尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

小権力者の宴-朝日問題③

2014年09月18日 23時44分30秒 | 社会(世の中の出来事)
 さて、2回ほど吉田調書を検討したが、「外形的事実」はあった(とも言える)が、その事実の「文脈的意味」の読み取りを「誤読」したという問題だと思う。問題は、朝日新聞がどうしてそのような「誤読」をしたのかである。まだ報道されていない諸問題があるとしても、それはそれとして最終的な編集段階でなぜ正されなかったのか。これは推測でしかないが、東京では「東電全面撤退」問題が大きく報道されたので、吉田調書が「全面撤退問題」に大きな意味を持つ新証言ではないかと「中央からの視点」で見てしまったのではないか。 

 しかし、そういった直接のきっかけを超えて、この「誤報」は大きな問題を提出していると思う。「反朝日派」は朝日が「反日」で「自虐的」だという一方的見方から、「意図された誤報」という主張もある。「所員の9割が所長命令に違反して撤退」していると、どうして「日本を貶める」のか、正直僕には全く判らないけど。危険を自己判断して避難したのなら、「成熟した市民」ではないか。しかし、実は「命令違反」はきつい表現で、なんだか判らないうちにバスに乗ったら福島第二原発に行ったという事例が多かったらしい。この現実の方が、はるかに「日本はどうなっているんだ」という問題ではないか。「反原発」という主張に合うように「誤報」したと考えるのも、おかしい。原発事故があまりにも大変な事態だったという証言は枚挙にいとまがない。それらを1面トップにすれば、ずっとインパクトがあるではないか。

 だから、もっと一般的に考えるべきだと思う。「撤退問題」があったから、「外形的事実」にこだわって誤った評価を下しただけではないか。「外形的事実」にこだわって、全体の文脈を軽視して、誤った評価をしてしまうということは、現代の日本では非常に多い。そういう発想をするのは、簡単に言い切ってしまうと、「小権力者」に特有の発想ではないかと僕は思っている。朝日新聞は、ここ数年紙面がつまらなくなった、官僚的体質が強まったなどと言われることが多かった。名物記者の名物記事なども、昔に比べてめっきり減った。そういう朝日の社内体質が「中央からの視点」や「外形的事実へのこだわり」から全体文脈を軽視することにつながっているのではないか。新聞は「第四の権力」などと言われても、所詮「第一の権力」にはなれない。それなのに、デジタル化の進展で紙の新聞も大きく代わっていくしかない。そうした危機感の中で、「小権力者」としての焦りが現われたのではないか。

 一方、慰安婦報道をめぐって、「朝日が吉田証言を取り消したから、河野談話見直しを」などと主張する人もいる。これも「ひとつの外形的事実」にこだわって、慰安婦問題の文脈をきちんとフォローしない発想である。新聞というメディアが「小権力」化した現代では、主張を問わず、新聞社内でも「小権力者」がはびこるのではないか。この「小権力者」というのは、「小役人」と同じようなイメージで使っているが、社会のあらゆる場面で、「上の要求を下に押し付ける」ことを自分の仕事にしていて、その時の「小さな権力」を自分の力だと誤認しているような人々である。そういう人は、自分の思い込みに固執する。批判されるとすぐキレるから、周りも敬遠しているから批判されていることに気づくのが遅れる。そんなタイプである。そう見て来れば、朝日新聞も「小権力者」化してる感じがするが、他のマスコミや政治家などにも「小権力者」がウヨウヨていることに気づくだろう。(「上の要求」には、具体的な上司がいなくても、勝手に自分で思い込んだ「使命」を他者に押し付けている人も含まれる。むしろ、そっちが多い。)

 新聞が「第四の権力」ならば、その周縁に存在する「週刊誌」は何と言うべきだろうか。新聞が「小権力者」化した現代では、週刊誌はその新聞の「権威」を批判することに存在意義を見出す。「マイナス報道」することで、権威を貶める役割を担っている。そのような意味では、「小権力者」の中にも階層があるということである。人々が「マイナス報道」を喜んで読むのは、権威を貶める「隠微な楽しみ」があるからだろう。今までにも週刊誌報道がきっかけで、権威を喪失した人が結構いる。最近では「みの・もんた」の例が記憶に新しい。朝日自身も「週刊朝日」で、現代日本の「小権力者」の象徴とも言える橋下大阪市長の出自を取り上げたことがあるが、「小権力者」は他の「小権力者」を標的にして「人権無視」の対応をするのである。今、一部の右派系週刊誌が毎号のように「朝日たたき」を続けているが、その「はしゃぎぶり」もいかにも「小権力者」である。こうしたことを続けていて、自分でも楽しいのだろうか。

 世の中にこうした「クレーマー」「モンスターペアレント」のような人々が多くなったのは何故だろうか。元々どんな組織にも「小権力者」がいるわけだが、現代社会では「情報管理」だの「勤務評価」だのが当たり前になって、「小権力者の権限が大きくなっている」ことが大きいのではないか。世の中は競争だといっても、全員そろって一斉にヨーイ・ドンではない。そうだったら、「ゴールの審判」だけが判定の権力を持つわけだけど、バラバラのスタートのうえポイントポイントで部分評価がある。それぞれの「中間評価」という権力が大きくなったのである。一方、インターネットの出現で「弱者の武器」ができたわけである。組織に不満を持つものは、放火殺人などの極端な手段を取らなくても、組織の持つパソコン上の情報をネットに流出させるだけで回復不可能な報復ができる。組織のほうは、どうしても「組織防衛的な発想」しかできなくなってくる。そんな中で、ちょっとしたことに不満を持つ人、つまり「相手のちょっとした過失」という「外形的事実」さえあれば、全体の文脈を無視して相手を攻撃することが許されると思い込む人が大量に発生する。つまり、朝日新聞の「誤報」と朝日を声高に非難する人は、同じコインの裏表なのではないか。

 僕は朝日新聞をずっと読んできたが、単なる報道機関と思っているから、朝日に裏切られた、失望したなどと思うことはない。スキャンダラスな「朝日たたき」の方にも関心はない。ただ、こうした「誤報」や「誤報たたき」が起きる社会のありようが問題だと思うのである。そして、この事態の行く末の危険性だけはしっかりと伝えておかないといけないと思っている。そのことは今後書いて行きたい。一方、朝日新聞とはどういう存在で、今後どうするべきだと思うかということも書いて行きたい。今年の重大ニュースとして、袴田事件の再審開始決定があった。死刑囚として長い長い間を拘束されてきた袴田巌さんが、再審判決を待たずに釈放されるという驚くべき展開となった。マスコミはその日から「袴田さん」と呼称するようになったけれど、一体各マスコミは自社の報道を検証し謝罪したのだろうか。そういう問題を追及する方がずっとずっと大事なのではないか。もっと言えば、「(自社の記者によるねつ造ではない)誤報」がそんなに大きな問題なのだろうか。それより「報道しないという問題」もあるだろう。また今後に続けていきたいが、今簡単に書いておけば、朝日に限らず各マスコミ関係者に(また政治家や教師などにも)求めるものは何かと言えば、「自らの小権力者性を徹底して見つめる」ということなのである。
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