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尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

「9月入学」は「コロナ・レガシー」なのか?-「9月入学論」への疑問②

2020年04月30日 16時57分59秒 |  〃 (教育行政)
 「[『9月入学』論への4つの疑問」という記事を書いた。これは「実務的」的な困難さを指摘する意味で書いたんだけど、 世の中には「9月入学、それもいいのでは」みたいな感想がけっこうあるようだ。安倍首相も国会で「前広で議論していく」なんて答弁した。「前広」(まえびろ)って何だ? 聞いたことないけど、一発変換できるから元からあるのか。ある種の「永田町用語」なんだろう。

 全国の知事の中には「コロナ・レガシー」などという言葉を使って「9月入学」を推進する人までいる。今多くの大学生が「学費を払えない」「アルバイトが無くなった」「帰省もできない」という状況に追い込まれている。一部調査によると、退学せざるを得ないと考えている人も2割に上るとか。今緊急に対策を考えるべき教育問題は、そちらじゃないのか。図書館も閉まっていて勉強も出来ないのに、大学のある都市部から故郷に帰ってくるなとまで言われているのである。
(知事たちの主張を紹介するテレビ番組)
 何でも安倍首相は「緊急事態宣言」を大幅に延長する意向とか。思い起こしてみれば、3月には緊急事態宣言は不要といい、宣言に踏み切った時も7都府県に絞って、当初は休業要請は2週間様子を見てとか言っていた。それが最終的には全国に緊急事態を宣言せざるを得なくなり、今度はそれもまた大幅に伸びるという。初めから短距離走とは思ってないけど、それにしてもハーフマラソンかと思って走っていたら、突然フルマラソンに変更すると言われ、もしかしたら100キロマラソンになるのかも…となっては安倍内閣の対策が厳しく問われるべきところだ。

 ところが突然の「9月入学」論議。今はますます大変になる自営業などへの支援策に専念するべき時期なんじゃないだろうか。大体「コロナ・レガシー」って、それは本来オリンピックだったはずだ。「人類がウイルスとの戦いに勝った証」とか言ってたじゃないか。コロナウイルスが案外長引く、年末からまた広がるといった観測も多くなり、果たしてオリンピックは実施できるのかという意見も多くなってきたように思う。僕は今回の首相の「前広発言」はうすうす五輪中止を覚悟し始めた「証」なのではないかと思う。「北朝鮮のミサイル」みたいな、議論を他にそらす論点を必要とし始めたのである。

 それはともかく、ニュースなどで見ている限り、一番重要な「義務教育開始年齢を遅らせるのか」を指摘する声がない。遅らせないんだったら、4月から8月生まれの子どもを小学校に受け入れなければならない。それが「義務教育」の意味である。幼稚園はその年だけ、特別に早期卒園させるしかない。私立幼稚園の経営にも影響しそうだが、幼稚園は義務じゃないんだからやむを得ない。そうしない限り、義務教育の開始を5ヶ月遅らせることになる。「幼稚園の義務化」という議論もあるが、それでも初等教育の開始を遅らせることには変わりない。

 議論していけばポシャるに決まってる「9月入学」だと思ってるが、世の中には倒錯した議論が横行している。学年が会計年度をまたぐことになるから、「会計年度を変える必要がある」などという意見もあった。会計年度は教育のためにあるわけじゃない。国家の制度設計全てを変更することになるから、会計年度を変えるなんてすぐに出来るはずがない。準備期間は少なく見積もっても5年必要だろう。まだ実社会に出ていない高校生だったら、実務的論点に見落としがあっても仕方ないが、世の中のリーダーである首相や知事などがすぐに出来るはずもない議論をしたがるのは困ったもんだ。
 
 そもそも「欧米の入学時期に合わせる」という発想に問題がある。「世界標準」だとか「留学しやすい」とか言っても、要するに今の大学4年生(普通の4年生大学の場合)、高校3年生(全日制高校の場合)の「卒業を4ヶ月延ばす」(卒業式を3月から7月に変更するとして)ということである。その間の授業料や生活費は誰が負担するんだろう。大学生どころか、高校生にも退学せざるを得ない人が出てくるのは予想される。「留学に都合がいい」というのは「エリートの発想」であって、現実には「早く社会に出て働かないといけない」という大学生、高校生の方がずっと多いはずだ。

 与野党ともに政治家はほぼ大学卒であって、留学経験も豊富な人が多い。官僚やマスコミ関係者も同様だと思うが、それは国民の実態を反映していない。国民の半数は大学へ行かないし、大学へ行っても大部分は留学はしないだろう。もっと留学した方がいいという議論は出来るが、国費で全額面倒を見るならともかく、経済的に無理な人が多いだろう。多額の奨学金を背負って、アルバイトしながら学費を工面している学生には、留学の都合よりも早く卒業出来る方が優先するに決まってる。

 いつもは「日本スゴイ」「日本第一」みたいに言ってる政治家たちが、突然「欧米に合わせよ」などと言い始めたのも奇怪である。その欧米も学校は休校しているわけだが、欧米では入学時期を変えるのか。変えずにやっていけるんなら、そっちのやり方を「欧米に合わせる」でもいいはずだ。入学時期だけ「欧米に合わせる」んじゃなくて、「全ての高校を単位制にする」とか「義務教育でも落第制度を設ける」とか内容面、質的な面で合わせることを議論する方がずっと有益だ。
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「9月入学」論への4つの疑問

2020年04月28日 20時37分04秒 |  〃 (教育行政)
 全国のほとんどの学校が新型コロナウイルス休校を強いられている。最初に緊急事態宣言が出された7都府県の場合、入学式も出来ないままになっている学校が多い。そこでこの際「9月入学に移行してはどうか」という意見が出てきた。教育行政や国会議員だけでなく、教員や生徒の一部にも賛同する意見があるらしい。検討するのはいいけれど、僕はこれはなかなか難しいと考えている。

 ただし、完全に単位制である大学の場合はまた別で、前後期制の前期・後期を入れ替えれば可能だろう。欧米諸国に合わせれば留学の便がよくなるのは間違いないので、考えてもいいと思う。人によって単位取得状況によって秋卒業だけでなく、3年半または4年半かけて春卒業という選択肢も出来る。しかし、初中等教育の場合は、問題が山積していると考えている。
(「選択肢の一つ」と述べる萩生田文科相)
 9月入学が難しい理由は幾つもあるが、まずその第1は「議論が出来ない」という「形式的理由」。学校は単に学習の場というだけでなく、保護者就職先の経済界塾・予備校等の民間教育産業行事・部活等の関係業界など多くのステークホルダー(利害関係者)がある。国民全員が学校に通った経験があるから、情緒面も含めて議論百出になるだろう。本来それらの意見を丁寧に聞いて判断すべきだが、今は会議そのものが開けない。時間の関係で、中央教育審議会への諮問・答申も難しい。そんなことはどうでもいいのかも知れないが、政治主導で拙速に決めてしまっていいことなのか

 第2は「4月から8月生まれの子どもたちをどうするか」である。多分多くの人は「9月入学」と言われたら、4月入学の生徒たちがそのまま9月入学になると思うだろう。中学や高校の場合は当面そうなるわけだが、小学校の場合はどうするんだろう学校教育法には「保護者は、子の満六歳に達した日の翌日以後における最初の学年の初めから、満十二歳に達した日の属する学年の終わりまで、これを小学校、義務教育学校の前期課程又は特別支援学校の小学部に就学させる義務を負う。」(第17条)だから、4月から8月生まれの子どもたち(細かくいえば4月2日~9月1日生まれ)は、小学校に入学させなければならない。保護者には行かせる義務がある。
(9月入学を検討する国民民主党)
 今年は特例で4月入学予定の子どもだけ受け入れたとしても、来年からは「1学期生まれの子どもたち」を小学校に受け入れる必要がある。幼稚園は義務じゃないんだし、「同年代集団」(年度末には同じ年齢になる)を維持するためにはその方がいい。子どもたちの発達は日々進んでいくわけで、初等教育を始める年齢を遅らせるという政策は疑問だ。わざわざ法改正してまですることじゃない。

 だがそうなると、ある年の小学1年生の数が4割ぐらい増大することになる。それが学年進行で上の学年に移行していく。その分、一学年のクラス増、教員増が必要だが、その膨大な予算増加は可能なんだろうか。全国ほとんどの学校で1クラス、または2クラス増えるから、その担任分の教員増になるのである。また、その学年の生徒たちは、受験・就職が難しくなるだろう。それをわざわざ望む生徒・親はいないだろうが、じゃあ、法律を改正して、小学生の定義を「満六歳五ヶ月」と変更するべきなのか。

 第3は「学校予算が学年途中で途切れる」ことである。公立学校は地方自治体が設置しているが、地方自治体は4月から3月が「会計年度」である。そっちは変わらないわけだから、学年途中で会計年度が変わることになる。これでは計画的な学校経営は難しくなってしまう。予算は年間計画に基づき執行されるわけで、例えばオンライン授業を進めるICT機器整備などは、額が大きいから事前に計画されている。(景気対策特別事業とかいって、突然予算が下りてくることもあるが。)9月入学になれば、当然学校の人事異動も9月1日付になる。誰が翌年に残るか全然判らない段階で、学年開始直後に翌年(4月から次学年の3月まで)の予算請求を書くのはとても困難だ。

 第4は「私立学校への補助金増」である。世界的に感染者増で学校が閉鎖されている。学校で集団発生が発生したことは少ない(あることはある)が、学校は自営業者と違って補償を求められないから閉めやすいんだという。生徒も保護者も学校に単なる利潤目的で行くわけではない。「学校に在籍する」ことが意味を持つんだから、授業がないだけで政府に補償を求める不利益が生じたとは言いにくい。(完全に単位制で、学費も高額な大学は別。)公立学校の教員も公務員だから、身分は保証される。

 しかし、私立学校の場合はどうだろう。私立学校にも今では多くの公費が投じられている。私立高校の学費も多くの都道府県では(全部かどうかは知らない)公費で補助されている。(所得制限はある。)しかし、来年の9月にならないと次の新入生(新学生)が入ってこない。公費の補助は「学年ごと」だろうから、来年4月から9月までの私立学校(大学から小学校まですべて)は生徒の学費分が入ってこないことになる。それでも教員の人件費や施設運営費はかかる。それを特別に公費で補填しない限り、経営的に行き詰まる私立学校も出てくるんじゃないか。

 以上が主な理由だが、財政上の困難が大きい。お金の問題だからよほのメリットがあれば何とか工夫するべきだろうが、そこまでのメリットはあるだろうか。その他、多くの問題も起こってくる。例えば、公務員が60歳定年とすると(近年定年延長も検討されている)、教員の場合は学年途中ではなく「学年末で60歳」の人が定年退職になる。だから誕生日によっては、ほとんど61歳まで勤める。しかし、9月入学に変わると、4月から8月に誕生日が来る教員は今年8月で突然定年なんだろうか。今年は特例が認められるかもしれないが、やがて変更されるのか。人生設計に大きく影響する。

 今年の学校生活はコロナウイルスにより大きな影響をうけてしまった。学習面もだが、今後夏休みも短縮され、出来なくなる学校行事も多いだろう。春の選抜野球や夏のインターハイも中止になってしまった。今後もいろんな行事が中止になるだろう。あまりにも可哀想だと誰もが思っている。9月入学に変更することで、もっと余裕を持った学校生活が可能になる。小学校入学が5ヶ月遅れたとしても、大学生にもなれば浪人、留年、社会人入学などは珍しくもないから何とかなるとも言える。

 しかし、学校の本質は単に教科学習にだけあるのではない。行事を精選しながらも、充実した共同体験を積み重ねることで、今年の学校生活も有意義なものに出来ると思う。実際に1学期が全部休校にでもなれば別だが、今のところ残された期間をいかに有意義なもののするかを考えた方がいいと思う。もちろん、入学試験、就職試験などは大胆な配慮が必要だ。(それにしても「大学入試への英語民間試験導入」を潰しておいて本当に良かった。)
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教職の尊厳回復への道ー教員労働問題③

2019年12月05日 23時16分46秒 |  〃 (教育行政)
 3回も書くつもりじゃなかったんだけど、「教員の超過勤務をどう考えるか」問題の本質を書ききれない。最後のいくつかのポイントを提示して一端終わりにしたい。

 上の写真は文科省前で「英語民間テスト導入」に反対運動をした高校生や大学生などの若者たちである。なんで再びこの問題の写真を載せるのか。高校生ながら自分たちの声を届けようと動いた人もいた。そのことを、大人である教員が考えないといけないと思うからだ。自分たちの労働にあり方について、「どうせ何を言っても変わらない」「何も通じない」と何十年も続く「猫の目教育行政」に振り回されて、ほとんどの教員は何も言わなくなってしまった。いつまでもそれでいいのだろうか。

 確かに「声を挙げれば目を付けられる」し、「自分の身を守るだけで精一杯」と思う人も多いだろう。だが文科省だって「アクティブラーニング」を唱える時代だ。まあ安倍首相や管官房長官の「桜を見る会」問題の国会答弁を聞けば、「ちゃんと議論はしない」「追求をはぐらかす」ことを目的とした言語の使い方をしている。ディベートだのアクティブラーニングは日本社会では不要だという強いメッセージを発している。そういう国で生きているわけである。だからといって、教師たちが自分たちの労働条件の大きな変更にも、ただ決まったことに従うということでいいわけがない。

 マスコミでは、最近は「いじめ調査」等の調査・報告が多くなって現場は忙殺されているというような報道がよくなされる。もちろんそういう報告などは実際に多くなっていると思う。教育委員会からメールで送りつけてきて、添付ファイルで報告する訳だから、昔より簡単に送ってくるんだろう。それに情報公開請求による新しい報告事項も多い。だけど、いくらそういう調査類が多くなったとしても、そんなに残業が多くなるはずがない。部活動や宿泊行事、生徒指導なども多いと思うが、これは昔もあったことだ。21世紀になって、特に超過勤務が激しくなる理由はどこにあるのか。

 それは「教職の尊厳」を失わせるような政策がずっと行われていることにこそ原因がある。「忙しい」のも間違いないが、それ以上に「無意味なことに振り回される」「仕事がつまらない」のだと思う。どんなに忙しくても(もちろん限度はあるが)、それが真に生徒の向上に役立つような仕事なんだったら、忙しくて疲れるだけでなく、社会的に意義ある仕事をしているという「使命感」「充実感」も得られるだろう。そして昔はそういう仕事は多かったし、今も「文化祭」や「修学旅行」のために努力する仕事は「疲れるだけでなく楽しい」ものでもある。

 まあ「楽しい」と言えるのは、うまく行ってるクラスや学年の場合かもしれないが。自分はすべての担当学年で旅行行事を担当したけど、それは「楽しい仕事」だった。だが(自分が所属した東京都で行われているような)「自己申告書」に基づく教員の勤務評価システムのための膨大な書類作りなんかは、ニンジンを鼻先にぶら下げて教員どうしを競争させ昇給に使うわけで、「これが教育か」と思う書類仕事だ。(都教委側では、そういう人事制度が民間では当たり前だとか言うわけである。)他にも山のように、20世紀にはなかった「書類のための書類作り」(例えばアリバイ的に情報公開で問題化しないように発言をうまくまとめた「○○委員会議事録」作成など)が多いのだ。

 生徒に関わることでも小中では「全国学力テスト」があって、その成績を学校や教員の評価に使いたいと公言する知事や市長がいる。どうなってるんだ。大変な学校で大変な苦労をしている教員こそ、評価を上げるべきだろう。そのため「過去問」特訓をやったりするらしい。それでは本末転倒だ。そういう「競争的教育政策」のために、教員の仕事も変質し、事務仕事も増えてしまう。60年代に行われた学力テストは、教員組合の大きな反対運動で数年で中止になった。今は組合がほとんど力を失ってしまって、中止に向けた運動も行われない。それどころか、「競争意識」を内面化させてしまったような若手教員もいるんじゃないか。
(全国学テを前にした大阪府枚方市の学校)
 このような「教育」の意味の変容の中で、教師にとっては「自らの尊厳のはく奪」が進行してきた。「教員免許更新制」はその代表的な例だ。「無意味な仕事」「つまらない仕事」をやらされていると、疲労感は倍増するだろう。社会のあり方も大きく変わり、教育も大きな変化を避けられない。マジメな議論は歓迎だが、今回の「英語民間テスト問題」のように、思いつき的な発想と結果的に中止といった事態は文科省の教育政策に振り回される教員に頑張る意欲を失わせる。

 部活動などは別に考えなければならない問題だが、今回の「教員の変形労働時間制」では「労働時間」という量しか問われない。しかし教育のような仕事においては、量以上に「労働の質」を問わないといけない。労働内容の無意味化を何とかしないといけない。競争的教育政策の転換に向け、どのような反転攻勢ができるだろうか。今考えるとしたら、それこそが大きなテーマだと思う。もちろん、教員に限らずどんな仕事でも「労働の尊厳」が保証されなければいけない。しかし生徒が卒業後に就職する会社などを聞いても、尊厳が守られていない会社が多い。教員が行うべきことは、自分の仕事の量と質を問うことから始まって、生徒や保護者の労働をも問い続けていくことだと思う。
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どのような改善を望むのかー教員労働問題②

2019年12月04日 23時30分19秒 |  〃 (教育行政)
 教員に「変形労働時間制」を可能にする(地方議会での条例改正を可能にする)「給特法改正案」は12月4日の参議院本会議で採決され、賛成多数で可決された。9日まで会期があっても、最後の月曜はやらないことが多い。だから金曜(6日)には本会議があるだろうと思っていたが、日米貿易協定もあるし「桜を見る会」問題で野党側が内閣不信任案を出すと想定していた。まあ出しても一蹴されるだけだが、それでも日米貿易協定(の成立)前にやらないと意味ないだろうが。

 成立はしたけれど、今後の「職場の闘い」(あり得るかどうかは判らないが)に向け、問題を整理しておく必要がある。この法案を厳しく批判する人も多いが、「残業エンドレス」とか「これでは教員の生活が破壊される」とまで言うのはどうだろうか。現状がひどい状況になっている本質に目を向けず、ちょっと対処するだけというアイディアだが、それでも夏休みであれ振り替えできるならその分休めるには違いない。学校の働き方は地域、校種等で大きく違いがあり、まずは細かい調査が先に必要だ。

 上の写真は10月28日に、反対署名を提出した岐阜県公立高校教員、西村祐二さんと過労死した中学教員の妻工藤祥子さんである。最近は教育問題で大きな法改正があっても、教員組合の動きが見えない。それどころか、保守的な立場に立つ全日本教職員連盟(組織率2%程度)などは、参議院の参考人質疑で賛成意見を述べている。11月29日付東京新聞記事によれば、反対意見は上記署名を提出した西村さんと連合の相原康伸事務局長。賛成意見は全日教蓮の郡司隆文委員長と日本PTA全国協議会の東川勝哉顧問。連合として反対しているが、日教組全教からは出ていない。

 そもそも、教員は何を望んでいるのか。それはどのようにすれば可能なのか。
①残業そのものをなくす 
②残業(超過勤務)には残業代を支払う 
③残業には「勤務時間の振り替え」(代休)をする。
 3つの方向性があり得るが、それぞれ勤務内容によって変わってくる。教員の残業そのものを完全になくすことは出来ない。一般論で言えば、どんな職業であれ一切の残業なしには出来ないだろう。教員に関しては、給特法で認められている「宿泊行事の引率」などは勤務期間を超過せざるを得ない。その場合は「一ヶ月以内に勤務時間を振り替える」措置を取っている。それが全国的な措置なのか知らないけれど、そして実際には「一ヶ月以内の振り替え」は不可能なんだけど書類上は振り替える。

 そのことを考えれば、「超過勤務は夏休みに振り替えればいいでしょう」はおかしいことになる。超勤分の疲労回復なんだから、あまり後ではおかしいわけだ。もっとも東京都には土日に4時間以上の部活動を行った場合、4ヶ月以内に振り替えられる(または部活動手当を受けるのと選択できる)という仕組みがあった。(過去形で書いたのは、その後の変更の有無を知らないから。)部活なら後でもいいのかと言えるが、これは「部活動の位置づけ」と絡むので、なかなか難しい。

 職場内でも「部活をやりたい教員」はかなり多い。一方主に生活上の理由で「部活に負担感を持つ教員」も同様に多いと思う。この問題は以前書いたけれど、部活を今のまま続けることはやがて不可能になると思う。部活がある限り、教員の残業問題は解決しない。社会の側でも「部活は教員のボランティア」という意識では、やがて学校も生徒も共倒れになる。負担するべき経済的支援はきちんと負担するべきだ。具体的には、「部活動は社会教育に移管していく」「部活指導員が担当する」「当面の間、希望する教員は無条件で部活指導員に兼任できる」「教員も含め、部活指導員には活動実績に応じた給与を支払う」という方向である。

 部活動を含めて、教員の残業は小学校で月当たり60時間、中学校では80時間だという調査結果が出ている。給特法による調整額4%は「8時間」に当たる。教職調整額は総額で1386億円だという。法制定当時の考え方を生かして、現在の残業時間で計算すると、国負担で3千億円、区と地方を合わせて約9千億円になるという。(以上は衆議院での川内博史議員の質問に対する文科省の答弁による。朝日新聞11月16日。)そういう意味では、およそ「一兆円の搾取」が行われていることになる。

 こういう答弁を見ても、「給特法」の再検討は避けられないだろう。だが「給特法」そのものを「悪法」視するのはおかしい。今になって、「給特法」以前は残業代があったなどと論じる人さえいる。もちろん、現実は「4%であれ、残業代が出るようになった」のである。50年代、60年代には「デモシカ先生」などと呼ばれ、「先生でもするか」「先生しかなれない」などと経済的には恵まれない職業だった。その待遇の悪さが、組合の高組織率の要因でもあった。だから「給特法」は間違いなく「日教組対策」でもあったわけで、現実に70年代から教員組合の組織率が低下していく。

 しかし今すぐに「給特法」を廃止して残業代を正式に支払うことは財政的にも不可能だ。それに学校現場には「残業が出来ない教員」が相当に存在する。「育児」「介護」などの事情の他、「体調不良」(休職明けを含む)や「長時間通勤」(2時間近い人もいる)などの教員がかなり多い。そのような教員も「4%加算」を受けているわけであるから、給特法を廃止すれば「職場の中で弱い立場の教員」が大幅な給与ダウンになってしまう。そういう教員でも加算があっていいのかと思うかもしれない。いいのである。今は残業できない教員でも、違う時期には大幅な超過勤務をこなしているからだ。

 今では教職調整額は一種の「教職手当」となっている。事務系職員には出ないから、不平等だという人もいるが、どんな教員でも授業をして生徒と向き合っている。僕は長年教員をして思ったのだが、この「生徒と向き合う」ことが一番大変なのである。どんな教員でも「4%加算」があるということが、職場の同僚としての共同性を支えていると思う。だから一緒にきちんと仕事して欲しいと思う根拠でもあり、それぞれの教員が「自分は教員なんだから責任があるんだ」と思う根拠にもなる。

 また今「残業代を支払う」という制度に変わったとしたら、「残業」の承認が厳しくなるはずだ。今は管理職の命令(承認)なしに残っているわけだから、残業理由を届け出る必要も無い。それが残業代を管理職が厳しく管理することになれば、当然残業理由が厳しく問われるし、教員個々に情報公開を見据えたきちんとした届けがいる。自分の経験でも、「職人的こだわり」とでも言うような「完全にしたい欲求」による居残りがある。それに結構ダラダラ残っている人もいないとは言えない。僕はある程度「超過勤務はナアナアにしておく利便性」もあるように思う。

 こうなると、方向性が見えてこなくなるが、最後に言えることは「教員配置基準の緩和」が必要だということだ。少子化に伴い授業時数も減って行く。このままではどんどん減ってしまう。新採教員もいなくなって、年齢バランスが崩れる。それに小学校の新指導要領、小中の「道徳教科化」、小学校の「英語教科化」、あるいは「アクティブラーニング」の推進など、実質的に授業が増えている。授業でやることを大きく変えるには、授業時間数の軽減なくしては不可能だ。長くなってしまい、結論もなかなか出る問題ではないけれど、もう少し続けることにする。
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変形労働時間制とは何かー教員労働問題①

2019年12月03日 22時51分57秒 |  〃 (教育行政)
 ここ数年、教員の労働問題が大きく取り上げられるようになった。文部科学省としても何らかの対応を迫られたのだろうが、大幅な業務の見直しや部活動の位置づけなどには手を付けず、「変形労働時間制」を導入するという方向で法改正が行われた。衆議院を11月19日に通過し、12月4日の参議院本会議で賛成多数で成立した。(衆議院での賛成会派は、自由民主党・無所属の会、公明党、日本維新の会、希望の党で、反対会派は立憲民主・国民・社保・無所属フォーラム、日本共産党。)

 この制度をどう考えればいいのだろうか。「変形労働時間制」とは、上に示した図にあるように、「繁忙期」の労働時間を長くして、「閑散期」の労働時間を短くする制度である。もともとは「月単位」で月末の「締め」の時期に延長する等を想定していたが、法改正を繰り返して年単位の変形が認められている。学校では「長期休業期間」には授業がないから、その期間に「休暇のまとめ取り」も可能になる。

 最初に書いておくけど、現在の法案(公立の義務教育諸学校等の教育職員の給与等に関する特別措置法の一部を改正する法律案)を見ても何が何だか判らない。法案を見たい人は「衆議院」トップから「立法情報」「議案情報」「第200回国会 議案の一覧」と進む。(参議院からも見られる。)

 なんで判らないかといえば、この改正案が成立しても「変形労働時間制」にはならないからだ。元の法案「給特法」は名前に書かれているとおり、まずは公立小中学校を対象にしている。公立学校教員は地方公務員だから、地方議会の条例で労働条件が決められている。だから「条例を改正して変形労働時間制にもできますよ」というのが、今回の法改正案なのである。

 条例が改正されても、まだ変形労働時間制にはならない。労働条件の変更だから、労働基準法36条のいわゆる「サブロク協定」が必要になる。労働協定には「使用者は、当該事業場に、労働者の過半数で組織する労働組合がある場合においてはその労働組合、労働者の過半数で組織する労働組合がない場合においては労働者の過半数を代表する者との書面による協定」が必要になる。

 小学校はともかく、中学校では今や「労働者の過半数で組織する労働組合」なんて存在しない学校がほとんどだろう。全組合をまとめても組織率3割程度なんだから、ほとんどの学校では教員組合(職員団体)との協議だけでは「変形労働時間制」は導入できない。職場で議論できるんだろうか。組合を弾圧し、職員会議を無意味化してきた後で、この問題に関して職場できちんと議論できる余裕がどれだけあるのか。なんだか現場では面倒だから後回しにされそうな予感がするのだが。

 それはともかく、内容をどう考えればいいのか。これが「抜本的改革ではない」のは明らかだ。だが「ないよりはまし」的な部分もないとは言えない。「絶対に阻止するべき違憲法案とまでは言えない」ようにも思う。それを言えば、元々の給特法も、いまや「悪法」と断ずる人も多いようだけど、僕は必ずしもそうではないと思っている。自分でも論旨不明確だと思うが、教員の労働時間問題は「あちら立てれば、こちら立たず」で、教員間でも利害の対立がある。根本的な解決策を見出すのは難しい。

 誰もが心配することを書いておくが、変形労働時間を機械的に適用すると一番困るのは「育児軽減」「介護軽減」などのケースである。例えば1時間早く帰れていたものが、勤務時間そものもが1時間延長されてしまえば元も子もない。しかし、これは配慮されるはずだ。「労働基準法施行規則第十二条の6」に(変形労働時間で労働させる場合は)、「育児を行う者、老人等の介護を行う者、職業訓練又は教育を受ける者その他特別の配慮を要する者については、これらの者が育児等に必要な時間を確保できるような配慮をしなければならない。」と明記されている。この規則を守らないといけない。

 細かなルールの説明で長くなっているが、本質的な問題は次回に書きたい。この「変形労働時間制」はどうも「現場知らず」の発想に思える。4月、6月、10月、11月に勤務時間を長くするというような例示があるようだが、別にこれらの月が一月を通してずっと忙しいのか。全員が関わる行事(文化祭、運動会等)は確かに学校全体が忙しいが、それでも月全部じゃないだろう。むしろ、テストをして、成績を出し、クラス担任は通知表を作成し、三者面談などもある7月や12月も忙しいだろう。「師走」を無視していいのか。そう思うが、7月や12月は長期休業目前だから無視するのか。

 3学期だって次年度に向けて忙しい時期だが、その間の残業はどうするのか。年間で変形するんだから、恐らく翌年度には繰り越せない。学校の特徴は、繁忙期といっても「人それぞれ」だということだ。修学旅行前は忙しいが、全学年ではない。担任だって全員じゃない。部活顧問だって、文科省自体が週に休日を設けろと言ってる。部活がない日は早く帰れたのに、勤務時間が延びたら意味が無い。夏休みに研修だの「教員免許更新講習」だのを入れたのも文科省だ。夏休みは「閑散期」だと言っても、昔とは全然違っている。いくら書いてもキリが無いが、本質を外した議論をしてると「パンドラの箱」を開けてしまいそうだ。それは「もう学校では働けない」という思いだろう。
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「国語」から「日本語」へー「国語」教育考②

2019年11月14日 22時54分27秒 |  〃 (教育行政)
 高校国語の新指導要領について書いたから、ついでに今まで「国語」に関して思っていたことを書いておきたい。サブタイトルに「国語」とカッコを付けている。「国語」って何だろうか? 国語、数学、英語をよく「主要3教科」などと呼び、「国数英」(あるいは英数国)と略している。「」は理解出来る。確かに「数の勉強」だ。でも「」というのは何だ。「国」の勉強なのだろうか。もちろん違う。「国語」の「」の方の勉強なのである。そして、その「語」とは「日本語」に他ならない。

 じゃあ、なぜ「国」を付けるのだろうか。自分たちが所属している国だけが国家ではない。世界には200近く国家が存在する。その中には「国家」と「言語」が違っている国も多い。(スイスには4つの公用語があるし、ベルギーはオランダ語圏とフランス語圏に分かれている。一方、ドイツオーストリアは同じくドイツ語を公用語としている、など。)日本では「国家の成員」がほぼ「日本語」を話すからといって、それを「国語」と言ってしまっていのだろうか。それは「国家の言葉」という「正しい言語」を上から押しつけるということにつながらないだろうか。そして、そのことを私たちはどの程度自覚しているだろうか。

 「国語」という言葉がいつから教育で使われているのか、僕はよく知らない。「国語」という言葉は明治になって出来た言葉だが、学校の「教科」に使われたのはいつからだろう。1941年に「国民学校令」が出され、小学校が「国民学校」に改称された。その時の初等科(小学校)の教科は4つだった。「国民科」「理数科」「体練科」「芸能科」である。そして「国民科」の中に、科目として「修身」「国語」「国史」「地理」があった。このように「国語」というのは、「修身」や「国史」と並ぶような言葉だったのである。

 「国史」とは、まあ「日本史」だが「日本国の歴史」=「天皇家の歴史」であり、歴代天皇の名前を暗記するのが重要だった。戦後の高校の学習指導要領を調べてみると、当初は「国史」とされていたが、1951年には「日本史」と名前が変わった。歴史教育においては、「国史」という言葉への問題意識があったわけだ。それに対して「国語」の方はあまり意識されずに今まで続いている。

 東京大学文学部の学科名を調べてみる。1890年に京都大学が出来るまで日本に大学は一つだから、ただの「帝国大学」と言っていた。1887年段階の学科として「和文学科」や「史学科」があった。1897年に「東京帝国大学文科大学」と名前が変わり、1910年に「3学科19専修学科」となり、その専修の中に「国史学」「国文学」という表現が出てくる。1919年に東京大学文学部となった時点で、正式に「国史学科」「国文学科」が誕生した。戦後になって1949年に新制大学に代わった時も、引き続き「国史学」「国文学」となっていた。この言葉は東大紛争を超えて生き残り、1994年になってようやく「国史学」を「日本史学」に、「国語学、国文学」を「日本語・日本文学」に変更されたのである。(東大HPより。)

 2004年になって、「国語学会」が「日本語学会」に改称された。教育界だけが取り残されている。「日本語 教育」の検索では、「日本語教育とは日本語を話せない外国人向け」といった説明も出てくる。一方「国語」とは「日本語が母語であることを前提にした日本語教育」なんだという。しかしこれは詭弁だろう。「国語」という以上、「国家」を前提にしている。世界の多くの言語の中の一つを深く学ぶという視角がなくなってしまう。まあ「日本語」と変えても「日本を超えられない」とか言う人もいるかもしれない。それでも「国家」をまず意識するのが先決だろう。

 日本語が母語である人は、難しい四字熟語なんかは知らなくても、日常会話なんかは苦労せずに出来ると思い込んでいる。そのため「会話のスキル」を意識することもなくなる。世界の言語の中で、日本語がどのような特徴があり、他言語とどう違っているのか。そういうことをほとんど教えないまま、「英語が出来ないのは英語教育がおかしい」とか言っている。「国語」という教科名を疑うところから、「外国語教育のあり方」を考えていくべきじゃないだろうか。
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文学は教育に必要か-「国語」教育考①

2019年11月13日 22時48分50秒 |  〃 (教育行政)
 自分の教科(社会科、あるいは地理歴史)でもないのに、英語について何回か書いたことがある。それは「英語教育問題」が「教育改革(改悪)」の象徴のように扱われてきたからだ。本来、他教科に口を出す能力もないし、その気もない。しかし、今度は「国語教育」について書きたいと思う。2018年に発表された高校の新学習指導要領が「文学軽視」と大きな問題になっている。この新指導要領は2022年から実施予定だが、地理歴史・公民科にも相当大きな問題があるように思う。

 あまり細かいことを書いても仕方ないけど、一応簡単に説明。現行要領では「国語総合」(4単位)が必履修で、他に「国語表現」(3)、「現代文A」(2)、「現代文B」(4)、「古典A」(2)、「古典B」(4)がある。

 新要領では「現代の国語」(2単位)と「言語文化」(2単位)が必履修で、他に「論理国語」「文学国語」「国語表現」「古典探求」(各4単位)が置かれる。このうち「現代の国語」は「実社会で必要な議論や討議、説明資料をまとめる活動」で、「言語文化」は「上代から近現代に受け継がれた日本の言語文化」を学ぶ。今まで国語では文学作品の読解が多かった印象があるが、新要領になると高校生が文学作品を深く触れる機会がなくなってしまうと危惧されているわけだ。

 最近は単位制高校も増えて、必履修科目がほとんど2単位ものである。「数学Ⅰ」と「英語コミュニケーションⅠ」は3単位(2単位まで減可)とされているだけだ。3年間(または定時制4年間)で国語が必修4単位だけということはない。だが、残りが皆4単位ものとなると、進路活動への効果も考えて「論理国語」や「国語表現」を置く学校が多いだろうと思う。確かに「文学」に触れる機会が少なくなるのは間違いない。それで良いという考えもあるだろう。「イマドキの高校生」には大人ともきちんと「話が通じる」基本的スキルを養うのが第一だというのも判らないでもない。

 そもそも何でこのような指導要領になるんだろう。それは「公民」科で「現代社会」をなくして「公共」という新科目を作る。英語では「話す力」を重視する。そういうのと通底する流れを感じる。要するに財界からの要望で「使える人材」を作れということだ。もう一つ「言語文化」が必履修なのは、「日本の伝統文化」偏重という視点で理解出来ると思う。近年の(特に安倍内閣における)教育政策は、新自由主義(経済界)と国家主義(右派勢力)の双方を混ぜ合わせたものと考えれば判ることが多い。

 結論から書くと、僕はやはり若い世代に「文学の読み方」を伝えるのは非常に大事なことだと思う。もちろん「契約」など実社会の「論理的文章」も使いこなせないといけない。それは前提である。「論理的文章」が今の子どもたちには通じないと嘆く人も多いだろう。スマホニュースならまだしもいい方で、電車の吊り広告で見ただけの週刊誌の見出しで「世界を理解したつもり」の人だって多いと思う。実は老若を問わず、読み書きで困る人も多いのが実情だ。運転免許の試験で苦労したり、福祉や年金の書類が理解出来ない人もいると思う。高校生なんだから、最低限新聞ぐらいちゃんと読めないと。

 もちろん「論理言語」は大事なんだけど、「実社会」ではそれでいいかもしれないが、実は我々の言語活動はむしろ「非論理的言語」によっていることが多い。家族間のコミュニケーションは大体そっちだ。地球温暖化や憲法改正問題を議論する家庭はほとんどないだろうし、子どもの進路問題だってきちんと話そうと思いつつ、多忙を理由にちゃんと向き合っていないことも多いはず。家庭では人間は言語だけではない、「顔色」や「しぐさ」などでコミュニケーションを取っている。仕事は出来る人間なのに、家庭内ではコミュニケーションが取れない人もいる。

 子どもや老人が発する「非言語的コミュニケーション」を理解することの大切さ。これは今後ますます我々に必要になってくる。それは「文学」の領域だ。文学では「言外の意味」「余韻」を生かすことが大切だからである。言語だけでなく、本当は演劇レッスン映像作品製作なども役に立つ。それが「国語」科で扱うべきかは判らないけど。(むしろ新教科を考えるべきなのかもしれない。)

 ここで最近読んだ本を挙げて終わりにしたい。直木賞受賞作の荻原浩「海の見える理髪店」と芥川賞受賞作の滝口悠生「死んでいない者」である。「大衆文学」と「純文学」の違いもよく判るだろう。どっちも「家族」をテーマにしている。書かれていないことをどう理解するか、それが文学では問われる。
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大学入試はどうあるべきか問題

2019年11月12日 22時52分53秒 |  〃 (教育行政)
 大学入試の「英語民間試験」導入が「延期」されたことは先に書いた。かなり前から反対の声を挙げてきた英語教育関係者、あるいは当事者として反対の動きを起こした高校生などがあってこその「延期」だったと思う。「延期」とあるけれど、「抜本的に見直す」ことが必要だ。さらに、国語・数学の「記述式」問題の是非も問われている。ここで問題なのは「記述式」そのものではない。「記述式」は「考える力」を見るなどと言うが、何十万もの受験生が受ける性格上、「公平性」担保のため限りなく「考える力」を問わない問題に近づいていく。そうじゃないと「アルバイト学生」が採点できない。

 そんなに「考える力」を見たいなら、全部記述式にするべきだ。そのため採点にバラつきが出たとしても、それはやむを得ない。それが「記述式」というものだ。つまり本来は「大学教育にふさわしい受験生を選抜する」という目的で行うんだから、「小論文」というか「大論文」を書かせるのが一番良い。そじて大学関係者が自ら採点する。基礎学力の有無は、高校の成績で判断する

 もちろん、それは現実的ではない。各高校、各地域の学力には違いがある。だから、基礎学力の確認がいることになる。それなら「基礎学力」だけを見るテストをすればいい。英語の4技能だの、国数の記述式だの、そんな面倒なことをする必要はない。受験生の「英語を話す力」を知りたい大学は、独自に二次試験をすればいいだけだ。(その時に検定等の結果をもって代用する大学もあって良い。)

 なぜ文部科学省が「民間試験」や「記述式」導入に固執してきたのか。それは大学入試を変えることで、高校以下の授業を変えたいからだろう。実際、私立学校などは新テスト対応を進めてきたから、いまさらやめるなと言ってきた。それはつまり、「英語の4技能」とか「アクティブラーニング」とか、お題目は立派でも、高校現場的には「入試対策をして乗りきる」ものでしかないのだ。大量に何十万も採点するとなれば、それは「マニュアル化」可能なものでなければ不可能だ。英語の民間試験だって同じだろう。中国の文化大革命当時に言われたというが、「上に政策あれば、下に対策あり」である。

 さらに指摘すれば、「全国学力テスト」の弊害である。大量にデータ処理するから、民間業者に委託せざるを得ない。それが当たり前になってしまった。だから文科省は、記述式を始めたら下請けさせればいいとしか思ってなかっただろう。受験生に大きな不満と不安を呼ぶだろうという感性を失ってしまった。全国の教育を競争的にしてきた一番の要因も、全国学力テストだ。民主党政権時代に「抽出」で行われたことがある。「抽出」でも「悉皆」でも、ほとんど違いはなかった。もう何年もやってみて、結果も毎年ほぼ同じだ。かつて60年代に実施された学力テストは教員組合の反対が強く、数年で中止された。教員組合の弱体化が間違った政策を続けさせている。

 ところで、この問題は「大学入試はどうあるべきか」という問題から、「そもそも大学教育はどうあるべきか」や「教育政策全般に見られる官僚的・強権的体質をどう変えていくか」へと考えを進めていかないと展望を持てない問題だろう。今そこまで全部書くのは大変なので、ここでは「考えるヒント」だけ。まず、「大学教育」に関する思い込みを排することだ。普通は大学では高度な勉強をするから、それに対応できる希望者を入試で選抜するのが当たり前だと思われている。

 以前書いたけれど、その前提を崩して「希望者を全員受け入れる」ことにしたらどうだろう。教室のキャパシティの限界があるから、大学へ入っても全員が授業には出られない。だから、「大学へ入れるか」競争から、「講義を受講できるか」競争になる。大学教員は自分の権限で、どんどん落とせばいいだけのことだ。これは極論としても、そもそも「入試をなくして、全員を推薦で選抜する」方が正しいんじゃないだろうか。そういう大学が何故出て来ないんだろうか。もちろん、その推薦選抜時には英語の外部テストの結果を高く評価する大学が多くなるだろう。

 日本で「大学入試」がこれほど問題になるのは何故か。それは入れば大体卒業するからだ。つまり、高校3年、または浪人する場合もあるが、そこで「最終学歴」が決まってしまい人生に大きな影響を与える。だから入試の「公平性」が大きな問題になる。「就活」というものが可能になるのも、3年まで行ったらほぼ卒業できると学生も企業も思ってるからだ。でも、本当は4年生で単位を落とす可能性だってあるはずだ。いま、文科省は大学に「入学者定員の厳守」を求める。

 だが、これを反対にして「卒業者定員の厳守」にしてみたら、どうか。大学は自由に入学者を決められる。だが、現在の水準以上の卒業生を出すことは認めないのである。そうなれば、大学入試などどうでも良くなるだろう。しかし、卒業認定をめぐる透明性、公平性が厳しく問われる。卒業の方が全然難しいのである。全員は卒業出来ないのである。ホントの競争が必要になるし、自分の能力よりずっと上の大学へ無理して入る人はいなくなる。そして、内定を出しても半数は卒業出来ないとなれば、就活という悪習もなくなる。「入試改革」より、大学でホントに勉強する方が大事だと思うけど。
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教育実習をどうするか問題

2019年10月15日 23時03分44秒 |  〃 (教育行政)
 「教員のなり手不足問題」を書いたが、結局は「教職の尊厳」を取り戻す以外に根本策はないだろう。そのためには「自主研修」を大切にすることが重要だ。しかし、書いても実現しないし、もう自分には関係ないから止めておく。もう一つ「教育実習のあり方をどうするか」という問題がある。ほとんどの人には関係ないけど、多分社会的には意識されていないから書いておきたいと思う。

 いろんな資格を得るためには、「実習」が義務づけられていることが多い。人と接する資格の場合、実際に現場で実習を行うことは大きな意義がある。特に医者とか教師の場合は、実習がすごく大事だというのは、多くの人が納得するだろう。自分が生徒だった時代に、教育実習生が来たことを覚えている人も多いんじゃないだろうか。この教育実習というのは、学生の方も大変だし、受け入れる学校の方もなかなか大変だ。はっきり言えば「迷惑」なことも多いけど、思えば「自分も多分迷惑を掛けた」わけだから「お互い様」と思って引き受けるしかない。

 この教育実習の何が問題なのか。内容もあるけれど、なんと言っても時期である。別に法的な決まりはないけれど、大体の教育実習は「大学4年生の6月前後」に行われている。昔もそうだったし、今もそのようである。これじゃ「就活」と丸かぶりじゃないか。人によっては事実上の「内定」が決まっているかと思う。今の「就活」を前提にするのもおかしいが、実習が決まってるから仕方なく来たけれど、実はもう「採用試験は受けない」という学生が多いのだ。その反対に、民間企業は考えず教員志望だった人が「教育実習で自信喪失した」なんて場合はもっと困る。それから就活じゃ大変である。

 実習期間は小学校は4週間中学校は3週間高校は2週間が基本になっているようだ。小学校教諭を目指す人は、大体教育学部で専門的な勉強をするから、ここでは除外。問題はその他の学部で学んでいる中高の場合。附属の学校があって、そこで実習が出来る大学もないではない。でも、大体の場合は「実習先は自分で探す」ことになる。探すというより、基本は「母校に頼み込む」わけだ。卒業した生徒が教師を志して、教育実習をしたいと母校にやってくる。うれしい気持ちもないわけじゃない。でも今は異動が激しく、「恩師」はいないことが多い。それどころか、「母校」がないことさえあるだろう。

 教員の仕事は授業だけじゃない。むしろ「生徒指導」や「進路指導」の方が重要だろう。だけど、個人情報の絡む指導を実習生にさせるわけにはいかない。それに「職員会議」にも出席しない(ことが普通だ)。もし教員になったら、ともかく毎日毎日授業を担当しなければいけない。だから、とりあえず実習では「授業」がある程度やれればいいだろう。最初は担当教員の授業を見る。部活動に参加することもないではないが、基本は管理職や主任などによる学校の説明を聞き、授業の準備をする。そして実際に授業をさせて貰って、最後に「研究授業」を行う。そのための指導案作成が大変なのである。

 それ以上に大変なのは、毎日毎日書かないといけない「教育実習日誌」だ。「教育実習」で画像検索すると、実習先で撮った生徒と一緒の写真がいっぱい出てくる。なんだか見てると、自分も数十年前を思い出して懐かしくなってくる。そんな写真は使えないけど、「日誌」が出てきた。どこの大学かは知らない。最初からマスキングされていた。この日誌を書くのも大変だが、見る方の指導教員もえらく大変なのである。そして「教養主義」みたいなものが消え去った現代においては、時々「こんなことも知らないのか」という実習生が増えてきた。そんな声も聞くことが多くなったような気がする。

 どうすればいいのか、僕はよく判らない。専門科目を修得したことを以て、その教科の授業を担当する資格を得る。教職科目を修得したことを以て、教育に携わる資格を得る。そういう考え方で行けば、「大学4年で実習を行う」ということを変えられない。でも実際の学校では、専門的に勉強したことを教えることはほとんどない。特に社会科(地理歴史、公民)や理科では、高校だと科目別に採用試験があるのに、免許は同じで時には何でも教えなくてはいけない。だから、「大学3年で教育実習」でいいんじゃないだろうか。だがもっと抜本的な改革も考えられる。

 「教育実習」で初めて学校の内部に入るのではなく、一種の「インターンシップ」を実習に先だって義務づける。「学校ボランティア」や「部活指導員」を単位認定することでもいい。その後に同じ学校で実習を行う。学生の負担は大きいかもしれないが、採用試験の「一次試験免除」ぐらいしてもいいんじゃないだろうか。ただ地方から大都市の学校に進学した場合、母校でボランティアする時間が取りにくい。まあ母校じゃなくてもいいわけだけど。いろんな問題もあると思うけど、僕が言いたいのは評価に値する学生なら「一次試験免除」にするぐらいの方策を取ってもいいんじゃないかということだ。
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教員の「なり手不足」問題

2019年10月14日 22時57分25秒 |  〃 (教育行政)
 教員の希望者が減っていると指摘されている。採用試験の倍率が減っているらしい。全国で見てみると、今年度の小学校は約2.8倍、中学校は5.5倍になっている。(10月7日付朝日新聞記事による。)これは00年度の小学校が12.5倍、中学校が17.9倍だったのに対して、確かに大きく減っている。
(教員採用試験の倍率の推移)
 その直接の原因は、過去の大量採用時代の教員が退職年齢を迎えて採用者が増えているのに対し、若い世代は少子化で人数そのものが少ないことがあるだろう。また民間企業の採用が順調で、大学生は教員採用試験の前に民間企業に先に内定してしまうことも大きい。そもそも2000年前後の「就職氷河期」に、教員採用試験がとても合格できるとは思えない倍率にまでなっていたことがおかしかった。減ったとは言え2倍以上はあるんだから、採用後に研修や経験を積むことにより教員として成長出来るだろうという考え方もあると思う。

 しかし、現場的にはこの倍率はかなり低いんじゃないか。なぜなら、教員採用試験に落ちた志望者の中から、さらに教員を目指すという人を中心に、非常勤講師産育休代替教員を採用することが多いからだ。その年に不合格だった人は、いつあるか判らない産休代替の口などを待たずに、私立学校で講師をしたり、民間企業へ就職してしまうのが普通だ。どんな職場にもあることだが、採用後に教員に向いてないと判る人もいる。年度途中で事情があって退職する人もいる。だから年度途中で新採用になる人が一定数いるもんだけど、この倍率だと突然の講師採用などが難しくなるはずだ。現実に病休、産休などの代替教員、つまり「非正規教員」が非常に不足してきているという。(9月24日付朝日新聞。)

 その原因として、学校の勤務環境が「ブラック職場」であることが知られて敬遠されているという分析もある。それもあるかもしれないが、それだけでは不十分だろう。もともと部活動を含めた勤務時間の長さ、それにたいして「残業代」に見合わない給与体系など、それ自体は教員を目指すものには周知のことだった。しかし、それでも教職は面白いという「教員労働の特別性」が存在した。その特別性を剥ぎ取ろうというのが、ここ何十年かの教育行政だった。だから、教員を目指す人が減ったというのは、教育行政が目指してきたことが効果を上げたということなのである。

 そもそも教員免許を取得する人が減っているのかどうか。僕はそのデータを持ってないけれど、「教員免許更新制」なる愚策により、教員免許を「とりあえず」「念のため」取得しようという人は減っているのではないだろうか。中高の免許は、普通は大学で教職課程に登録し所定の科目を修得することで得られる。しかし「教育実習」などの負担が大きい割に、10年で期限が切れてしまう。研究職を目指して大学院に進学する、あるいは音楽や美術、スポーツ、英語の翻訳などでプロとして活躍を目指している人は多い。昔はそういう人は「念のため」教員免許を取っておく人が多かった。

 実際に美術や音楽などでは、セミプロ的な活動をしながら非常勤講師をしている人に何人も接してきた。そういう人も今は減っているのではないか。また若い人の場合だけではなく、結婚等で一端退職した人も多いけれど、一度免許が失効してしまえば何かの時にカムバックするのは難しいだろう。「一度辞めた元教員」は緊急時に一番頼りに出来る存在だったのだが、今はそれが難しい。1966年の日本映画「こころの山脈」(吉村公三郎監督)という映画がある。小学校で産休に入る先生がいて、校長(珍しく殿山泰司がマジメや役を好演している)が代わりの先生探しに苦労している。戦前に教師をしていた「おばさん」(山岡久乃)に頼みこんでやって貰う。こういうエピソードも今ではあり得ない。

 もう一つ重要なことは、東京都教委を先頭に「教員の階層分化」「競争的な人事考課制度」を進めてきたことだ。都教委などは導入時に「民間企業では、そうやってスキルアップしている」みたいなことを言っていた。とんでもない話で、そういう民間企業に適応できる人は、とっとと民間企業に就職してしまうだろう。なぜなら、収入面で公務員は絶対に民間を上回らないからだ。(公務員の賃金は民間の水準を基準に決められている。)バブル期を経験した僕の世代などは、民間に就職した人のボーナスとあまりの違いに絶句した時期がある。その後「就職氷河期」になって、「潰れないだけでもマシ」などと言われたときもあるがそういう時期の方が少ない。

 それでも教員を目指す人がいるのは何故か。世の中全体からすれば、「変人」だからじゃないかと思う。僕にしてみれば、民間なんかで働けるとは思えなかった。都立高校なら、なんとか片隅で生きていけるかなと思ったのである。研究職を別にすれば、ずっと「歴史」に関与していけるような仕事は、社会科教員か専門出版社ぐらいしか思いつけなかった時代なのである。まあ、RCサクセションの「僕の好きな先生」である。僕はまあ自分で最初に思っていたほどは「職員室が嫌い」な教師ではなかった。でも「絵の具の匂い」に囲まれていたいというような気持ちはよく判る。そういう人は民間ではダメだけど、教師ではやっていけた時代なのだ。(もうタバコは絶対ダメだけど。)

 そのような「組織性のない教師」を駆逐するのが、教育行政の目指してきたところだ。その結果として、パソコンを駆使して「アクティブラーニング」を推進するが、生徒には考えさせるけれども自分では教育行政の言うままに働く教員を求めてきた。そんな人がいたら、教師にならずに民間企業でバリバリやるって。だから「自由裁量」を広げるなど、「教職への尊厳」をベースに置く教育行政にならない限り、教師を目指す人が増えることは難しいだろう。つまり教師不足はもっと深刻化するのである。(長くなったので、具体的な方策、及び教育実習の問題は別に書きたい。)
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神戸の教員いじめ問題の本質

2019年10月10日 23時41分02秒 |  〃 (教育行政)
 神戸市のある小学校で、指導的立場にある複数の教員が、20代の若手教員に対して「いじめ」を繰り返していたという問題が発覚した。この問題について、僕が考えることを書いておきたい。
(記者会見して謝罪する校長ら)
 今まで「いじめ」問題について、ずいぶん書いている。その中で、「いじめアンケートへの疑問①」「いじめアンケートへの疑問②」という2012年8月に書いた記事がある。その時は大津市のいじめ事件が問題になっていて、文科省がアンケートのひな形を公表していた。それは「いじめにあった生徒」だけに「自書式」で詳しい記入を求めていた。選挙と同じく日本の「伝統」というか、日本人の「思い込み」で、何でも自分で書かせるのである。そうなると、一生懸命書いている子どもは、自分がいじめられていると「チクっている」ことがクラスメートに明々白々となってしまう。

 それもあるけれど、もう一つ大問題があると指摘した。それは学校には大きく言えば、「児童・生徒」と「教職員」がいる。よって論理的に、学校で起こる「いじめ」「問題行動」は4パターンありうる。「生徒が生徒に」「生徒が教師に」「教師が生徒に」「教師が教師に」である。それなのに「生徒間いじめ」しかアンケートの対象にしてない。少なくとも「教師が生徒に」は聞くべきだと書いた。案の定、その後大阪の高校で起こった体罰事件をきっかけにして、全国で体罰問題が噴出することになった。もちろん当然のこととして、「生徒が教師に」「教師が教師に」も学校で起こりうるし、現に起こっているだろう。

 確かに今度の事件は、激辛カレーをなすりつける、動画に撮るなど、やり方が幼稚すぎて、中高生どうしの事件みたいだ。それが「指導的教員」だというんだから、驚いたことは驚いた。しかし、学校内で起きる問題のかなりは、「指導的立場の教員」が起こしていると思う。(「若手教員」はそもそも校内で居場所が少ないから、問題は外部で起こすことになる。)これももともと何度も書いてきたが、教員で問題なのは「指導力不足教員」ではなく、「指導力過剰教員」の方なのだ。それを勘違いして、「指導力」だけを取り出して「研修」することにより「指導力を向上させることが出来る」という発想そのものが間違っている。例えば「教員免許更新制」などのような。

 この学校のような「物理的いじめ」が起きるというのは、多分数少ないと思う。しかし、特に校長などによる「パワーハラスメント」は日常茶飯事に近いだろう。これは学校だけじゃなく、日本のどこの職場でも起こっているし、家庭では「虐待」とか「ドメスティックバイオレンス」という形で現れている。議論せずに「押しつける」ということを繰り返すのである。それは「あいちトリエンナーレ」をめぐる問題を見ればよく判る。そういう日本の風土の中に学校があり、教師もそこで生活している。いじめだって、当然起きる。ただ多くの場合は「無視」とか「指導しない」という形で起きているんじゃないか。

 それを防ぐのが校長だろうというかもしれない。それはそうなんだけど、校長といってもそんなにリーダー力がある人ばかりではない。神戸市を調べてみると、小学校が162校、分校1とある。中学校が81校、分校3である。当該の小学校は各学年3クラス、特別支援2クラスを入れて、全20クラスの規模。全校の児童数は567人(5月1日現在)である。これはホームページで公表されているデータで、誰でも見られる。神戸市の小学校としては、大体同じぐらいの規模の学校が多いようだ。神戸だけで、162人も小学校長がいるのである。皆がそれなりの教員経験を持っているわけだろうが、全員がすごいリーダーだなどということはあり得ないのである。

 この小学校では、前校長のパワハラ的言動があったとも言う。前校長は元は当該校の教頭を2年やって、同じ学校で昇格して、一年で異動。次の校長は教頭が昇格。これは東京ではあり得ない人事だ。絶対にないとまでは言えないが、同じ学校で昇格することは普通ないだろう。これでは校長のリーダシップなど発揮しようがないだろう。前年度は校長じゃなかった立場で、今年から校長だからといって強く出られるわけもない。前からの校内のやり方を踏襲することになる。前年までが素晴らしかったら、それでいい。でも前年までに問題があったら、それが続いてしまう可能性が高い。そういう人事を繰り返している神戸市の教育行政の責任は大きい。

 それもあると思うが、僕は最後に一番大きな問題を書いておきたい。それは文科省によって進められてきた「教育改革」(改悪)の問題である。小学校は勤務経験がなく、内部事情は判らないけど、近年の「道徳教科化」「英語教科化」「新指導要領」など、小学校にかかる負荷は一番大きい。校長は上から降りてくる指令を無視できない。だけど教員から「なんで英語を教科にするんですか」と聞かれて、うまく答えられるだろうか。「もう決まってるんだから、やるしかない」と言うしかないだろう。

 つまり校長は「議論なしに押しつける」以外の対応が出来ない。そういうことがここ何十年と繰り返されてきた。そこに(神戸の事情はよく判らないけど)「競争的勤務評価システム」「ICT教育推進」「働き方改革」などの大波が押し寄せてきた。学校現場は忙しすぎて、結束して事に当たる経験もなくなっていく。現場を覆っているだろう「何を言ってもムダ」みたいな感覚を何とかしない限り、今後もいろんな問題が噴出するに決まってる。個々の事件は、もちろん問題を起こした教員の責任なんだけど、いわば「疫学的」な論理で責任を追及するべきだ。あちこちで問題が起きるときは、一番大きな責任は一番上にあるのだと思う。
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私立は「予定通り実施」を要望ー英語「民間試験」

2019年09月21日 16時26分23秒 |  〃 (教育行政)
 東京新聞(9月20日付朝刊)に、「共通テスト 英語検定「予定通りに」 私立中高連、文科相に要望」という記事が記載されていた。2153校の私立中高が参加する「日本私立中学高等学校連合会」というのがあるらしい。その団体が19日に英語の民会試験を大学入試に使う問題に関して、「課題を解決した上で予定通りに実施するよう求める」要望書を萩生田文科相に提出したというのである。
(記者会見する中高連の吉田晋(すすむ)会長)
 そうか、私立は予定通りを望んでるんだ。記事によると、その理由は「準備してきた子どもたちが、かえって混乱する」、「努力してきた高校生を迷子にしないでほしい。子どもを中心に考えるべきだ」ということらしい。これは全く理解できない。英語の4技能重視は、学習指導要領に書かれているから、学校も生徒も「努力」するのは当然だ。だが、検定結果をどのように大学が使うか、いつ、どのような民間試験があるのか、はっきりしていない段階で、何を「準備」し、どう「努力」すればいいのか

 僕が思うに、これからの大学入試は英会話力が決め手だぞと生徒を指導してきた、「自分たちの努力」を無にしてくれるなというのがホンネじゃないだろうか。これは邪推だろうか。そもそも大学入試の話なのに、なんで「中高連」なんだろうか。それは加盟私立学校が「中高一貫校」だからだろう。会長を務める吉田晋氏を調べてみると、富士見丘中学高等学校理事長・校長とある。富士見丘というのは、東京都渋谷区にある中高一貫校である。

 私立の中高一貫校なら、独自の英語重視カリキュラムを組んだり、教科書の先取り学習を進めているところが多いだろう。公立高の準備が万全でないうちに、「先行逃げ切り」に持ち込みたい。それがホンネかと思ってしまう。もともと、これからは英語ですよ、そのためには大学直結や中高一貫など私立の方が有利ですよと言うのが、親向けのウリだった。今になって梯子を外されては困るんだと思った。

 僕が思うに、生徒は英語だけでなく、すべての教科を「努力」しているはずだ。英語だって、話す力だけでなく、読む、書く、聞く力も当然学習している。英語だけでなく各種の検定に合格すれば、推薦などで有利になるのも同じである。「英語民間試験」を延期して困る生徒がいるのか。「準備してきた子どもたち」と言っても、再来年の入試が「高校2年の秋までの準備」で決まるのだろうか。そんなことがあったら、それはおかしいだろう。まだ高校2年生なんだし、どんな準備もこれから出来るはずだ

 ところで、このことを考えていて疑問に思ったんだけど、大学もある私立学校の場合、内部昇格の条件にも英語民間試験の結果が求められるんだろうか。附属校から来た学生が英語に全然ついて行けなくちゃ困るから、きっと何らかの条件は出来るのかもしれない。じゃあ、スポーツ推薦の生徒は? 英語は高校の必修科目なんだから、高校生が勉強するのは当然だ。だけど、そもそも大学で何を学ぶのか、そのために必要な能力は何か。それを大学が示すことが第一だと思う。

 僕はもともと大学入試自体を廃止してしまえばいいと思っている。そのことは前にも書いたけれど、考えてゆくと矛盾が大きくなりすぎ、いっそ入試をやめてしまえばと思いたくなる。世界にはそういう国だってあるんだから、出来ないことはないだろう。その場合は、すべてが「自己推薦」になる。学校の調査書には、英語検定の成績が書かれるから、英語を頑張らないといけないのは同じ。入学は簡単にするが、大学での単位認定を厳しくして、卒業は大変だという方が自然だ。

 ところで萩生田文科相を調べてみると、早稲田実業高校から明治大学商学部卒だった。柴山前文科相は私立武蔵中学、高校から東大。馳浩元文科相は星陵高校から専修大。下村博文、松野博一、林芳正氏は公立高校出身だが、安倍首相、麻生副首相はじめ安倍政権には私立高校、私立大学出身者が多い。もともと二世、三世議員が多く、そのような人々は幼い頃から私立学校しか経験しないことも多い。同じ地域に様々な子どもたちがいると知るのも大事だと思うけど。だからかどうか、私立重視のような教育行政が続いている。英語民間試験問題で、教育行政の方向性がはっきり判ることになる。
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延期しかない英語「民間試験」

2019年09月19日 22時51分09秒 |  〃 (教育行政)
 大学入試に英語の民間試験を使うという問題。今までも書いたことがあるが、とにかく制度が判りにくい。判りにくいだけでなく、どう考えても問題が多い。判る、判らない以前に、決まってないことが多い。それなのに、「新型英検」の予約が18日には始まるとか。もうそこら辺を解説する知識も情熱もない。そういう中で、延期を求める声も多くなっている。9月10日には、改造直前の柴山昌彦前文科相に対して、全国高校校長会導入の延期と制度の見直しを求める要望書を提出した。
(高校校長会が文科相に延期を要望)
 しかしながら、新たに就任した萩生田光一文科相は、かえって混乱すると延期を否定している。そもそも「加計学園問題」で関与を取り沙汰された萩生田氏をよりによって教育行政のトップにするのには、あぜんとした人が多いだろう。それが安倍時代の教育なのである。第一次安倍政権では、文科相は伊吹文明氏だった。しかし、政権復帰以後の約7年間では、下村博文馳浩松野博一林芳正柴山昌彦萩生田光一と、林氏が1年2ヶ月ほど務めたのを除き、残りの5人は全て細田派、つまり安倍氏が所属した派閥から文科相が出ている。教育行政はほとんど首相官邸の直轄地になっている。

 最近教育問題を書いていない。現場を離れて長くなってきて、実情が判らなくなってきた。と同時に、このような「安倍教育行政」が続くのを見て、もう何も変わらないだろうと言った諦め感が生じているのも確かだ。今回も現場の長である校長会が延期を要望してるんだから、文科省としても重視するだろうと傍からは思うかもしれない。法律的には学校で大きな権限を持つ校長だが、行政上の地位はそんなに高くない。現場なんか無視し続けてきた文科省だから、何を言われようと強引にやり通すつもりに違いない。同じ派閥が続いていて、以前の大臣が決めたことを覆すのはメンツをつぶすことになる。

 大学入試に使うという以上、大前提がいくつかある。まず①大学がテスト結果をどのように使うかがはっきりと決まっていること。これがまずはっきりとしない。日本トップレベルである東大や京大で、民間試験結果を必須としない。全部じゃなくても、おおよそが決まってないと高校で指導ができない。②どのような民間試験が、いつ、どこで、いくらで受検出来るかがはっきりとしていること。これもほとんど決まってない。一番受けると思われる英検は、すでに予約が始まったというが、その段階でもお金が掛かる。どうすればいいのか、誰かはっきりとした助言ができるのか。

 ①②が決まらないうちにスタートできないと思うが、さらに③離島、山間部など民間試験を受けにくい地区の生徒はどうすればいいのか。もちろん、大学受験の時は、都会のホテルに泊まって受験している。だからといって、民間試験のたびごとに同じようにするのか。それはお金がないと出来ない。公的な補助金のような制度が必要だと思うが、それも②がはっきりしないと決めようがない。

 ④もう一つ重大な問題がある。今予約が始まると書いたが、それは2021年の受験の話だ。つまり今の高校2年生の問題だ。高校2年生は今はまだ高校生活の半分である。部活や行事などに一生懸命取り組んでいればいいんじゃないか。それがもう大学へ行くかどうか、さらに具体的にどの大学へ、推薦制度を利用するかどうかなど、ある程度決めないといけない。これじゃ、高校時代というのは英語検定漬け、英語の授業は検定対策向け、進路指導も英語で決まるということになってしまう。
(英語民間試験の主な流れ)
 この問題を考えていくと、さらにいろいろと発展していく。そもそも大学入試って何なのか。英会話能力が大学生に必要なら、大学が試験すればいい。それが物理的に無理だというなら、やらなくてもいいのではないか。それを「民間試験」で行うというのなら、逆に他の教科も民間試験じゃダメなんだろうか。いっそのこと、大手予備校の模擬試験の結果を学力測定に使っちゃダメなの? 

 選挙権が引き下げられたが、参院選で10代の投票率は低かったとか。いろんな理由があるだろうが、そもそも憲法改正とか年金問題とか、10代で判断せよというのは大変だろう。もっと身近な教育問題を訴える党がなかった。僕はどこかの党が「大学テスト改革延期」を掲げないかと思っていたが、どこもなかった。教育問題を意識している政治家そのものが少ない。これじゃ、若い世代は政治に愛想を尽かすのも当然だ。校長会の要望を文科省が公然と無視する。その時に大人たちは何と言う。いや、当事者である高校生はどう考える? 香港で、フランスで、生徒がストやデモをして教師も支持する。それは日本では不可能なのか。それなら大人は代わりに何が出来る。一度しかない人生、浪人する場合もあるが、大学入試なんか人生に数回しかない。「実験」の対象にしてはいけない
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教員の長時間労働是正方針をどう考えるか

2018年12月13日 22時46分06秒 |  〃 (教育行政)
 中央教育審議会の特別部会が12月6日に答申の素案を示したとマスコミが一斉に報道した。中教審は文部科学大臣の諮問機関で教育行政上重い存在である。「特別部会」の「素案」であり、今後パブリックコメントなどで広く一般の意見を公募するとされるが、基本的には実施の方向にあると考えていい。内容は「法定勤務時間を超えて働く時間」の上限を「月に45時間」(繁忙期でも100時間、年で360時間)とする。「授業準備」や「部活動指導」を正式の勤務時間に位置付ける。今後「変形労働時間制の導入を可能にするべき」などである。
 (新聞報道)
 「是正方針」ですべて解決するとは考えられないが、「ないよりまし」という考え方もある。一方細かく見て行くと「より悪くなる」という事態も想定できる。罰則がある民間企業でも「違法残業」が絶えない。教員の勤務時間管理には罰則がないということなので、教員の長時間労働がこれで完全解決するとは考えられない。しかし、それ以上に重大なのは、「残業ではない」ものに「残業規制」をすることの意味である。いや、今後は「授業準備」も「部活動指導」も「勤務」にするという。

 そのことの是非を問わずに、とにかく今後は勤務として扱い「勤務時間」に入れるという。それならば、今後は朝の出勤から夕方(または夜)の部活終了、翌日の授業準備完了までが「教員の勤務」となる。「残業を命じる」までもなく、初めから一日の勤務時間が10時間ぐらいになってしまう。もともと決められた勤務時間なんだから、それを「残業」というのはおかしい。それに「部活動」を「勤務」にしてしまうと、教員は全員が「校長に命じられて部活動を指導する」ということになってしまう。これは部活動のあり方を大きく変えることになる。議論なしで進めていい問題ではない。

 「授業準備」には限りがない。納得できるような授業準備するために、どこまで「残業」するべきなのだろうか。それを管理職が「規制」するのだろうか。それなら、校長が授業観察を行って勤務を評定するという制度はどうなるのか。それをそのままにして、とりあえず「残業上限」があるから帰れということか。「残業規制」があったって、月の最後の日に生徒が問題を起こしたら遅くまで残って対応するしかないだろう。月に何時間という規制を掛けることで、出退勤の時間管理が厳しくなることだけは間違いない。そのことは職場の雰囲気を悪くするのではないか。

 変形労働時間って言ったって、部活動は運動部・文化部を問わず週に2回程度の休みをもうけるべきだと文科省自体が指針を示している。部活のある日は勤務時間が長くて、休みの日は短いのか。週の中で一日ごとに正規の勤務時間が変わる制度にするのか。それとも部活動時間帯すべてが「勤務時間」となるのか。そうなると育児・介護を抱える教員は部活動を持てないだけでなく、育児軽減、介護軽減の制度を大幅に充実させない限りとても勤められないのではないか。考えれば現場的には「より悪くなる」可能性を秘めているのではないかと思う。

 じゃあ、どうすればいいのか。とりあえず「情報セキュリティ」などと厳しいことばかり言わない方がいい。例えば、定期テストの日は自宅採点を認めて早帰りとする。20世紀には当たり前だったのだから何も問題ない。どんな企業だって自宅で資料を作ってメール送信できるんだから、自宅でできることは自宅でできるようにしないとおかしい。生徒の自宅住所も校外に持ち出せなかったら、遅くまで働いている家庭には連絡も取れない。おかしいことが多くなった。

 明日の試験が出来てなかったら出来るまで残って作るしかない。生徒の問題が起きれば、家庭から親が来られるまで遅くまで残って指導するしかない。部活動も大会直前には毎日のようにやるしかない。その代わり、夏休みは家で全日研修を認める。教員免許更新制をなくすとか、いろんな研修をどんどんなくすとか、そういうことの方がずっと納得できるんじゃないか。もう無理なのかもしれないけど。教員(に限らないが)は自分の身は自分で守るしかない、そういう時代になっている。制度をあれこれいじっても即効性はないと思ってる。
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文科省、「忖度」の構造-検定と天下り

2017年03月31日 22時35分17秒 |  〃 (教育行政)
 24日に今年の教科書検定の結果が公表された。今年は初めて小学校道徳教科書の検定があった。そして、東京書籍の教科書で、小学一年用教科書で最初は「パン屋」だった記述が、検定意見が付いて「和菓子屋」に変わるという出来事があった。文科省が命令で変えさせたというわけではない。「教科書全体で指導要領にある『我が国や強度の文化と生活に親しみ、愛着をもつ』という点が足りない」という意見が付いた。そこで教科書会社が文科省の意向を「忖度」したわけである。

 他にもアスレチックの道具で遊ぶ公園を、和楽器を売る店に変えたという話もある。(学研教育みらい) これなんか、まったく意味不明である。公園のアスレチックで遊ぶ子供はいるだろうけど、「和楽器屋」なんてものに入ったことのある子どもなんかいないだろう。もちろん、僕もない。そもそも和楽器だけを売る店というものがあるのかどうかも知らない。今は和楽器も音楽の授業で扱うらしいから、和楽器もあちこちで売ってるんだろうか。

 もちろん、「道徳」を教科として評価の対象にするということ自体が、根本的におかしいことは以前に書いた。教科書検定は毎回おかしなことが起こるけど、それが当然のように「道徳教科書」でも起こったわけである。こんな検定をしているんだから、「道徳教科化」なんて「始まる前から終わっている」ことを証明している。文科省は「アクティブ・ラーニング」なる「主体的な学び」を進めるんだと言っている。こういう検定のあり方そのものが、何でそういう風になるのか「主体的に学ぶ」いい教材だろう。

 さて、そうやって子どもたちに「道徳」を説く文科省が、組織ぐるみで違法な天下りをあっせんしていた。歴代の事務次官3人の関与を含めて、計62件もの国家公務員法違反が判明したという。処分は合わせて43人にも上る。事務次官退職後、ブルガリア大使を務めていた山中伸一元事務次官は辞職するという。そういう人たちが「道徳」を教科化するわけである。

 それはあまりにもおかしいだろうと思うけど、多分本人たちのホンネは違うと思う。日本の高級官僚の実態としては、同期で一人いるかどうかの事務次官になれない人は「早期退職」するのが慣例である。キャリア官僚として採用後、ある時期までは大体同じように出世していくが、その後だんだん差がついていく。何か政治的な逆転が起きない限り、事務次官候補として残される人以外は、退職後の人生を考えないといけない。事務次官に上り詰めた人としては、「一将功なりて万骨枯る」にならないように、気を配る必要がある。早期退職せざるを得なかった同僚の再就職先の面倒を見るのは、まさに「道徳」的なことなんだろうと思う。だから、同様の事例は他省庁にもあり得るだろう。

 ところで、その再就職先には大学事務関係が多い。日本の教育にもっと競争的要素を多くするというのが、文科省の進めてきた政策である。自由に競争するというのが本当だったら、文科省官僚なんて受け入れる必要は大学にはないはずである。むしろ負担が大きくなるだけである。でも、実際には違うわけだ。文科省のいう「競争」というのは、「文科省の意向を忖度した書類を作成する能力」の意味なのである。だから、文科省関係者が必要になってくるわけである。

 「競争」というと、用意ドン、一斉スタートで、一番にゴールした人から順番に、いい評価が得られるという感じがする。でも、世の中は短距離走ではない。むしろマラソンである。だから、コースの途中で補給ができるし、伴走車も付けられる。その伴走車の役割を、文科省元官僚が果たすわけである。その仕組みを知らないで、ホントに自由競争だと思っていると、そもそもマラソンの実施を知らなかったりする。加計学園というところが、特区制度を使って四国に獣医師大学を作るという。他にどこも申請がなかったのだという。安倍首相のお友だちはちゃんと申請したわけだけど。

 文科省のダブル・スタンダード(二重基準)は、社会科系の検定ではもっとあからさまである。「通説がない」ことを強調するけれど、それが「国内向け」なのである。領土問題などでは、政府見解のみを教えよと強制している。北方領土、竹島、尖閣ともに、ロシア、韓国、中国では違う見解を持っているわけだから、国際的には「通説がない」というのじゃないか、そういう場合。

 だけど、文科省は「南京大虐殺の被害者数」などで「通説がない」ことを強調する。それはその通りだけど、「南京で大虐殺事件が起きた」ことは日本政府も認める「通説」である。犠牲者数などの問題に矮小化するのはおかしいだろう。要するに、文科省、というか安倍政権と言うべきだろうけど、すべてが二重基準なのである。だから、教科書会社や大学は、文科省の言う「通説」の意味合いを「忖度」して行動しないといけない。そういう能力を養うことが、「主体的な学び」の本質なのである。

 まかり間違って、本当に主体的に考える生徒を育ててしまったりすると、その本人が苦労することになる。だから、僕は前に「アクティブ・ラーニングは失敗する」と書いたのである。
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