尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

刑事裁判の転換点?―捜査の「可視化」の実現を

2011年07月04日 20時34分26秒 |  〃 (冤罪・死刑)
 陸山会事件の公判で、東京地裁は石川知裕衆議院議員や大久保元秘書らの捜査段階の供述調書38通のうち11通を「任意性がない」として検察側の証拠請求を却下した。6月30日付決定。

 これは大変重大な決定だと思うが、ある程度刑事司法の流れを知ってないと、理解が難しいかもしれない。私たちが何か事件に関係すると(加害者、被害者、目撃者などなど)、検察または警察(司法警察員)による取り調べを受け、「調書」が作られる。調書というが、不思議なことに「担当の事務官がまとめた一人称の文書」になっている。(取り調べた書なんだから、問答体でなければおかしい。)

 ところで、それで「自白」すれば即有罪というわけではもちろんなく、裁判の法廷で証人尋問、本人尋問などがある。本来そちらが優先するはずが、公判で「私は無実」と主張すると、検察側が「取り調べ段階では自白していた」といって、供述調書を出してくる。そして、その調書を証拠請求する。それを裁判所が証拠に採用して、初めて有罪、または無罪の根拠とできるわけである
 その取り調べ調書を証拠採用するためには、その調書が「任意に」、つまり本人の納得する形で、拷問や長時間の取り調べや脅迫や誘導(認めればカツ丼食わせる、タバコ吸わせるなど)がなくて作られたものでなくてはならない。大体、冤罪事件では長時間の取り調べや脅迫みたいな言動があるわけで、被告・弁護側はそう主張するが、証人として検察官や警察官を呼ぶと「いや、素直に供述に応じました」「自白してさっぱりした顔をしていました」とか平気で言う。偽証をしている場合も多いと思うけど、本気で犯人と思い込んでるとなんでも反省に見えてしまう場合もあるのだろう。悔し涙を流せば「反省の涙」、ウソの自白をして落ち込んでいれば「犯行を後悔している」と見えたりする場合もあるのだろう。

 刑事訴訟法319条になんとあるかと言えば、「強制、拷問又は脅迫による自白、不当に長く抑留又は拘禁された後の自白その他任意にされたものでない疑のある自白は、これを証拠とすることができない。」と書いてある。任意でなされていない自白だけでなく、「疑のある自白」も本来は証拠にできない。だから裁判官が法律をきちんと実行すれば、それで冤罪の大部分はなくなる。警察、検察も悪いが、本来フェアに両者を裁くべき裁判官がきちんとしていないのが一番問題だ、という指摘もされるわけである。

 今までは裁判官がどんどん任意性を認めて(検察とは人事交流もあるし仲間意識があるのか?)、供述調書により有罪が言い渡されてきた。しかし、被告・弁護側が一生懸命脅迫があったと言っても立証するのは難しく、裁判所は検察側に軍配を上げてきた。これはおかしい。証拠により有罪を立証するのは検察の仕事で、検察が「任意性がある」ことを立証する、それができなければ「疑のある自白」として証拠から抜けばいいだけの話である。

 今回は昨年の郵便不正事件の村木厚子さん以後の大阪地検証拠改ざん問題がバックにある。逮捕され実刑判決が確定した前田元検事が取り調べた調書もあったからである。(さすがにそれは証拠請求せず。)特捜部捜査に厳しい目が注がれている時期だからこその決定とも言える。
 しかし、それだけにとどめてはいけない。
 つまり、「全面可視化」である。これだけ問題化しているのに、そして社会にはビデオ画像があふれインターネットに簡単にアップされ全世界に広まる時代に、なぜ取り調べだけ密室でやるのか?すべての過程を録画、録音しておけばいい。証拠がきちんとしてれば、有罪立証には何の問題もない。ということで、この陸山会裁判の決定を刑事裁判の転換点にしなくてはいけないと強く思う。
(ちなみに、小沢氏の政治的な問題に何かを言う気はない。それは裁判と別。刑事裁判のあり方、冤罪防止に関心があるだけのことである。)
コメント
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