マレーシアの女性映画監督、故ヤスミン・アフマドは6本の長編映画を残した。
ラブン(2003)
細い目(2004) 東京国際映画祭最優秀アジア映画賞
グブラ(2005) マレーシア・アカデミー賞グランプリ
ムクシン(2006)
ムアラフ 改心(2007) 東京国際映画祭アジア映画賞
タレンタイム(2008)
最初の4本が「オーキッド4部作」で、オーキッドという少女の年代記。オーキッドは妹の名前だそうだ。次の「ムアラフ 改心」は宗教をめぐる討論の映画で、実に興味深い。遺作になってしまった「タレンタイム」は、高校生の音楽コンクールを描く青春映画でエンターテインメント色が一番強く、本人も意気込んで作ったらしい。母方の祖母が日本人だったそうで、次回作は能登出身の祖母の人生を描く「ワスレナグサ」という題でシナリオも作られていたという。
各映画を簡単に寸評すると、
一番最初の「ラブン」はプライベート色が強く、実験映画的なエチュード。
続く「細い目」が最初の傑作で、涙なしに見られない切ない青春映画の大傑作。
「グブラ」はオーキッドの結婚生活を描くが、「細い目」を受けた続編的作品。
「ムクシン」はオーキッドの10歳の初恋を描く、瑞々しい映画で痛快。
「ムアラフ 改心」は、宗教と民族をめぐるメッセージがこめられた問題作。
「タレンタイム」は、考えさせると共に、切々と心に響く青春映画の傑作で、是非一般公開されて欲しい素晴らしい作品。
「細い目」は、マレーシア映画で初めてマレー系少女と華人系少年の恋を題材にした映画だという。ムスリムの少女が場末の中華料理屋でデートする場面もある「超問題作」である。(「豚を食べる場所」にムスリム少女が出入りする場面があるのは、厳格なムスリムにとっては許せない場面だろう。)この二人がどうして出会うかと言うと、主人公オーキッドは大の香港映画ファン、「金城武大好き」少女で洋服箪笥を開けると金城武の写真で一杯。町で出あったビデオ売りの華人青年ジェイソンと映画の話題で盛り上がるという設定である。好きな映画はジョン・ウーの「男たちの挽歌」で、ジョン・ウーはハリウッドに行ってダメになった、とか…。このあたり、ヤスミン自身の映画への愛情があふれた名場面であると思うし、自伝的な背景があるのかもしれない。
二人は携帯電話で連絡を取り合う。もし、携帯電話がなければ、これほど生活環境の違う二人が連絡を取り合うことは不可能だったろう。そういう意味で、全世界の恋愛事情を変えてしまったケータイの登場を考察した映画ということもできる。
もちろん、二人の恋は障害にぶつかる。民族を超えた恋愛は、切ない思いとともに、果たしてどういう結末を迎えるのだろうか・・?マレーシアの教育事情が分からないので理解しにくい場面もあるが、ヤスミンは、二人を初め家族それぞれを寄り添うように描き、決して大げさではなく、静かに見守る。主人公オーキッドを演じたジャリファ・アマニは、この映画で新人賞を受け、以後ヤスミン映画の主人公を演じ続ける。フランソワ・トリュフォー監督映画のジャン・ピエール・レオのような存在。すごい美人という感じではないが、はつらつとして、忘れがたい素晴らしい女優である。
ヤスミンの映画には、マレー系、華人系、インド系などを問わず、伝統にとらわれたまま、心を閉ざして生きる不幸な人々、不幸な家庭がたくさん出てくる。特に、家父長制の「伝統」の下で、抑圧される女性、虐待される子供たちの姿が描かれている。
一方、オーキッドは「ムクシン」では、10歳の少女にして、女子のグループが嫌いで男子と遊んだり、男の子と木登りするような痛快なお転婆少女に描かれている。両親が仲良くピアノを弾く場面が「グプラ」のラストに実写で出てくるが、実際にヤスミンの両親は開かれた心の持ち主で、仲の良い家庭だったらしい。それがヤスミン映画の原点なのだと思う。
「ムアラフ 改心」では、父親の虐待を逃れてきた姉妹が、カトリックの華人青年教師と知り合いになる物語である。姉は宗教に詳しく、シンガポールの大学で宗教社会学を学びたいと思っている。そういう設定で、コーラン、聖書、アウグスティヌスなどの言葉がとびかう、あまり今までにみたことがない宗教討論映画になっている。こんな映画が世界にはあるのか、というような映画である。また、この映画を見ると、宗教の違いより、親の虐待の方がはるかに大きな問題であるとよくわかる。
遺作となってしまった「タレンタイム」は、忘れがたい「学園祭映画」である。学園の講堂に電気が灯って映画は始まり、電気が消えていって映画は終わる。世界中のすべての人の心の中にある「学校と言う特別な場所」の懐かしさを呼び起こす、素晴らしい映画の始まりと終わり。マレーシアの教育事情が良く判らず理解しにくい設定も多いが、高校が終わって大学に行くまでの間の学校があるらしい。そこで、音楽、舞踊などのコンクールがある。「今年で7回目」という設定。それが「タレンタイム」で、これがマレーシアで一般的な言葉かどうかはわからない。
その大会をめざす何人かの若者群像を描く。一人はマレー系の少女メルーで、メルーを送り迎えする役を学校から命じられたのが、インド系の少年マヘシュ。どうして送り迎えを他の生徒がするのか不明だが、それはともかくこの二人が恋に落ちる。今度はマレー系とインド系の恋、なのだ。さらにこのマヘシュは聴覚障害という設定で、せっかくのメルーの歌も彼の心に届かない。
一方、マレー系の少年ハフィズは、母親が病気で毎日通っているが、自作の歌を歌ってタレンタイム優勝を目指す。この歌が素晴らしい。さらに華人少年の二胡演奏、インド系少女の舞踊などがあり、それぞれの家族関係が描かれる。ハフィズや華人少年もメルーが好きらしい。このように青春音楽娯楽映画という枠組みの中で、マレーシアの様々な現実が描かれる。ここでは書かないが、青春の忘れられない1頁を映像化した忘れがたい名場面がいくつもある。
ヤスミンの映画には、会話や現実の音を消して、主人公を(大体は恋人同士や家族の戯れ)クラシックの演奏の中で叙情的に見つめる短い至福のシーンがよくある。人生の素晴らしさ、世界の美しさを圧倒的な映像美と音楽で描き出す。「タレンタイム」では、ドビュッシーの「月の光」が使われているが、そういう場面も忘れがたい。
何と、美しく切ない、青春の映画だっただろう。電気が消され、学校は閉まり、映画は終わる。が、人生は続いていく。世界も続いていく。ヤスミン・アフマドがいない世界が・・・。
ラブン(2003)
細い目(2004) 東京国際映画祭最優秀アジア映画賞
グブラ(2005) マレーシア・アカデミー賞グランプリ
ムクシン(2006)
ムアラフ 改心(2007) 東京国際映画祭アジア映画賞
タレンタイム(2008)
最初の4本が「オーキッド4部作」で、オーキッドという少女の年代記。オーキッドは妹の名前だそうだ。次の「ムアラフ 改心」は宗教をめぐる討論の映画で、実に興味深い。遺作になってしまった「タレンタイム」は、高校生の音楽コンクールを描く青春映画でエンターテインメント色が一番強く、本人も意気込んで作ったらしい。母方の祖母が日本人だったそうで、次回作は能登出身の祖母の人生を描く「ワスレナグサ」という題でシナリオも作られていたという。
各映画を簡単に寸評すると、
一番最初の「ラブン」はプライベート色が強く、実験映画的なエチュード。
続く「細い目」が最初の傑作で、涙なしに見られない切ない青春映画の大傑作。
「グブラ」はオーキッドの結婚生活を描くが、「細い目」を受けた続編的作品。
「ムクシン」はオーキッドの10歳の初恋を描く、瑞々しい映画で痛快。
「ムアラフ 改心」は、宗教と民族をめぐるメッセージがこめられた問題作。
「タレンタイム」は、考えさせると共に、切々と心に響く青春映画の傑作で、是非一般公開されて欲しい素晴らしい作品。
「細い目」は、マレーシア映画で初めてマレー系少女と華人系少年の恋を題材にした映画だという。ムスリムの少女が場末の中華料理屋でデートする場面もある「超問題作」である。(「豚を食べる場所」にムスリム少女が出入りする場面があるのは、厳格なムスリムにとっては許せない場面だろう。)この二人がどうして出会うかと言うと、主人公オーキッドは大の香港映画ファン、「金城武大好き」少女で洋服箪笥を開けると金城武の写真で一杯。町で出あったビデオ売りの華人青年ジェイソンと映画の話題で盛り上がるという設定である。好きな映画はジョン・ウーの「男たちの挽歌」で、ジョン・ウーはハリウッドに行ってダメになった、とか…。このあたり、ヤスミン自身の映画への愛情があふれた名場面であると思うし、自伝的な背景があるのかもしれない。
二人は携帯電話で連絡を取り合う。もし、携帯電話がなければ、これほど生活環境の違う二人が連絡を取り合うことは不可能だったろう。そういう意味で、全世界の恋愛事情を変えてしまったケータイの登場を考察した映画ということもできる。
もちろん、二人の恋は障害にぶつかる。民族を超えた恋愛は、切ない思いとともに、果たしてどういう結末を迎えるのだろうか・・?マレーシアの教育事情が分からないので理解しにくい場面もあるが、ヤスミンは、二人を初め家族それぞれを寄り添うように描き、決して大げさではなく、静かに見守る。主人公オーキッドを演じたジャリファ・アマニは、この映画で新人賞を受け、以後ヤスミン映画の主人公を演じ続ける。フランソワ・トリュフォー監督映画のジャン・ピエール・レオのような存在。すごい美人という感じではないが、はつらつとして、忘れがたい素晴らしい女優である。
ヤスミンの映画には、マレー系、華人系、インド系などを問わず、伝統にとらわれたまま、心を閉ざして生きる不幸な人々、不幸な家庭がたくさん出てくる。特に、家父長制の「伝統」の下で、抑圧される女性、虐待される子供たちの姿が描かれている。
一方、オーキッドは「ムクシン」では、10歳の少女にして、女子のグループが嫌いで男子と遊んだり、男の子と木登りするような痛快なお転婆少女に描かれている。両親が仲良くピアノを弾く場面が「グプラ」のラストに実写で出てくるが、実際にヤスミンの両親は開かれた心の持ち主で、仲の良い家庭だったらしい。それがヤスミン映画の原点なのだと思う。
「ムアラフ 改心」では、父親の虐待を逃れてきた姉妹が、カトリックの華人青年教師と知り合いになる物語である。姉は宗教に詳しく、シンガポールの大学で宗教社会学を学びたいと思っている。そういう設定で、コーラン、聖書、アウグスティヌスなどの言葉がとびかう、あまり今までにみたことがない宗教討論映画になっている。こんな映画が世界にはあるのか、というような映画である。また、この映画を見ると、宗教の違いより、親の虐待の方がはるかに大きな問題であるとよくわかる。
遺作となってしまった「タレンタイム」は、忘れがたい「学園祭映画」である。学園の講堂に電気が灯って映画は始まり、電気が消えていって映画は終わる。世界中のすべての人の心の中にある「学校と言う特別な場所」の懐かしさを呼び起こす、素晴らしい映画の始まりと終わり。マレーシアの教育事情が良く判らず理解しにくい設定も多いが、高校が終わって大学に行くまでの間の学校があるらしい。そこで、音楽、舞踊などのコンクールがある。「今年で7回目」という設定。それが「タレンタイム」で、これがマレーシアで一般的な言葉かどうかはわからない。
その大会をめざす何人かの若者群像を描く。一人はマレー系の少女メルーで、メルーを送り迎えする役を学校から命じられたのが、インド系の少年マヘシュ。どうして送り迎えを他の生徒がするのか不明だが、それはともかくこの二人が恋に落ちる。今度はマレー系とインド系の恋、なのだ。さらにこのマヘシュは聴覚障害という設定で、せっかくのメルーの歌も彼の心に届かない。
一方、マレー系の少年ハフィズは、母親が病気で毎日通っているが、自作の歌を歌ってタレンタイム優勝を目指す。この歌が素晴らしい。さらに華人少年の二胡演奏、インド系少女の舞踊などがあり、それぞれの家族関係が描かれる。ハフィズや華人少年もメルーが好きらしい。このように青春音楽娯楽映画という枠組みの中で、マレーシアの様々な現実が描かれる。ここでは書かないが、青春の忘れられない1頁を映像化した忘れがたい名場面がいくつもある。
ヤスミンの映画には、会話や現実の音を消して、主人公を(大体は恋人同士や家族の戯れ)クラシックの演奏の中で叙情的に見つめる短い至福のシーンがよくある。人生の素晴らしさ、世界の美しさを圧倒的な映像美と音楽で描き出す。「タレンタイム」では、ドビュッシーの「月の光」が使われているが、そういう場面も忘れがたい。
何と、美しく切ない、青春の映画だっただろう。電気が消され、学校は閉まり、映画は終わる。が、人生は続いていく。世界も続いていく。ヤスミン・アフマドがいない世界が・・・。