体験」があだになったのではないか。吉田氏が福島第一に所長として赴任してからも、プルサーマルをめぐる面倒な対応に時間を取られ、決して高いモチベーションを持っていたわけではないように思う。
このような吉田調書の「文脈」をたどってみると、もっと他に「1面トップ」で大見出しにうたうべき「解読」が存在したはずではないかと思う。なお、ついでに書くと、自衛隊や消防などが「救援」に掛けつけたわけだけど、ほとんど全く意味がなかったような印象を受けた。誰が来ても線量の高い所に行く人はいないのであって、結局原発所員が担当するしかない。そして、実際に自分たちで対応した。官邸や本店の対応はジャマなだけで、誰も助けてくれなかったというムードが調書全体を覆っている。そのことの問題もよく考えてみないといけないだろう。朝から夜まで部活を頑張り続け全国大会で成績を挙げて、自分が学校を支えていると思って体罰やパワハラを意識できなくなっている部活顧問、あるいは「底辺校」で生活指導を担当し力で押さえつけ自分が学校秩序を保っていると自負する生活指導主任。そんな感じが何だか漂っているように感じるのである。ちょっと勤めて替わっていく校長なんか「あのおっさん」でしかない。もちろん、「現場」は「原発政策」など考えない。「仕事」をするだけ。その「潔さ」を評価するだけではいけないのだろうと僕は思う。
ところで、今の僕の「読み」は「吉田調書」を読んだ限りでの感想である。しかし、今は公開されているから誰でも読めるが、朝日報道の時点では「特ダネ」だった。それは常識的に考えれば「情報提供者」がいたのではないかと思う。その「情報提供者」が朝日が誤読するようにミスディレクションして情報を提供し、朝日はその結果「誤報」してしまったという「陰謀説」も存在するようである。それも全くありえなくはないのかもしれないが、今のところは普通に考えれば、「原発事故を風化させてはならない」と考えた人が情報を提供したのかなと思う。その場合、安倍政権の推進する再稼働政策に大賛成の読売、産経に提供しても、「今さら報道価値が少ない」などと小さな記事にしかならないかもしれない。原発報道に熱心な東京新聞などもありうるだろうが、大部数の朝日の方が報道インパクトが高いと判断して朝日に接触したということか。しかし、まあ、単純な知人関係などをたどって特ダネに当たることも多いと思うから、今のところ何とも言えない。今後も検証されない部分かもしれないが、「こんなことがあったんです」と提供されたとすれば、一種の「誤導」に引きずられた可能性もある。つまり、吉田調書そのものの「文脈」とは別に、「吉田調書」特ダネ報道をめぐる「もっと大きな別の物語の文脈」があるのかもしれない。それは今は判らないことだが。
では今回の朝日の記事は、どういう種類の「誤報」だろうか。それは「文脈理解」という観点から見た誤報だと思う。「文脈」は英語で言えば、コンテクスト(context)。辞書を見ると「文における個々の語または個々の文の間の論理的な関係・続き具合。文の脈絡。コンテクスト」などとある。吉田調書も「文書記録」だが、ここではもっと広く「歴史上の文脈」という使い方もする言葉として考えたい。世の中のすべての出来事は、前があり後があって起こっている。その続き具合を丁寧にたどって考えるということである。原発事故があったからこそ、われわれは吉田氏の名前を知っているわけだが、もちろん吉田氏は所長になる前からの長い東電勤務があり、長い「原発との関わり」があって事故に直面した。東電関係は吉田調書しか公開されていないので、事故そのものや会社事情なども吉田氏の目を通して見ることになる。そのような「吉田氏の関わりという文脈」で見てみる必要がある。
吉田所長と言えば、「政府や本店にも直言し、事故対応に務めた現場リーダーの鑑」のようなイメージが作られている。原発事故版「プロジェクトX」で、なんだか中島みゆきの歌が聞こえてくるような。ところで、僕が直接読んでみると必ずしもそのような印象を受けなかった。とにかく、世界で最初の「事象」に追いまくられ、官邸や本店の対応に苛立っている。当時は4号機が定期点検中だったので、下請け労働者(「協力企業」と言っている)が第一原発内の敷地にはいっぱいいた。仕事ができなくなり、いつのまにか労働者の数は減っていっている。当時、何人いたかは誰にも把握できない。そんな中で、管理責任者として当面の事故対応に必要ない人員の「待避」にも気を配らないといけない。しかし、それは決して「当面の最も重大な配慮事項」ではなかったのは当然である。全面撤退をめぐる官邸と本店の「いざこざ」があったわけだけど、事故現場の吉田氏にはそれは全く意味をなさない出来事だった。本人は事故を放置して撤退しようなどとは全然思ってなかったのだから。
だから、「職員9割撤退」が「命令違反」だろうが、そうは言えないと考えようが、それ自体が「全体の文脈からみれば、本質的には重大な問題ではない」というのが明らかだろう。しかし、「吉田所長には事態が掌握できていたのか」と問うなら、それは全くできていないのである。原発事故は誰にも初めてでどうなるか判らない段階があったということである。本来は「原子力安全・保安院」が政府内で担当するべきものだったのだが、全く機能しなかった。また「原子力安全委員会」の斑目委員長も全く有効な助言ができていない。そこで官邸が直接乗り出さざるを得なくなるわけだが、そのことを批判(または称賛)することよりも、それまで設置されていた機関がまったく意味をなさなかったということの方が重大な問題ではないかと思う。それは「自民党政権による原発依存政策」の中で作られてきたシステムである。自民党は朝日新聞を批判するより先に自らを検証しないといけない。
一方、東電の人事政策は原発のみを異動させるのではなく、吉田氏も本店勤務で総合的な電源計画にタッチしたりしている。しかし、もともとは原子核工学が専門なので、現場は原発しか経験していない。電事連(電気事業連合会)出向中には「もんじゅ」事故対応に明け暮れ、福島第二発電部長時代も事故対応に追われた。直前の仕事は本店の原子力設備管理部長。この時に中越沖地震があり、柏崎刈羽原発が大きな被害を受けた。このように仕事人生のほとんどが事故対応なので、本当に気の毒な仕事だと思ったけど、そういう技術をこのまま維持していいのかというような「悩み」は感じられない。むしろ中越沖で「想定震動」を上回ったけど、原発そのものは無事だったことで「原発安全神話」を自分で再確認してしまったように感じられる。「成功体験」があだになったのではないか。吉田氏が福島第一に所長として赴任してからも、プルサーマルをめぐる面倒な対応に時間を取られ、決して高いモチベーションを持っていたわけではないように思う。
このような吉田調書の「文脈」をたどってみると、もっと他に「1面トップ」で大見出しにうたうべき「解読」が存在したはずではないかと思う。なお、ついでに書くと、自衛隊や消防などが「救援」に掛けつけたわけだけど、ほとんど全く意味がなかったような印象を受けた。誰が来ても線量の高い所に行く人はいないのであって、結局原発所員が担当するしかない。そして、実際に自分たちで対応した。官邸や本店の対応はジャマなだけで、誰も助けてくれなかったというムードが調書全体を覆っている。そのことの問題もよく考えてみないといけないだろう。朝から夜まで部活を頑張り続け全国大会で成績を挙げて、自分が学校を支えていると思って体罰やパワハラを意識できなくなっている部活顧問、あるいは「底辺校」で生活指導を担当し力で押さえつけ自分が学校秩序を保っていると自負する生活指導主任。そんな感じが何だか漂っているように感じるのである。ちょっと勤めて替わっていく校長なんか「あのおっさん」でしかない。もちろん、「現場」は「原発政策」など考えない。「仕事」をするだけ。その「潔さ」を評価するだけではいけないのだろうと僕は思う。
ところで、今の僕の「読み」は「吉田調書」を読んだ限りでの感想である。しかし、今は公開されているから誰でも読めるが、朝日報道の時点では「特ダネ」だった。それは常識的に考えれば「情報提供者」がいたのではないかと思う。その「情報提供者」が朝日が誤読するようにミスディレクションして情報を提供し、朝日はその結果「誤報」してしまったという「陰謀説」も存在するようである。それも全くありえなくはないのかもしれないが、今のところは普通に考えれば、「原発事故を風化させてはならない」と考えた人が情報を提供したのかなと思う。その場合、安倍政権の推進する再稼働政策に大賛成の読売、産経に提供しても、「今さら報道価値が少ない」などと小さな記事にしかならないかもしれない。原発報道に熱心な東京新聞などもありうるだろうが、大部数の朝日の方が報道インパクトが高いと判断して朝日に接触したということか。しかし、まあ、単純な知人関係などをたどって特ダネに当たることも多いと思うから、今のところ何とも言えない。今後も検証されない部分かもしれないが、「こんなことがあったんです」と提供されたとすれば、一種の「誤導」に引きずられた可能性もある。つまり、吉田調書そのものの「文脈」とは別に、「吉田調書」特ダネ報道をめぐる「もっと大きな別の物語の文脈」があるのかもしれない。それは今は判らないことだが。