尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

「感染症法」改悪に反対する

2021年01月20日 20時24分01秒 |  〃 (新型コロナウイルス問題)
 菅内閣が通常国会に提出を予定している「感染症法」の「改正案」に反対の動きが強まっている。「感染症法」はちゃんと書くと「感染症の予防及び感染症の患者に対する医療に関する法律」になる。1897年に「伝染病予防法」が制定されたが、この法律は社会防衛的な色彩が強かった。そこで1998年になって「感染症法」に改められ、「予防」だけでなく「患者に対する医療」にも触れられるようになった。そこには近代日本における医療の反省が生かされている。
(感染症法改正の動き)
 自民党総務会で19日に了承された感染症法の改正案は、報道によれば以下のようなものとなっている。「都道府県知事が宿泊療養などを要請できる規定を新たに設け、感染者が応じない場合は入院の勧告を行い、それでも応じない場合や入院先から逃げた場合には「1年以下の懲役または100万円以下の罰金」の刑事罰を科す」というのである。入院に応じなければ「懲役刑」を科すという、ちょっと常識を逸脱するような案である。感染症ウイルスを病気というよりもテロリストかなんかと思っているような「治安立法」的発想である。

 これに関しては医学界からすでに反対の声明が出されている。僕が書くよりもそれを読んで貰えば十分なので、ちょっと長くなるけれど引用することにする。そして最後に「感染症法」の格調高き前文も引用しておきたい。ここで引用するのは「日本医学会連合」の感染症法等の改正に関する緊急声明である。「日本医学会連合」というのは、医学系の学会の連合体で、136もの学会が集結している。およそ僕らが知っている病気のほとんどに何らかの専門学会がある。中には「日本温泉気候物理医学会」とか「日本肥満学会」なんていうのもある。「日本インターベンショナルラジオロジー学会」になると何だか全然想像も出来ない。

 長くなるが全文引用する。自分で重要と思うところは太字にしておく。
 現在、感染症の予防及び感染症の患者に対する医療に関する法律(以下、感染症法)等の改正が検討されています。報道や政府与野党連絡協議会資料によれば、「新型コロナウイルス感染症の患者・感染者が入院措置に反したり、積極的疫学調査・検査を拒否したりした場合などには刑事罰や罰則を科す」とされています。

 日本医学会連合は、感染症法等の改正に際して、感染者とその関係者の人権と個人情報が守られ、感染者が最適な医療を受けられることを保証するため、次のことが反映されるよう、ここに声明を発します。

1) 感染症の制御は国民の理解と協力によるべきであり、法のもとで患者・感染者の入院強制や検査・情報提供の義務に、刑事罰や罰則を伴わせる条項を設けないこと
2) 患者・感染者を受け入れる医療施設や宿泊施設が十分に確保された上で、入院入所の要否に関する基準を統一し、入院入所の受け入れに施設間格差や地域間格差が無いようにすること
3) 感染拡大の阻止のために入院勧告、もしくは宿泊療養・自宅療養の要請の措置を行う際には、措置に伴って発生する社会的不利益に対して、本人の就労機会の保障、所得保障や医療介護サービス、その家族への育児介護サービスの無償提供などの十分な補償を行うこと
4) 患者・感染者とその関係者に対する偏見・差別行為を防止するために、適切かつ有効な法的規制を行うこと

以下にこの声明を発出するにいたった理由を記します。

 現行の感染症法における諸施策は、「新感染症その他の感染症に迅速かつ適確に対応することができるよう、感染症の患者等が置かれている状況を深く認識し、これらの者の人権を尊重しつつ、総合的かつ計画的に推進される」ことを基本理念(第2条)としています。この基本理念は、「(前略)我が国においては、過去にハンセン病、後天性免疫不全症候群等の感染症の患者等に対するいわれのない差別や偏見が存在したという事実を重く受け止め、これを教訓として今後に生かすことが必要である。このような感染症をめぐる状況の変化や感染症の患者等が置かれてきた状況を踏まえ、感染症の患者等の人権を尊重しつつ、これらの者に対する良質かつ適切な医療の提供を確保し、感染症に迅速かつ適確に対応することが求められている(同法・前文)」との認識に基づいています。

 かつて結核・ハンセン病では患者・感染者の強制収容が法的になされ、蔓延防止の名目のもと、科学的根拠が乏しいにもかかわらず、著しい人権侵害が行われてきました。上記のように現行の感染症法は、この歴史的反省のうえに成立した経緯があることを深く認識する必要があります。また、性感染症対策や後天性免疫不全症候群(AIDS)対策において強制的な措置を実施した多くの国が既に経験したことであり、公衆衛生の実践上もデメリットが大きいことが確認済みです。

 入院措置を拒否する感染者には、措置により阻害される社会的役割(たとえば就労や家庭役割の喪失)、周囲からの偏見・差別などの理由があるかもしれません。現に新型コロナウイルス感染症の患者・感染者、あるいは治療にあたる医療従事者への偏見・差別があることが報道されています。これらの状況を抑止する対策を伴わずに、感染者個人に責任を負わせることは、倫理的に受け入れがたいと言わざるをえません。

 罰則を伴う強制は国民に恐怖や不安・差別を惹起することにもつながり、感染症対策をはじめとするすべての公衆衛生施策において不可欠な、国民の主体的で積極的な参加と協力を得ることを著しく妨げる恐れがあります。刑事罰・罰則が科されることになると、それを恐れるあまり、検査を受けない、あるいは検査結果を隠蔽する可能性があります。結果、感染の抑止が困難になることが想定されます。
 以上から、感染症法等の改正に際しては、感染者とその関係者の人権に最大限の配慮を行うように求めます。

 ここまでが日本医学会連合の声明文である。もう「お説ごもっとも」という以外になく、付け加える言葉は必要ない。何のためにこんな案を出してくるのか、全く理解出来ない。法律によって、新型コロナウイルスの入院費はすべて公費で負担される。だから「経済的理由」で入院を拒む人がいるとは思えない。一人で育児・介護を担っていて代わってくれる家族がいないというようなケースしか僕には思いつかない。そんな場合に刑事罰を科すことは許されない。以下には参考資料として、感染症法の前文をコピーしておきたい。

人類は、これまで、疾病、とりわけ感染症により、多大の苦難を経験してきた。ペスト、痘そう、コレラ等の感染症の流行は、時には文明を存亡の危機に追いやり、感染症を根絶することは、正に人類の悲願と言えるものである。
医学医療の進歩や衛生水準の著しい向上により、多くの感染症が克服されてきたが、新たな感染症の出現や既知の感染症の再興により、また、国際交流の進展等に伴い、感染症は、新たな形で、今なお人類に脅威を与えている。
一方、我が国においては、過去にハンセン病、後天性免疫不全症候群等の感染症の患者等に対するいわれのない差別や偏見が存在したという事実を重く受け止め、これを教訓として今後に生かすことが必要である。
このような感染症をめぐる状況の変化や感染症の患者等が置かれてきた状況を踏まえ、感染症の患者等の人権を尊重しつつ、これらの者に対する良質かつ適切な医療の提供を確保し、感染症に迅速かつ適確に対応することが求められている。
ここに、このような視点に立って、これまでの感染症の予防に関する施策を抜本的に見直し、感染症の予防及び感染症の患者に対する医療に関する総合的な施策の推進を図るため、この法律を制定する。
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「民度」と「世間」とコロナウイルス

2021年01月19日 22時47分19秒 |  〃 (新型コロナウイルス問題)
 日本人は「民度が高い」からウイルスを押さえ込めたと豪語したのは麻生副首相だった。しかしながら年末以来の日本の感染状況は、欧米諸国とはだいぶ違うとはいうものの近隣アジア諸国より深刻な感じがする。これは実は日本の「民度が低い」ということを示しているのだろうか。麻生発言についてはその時に批判記事を書いたけれど、今になって「民度」って何だろうと思う。
(麻生「民度」発言)
 年末年始には人が集まる機会が多い。それは判っていて散々マスコミで注意していた。実際、例年に比べれば初詣の人数も減っているようだったが、それでもテレビで見れば結構行っている。箱根駅伝も沿道で応援しないようにと言っていたが、結構人出があったように見えた。それでも減ってて実際は隙間があったんだとも言うけど、やっぱり沿道に出ている人は相当いたんだろう。そういう事態は「民度」に関係するんだろうか。

 ちょっと驚くようなクラスターも起こった。東京都荒川区の尾久(おぐ)警察署の署長以下3人の感染が年明けに判った。原因は12月28日に行われた地元の交通安全協会のメンバーら10数人が参加した懇親会に参加したことにある。署長だけでなく、署員3人も参加していて交通課長(女性)と警部補も感染が確認されていると報じられている。今どき多人数で「忘年会」をやるなんてとても理解出来ないが、東京の東北部というのは保守的で地縁関係が強い地域である。「都会的」という地域性ではない。「恒例」の行事を止められなかったのだろう。

 「民度」というのは、国民生活の文化的、行動様式的な成熟度のようなものを意味するだろう。「交通安全協会」というのは民間団体だけど、事実上は退職警官が中心となった「半官半民」的な組織らしい。尾久署のクラスターというのは、「民度」の問題だけじゃなく「官度」(そんな言葉はないけれど)の問題かも知れない。総理を初め自民党議員に「会食」を指摘された議員が多い。党でルールを作ろうしたら結局出来ずじまいになった。議員はいろいろな人と会って話を聞く必要があるとか言っていた。夜の酒席では会えない人の意見は聞く気が無いんだろう。

 朝日新聞の世論調査では、新型コロナウイルスに感染した時の心配は健康よりも「世間の目」だという。3分の2の人がそのように答えているという。特に現役世代、18歳未満の子どもがいる人、製造・サービス業従事者にその傾向が高い。このことを考えると、去年の緊急事態宣言下に「自粛警察」と言われたものも、何か独自の動きが現れたのではなく、「世間の目」が特殊な状況下に「見える化」されたものだったと言うべきだろう。麻生大臣が「民度」と解釈したのも、今思えば「成熟した国民の行動」というより、「世間の目を恐れた自粛行動」だったとみるべきだ。
(「県外ナンバー」を排除する看板)
 「世間」は「社会」と違う。そこに注目して「世間学」を提唱したのは、中世ヨーロッパ史の研究者だった故・阿部謹也(1936~2006)だった。「ハーメルンの笛吹き男」など多くの著者がある阿部氏は、晩年に多くの「世間」をテーマにした著作を残した。僕はそのほとんどを当時(21世紀初頭)に読んでいるが、テーマがテーマだけに「問題提起」に止まっていた感じがする。それでも「社会学」ではなく「世間学」を構築しないと「日本を読み解く」ことが難しいという発想は正しいと思う。

 ヨーロッパだって、そんなに「独立した個人」によって構成されているわけじゃないだろう。しかし、特に日本の現実を考えてみると人々は「大勢順応」をモットーにして、「世間の風向き」を読んで行動する。それは昨年の自民党総裁選で菅義偉総裁が選出された経過を思い出せば、すぐに理解出来る。そういう「世間のルール」においては、「緊急事態宣言」があればともかく、そうでなければ「忘年会」が優先する場合があった。コロナがなければ多くの職場で「忘年会」が開かれ、それは勤務時間外ではあるが事実上の「強制」力がある。コロナ禍で「忘年会」や「帰省」がなくなって嬉しい人も多いはずだ。

 「クリスマス」や「成人式」といった「重症化しにくい若年層」にとって重要なイヴェントが年末年始には集中する。大人だけではなく、若年層にも「世間」はある。そうじゃなければ「いじめ」は起こらない。だから、決して多くではなくても成人式後の集団感染が起こっている。「世間」のつながりの方が優先したのだろう。現実問題として考えた時には、今後の感染抑制が成功するかどうかも「人々が事態をよく理解して理性的に行動する」ことによってではなく、「世間の規範」が「この程度ならいいだろう」となるか「世間の目が怖いから自粛せざるを得ない」になるかだと考えられる。残念なことだが、それが日本の現実だと考えている。
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「利他心」とコロナウイルスと菅内閣

2021年01月18日 22時13分13秒 |  〃 (新型コロナウイルス問題)
 2回目の緊急事態宣言は効果が上がるのか。その問題に対して、「利他心」がカギになると指摘している人がいる。東京大学の渡辺努教授(マクロ経済学)という人である。東京新聞1月6日付紙面の記事から引用すると、以下のようになる。「昨春、外出を抑制した感染への『恐怖心』は弱まっている。今回は、周囲にうつさないという『利他心』が鍵を握る」というのである。

 昨年の緊急事態宣言では外出が6割減って新規感染者の減少につながった。渡辺教授によると、「多くの国民は『自分もかかるかも』という恐怖心から外出を控えていた」とみる。しかし、その恐怖心は弱まっている。特に感染しても重症化しにくいと知った若者に顕著だというのである。「感染を怖がらないと若者が考えるのは合理的だ。今後は恐怖心でなく、周囲に感染させないように心がける『利他心』に訴える必要がある。」
(利他心が大切)
 もともと「公衆衛生」という社会政策は、自分ひとりではなく「地域社会を守る」ところから始まっている。ただ日本では「上からの近代化」を進める中で、ともすれば警察権力を行使して中央集権的に衛生対策を進めてきた歴史がある。しかし、本来は「社会連帯」が前提になっていないと、成熟した産業社会ではどんな政策も成功しないだろう。新型コロナウイルスで「重症者リスク」が高い高齢者層は、現代社会の中では「弱い立場」にある。そのような相対的に弱い層をどのように守っていくのかが重要なのである。

 日本で例年だと1千万人近くがインフルエンザに罹患する。冬場に大流行が始まると、学級閉鎖学校閉鎖もよく報道される。(ニュースになるから凄く多いと思うかも知れないが、ほとんどの教員は定年までに一回も経験しないだろう。)これは「子どもを守る」という意味もあるが、それが主目的ではない。インフルエンザは学校における飛沫感染接触感染によって、あっという間に家族内感染してしまう。若年者でも治るまで一週間程度はかかるが、高齢者がインフルエンザにかかると毎年千名を大きく超える死者が出ていると言われる。そういう事態を少しでも減らすために「学級閉鎖」を行うのである。
(利他心論争の構図)
 一般に「利己心」が世の中を動かしていると見る人が多い。一見「利他心」に見えることでも、「情けは人のためならず」で実は自分に戻って利益になることが多い。また「利己的遺伝子」などを想定して、動物は自己の遺伝子をより残すために行動するのだと説く人もある。初期の経済学では「神の見えざる手」(アダム・スミス)を想定して、それぞれの個人が自己の利益を追求することで結果的に社会全体の利益も実現すると考えた。
 
 まあ、そんなことは置いといて、20世紀後半の政治家は「競争」が成功の鍵だとして、国民の利己心をあおる政策ばかりを推進してきた。ノーベル賞受賞者が出るたびに「基礎学問が大切」というけれど、日本政府は聞く耳を持たず大学でも「競争」を強いるようになっている。先の渡辺教授は最後に「互いに守りあおうと訴えるメッセージを、政府は出すべきだ」と述べているが、多くの国民は今さらそんなことを言われてもと思うのではないか。自分たちでは「会食」してる人たちが、そんなことを言っても心に届かないよと。
(「Goto イート」キャンペーン時の「くら寿司」)
 以前の記事で書いたように、菅内閣の政策はすべて国民の利己心をあおって「得するからやった方がいいよ」で作られている。「ふるさと納税」や「マイナポイント」が典型だ。そして「Go Toキャンペーン」も同様だった。(『「Go To」キャンペーンのおかしな仕組み』2020.12.12参照)旅行業も飲食業も大変なダメージを受けていたのは間違いない。それを国策として救済するのはいいけれど、大変な業界を社会全体で支えようというのではなく、上の画像にあるように「こんなに得だよ」という進め方ばかり聞かれた。「利己心」に基づく政策だったのである。

 コロナ対策には「利他心」が重要なのは間違いないと思うが、恐らく菅内閣のメッセージとしては伝わらないだろう。そういう考え方で生きて来なかったのだから、今さら発想を変えられない。年末年始の前にそれなのに政府も対策を出していた。しかし、現在の感染者数を見れば年末年始の国民の行動は感染を抑えるものではなかった。緊急事態宣言が首都圏に出されて10日以上経つが顕著な減少傾向は見られない。このままでは「医療崩壊」と「大量失業」が同時並行で起こってしまう可能性が高いのではないだろうか。
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菅内閣の「コロナ対応」はなぜ「後手後手」になるのか

2021年01月16日 22時13分41秒 |  〃 (新型コロナウイルス問題)
 菅内閣の支持率が下がっている。調査によっては、不支持が上回っている。最大の理由は「新型コロナウイルス」への対応だ。「後手後手」に回っている感が否めない。菅首相は1月7日に、東京・神奈川・埼玉・千葉に「緊急事態宣言」を発出した。年末までは緊急事態宣言に消極的と見られていた。その後、大阪・京都・兵庫の3府県知事が追加要請を行ったが、その時点では「数日状況を見る」と述べていた。結局12日になって3府県に加えて、愛知・岐阜・福岡・栃木に「緊急事態宣言」を出した。このような経過には「後手後手感」があるのは確かだ。

 菅首相は首都圏への発出に際して記者会見を行った。その時に冒頭の首相発言が終わった時に「これで私からの挨拶を終わります」と述べたのには驚いた。それまでの発言は「挨拶」だったのか。拡大時の二度目の記者会見は見てなかった(新しい話はないだろうと見る気になれなかった)が、何でも「福岡県」を「静岡県」と言い間違えたとか。福岡県は追加指定を求めていなかったが政府側が押し切って指定したという経緯がある。それを考えると単なる「言い間違い」と過小評価することは出来ない。

 どうして菅内閣の「コロナ対応」には後手後手感がつきまとうのか。「経済の落ち込み」「東京五輪」「(今年中には必ずある)衆議院選挙」などへの影響を恐れているということはあるだろう。しかし、ここではそのような「内容」面ではなく、政権の構造的な側面を考えてみたい。一つには「調整役がいない」ということだろう。よく言われるフレーズだが「菅内閣には菅官房長官がいない」ということだ。安倍政権末期には、事実上内政面では菅官房長官が仕切っていたと言われている。その時に始めた「Go To キャンペーン」などには「こだわり」があったと言われる。
(宣言拡大時の記者会見)
 もう一つが菅政権の権力構造が安倍内閣と違っていることだ。「安倍=麻生」政権だったものが、「菅=二階」政権になっている。菅首相が唯一気を配らなければいけないのは、二階幹事長だろう。「与党」全体ではなく、二階派を率いる幹事長個人である。菅政権を誕生させたのが、まさに二階氏だった。二階氏が「選挙の顔」として菅首相が使えないと判断した時には「政局」になる。それが判っているから気を遣うことになる。

 それらの問題もあるが、一番重大なのは「菅官房長官時代に官僚組織が萎縮してしまった」ことだと思う。今思えば首相本人も「去年秋に解散しておけば良かった」と思っているかもしれない。しかし、首相就任当時は「まず仕事がしたい」と言っていた。自己評価が高かったのである。しかし、菅首相がまずやったことは「学術会議会員の任命拒否」だった。杉田官房長官の影響力も強まっているのだろう。学術会議問題は、要するに「学問への敬意がない」から出来たことで、実際にコロナ対応でも「専門家軽視」が見られる。

 かつての自民党政権では「官僚組織が支えてきた」面が強かった。選挙で国民に向きあわない官僚組織が強すぎるのはおかしい。「政治主導」自体は正しいだろうが、安倍政権では官界を完全に支配してしまった。反対意見を上げると飛ばされるかもしれない。それを恐れて「直言」をしなくなっているという。本来なら、様々なケースを想定して、いくつもの対策を準備しておくのが官僚組織というものだろう。しかし、その機能が果たせなくなっているのではないか。事前に失敗を予想しても、それは口に出さない。「上」の指示があって初めて次の対応を考える。

 外国人入国禁止問題持続化給付金受付延長問題など、批判が出てからドタバタ的に決定されている。先を見通して「当然こうなるだろう」という判断が出来ていない。多分判っている人は黙っているのだろう。あるいは辞めていくとか。この状態は改善可能性がない。もともと「未知なるもの」への対応力は日本政治は強くない。今後も同じようなことが続くだろう。しかし、政治がどうあろうとも、日本人は「民度が高い」んだそうだから、これほどの感染増大は防げなかったのだろうか。それは次回以後に考えたいと思う。
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大災厄の年に、「公的な失業対策事業」を求める

2020年12月31日 22時52分13秒 |  〃 (新型コロナウイルス問題)
 2020年は年頭には思いもよらなかった「大災厄」の年になってしまった。単に新型コロナウイルスが世界でパンデミックを起こして、多くの人が感染して亡くなったということだけではない。誰も思いもかけなかった形で,ウイルスが人々の暮らしを変えてしまった。日本に止まらず、アメリカも中国もヨーロッパ諸国も大きく変わってしまった。「当面」という言葉で数年間を表すとすれば、アメリカ国内の「分断」中国の強権政治や香港の弾圧体制が変化することはないだろう。

 大みそかの東京では、ついに新規感染者が1300人を超えた。いずれ千人を超えると皆が言っていたが、大台を一気に300人も超えてしまった。どこで感染が続いているのか、僕には今ひとつ理解出来ないが、病院や福祉施設での「院内感染」ばかりでなく、思わぬところでも感染が起こっている。しかし、東京の重症者数は(東京は「独自基準」らしいが)、12月31日現在で89人である。日本全体では約700人となっている。
(31日の東京の感染者を伝えるテレビ)
 新型コロナウイルスは無症状でも感染力が強いから、医療的対応は確かに大変だろう。でも、これだけの数で「医療崩壊が近い」のかとも思う。それは「医療体制が弱い」ということなのではないか。日本だけでなく、アメリカでもヨーロッパ諸国でも、「先進国」と言われる国は、多かれ少なかれ「新自由主義」というか、効率優先の社会を作り続けてきた。新型インフルエンザなど新たな感染症はいつか必ず襲ってくると言われていたと思う。「いつか起こるはずだったこと」が現実化したということなのではないか。

 この「大災厄」で本当に困っているのは誰だろうか。2008年秋に「リーマンショック」が起こったときには、世界中で突然経済活動が大きくダウンしてしまった。日本の輸出産業では「派遣切り」が起こり、宿舎からも追い出された人が相次いだ。日比谷公園では「派遣村」が開かれた。今回も各地で「相談会」は開かれている。無料の食料配布なども行われている。しかし、そこでも「」を避けるということで、大きな社会運動になりにくい。今回は特に飲食業に従事していた女性や若年層が多いようで、そのことも問題を見えにくくしている。
(日比谷で行われた相談会)
 「ホームレス」の人々は「特定給付金」の10万円が届いていない人が多いらしい。「住所」宛てに送られた書類に「振込先の銀行口座」を書いて返送することで、給付金が振り込まれた。その方法だと「ホームレス」には届かない。全員に受給資格があったわけなのに、これで年を越えてしまって良いのだろうか。また「外国人労働者」も大変な状況に置かれている。

 「下宿学生」の多くも大変だと思う。本人が多額の奨学金を背負っていて、飲食業のアルバイトをしていたがバイト先がつぶれてしまった。親の仕事も大変で子どもを支えられない。大学もオンライン授業帰省もするなみたいな感じの学生も多いに違いない。学生街の飲食店も大変らしい。多くの飲食店は自営業で、もともと後継者難の店が多かった。行く末に見切りを付けて自ら店をたたむところも多いだろうが、それは「倒産」「失業」にカウントされない

 ハローワークに求職していない部門で「事実上の失業」が数字以上に多いのではないだろうか。親や配偶者に取りあえず「扶養」して貰える、あるいはコロナ終息まで貯金で食いつなぐという人は「失業」にならない。それに対して、寄りかかるものが少ない「シングルマザー」などが大変なのではないか。今でも倒産が多くなっているが、失業者数に入ってこないデータがあることを考えないといけない。しかし、コロナ禍で逆に仕事量が増えて大変になっている部門も多い。

 病院福祉施設学校などでは、毎日のアルコール消毒などに追われている。医療や看護行為は資格がないと出来ないけれど、消毒作業はトレーニングすれば誰でも可能なはずである。だから仕事が無くなって困っている人を,行政が直接非常勤職員として雇用すればいいのではないか。地方自治体は多くの医療、福祉、教育施設を抱えているから、そういう場所に派遣して消毒、清掃、あるいは可能な事務作業などをやって貰うことは出来ないのだろうか。

 いや、菅首相も病院の清掃などの下請けに補助を出すなどを検討すると言っていた。でも、それは多分こういうことだ。消毒を行う民間企業もある。そういうところに依頼するときに「補助金」を出す。そういう会社は直接雇わずに、増えた仕事を担当する人員は「派遣会社」に依頼する。だから、結局「派遣会社」の「ピンハネ」分が税金から支出される。病院も補助金申請の書類作業でかえって多忙になる。そういうことが予測されるのである。

 労働者が派遣会社に登録するには、当然「住所」と「連絡先」(携帯電話)が必要になる。今は何の問題もないと思っていても、家賃が払えなくなって家を追い出される、あるいは電気代が払えなくなってスマホの充電が出来なくなる、という事態に陥る人がもうすぐ急増するのではないか。そうなると、派遣で働く以前に、働こうと動くこと自体が難しくなってしまう。

 「民間活力」に行き着く「現代資本主義」そのものに欠陥がある。今こそ大恐慌時代の「ニューディール政策」が世界に必要だ。「自助」ばかり言ってる首相ではなく、しっかり「公助」の「失業対策」を考えるべきだ。仕事がなくなって困っている人を、仕事が大変過ぎて困ってる部署に、地方行政が直接雇用して回す。いろんな仕組みを工夫して「補助金」などを作るよりも、ずっと簡単で安上がりでさえあると思うけれど…。
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コロナ「第三波」をどう考えたらいいのか

2020年12月17日 22時56分32秒 |  〃 (新型コロナウイルス問題)
 新型コロナウイルスの感染者増が止まらない。12月17日には、東京で「822人」という「過去最多」を大幅に更新する人数となった。日本各地で毎日のように「過去最多」を更新し続けている。一体この事態をどう考えればいいのだろうか。ここしばらく「新型コロナウイルス問題」については何も書かなかった。政府の政策について書いたことはあるが、ウイルス感染の広がりそのものに関しては書いていない。僕には全然判らないので書くことがないからだ。しかし、ここまでの事態になったので、判らないなりにそのことを書いておきたい。
(東京で822人)
 この事態は「第三波」とみなされている。夏に「第二波」があったということを前提にしている。確かに感染者数のグラフを見れば、山が3つあるというのが確認できる。しかし、一番重要な「死者数」に関しては、第一波の方が多かった。この死者数が第二波で激増しなかったことが、ある種の「油断」につながったのは間違いない。

 この1ヶ月でどのくらい増えたかを確認しておきたい。11月15日付の新聞を見ると、国内での確認感染者数は「11万7145人」となっている。前日から1731人が増加していて、3日連続で最多となったと書いてある。死者数は「1888人」である。今度は12月15日付の新聞を見てみると、感染者数は「18万2230人」になっている。「6万5085人」の増加である。死者数は「2649人」である。増加数は「761人」になる。この死者数は現時点で「2754人」で、2日で100人以上増えている。
(11月までの感染者数グラフ)
 感染、発症、重症化、死亡と段階が進むにはタイムラグ(時間差)がある。今後死者数の激増が強く懸念される。それにしても、感染者がたった1ヶ月で5割も増えたことには驚いてしまう。年末年始にかけて、重症化する患者が増えて「医療崩壊」に近い状況が起きる可能性が高い。
(重症者数の推移、10月から12月)
 日本だけでなく、規模はそれぞれ異なるものの、アメリカ、ヨーロッパ諸国、韓国などでも同じく感染者増が報告されている。その意味では「季節要因」、つまり冬になって気候が寒冷になって「風邪を引きやすい季節」になったことが背景にあるのは間違いないだろう。東京では雨がほとんど降らず乾燥が進み、紫外線も弱くなっているので、それらもウイルス蔓延の原因だろう。

 また「ウイルスの変異」も恐らくあるだろう。コロナウイルスは特に変異が激しく、ダイヤモンド・プリンセス号の中でさえ変異が起こったというのだから、今後もどんどん変容していくだろう。日本でどのような変異があったか、なかったかは判らないけれど、より感染しやすいウイルスが登場したのかもしれない。特に感染が広がっている欧米との行き来はほとんど無いのだから、最近近隣アジア諸国との往来が少し緩和されたが今回は「外国からの感染」は考えにくい。

 「PCR検査」の数が春頃に比べて大きく増えているから、その結果陽性患者が増えているという指摘もあるがそれは本質的な原因ではないだろう。そうなると、やはり「社会的要因」が大きいと思う。特に「若年層に緩みがある」という声が高い。ただし、若年層には重症化リスクがほとんどないということが判っている。ゼロとは言えないものの、死亡に至るケースは他の疾患がある場合を除けば、ほぼ考えられないと思う。それを考えると、若い層がコロナを恐れず会食や旅行をしたとしても、病気に関するエビデンスから「問題ない」とも考えられる。

 過去にはインフルエンザ流行が報道されていても、多くの人はマスクもせずに忘年会に出掛けたり、ライブハウスに行ったりしていた。12月にはベートーヴェンの「第九」で合唱していた人も多いだろう。インフルエンザで毎年数千人が亡くなっていたことを考えれば、「新型コロナウイルスもそれほど恐れるべきではない」というのも一理あると思う。だがインフルエンザは検査もすぐ出来るし、治療法も確立されている。今度の新型コロナウイルスは未だに治療法が確立していない。急激に悪化して死亡する事態も起こっている。じゃあ、どうすればいいのか。

 僕は何より「会食」が問題ではないかと思う。医者が会食してクラスターが発生したりしている。やはり「やる人はやる」のである。夜の飲み会でも、風俗産業でも、開いていれば「行く人は行く」のである。そしてやがて若年層の感染は高齢層にも広がってしまう。無症状の段階でも感染力があるというウイルスなんだから、たちが悪い。完全に止めてしまうと「倒産」や「失業」が激増してしまう。だが税金を使って「会食を奨励する」政策を冬が来る直前に始めたことは間違っていたのではないだろうか。「Go To イート」は飲食業支援という以上に「デジタル化推進策」だったのではないだろうか。
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「イート」も止めなければ意味が無いー「Go To トラベル」一斉停止問題

2020年12月15日 23時02分19秒 |  〃 (新型コロナウイルス問題)
 12月14日(月)の夕方6時半過ぎに「Go To トラベル」を年末年始に全国一斉で停止するという政府方針が報道された。6時21分から40分にかけて「新型コロナウイルス感染症対策本部」が開かれ、そこで決まったらしい。主管する観光庁でも10分前に知らされたという。先週まで「一部除外」はあるとしても、「Go To トラベル」を継続する意向と伝えられていた。ところが週末に報道された世論調査で支持率が急減したことから、菅首相が追い込まれたのだという。
(ニュース報道)
 菅首相はその後4分間(7時28分から32分)報道各社のインタビューに答えた後で、ホテルニューオータニに出かけて、AOKI会長やユーグレナ社長と懇談した。そしてさらにその後、8時50分に高級ステーキ店「銀座ひらやま」に出かけて、二階幹事長、プロ野球ソフトバンクの王貞治球団会長、俳優の杉良太郎氏、政治評論家の森田実氏、タレントのみのもんた氏、林幹雄幹事長代理らと会食したという。菅首相自身が11月19日に「Go To イート」では「会食は4人まで」とするようにと発言していた。いくら何でも「間が悪すぎる」だろう。

 「トラベル」の全国一斉停止は観光業界に大きな波紋を呼んでいる。何しろ急すぎて、旅行会社や旅館などにはキャンセルが殺到しているとか。まあ東京が除外されそうな気はしていたが、全国というのは確かに予想外。菅首相なりに「こだわり」があるのかと思っていたが、支持率の方が大切なのか。キャンペーンでずいぶん客が回復していたということなので、観光業界には衝撃が大きい。ただし、先に書いたように「Go To トラベル」の仕組みはおかしすぎる。

 年末年始はもともと観光客が多い時期だ。普段の年なら海外旅行にも多くの人が出掛ける。今年は外国へは行けないから、国内旅行の需要は大きいだろう。そこで税金を投入して「事実上の半額」に値下げして、旅行に是非行きましょうとキャンペーンする意味が僕には判らない。非常事態宣言が出されているわけではないので、旅館やホテルは開いている。例年通り、自腹で行けばいいだけだと思う。(一日違いで割引がないと不公平なら一割引ぐらいでもいいか。)

 もともと7月にキャンペーンが始まった時には「感染状況が一定の落ち着きを見せている」という判断があった。それを考えてみると、「再び感染が多くなった場合」にはどうするか、最初に決めて置かなければいけなかった。「全面停止」だけでなく、割引率で調整するなども考えられる。突然始めて、利用しないと損なムードを作って、突然停止する…では旅館も客も混乱する。

 今回「トラベル」だけが対象になっているのは何故だろうか。「Go To イート」は何故停止しないのか。感染リスクを考えたら、人が他県に移動しなくても、年末年始に会食するならもっと危険ではないか。実際に会食によるクラスターはいくつも発生している。ある程度の人数で会食するなら、ほぼ確実に予約するだろう。その場合に税金を原資にして補助する必要があるだろうか。(今の感染者数を考えた場合、ということだ。)旅行と同じく、店は営業しているのだから、自腹で行けばいい。(もちろん、「持ち帰り」「取り寄せ」商品は別である。)

 また、ただ「停止する」では困る人が出る。外食店はすでに「時短営業」を求められたりしている。年末年始に旅行や外食が止められたら、大きな痛手を受ける人がいる。それらの人へ「希望」を伝える政策が必要だ。映画館では12月になって食事が可能になるなど、感染状況と逆行する措置が進行している。どうもやることがチグハグだと思う。政府の方針も揺れ動いていて方向性が見えないことが多い。満点の政策は難しいとしても、せめて「説明」はしっかりして欲しい。
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「Go To」キャンペーンのおかしな仕組み

2020年12月12日 23時34分00秒 |  〃 (新型コロナウイルス問題)
 「Go To」キャンペーンに関して、一端停止すべきだという提言を受けても菅首相は基本的には継続するつもりらしい。「経済を止めない」も大切だが、何にしてもきちんと説明して欲しい。何も説明しないで、聞かれると「丁寧に説明してきた」と言い張る学術会議方式はいい加減にして欲しい。さすがに支持率は低下傾向にあるが、これではコロナ対応を任せられるか心配になる。

 ここで書いておきたいのは、「Go To」キャンペーンの仕組みのおかしさである。新型コロナウイルス感染拡大に、「Go To」(以下、「Go To」は省略する)がどの程度関わっているのかは、今の段階でははっきりしたことは言えない。「トラベル」ばかり取り上げられるが、むしろ問題は「イート」ではないかと思う。7月末に「トラベル」が開始されて、その後夏に「第二波」があった。10月に「イート」が開始されて以後、10月末から11月に掛けて「第三波」という状況が現れてきた。

 そういう風に見れば、ある程度影響もあったようにも見えるが、はっきりはしない。今の段階でキャンペーンが感染に結びついた確証があるケースはそれほど多くはないようだ。もっとも「リスクゼロ」はあり得ないのであって、ウイルスが完全に終息するまで「ステイホーム」してしまったら、多くの飲食店旅館・ホテル劇場・映画館などがつぶれてしまう。一度無くなったら復活させるのは大変だ。だから感染対策を行いながら、経済活動も行っていくこと自体は正しいと思う。

 しかし、そのために行われている「Go To」の仕組みは問題が多い。そもそも「英語としておかしい」という人もある。僕もそう思うけれど(大体「命令形」になってるじゃないか)、それは置いといて、ここでは仕組みだけを考える。基本的に言えば、「トラベル」だったら「観光業界を支援する」のが本来の目的である。そのためには「客が行きやすくする」も確かに一方法だけど、実際は「旅行に行きたい人の支援」になっている。「お得だから使った方がいいよ」というやり方だ。
 (「トラベル」の広告と仕組み)
 上記画像は某旅行者の広告だと思うが、まさに「お得!」をウリにしている。その結果、秋の観光シーズンに有名観光地が「」になる状況が生まれた。お土産などに使えるクーポン券も多すぎて使い切れないという声があるらしい。それは「定率補助」にしているからだ。「宿泊代の35%割引」「15%のクーポン」だったら、高いプランの方が絶対お得である。旅館によっては、あえてキャンペーン向けの高額プランを作ったらしい。

 旅行のパンフを見ればすぐ判るが、旅館は大体5段階ぐらいの料金プランになっている。年末年始が一番高く、土曜日や連休前、夏休み、秋の観光シーズンなどが次に高い。秋冬の平日などは安くなっている。それを「定率」で補助すれば、もともと高い土曜日に行った方がいいことになる。たまたま手元にあるパンフを見ると、ある有名旅館の11月平日は1万9400円、土曜は2万6800円になっている。(一室2名の一人分、四万温泉の「四万たむら」)割引を適用すれば、平日が1万2610円、土曜が1万7420円になる。差額が7600円から4810円に縮まっている。もともと高い宿だが、例年なら土曜に行けない人でも、これなら平日に休暇を取らず土曜に行くだろう。

 「密を避ける」という「政策的誘導」がどこにも感じられない。もともと僕が言ってるように「定額補助」(5千円、6千円程度を補助。クーポンも一律に2千円程度)なら、宿泊プランの差は変わらない。あるいは「連休や土曜日などは割引率を下げる」ことも考えられる。「働き方改革」の意味も含めて、平日に行った方がお得にするわけである。(これは「密を避ける」ために旅館や観光地の客を平準化するためという意味で書いている。)

 「イート」はもっと問題が多い。そもそも食事はあまり予約などしないものだ。宴会とかクリスマスのデートなんかは別だろう。あるいは子ども連れで回転寿司や焼き肉に行くときも予約するのかもしれないが、僕には判らない。でも旅行やコンサートなどには行かない、行けない人でも食事はする。だから本来なら「イート」はもっと全員が利用しやすい仕組みにするべきだ。スマホ、パソコンがない人、使えない人はどうすればいいんだろう。
(「ぐるなび」の広告」
 高齢者、障害者などには使えない制度なのだ。それなのに一部の人は何度も使って「お得」に利用できたようだ。そういう仕組みになっているんだから、お得に使える人が使っても非難は出来ない。しかし、税金の使い方としてそれでいいのか。生活保護世帯、ひとり親世帯、困窮学生などに「デリバリーで利用できるイート券」を配布するなどという方がいいんじゃないだろうか。それと「イート」はマスクを外さないと成立しないんだから、一番感染リスクが高い。それを考えると「アルコール提供分は補助しない」程度は必要なんじゃないだろうか。
(「イベント」広告)
 もう一つ、「トラベル」「イート」とともに「イベント」もあるはずだが、どうなっているんだろうか。実はもう始まっているらしいが、あまり宣伝していない。しかも、「トラベル」が35+15%、「イート」が25%に対して、「イベント」は20%と一番割引率が低い。いかにも「文化軽視」の象徴みたいだ。「イベント」はコンサート演劇映画美術館・博物館スポーツ観戦遊園地などの料金を割引するというものだ。これは自分も利用出来るかと思っていた。

 実はUSJの料金を割引で売ってたり、チケットぴあで対象のチケット販売が始まっている。しかし、映画館でもやるというのに全く気配がないのは、「鬼滅の刃」大ヒットで潤ってるから必要ないということか。どう考えても「トラベル」「イート」に比べれば、感染リスクは「イベント」が一番低い。それにコンサートやスポーツのチケットは、もうずいぶん前からネットのチケットサイトで購入するのが一般的になっている。「イベント」が最初になってもおかしくない。多分役所や企業規模が違って、文化支援の機運が低かったのだろう。

 「ミニシアター・エイド」というのがあった。個性的な小さな映画館を守ろうという支援運動だった。そういう風に、大切なことは「利用者」の支援ではなく、旅行や外食、アートなどの「文化装置」を守っていくことだ。それなのに政府の政策は「得になる仕組みを作ったから、みんな損しないように行動しろ」である。その結果、「密」になる場面を作って感染リスクを高めていると思う。また「利用できない人」(高齢者や低所得者、障害者など)の存在を置き去りにしている。

 だが、それ以上に問題なのは、「損得で行動する国民」を育ててしまうことだと思う。「損得を超える価値観」を忘れた社会は危ない。すでにそうなっているんだろうけど、「Go Toキャンペーン」は「ふるさと納税」や「マイナポイント」などと同様に、その傾向を助長してしまう。安倍・菅内閣の基本政策だから、自民党の基本的な方向性なんだろう。「Go To」も単に「停止」するのではなく、仕組みの練り直しが必要だと考える。
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「Go To」と「コロナ対策」ー真に必要な人への対策を

2020年11月27日 22時33分35秒 |  〃 (新型コロナウイルス問題)
 新型コロナウイルス問題をしばらく書いてなかった。この間に夏に「第二波」がやってきたとされ、その後もダラダラと感染者が報じられた。そして11月に入って「第三波」と呼ばれるほどの大々的な感染者が報告されている。日本だけでなく、欧米はじめ各国でも似たようなケースが多い。欧米では再びロックダウンを迫られた国も多い。
(感染者数の推移)
 自分のブログを調べてみると、7月30日以来、この問題は書いてなかった。その間旅行や外食などはしてないものの、映画を見にはよく行ってる。心配を感じてないのは、僕が見てるのはあまりヒットしてない映画だからだ。マスクをして会話もないし、セキしている人も誰もいないのだから、心配するほどでもないと思っている。(「鬼滅の刃」を見てないのは人が多すぎて怖いからで、アニメは絶対に見ないなどと思ってるわけではない。)

 この間、主に東京都のコロナ情報サイトは毎日チェックしていて、重症者、死者がそれほど増えていなかった。そのため「経済を止めてはならない」と思って、「Go To」キャンペーンなども批判しなかった。僕は「トラベル」はそれほど危険性はないと思っている。しかし、「イート」はそのやり方もおかしい気がするが、どうも危険性を否定できないのではないか。少なくとも「イート」より先に「Go To イベント」を実施するべきだったと思う。
(コロナ死者数の推移、夏までのもの)
 そして、最近になって「重症者」が増え、医療現場のひっ迫が報道されている。死者も増えて、日本でも2千名を超えている。(11月26日現在、2064名)前日比で29人も増えていて、確かに危機感を持たざるを得ない数字だ。ただ、それだけを見ると大きな数字に思うが、実はもっと心配なデータは「自殺者数の増加」である。速報値で、10月だけで2153人の自殺者があり、前年10月より4割増だった。今年前半は自殺者数が前年より少なかったが、7月から増えているという。
(自殺者数の推移)
 驚くべきことに、新型コロナウイルスによる今までの全死者数を超える人々が、10月ひと月だけで自殺しているのである。もちろんそれぞれの理由は様々だろうし、有名人の自殺が報じられると増えることも事実だ。そこでマスコミも大きく報道しなくなってしまいがちだが、実はいま「最大の問題」とも言えるのは「自殺者数の激増」なのだ。それを考えると、再び緊急事態宣言を出すべきだと主張する人もいるが、僕はとても賛同できない。
(自殺者と失業率の推移)
 ここでまた「巣ごもり」することは、多くの飲食店やライブハウス、劇場、旅館などを完全につぶしてしまいかねない。もうすでに今年の倒産件数が増え続けている。上記画像にあるように、「自殺者」と「失業率」には明らかに関連性がある。失業したら自殺するという簡単なものではないけれど、自らの未来が奪われたと思った人は、ウツ状態になりやすいだろう。コロナ禍を超える自殺者をどう防ぐか、皆が本当に真剣に考えないといけない。
(倒産・休廃業の推移)
 だから「経済は止めるべきではない」と基本的には僕もそう思っている。だけど、今の「Go To」キャンペーンは本当に困っている人に役立つものになっているのかシングルマザー(父親や祖父母も含めて)、障害者高齢者非正規労働者ヤング・ケアラー外国人労働者一人暮らしの大学生などなどに対して。そもそも菅内閣の目玉政策が「デジタル化」なんだから、本当に窮迫していてパソコンもスマホも持ってない人は頭の中にないんだろうと思う。(パソコンもスマホも持ってない人がたくさんいることを知っているか?)

 「Go To」キャンペーンは年末に向けて、一端休止してはどうか。そして、もっと皆が使いやすい、大手企業ばかりが潤うような仕組みを変えた方がいい。全国民に10万円支給したのだから、旅行したい人は多いだろう。でも大規模旅館の高いプランほど多くの補助があるという仕組みはおかしくないか。飲食チェーンに予約して、ポイントでまた行って、何度も行けるというのはおかしいだろう。「利用しなければ損」と言ってる人がいたが、税金で行う事業なんだからそんな発想はおかしい。「民度が高い」と副総理は言うけれど、実際の民度はそんなものなのだ。

 「Go To」とは違うけれど、全国民に恩恵があることと言えば「消費税の軽減税率を引き下げる」ということを真剣に考えるべきだと思う。僕は消費税そのものは据え置きでいいと思う。お金持ちは負担するべきだし、そうじゃなくても臨時給付金があったんだから、国民一般もある程度負担すべきだ。食品の税率を下げれば、飲食店も助かる。低所得者ほど助かる。「マスク」など、現在の状況から「生活必需品」になったものも軽減税率の対象にするべきだ。臨時措置でいいから、検討するべきだ。(しばらくしてから、コロナ問題をまた書きたいと思っている。)
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全国で感染増、「新型コロナ」の現状をどう考えるか

2020年07月30日 23時06分50秒 |  〃 (新型コロナウイルス問題)
 7月が終わるというのに、まだ梅雨明けが来ない関東地方だが、新型コロナウイルスの感染者が増加し続けている。30日に発表された東京都の新規感染者は367人を記録した。この状況をどう考えるか、僕にはよく判らない面が多く、今まで書かなかった。東京は恐怖に駆られているかと思う人もいるだろうが、そんなこともない。案外普通に日常が進行している。

 全国に感染者がいるが、福井県の例を見てみる。「沖縄県に滞在していたとみられる男性6人」が感染していると、29日に発表された。その後、「4連休中の7月23日~26日まで沖縄県の石垣島や西裏島を旅行していた」と説明された。「GO TOトラベル」事業を利用した旅行ではないらしいが、このケースには僕はどうにも納得できない点がある。

 それは「発症までの潜伏期間」が従来と違うのである。緊急事態宣言の頃は、毎日のように「今日の感染者数は2週間前の数字」とニュースで解説していた。それが今も正しいのなら、沖縄旅行から「発症」までの時間が短すぎる。感染者の中には無症状の人もいるようだが、誰かの体調が悪化したから検査を受けたはずだ。PCR検査の結果はすぐには出ないので、先週木曜日からの連休で感染した人が一週間後にもう確認されたというのは、いかにも早過ぎる。

 実は感染源は沖縄旅行ではなかったのだろうか。しかし、県の発表が間違っているとも思えない。じゃあ、どういうことだろうか。一つの仮説は「ウイルスの変容」ということだ。沖縄ということで、「米軍由来」も考えられる。しかし、東京や大阪などで感染者数が急増していることを考えると、日本国内でウイルスが変化したという可能性も考えておくべきだろう。ウイルスはどんどん変化するらしいから、より感染力が強く潜伏期間の短いウイルスが現れたのか。
(東京都の感染者数の推移)
 東京都の感染者数は今までの総計で1万2288人になったという。多いように思うかもしれないが、東京都の人口はほぼ1400万人である。離島や山間部も含めてだが、一応都全体で計算すると、全体の0.1%にも届かない。まあ遠からず0.1%にはなってしまいそうだし、実はもっと多いという観測が多い。それにしても、実はものすごく多数が感染していたということはないようだ。公式的には0.1%に満たない感染者数を持って、「99.9%の都民」が「GO TOトラベル」事業から除外されてしまったのである。

 すでに治るか(または死亡)した人が多いわけだから、現時点での感染者は2790人、入院は1106人、そのうち重症者は22人となっている。全国の死者は1020名となり、そのうち東京都の死者数は329人である。(2020.7.30時点での情報)今もアメリカでは一日で1000人、少ない日でも500人ほどの死者が出ている。人口はアメリカの方が3倍ほど多いけれど、明らかに日本では死者が少なかった。武漢しか前例がなかった時点では、東京でも数千人の死者が出る可能性を考える必要があった。もちろん現時点でも急激に悪化して死亡するケースはあるようだが、日本では武漢やニューヨークほどの大きな犠牲がなかったのは間違いない。

 それは何故なのかは完全には解明されていないが、現時点でも同じような傾向は続いている。結局無症状で終わる人も一定数いるようだし、このウイルスをどう理解するべきは僕にはまだ判断が出来ない。死者数は少なくても感染者数も他国より少ないので、計算すると致死率は案外高くなる3%ほどにもなり、これはインフルエンザの致死率より30倍近く高い。しかし、これは恐らく「院内感染」が病院、福祉施設で起こったことによる偏りによるものだ。対策を取らずに市中感染が広がった場合は致死率はもっと下がると考えられる。

 一番感染リスクが高いのは、会食やカラオケなどでの「飛沫感染」だろう。僕の住んでいる近くでもクラスターが発生したが、町ですれ違うだけで感染するというなら別だが、道で話すわけじゃないのだから全然心配していない。もともと感染者が少ないので、僕の知り合いで感染したという人は誰も知らない。東京でも多くの人がそうだろう。そういうことを総合的に判断すれば、「再度の緊急事態宣言を」という人もいるが、現時点でその必要はないように思う。

 ここで再び「ロックダウン」的な措置を取れば、今度は飲食店や観光業界などに与える打撃が大きすぎるだろう。今後もウイルスの変化などがあるだろうから慎重に見極めがいるが、今の時点では「インフルエンザ流行期」並みの対策を取りながらやっていくしかないと思う。つまり、「全国一斉休校」は取らないが、場合によって「学校閉鎖」「学級閉鎖」は行うわけである。職場や家庭でも同じで、具合が悪ければ休暇を取って、外出時にはマスクをする。「いまの東京」を本当に危険だと考えれば、僕も外出しない。自分で対策を取れば、対策を講じている施設に出かけることに大きな危険性があるとは考えていない。警戒を続けながら、考えていきたい。
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「捕食」の構造、持続化給付金と「岡村発言」ー「ポストコロナ」世界考⑤

2020年06月16日 22時54分12秒 |  〃 (新型コロナウイルス問題)
 新型コロナウイルス感染者数はアメリカが圧倒的に多いが、いつの間にかブラジルが世界第2位になった。アマゾン奥地の先住民にも感染が広がっているという。どうして遅れてブラジルで感染が広がったのか。南半球のブラジルでは、富裕層が避寒のためにヨーロッパを旅行していて、感染拡大以後にウイルスを持ち帰った。富裕層の家で働いている家政婦などを通し、ファヴェーラと呼ばれるスラムの「密」空間にあっという間に広まったのだという。

 そう言われてみると、なるほどブラジル社会の階層構造がはっきり見えてくる感じがする。「ウイルス」を媒介にして、「捕食者」と「被食者」の関係性があぶり出されてくる。この「捕食」「被食」というのは、生物の食物連鎖の用語だが、世界的な「自由競争」「新自由主義」の下で、社会を見るときにも役に立つ概念になってしまった。人間の世の中は単純な「食うか食われるか」の世界ではないけれど、あえて単純に図式化すれば、やはり「捕食者」と「被食者」に分かれている。

 その事実を最近一番感じたのは、「持続化給付金」の落札経緯だ。「サービスデザイン推進協議会」という一般社団法人が落札したが、その後電通に「丸投げ」され、以後も下の画像にあるように複雑怪奇な流れで全体像がよく判らない。かの竹中平蔵元総務大臣が会長を務める人材派遣会社パソナもちゃんと絡んでいる。どうもそういうことが多い。労働者派遣事業をどんどん合法化して、その後会社側に立場を変えて、どんどん政府の事業を請け負う。これでは「捕食者」が仕組みを作って、派遣労働者は「被食者」になる世界だ。電通は自民党の選挙を仕切って、政府の事業も担当する。

 別の問題だが、今回のコロナウイルス問題では「風俗産業」をめぐる議論も起こった。自粛要請で「閉店」した場合、「夜のお仕事」あるいは「性産業」の補償はどうあるべきか。当初は全く補償がなく、シングルマザーで他の仕事に雇って貰えずやむを得ず風俗業に就いている人もいる、困窮すれば次世代にも影響する…という論点である。この場合だけではなく、政府が当初「自粛要請」する際に「フリーランス」「文化の担い手」に対する配慮や手当が全く見られなかった。やはり「大企業」の「正社員」じゃないと政治家の目に入ってないのである。
 (岡村隆史「発言」問題)
 性産業をめぐっては、ニッポン放送の「オールナイトニッポン」での岡村隆史発言もあった。この「失言」(間違いなく「失言」のカテゴリーに入る)をどう考えるべきか。僕もいろいろ感じたのだが、今まで書かなかった。「セックスワーカー」の世界は全く知らないので、軽々しく発言できない。「キャバクラ嬢」や「ホスト」だったら、夜間定時制に勤務すれば生徒の中にたまにいる。親も辞めさせたい場合もあれば、放任の場合もある。教師として、非難も応援も出来ない。何とか高校卒業はした方がいいというスタンスで指導を続ける以外にない。「性の商品化」を非難するだけで、この世からなくなる問題ではない。外国には「セックスワーカー」の労働組合がある国もあるらしいが、それが正しいのかも判らない。

 政権№2に「失言大王」を戴く国である。僕は「岡村降板運動」をする以前に、まず「麻生辞任」が必要だと思っている。だが麻生大臣の「失言」も、本人の主観では「良いことを述べる」文脈の中で生じることが多い。それが「失言」というものだ。今回の「岡村発言」そのものは、大体の人が覚えていると思うが、概略は上の画像に譲る。これも深夜放送という場で、「何とか自粛を促す」という「良き目的」の文脈だから、本人のホンネ的な発言が出てしまうのである。「コロナ禍で困窮を極める人」は本来あってはならないわけだから、公的な場で言ってはならないことに間違いない。

 ただ僕は当初から、この発言に含まれる「居心地の悪さ」をどう表現したらいいのか、よく判らなかった。もちろん「性の商品化」そのものの問題もあるが、それだけではない気がした。それは「他人の困窮」を「楽しみに待つ」という感性をどう考えたらいいのかという問題だ。ブラジルの状況や持続化給付金問題を考えているうちに、何となく思うところがあった。岡村発言は「捕食者目線」なのである。堕ちてきたら食べちゃうぞと網を張ってるクモみたいな感じ。世の中は「捕食者」「被食者」に分かれていて、自分は「捕食」の側だということが自明視されている。その点に居心地が悪かったのである。今回のウイルス問題の中で、世界の構造が「見える化」されたのだと思う。
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「自粛警察」はファシズムの芽なのかー「ポストコロナ世界」考④

2020年06月15日 22時35分57秒 |  〃 (新型コロナウイルス問題)
 緊急事態宣言下で見られた「自粛警察」を指して、「ファシズムの芽」だと批判する人がいた。いや関東大震災時の「自警団」の方が近いと指摘する人もいた。この問題をどう考えればいいのだろうか。ただ「ファシズムなのか」を正面から論じても、あまり生産的とは思えない。僕なんか、つい現代史の学術用語としての「ファシズム」の定義を考えてしまう。でも多くの人は、「独裁」とか「権威主義」を非難するときの「悪罵用語」として「ファシスト」を使っているのだろう。

 ところで、ニュース番組に「自粛警察」という言葉は不適当だとメールした人を見た。「警察」は違法行為を取り締まる組織なのに、「自粛警察」では「警察が悪いことをする」みたいだという話だった。世の中にはそう思う人もいるのか。「警察」は治安維持のため必要だろうが、とかく「横暴」というイメージがつきまとう。アメリカといわず、日本でもしつこい職質とか引っかけ取り締りに遭ってない人は少ないと思う。特に反体制的な活動家じゃなくても、「警察」には「ムチャクチャ言ってくる」イメージがある。
(欧米諸国と日本の比較)
 日本では欧米と違い、緊急事態宣言でも「自粛要請」に止まり、法的な「営業禁止」「外出禁止」ではなかった。生活のために営業を続ける店もあったので、そこで「何者か」が夜中に「店を閉めろ」とかの貼紙を貼って歩いたりしたらしい。県外ナンバーの車に嫌がらせをする人まで現れた。それを指して、いつの間にか「自粛警察」と呼ぶようになった。僕は「初出」を知らないけれど、イメージ的にはすぐ判ったのである。不思議なことに、そういう「活動」をしているご本人は「ステイホーム」をしていない。自分が率先して「自粛」してれば、その店が夜も開いてるかどうか判らないはずだ。
(「自粛警察」の貼紙」)
 上の画像は検索して見つけた貼紙の例。店主を「銭ゲバ」と攻撃してる。故ジョージ秋山の1970年の漫画「銭ゲバ」がすぐに思い浮かぶ世代なんだろう。この「ゲバ」なんか、若い人には語源が判らないと思う。ニュースで見る限り、今のところホンモノの警察に捕まったのは「豊島区の職員」だけだと思う。なんと「自粛」を要請する側の人間が、要請に応じてくれない店に腹を立てたらしい。別の事例だが、川崎市の施設に「ヘイトクライム」的な葉書を送った人も最近捕まった。元公務員で、現在の担当者に対する私怨があったらしい。どこかで「謎の組織」が暗躍しているわけではなかった。

 「ファシズム」はもともとイタリアのムッソリーニの「国家ファシスト党」から来る。しかし、イタリアは「先駆的ファシズム体制」とでも言うべきで、やはりドイツのヒトラーが結成した「ナチス」がファシズムの代表例になると思う。ナチスというのは「国家(国民)社会主義ドイツ労働者党」の略である。社会主義を自称しているが、反共産主義である。というか「反ソ連」である。「国家(国民)社会主義」こそが、ドイツ労働者にとっての「真の社会主義」なのである。(なお、国家社会主義と訳すか、国民社会主義と訳すかは、教科書でも分かれている。)

 ソ連が崩壊したんだから「反ソ蓮」もないはずだが、「ソ連」的なるものを「中国」や「北朝鮮」に見出して、排外主義的な主張をする人はいる。もともと「反ソ連」とは「反革命」ということである。現代日本に「革命の危機」などあるわけもないが、人によっては世界標準によって「日本的なもの」が変化していくことは、すべて「革命の陰謀」と思い込む人も結構いる。しかし、「主義」だけでは「ファシズム」とは呼べない。非合法活動もいとわない「」(組織)があってこそ、初めて「ファシズム」と言えるだろう。

 そう考えてくると、「自粛警察」は単なる鬱憤晴らしに近く、良くも悪くも「ファシズム」などと言っては過大評価になりそうだ。むしろ前近代的な「村八分」の方が近い感じがする。「要請」に止まるのに「自粛」が成り立ったのも、社会が法的な契約によってではなく、ムラ共同体的な暗黙の規制で成立しているからだと考えられる。ファシズム党であれ、革命政党であれ、超少数勢力としては存在するかもしれないが、それが「運動体」を目指す以上は、日本の日常生活では浮いてしまいそうだ。

 「自粛警察」は、だからファシズムではないと思うが、だから良いわけでは無い。日本社会の中では「暗黙の共通理解」を押しつけてくる「空気」の方が怖い。現実に恐怖感を呼び起こすわけで、日本では「空気」の方が問題だ。今のところ、「ファシズム」でも「自警団」でもないとしても、「ネットいじめ」は後を絶たない。今後ますますコロナ問題による経済困窮が大きくなってくる。自粛期間が終わって、それなりに業績が戻る会社もあるだろう。しかし、やはり大変な状況が続く業種の方が多いと思う。その時に「混乱」が起き、それを利用する人も出てくる。これからの方がますます大変になると覚悟して、すぐに動ける態勢を作っておかないといけない。
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「テレワーク」は定着するかー「ポストコロナ世界」考③

2020年06月14日 22時12分27秒 |  〃 (新型コロナウイルス問題)
 「ポストコロナ」の「ポスト」(post)というのは、「」を表す「接頭辞」である。反対語は「前」を表す「プレ」(pre)。他にもたくさんの接頭辞が英語にも、日本語にもある。英語では「in」とか「anti」とか…。「テレワーク」(telework)の「tele」も「遠く」を意味する接頭辞である。「テレフォン」「テレグラム」「テレヴィジョン」…。みな遠くから伝達可能な新技術に接頭辞「テレ」を付けた造語だった。

 コロナ以前は聞いたこともなかった「テレワーク」という言葉も、そういった新造語の一つである。職場を離れて「遠くで働く」ということで、「テレビ電話で働くこと」じゃない。「ワーク」はともかく、今回多くのものと「テレ」になった。新型コロナウイルスはいずれ終息するわけだが、果たして一端「テレ」化したものは、再び元に戻るのだろうか。それともコロナ後の世界は完全に一変してしまうのだろうか。
(行政も進める「働く、が変わる」)
 テレワークで済んでしまうんだったら、今までの「電車痛勤」は何だったのかと思う人もいるだろう。このまま「テレワーク」でいいと思いつつ、緊急事態宣言が明けたら少しずつ勤務形態も戻りつつあるようだ。もともと「ハンコを押すために出勤せざるを得ない」とか「派遣社員はテレワークにならない」など、日本企業のあり方をあぶり出す問題も起こった。朝はラッシュアワー、夜は居酒屋で「飲みニケーション」といった長時間労働は、ポストコロナ世界では消えていくのだろうか。

 もちろんそれは業態によって違うだろう。「人間相手」の仕事では、テレワークしようがない。今回医者でも「オンライン診療」が認められたが、新型コロナウイルスだったら「オンライン診療」では病名も確定できない。医療、福祉などは「テレワーク」には出来ない部分が多い。では教育はどうなんだろうか。「オンライン授業」が続くんだったら、例えば通信制高校でもいいとなるだろうか。ネット授業を中心にした私立通信制高校が今は幾つも出来ている。多分そう思って通信制へ行く人も増えていくだろうが、恐らく毎日通学する高校が主流なのは不変だろう。

 それは「ライブハウス」も同じだと思う。個々のライブハウス、あるいは個々の映画館や画廊などには閉めざるを得なくなるもあるだろう。しかし、ライブハウスという存在が無くなってしまうとは考えられない。音楽で「複製技術」が現れると、レコードでしか音楽活動をしない音楽家も現れた。今後は「配信だけで本人の写真もない」、時には国籍や性別も不明な曲も出てくるだろう。だが「音楽」一般の本質から、「身体的なパフォーマンス」が消え去ることはないはずだ。

 ここ何十年もずっと「シャッター商店街」が問題になってきた。今回のコロナ禍をきっかけに閉めてしまうお店も多いだろう。東京ではここ何年かミニシアター映画館がどんどん少なくなった。長い目で見れば、今後さらに減っていくだろう。それは新型コロナウイルス問題ではなく、人口動態や経済状況などの影響である。ウイルスはきっかけを作るだけなのである。少子化が進行する中で、ライブハウスやミニシアターは無くならないが、「絶滅危惧種」として保護対象の存在になるかもしれない。
(テレワークの仕組み)
 さて、冒頭の問い、「テレワークは定着するか」だが、それを決めるのは働く側というよりも、やはり企業側なんだろう。例えば交通費はどうなるか。今回は恐らく4月に一括して「通勤定期代」が支給されていただろう。しかし、実際の出勤回数で考えれば、回数券で済んだかもしれない。働く側でそうした人もいるかもしれない。しかし、交通費をケチるよりも、社員を定時に集合させるメリットもあるはずだ。交通費以上に大きいのが、オフィス代(自社ビルではなく、物件を借りている場合)である。大きなビルやオフィスを高い金払って借りている意味はあるか。

 それこそ業態ごとによるだろうが、僕は案外「テレワーク的労働形態」は普及していくのではないかと考えている。そうしても十分やっていける仕事はある。ただし、その場合、完全に「業績評価」型の人事考課になる。いちいち時間内の管理を出来なくなる代わりに、期間内に「見える業績」が必要になる。通勤時間がないんだからと、自分でもその分ぐらいは超過勤務するのが当たり前になるだろう。それどころか、深夜まで家で仕事をするのが常態化することも起こりうる。

 人との接触による新発想も少なくなるし、結局いいことばかりではない。また考えておくべきことは「新人はテレワークが難しい」ということだ。テレビ番組なんかも、今では再放送やリモート出演ばかりになってしまった。それでも出来るわけだし、何も全員がスタジオに集まって大騒ぎする必要も無い。そうなんだけど、今のところニュース番組やヴァラエティ番組などで、リモート出演するのも「従来からの出演者」ばかりである。ドラマの制作もストップしているので、新人には不利だ。これはどの分野にも言えることで、新人に活躍の場を与えるには「リアルな現場」が必要なのである。
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「世界同時鎖国」で国家復権?ー「ポストコロナ」世界考②

2020年06月13日 20時30分18秒 |  〃 (新型コロナウイルス問題)
 ちょっと前まで、東京を初め全国には外国人観光客があふれていた。政府は外国人観光客を増やす政策を取っていたし、「爆買い」という言葉もあった。京都や鎌倉では観光客が増えすぎて困っているという話もあった。浅草の仲見世通りを見る限り、確かに大幅に増えていたようだが、新型コロナウイルス感染拡大で全く消え去った。日本からも出国できなくなり、外国からも入国できなくなった。日本だけではなく、世界各国で往来が停まってしまった。朝日新聞の別冊「GLOVE」5月版では「世界同時鎖国」と特集を名付けた。そんなことが起きると思っていた人は誰もいないだろう。
(「GLOVE」表紙)
 それどころか、「マスク」が「戦略物資」になってしまった。日本では人件費が高い「ものづくり」を外国に移転し続けてきた。だから外国が輸出をストップすると、多くの物が国内で払底してしまう。やがて国内生産も始まったし、中国の感染状況が落ち着けば輸入も再開されたようだが、一時は「マスク」品切れが大問題だった。ヒトだけでなく、モノであっても、予想できない危機に陥ると、結局は「国境」で閉ざされてしまうのか。世界の感染状況も「国ごと」に発表される。情報をまとめる権限が国家ごとになっているからだ。現代の世界は、やはり「国民国家」で成り立っているのだ。

 「プレコロナ世界」では、むしろ「国家の地位低下」が取り沙汰されていた。欧米各国ではどこも指導者の支持率低下が見られ、右派の伸張が著しかった。右派は「ナショナリズム」を主張するが、それは国家への信認を意味しない。むしろ移民の受け入れを進める「現代国家」に敵意を示し、現存の国家機構解体を主張することが多い。右派は国家ではなく、「民族」「信仰」に価値を見出す。「人権」をベースにして、国籍を問わない福祉政策を行う「現代国家」は「敵」なのである。

 ヨーロッパでは「EU」が機能しなかった。イギリスが脱退したばかりのEUで、統合の価値を示すことが出来なかったと思う。イタリアやスペインで爆発的に感染が増加したときにも、相互に援助することは難しかった。どの国も自国の状況に対応するだけで精一杯だったのである。自由に行き来できるはずだったのに、やはりヨーロッパでも国境を閉ざすことになった。肝心の時に役に立たないのでは、欧州統合も行き詰まるのか。そうでもないだろう。今後の加盟を望む国では、経済状態から加盟を諦めることは出来ない。EU内の大国も、米ロ中への対抗上「EU」を必要とする。だから今後も緩やかに「EU拡大」が進行するだろう。抜けられるのは、アメリカとの関係があるイギリスだけだ。
(問われるEU)
 結局「衛生政策」を実行するのは、「国家」しかないのである。ここでいう「国家」とは、「実効支配」を確保している「領域政権」である。リビアやイエメンでは統一政府がない状態が続いている。そうなるとウイルス感染状況も判らない。時々感染が広がっているという報道も見られるが。また、歴史的、政治的事情から多くの国から「国家」として承認されていない「台湾」は、「事実上の国家」としての信用力が増すことになった。21世紀は「国家を超えた世界」が実現するように言っていた人もいたが、やはり「国家」の枠内で人は生きていたのである。

 コロナ危機で生活が困窮した人をどう救うべきか。この問題に取りあえず答えを出せるのは、「国家」(および「地方政府」)だけだった。世界的組織は貴重だけど、人々を直接把握できない。NPOやヴォランティアも大切だが、全員を対象に出来ない。「特定給付金」とか「持続化給付金」などの「対策」(または「無策」)に関わるのも国家だけだ。国家を運営する「行政」は、選挙を通して国民が(タテマエ上は)成立させる。それはつまり我々は「国家」に包摂されていて、抜けられないということでもある。

 国家を超える規模を持つ「多国籍企業」、特に「GAFA」と呼ばれるアメリカの大企業の問題も考えないといけないんだけど、長くなるしテーマが拡散するので別に機会にしたい。今回の問題で僕が一番考えさせられたのは、やはりまだ「国民国家の時代」だったんだということである。インターネットだの、多国籍企業だの、何だか21世紀は国家を超えていたように思わないでもなかった。でもイザとなると、国境は閉ざされてしまうのである。
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監視社会か、連帯社会かー「ポストコロナ」世界考①

2020年06月12日 20時43分26秒 |  〃 (新型コロナウイルス問題)
 何回か使ってそろそろ「新型コロナウイルス以後の世界」を考えたいと思う。「アフターコロナ」という言葉もあるようだが、ここでは「ポストコロナ」と呼びたい。パンデミックによって、世界は大きく変わった。いずれ元に戻ってしまうという人もいれば、不可逆的な変化をもたらすという人もいる。そう簡単に二者択一にはならないだろう。新たに現れて定着するものもあれば、いつの間にか元に戻るものもあるだろう。ウイルス危機を乗り越えられず、ひっそりと消え去ってしまうものも多いに違いない。

 「ポストコロナ」で検索すると、下の画像が見つかった。なんだろうと思ったら、立憲民主党だった。「ポストコロナ社会の理念」と銘打って、「支え合いの重要性」「自己責任論の限界」「再分配の必要性」と三つの論点をあげている。僕が今まで書いてきたこととつながる面が多い。反対する気は全然ないけど、というか方向性としては大賛成なんだけど、こういう方向に世界は変わるのだろうか。

 「三密」を避けろと言われたときに、もっと深く考えてみるべきだった。ウイルスはもともと動物から人間に感染したが、ウイルス自体は自分では動けない。中には蚊やネズミが媒介する感染症もあるが、新型コロナウイルスは人から人へしか感染が広がらない。「密」に接触してもウイルスが「自然発生」するわけじゃない。感染していない人どうしが濃密に接触しても、感染はしない。要するに「密」を避けろというのは、「誰が感染しているか判らない」から「人を見たら感染者と思え」ということだ。他人には誰が感染しているか判りようがないから、「全員と距離を取れ」ということである。

 2月頃から日本での感染例が報告され始めた。特に当初はクルーズ船ダイヤモンド・プリンセス号が大きく報道されていた。下船した客が千葉県のホテルに一時滞在していた時に、ホテル前の海岸に激励のメッセージを書く人が現れたことがあった。日本でも当初は「連帯」のムードが強かったのである。この世界的苦難を共に頑張って乗りきろうという気持ちがあふれていた。しかし、3月以後感染者数が増えていくと、次第に変わっていったように思う。増えたといっても、日本国内では欧米に比べて感染者も死者も少なかった。最近の抗体検査でも思った以上に感染者は少なかった。

 外国の感染爆発ニュースが大きく報道される日々に、日本では現実の感染者は少なかった。感染者が一番多い東京に住んでいても、身近なところに感染者がいた人はほとんどいなかった。自分も一人も知らない。もちろん報道された芸能人などは何人か知っているが、個人的な知り合いは誰もいない。この「感染者数が少なかったこと」が、「感染者や家族への差別視」を生んだ。ごく一部だからこそ、「感染者ではない証明」が難しい。ほとんどの人は感染していないにも関わらず、厳しい感染予防策を求められた。もちろん「誰が感染者か判らない」のは事実だから、皆が従わざるを得ない。

 「他人事」だったときと違って、「皆が感染者である可能性」が生まれたときに、「監視社会」が進む。感染者がごく一部であるからこそ、「監視」が厳しくなる。もしもっと多くの感染者、死者が出ていたら、社会の雰囲気は違っていただろう。「誰もに感染可能性がある」のだから、「寛容」な雰囲気が生まれたと思う。感染者が現実には少なかったことから、「不注意で感染し、周囲に感染を広げた責任がある」とみなされた。合理的な感染リスクを超えて、「逸脱」行動には激しいバッシングが寄せられたのだ。
(中国の「監視」システム)
 今は公的な施設では、入場に体温測定やマスク着用が必須になっている。学校では今まで当たり前に行われてきた多くの学習が出来なくなっている。今後もしばらくは「監視社会化」が進行すると思う。「感染リスクがある」と主張されると、反論は難しい。韓国の「K防疫」は「成功」とされたが、スマホアプリを駆使した「個人情報監視」と思える。日韓対立を背景にしてか、日本では「反安倍政権」的左派が評価し、「安倍支持」の右派が感情的に反発していた。

 今後日本でも「監視」技術整備が進むと、この「ねじれ」は解消されるのだろうか。僕には心配の方が多い。「異常時対応」が「常態化」して、「監視社会になれてしまう」のではないか。今では街に「防犯カメラ」(という名前の監視カメラ)にあることが当たり前になってしまったように。世界のどこでも「少数派排除」という問題はあると思う。だが特に日本では「集団同調圧力」が強い。

 今後の日本社会では、「感染リスク防止」の名の下に同じような行動が出来ない高齢者や障害者への排除、危険視が進むのは間違いないと思っている。もちろん、日本社会を「連帯」の方向に変えていくこと、「自己責任」から「支え合い」へという旗を高く掲げることは大切だ。今後も折に触れて発信したいと思うが、冷静に判断するならば今後の世界は「監視社会化」の方向ではないかと認識している。
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