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尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

神保町ぶらぶら散歩②-古書店やカレー屋など

2013年11月03日 00時49分05秒 | 東京関東散歩
 神田古本まつり神田カレーグランプリを開催中の神保町界隈。元勤務校の文化祭から回ろうかと思ってたけど、雨が降ってきたから止めた。だから最新の写真はないが、続きを書いてしまう。「ぶらぶら散歩」と題したけど、神保町の散歩は他の地域と違う。神保町の街並みそのものを散策する人は普通いないと思う。要するに、新刊書店や古本屋をめぐるのが主眼であって、それは「散歩」というより本の「ショッピング」だろう。本屋へ行っても、手に取る本のほとんどは買わないものである。だから「ウィンドウ・ショッピング」に似てるけど、古本屋街だと「古本屋散歩」という方が似合っている。

 さて古本屋だけど、この地域には180店くらいあるという。神保町交差点を交点とするX軸の靖国通り沿いにズラッと並んでる。Y軸の白山通り沿い、水道橋駅付近にもあるけど、一番多いのは靖国通りである。X軸をマイナス方向にしばらく歩くと、矢口書店がある。ここは映画、演劇関係書の専門店で、シナリオや昔の映画雑誌も豊富。自分の趣味から時たま行くが、外見でもここが一番面白いと思う。角にあるけど、すごく古い感じがいい。昭和3年に建てられたものだという。
  
 X軸のプラス方向、書泉グランデの隣が小宮山書店。ここも角にあるが、細長いビル。内外の小説が多く、よくここで買ったが、今は美術書やポスターなどが多い。4階には三島由紀夫関連文献が展示されている。横尾忠則のポスターとか海外のファッション関係など、見てるだけでも楽しい。買うというより、ミニ美術館みたいな感じ。駿河台下交差点を御茶ノ水駅に向かうすぐのところに、「文庫川村」という古本屋がある。これは全部文庫本だけというところ。その他、ぶらぶら写真を撮りながら。
   
 いっぱい撮ったけど、あまり意味がないので省略。それより岩波ホール(神保町交差点の第3象限側)の裏の方に不思議な建物を見つけた。ビルの一角に突然古いビルがある。何だろうと思い近づくと「日本タイ協会」とある。ホームページがあり住所はあってるけど、建物の情報はない。
 
 一方、新刊書店も並んでる。東京の大型書店は、昔は新宿の紀伊國屋、日本橋の丸善以外は、神保町の三省堂東京堂と書泉グランデ書泉ブックマートぐらいしかなかった。(ちなみに今や書泉はアニメイトに買収されている。ブックマートは「ラノベ館」になり、長いこと入ってない。)やがて、八重洲ブックセンターが出来、大阪の旭屋、神戸のジュンク堂(淳久堂)が進出してきたが、長いこと新刊書が一番そろっているのが神保町一帯だった。東京堂は最近改装され、「東京堂カフェ」が出来て軽く食べることも可能になった。これは利用価値が高い。専門書店では、何といってもすずらん通りに内山書店がある。魯迅の知人として有名な内山完造が上海に開いたのが始まり。岩波直営の岩波ブックセンターも、時々行く。岩波書店の本だけでなく、学術雑誌などがあるので。
  
 最近は神保町もチェーン店が多くなったけど、まだまだ独自の店が多い。特に、昔風の「喫茶店」が多いことで知られ、「さぼうる」とか「ラドリオ」とか超有名店がある。第4象限の地下鉄駅入り口付近である。「さぼうる」のナポリタンが有名だけど、それは「さぼうる2」しかないので注意。でも異常に積み上げてあって、本音を言うと食べにくい。それに「昔の喫茶店」は喫煙OKと同義で、煙いったらない。映画やテレビに出てるし、一度は行く価値があると思うけど。ちなみに「サボウル」はスペイン語で「味」だという。中華では、すずらん通りの餃子専門店「スヰートポーヅ」が有名だけど、まだ入ってない。同じくすずらん通りの「揚子江菜館」は美味しい。
    
 でも、やはり最近はカレー屋ということになるだろう。僕が好きなのは、「スマトラカレー」を名乗る共栄堂で、とにかく他では味わえない不思議な魅力がある。好き嫌いが分かれると思うが、スパイシーで辛いと思う前に苦甘いような独自の風味がお気に入り。「マンダラ」は、カレーというより美味しいインド料理屋が出来たと評判になった。そういう店の走りの一つだと思う。そういうお店がいっぱい出来たからずいぶん行ってない。でも、神保町のカレーと言えば、「欧風カレー」なのかなと思う。靖国通りをマイナス方向に行ったところの「古書センター」ビルの2階に「ボンディ」がある。裏からしか入れず、どこにあるか行きつけないお店。小川町店もあるけど、実は本店はそこ。ここはカレーが出る前に、なぜかポテトが出る。要するに「じゃがバター」。それが欧風カレーの常識になってしまうほど、これが流行った。何でポテトを食べるか、僕には不思議だけど。で、味はコクのある濃厚なソースで、おいしいけど好き嫌いはあるだろう。他にもタイ風とか新世界菜館で出す中華風もあるらしい。他に有名店はいっぱいあるが、「エチオピア」はポテトを出すが、インド風というか独自風。第1象限の水道橋駅に近い裏、探しにくいところにある「まんてん」が「安くてうまい」と最近は知名度が上がってきたらしい。地元の人や学生が知ってる美味しい店。行ったことがないけど。
 
 この地域にあるけど、まだ行ったことがないところもある。救世軍の本部とか。本屋と食べもの屋ばかり書いたけど、この30年ほど大体2カ月に一度くらいは岩波ホールに行った。数年前に三省堂の裏あたりに、神保町シアターができた。10月に鈴木清順特集で通ったから、このブログにはよく出てくる。三省堂花月劇場が上にある。こんなところ。映画で行くことも多い街。
 
 ところで、前に写真を載せたニコライ堂や周辺が10月中旬にライトアップされた時がある。その時に載せられなかったので、ここで数枚。
   
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神保町ぶらぶら散歩①

2013年10月31日 00時32分39秒 | 東京関東散歩
 神田神保町あたりを本屋や映画の合間にぶらぶら散歩。その写真がたまっているので、そろそろまとめたい。この地域は、世界最大の古書店街でとにかく古本屋が多い。他にも新刊書店、出版社、カレー屋、スポーツ用品店なども集中している。元は大学も集中し、「日本のカルチエラタン」などと言われ、60年代末期にはいつも催涙弾の匂いが充満していた。今も明大、専修大、日大などがあるし、駿台予備校や大原簿記学校などもある。この地域の案内サイトとしては「神保町へ行こう」があり、役に立つ。ちょうど秋の文化の日あたりに毎年神田古本まつりを行っている。今が一番神保町散歩にふさわしい季節だろう。

 さて神保町(じんぼうちょう)というのは、元は神田周辺の地名の一つで、旗本神保氏の屋敷があったからだという。関東大震災以後にだんだん東京が整備されていき、白山通りと靖国通りの交差点に「神保町交差点」の名が付いた。今は地下鉄が3線も通っているが、1972年に都営地下鉄三田線が開通するまでは、駅から遠くて行きにくい場所だった。靖国通りをX軸、白山通りをY軸とすると、交点が神保町交差点。++(御茶ノ水駅から明大)を第1象限、反時計回りに第2、第3とし、三省堂や書泉など大書店があるところを第4象限として書くことにする。

 神保町の奥、第4象限の下の方に学士会館がある。最近は「半沢直樹」のロケが行われたとかで知られるようだが、ここがどういう場所か知ってる人は少ないだろう。僕も今回調べて知ったのだが、旧帝大の同窓会的な組織で、東大、京大以下、京城、台北を含む9帝大卒業生以外には関係ない場所だった。ここに何で学士会館があるかというと、「東京大学発祥の地」という由来があるのである。1877年のことで、その後今の本郷に移転するのである。また、ここで初めて野球が伝えられたので、「日本野球発祥の地」でもある。真ん中の写真が学士会館。
  
 ところでそこで足を止めずに裏の方に回ると、「新島襄生誕の地」という碑もあった。上州安中藩の藩士の家に生まれた新島は、安中藩屋敷だったここで生まれたというのである。これは知らなかった。今年大河ドラマで取り上げられているが、神保町に生誕地の碑があることは知らない人が多いだろう。ところで学士会館の真ん前が共立講堂。共立女子大の講堂だけど、戦前戦後に忘れられないコンサートがいっぱいあった場所。今は外部貸出をしていないので知らない人も多いだろうけど、最近では2009年にアリスが再結成コンサートを特別に認められて行ったという。かぐや姫、グレープ、ガロなどの解散コンサートが行われた場所で、「フォークの聖地」と言われた。しかし、もっと前は日比谷公会堂とここしか大きな公会堂がなく、クラシックでも有名。1940年に最初のコンサートを行ったのは、古賀政男が指揮する明大マンドリンクラブだったという。今は外見を見ることだけしかできない。
  
 特にX軸に集中している古本屋街は次に回し、史跡関係を先に見ると、第1象限の明大裏の方にお茶の水小学校がある。もとの錦華小のところに統廃合されてできた学校である。この錦華小夏目漱石の母校で、「吾輩は猫である」という碑がある。また水道橋の方に歩いて、第2象限に入ると神保町愛全公園というところがあり、「周恩来ここに学ぶ」という碑がある。中華人民共和国の首相を建国から死去までずっと務めていた人物である。劉少奇、小平、林彪などが相次いで失脚していく中で、最後まで首相を務めたのである。周恩来が通ったとして有名なゆかりの店が「漢陽楼」で、ホームページに周恩来の写真が載っている。肉団子スープが好物だったという。僕は入ったことがない店だけど。(場所は駿台下近くで坂を駅から降りてきて、直進して靖国通りを渡る前にカレー屋のエチオピアなんかの手前で曲がる道がある。その道の右手。)
   
 ところでX軸たる靖国通りは、駿河台下交差点(御茶ノ水駅から明大通りを下ったところ)から南にぐっと曲がっている。歩いているとあまり感じないのだが、地図を見ると一目瞭然である。これは駿河台の元々の地形に沿ったもので、山を避けて道を作った証だという。そのことは竹内正浩地図と親しむ東京歴史散歩」(中公新書)で知った。この本はとても面白い。その本によれば、江戸時代から「すずらん通り」、つまり三省堂の裏の通りだけど、今は裏通りという感じになってるけど、こっちが元は「表神保小路」だったのだという。靖国通りの方が裏だったけど、震災後の道路拡張工事で逆転したわけ。そういう歴史を神保町も持っているわけである。
 
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飛鳥山散歩と渋沢栄一

2013年08月25日 23時20分21秒 | 東京関東散歩
 東京都北区の王子駅前にある飛鳥山(あすかやま)は、江戸時代から桜の名所として知られてきた所だけど、僕は行ったことがなかった。自分の家からは、もっと桜がいっぱいの上野公園や隅田公園が近かったからである。でも、そこには戦前に渋沢栄一の邸宅があり、タゴールや蒋介石も訪れた場所だった。空襲でほとんど焼けたが、小さな建物が2つほど残り、国の重要文化財に指定されている。近代の重文建築は、東京では非常に貴重なので是非一度訪れたいと思っていた。今日は暑くなくて散歩日和だから…ではなく、栄一の孫の渋沢敬三の誕生日で無料なので、行ってみることにした。(ま、300円なんですけど。)重文の建物は、青淵文庫(せいえんぶんこ)と晩香慮(ばんこうろ)。こんな感じ。
 

 で、僕の家からはいろいろな行き方がある。でも、まあ都電でしょ、やっぱり。唯一の都電(東京の路面電車ですね)、荒川線は三ノ輪橋-早稲田間を結んでいる。早稲田や三ノ輪はまた別に散歩記を書きたいんだけど、今日は「貸切都電」というのが停まっていたので、写真をちょっと。三ノ輪橋停留場は、オロナミンCやボンカレーのホーロー看板が今も残っている不思議な場所である。広告の顔が誰か、もう知らない人が多いかもしれない。(大村崑と松山容子)
   
 さて、都電は王子を過ぎるところ(というか早稲田から来れば手前)に大カーブがあり、これが有名。つい飛鳥山まで乗ってしまったが、飛鳥山ではなくて王子の方が良かった。歩いて戻る。というのも、もう一つ乗りたいものがある。ケーブルカーみたいなモノレール、あすかパークレールという無料の乗り物が2009年に出来たのである。飛鳥山はこんなものがなくても登れるけど、まあタダだし。たった2分で山頂へ。他の客はいない。前を見てると、山の観光地に来た感じもちょっとする。
  
 山頂駅まであっという間で、後は水平の道をずっと歩いて行く。碑がいろいろある。まず1881年に建てられた、幕末の佐久間象山が詠んだ桜賦の詩碑。もう少し行くと、飛鳥山の碑。1737年というずいぶん昔のもので、飛鳥山に将軍吉宗が桜を植えて整備したなどと書いてあるらしい。けれど、江戸時代から漢文が難し過ぎて花見の庶民にはチンプンカンプンの碑として有名だったということである。北区のサイトに細かな解説がある。園内はちょっとした山の風情。
  

 もう公園の終わりの方に三つの博物館エリアがある。「紙の博物館」「北区飛鳥山博物館」「渋沢資料館」である。何で「紙の博物館」がここにあるかというと、王子製紙があったからである。明治初期に渋沢栄一が作った。東京西部の玉川用水を、さらに練馬、板橋から王子まで引いた千川用水といううのがあったのである。それを利用して、抄紙会社(後の王子製紙)や大蔵省紙幣寮抄紙局(今の印刷局滝野川工場)が作られた。しかし王子工場は空襲でほぼ壊滅、唯一残った建物を「紙の博物館」にしたのが、今は飛鳥山に移ったという歴史がある。王子製紙という会社は知ってるけど、今の王子には工場もビルもないから、今まで全然意識しなかった。
 
 さて、渋沢資料館。(上の写真。右は資料館2階入り口の渋沢像。)ここはとても面白い博物館だった。僕はほとんど全然渋沢栄一(1840~1931)を知らないので、とても感心してしまった。幕末にパリの万博に派遣された話も面白いが、何と言っても日本初の銀行はじめ、無数の会社を作った人なのである。数字が付いてる銀行が今もあちこちにあるが、「第一銀行」(今の「みずほ」)は渋沢である。他にあげてみると、先の王子製紙、さらに東京ガス、東京海上火災、秩父セメント、帝国ホテル、サッポロビール、東洋紡績、帝国劇場など、非常に多彩。その分野で日本初の会社というのが多い。しかも、それらで得た利益は社会事業や教育につぎ込んでいる。商業教育や女子教育、社会福祉や国際協調などに活躍してるんだから、すごく「進歩的」である。会社経営を引退しても、福祉や教育は引退していない。90歳近くになってから日本女子大校長、中央盲人会会長、癩予防協会会頭などを引き受けている。日米親善のため人形を送るというのも渋沢栄一の活動。大正、昭和初期の古稀(70歳)を過ぎた老人が、驚くほど若々しく、未来を考えている。いやあ、これはすごい人ですね。

 栄一の孫、渋沢敬三(上のチラシの人)が後継者となるが、彼は会社経営から、日銀総裁や大蔵大臣を務めた。さらに柳田國男に師事した民俗学者として著名で、ぼう大な民俗資料を収集し、著述も多い。今は民俗学の巨人として多くの人を育てたことが最大の業績として有名だろう。そういう後継者を育てたということこそ、渋沢栄一の特徴かもしれない。敬三の没後50年ということで、今は敬三の号、祭魚洞(さいぎょどう)にちなんだ「祭魚洞祭」という企画を行っている。連続講座もあるし、また無料日もあるので、くわしくはホームページで。

 さて、近くに重文の建物があり、資料館開館時はそちらも見られる。どっちも小さな建物で、東京に残る洋館、旧岩崎邸や旧前田邸などを期待するとガッカリするが、細部までこだわった美しい建築に小さいながら満足できる。まず、晩香慮(ばんこうろ)だが、1917年に栄一喜寿を祝って現在の清水建設が贈ったという、1階しかない小さな建物だが、談話室に当時の面影が残る。中は写真が撮れないので、外だけ。中の様子は貰ったパンフを載せておく。
 
 一方、青淵文庫は1925年に、傘寿(80歳)と子爵になった記念(それまで男爵、ちなみに財閥当主は男爵止まりに対し、社会活動が認められ渋沢栄一だけ子爵に栄進できたらしい)で贈られたもの。「文庫」というのは、もともと徳川慶喜伝を作るための資料や栄一の思想的バックボーンの「論語」関係書籍を収めることを目的にしたから。でも本は関東大震災で焼けてしまい、もっと早く出来ていれば良かったと残念に思ったという。ここは2階があるが見られない。内部はフラッシュなしなら写真も可。ここも細部が素晴らしい建物で、とても気持ちがいい場所である。裏から見ても素晴らしい。この2つだけでも残ったのが、大変貴重である。とても大事な場所だと思うが、東京でも知らない人が結構多いのではないか。一度は是非。
   
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わが生誕地と明大周辺-御茶ノ水散歩②

2013年06月30日 01時02分15秒 | 東京関東散歩
 御茶の水は、わが「生誕地」なのである。と言っても浜田病院なんだけど。御茶の水橋口を出てスクランブル交差点を渡り水道橋方面に歩き、駿台予備校の真ん前。浜田病院というのは東京でも有名な産婦人科らしい。昔は古い建物だったけど、今は巨大ビルの中になった。僕はその真ん前の駿台予備校の校舎に一年間通っていた。授業に出ないで近くのアテネ・フランセに映画を見に行った時もあるけど。写真のビルの4階までが病院。
 
 お茶の水あたりは本を買いに行くために来た町である。昔はネット書店もなく、あちこちに大書店があるわけでもなかった。神保町あたりか、新宿の紀伊国屋くらいしかなかったのである。本を探そうと思ったら、古書店街も集中している神保町近辺に来ることになるのは当然。今は神保町に地下鉄が3線も通っているけど、最初に地下鉄三田線が出来たのが1972年である。それもわが家からは使いにくいので、結局御茶ノ水から行くしかなかったのである。神保町近辺の本屋とカレー屋はまた別に書くとして、今回は駅から明治大学周辺を。お茶の水橋口から明大通りを行くと、まず目に入るのは楽器店の並び。小沢昭一は「ハーモニカブルース」で、「明治大学の周りの道具屋を探したんだ 明治はハーモニカバンドで有名だったんだ うまいところに目を付けたもんだ…」と歌っている。もちろん今はエレキギターがたくさん並んでいて、金管楽器やヴァイオリンもある。
  
 少し行くと明治大学である。ここには無料の明治大学博物館がある。アカデミーコモンの地下にあり、中に入ってエスカレーターで降りる。
   
 昔、刑事博物館に集められていた拷問用具やギロチンなんか(もちろん小さくしたレプリカである)がここにまとめられている。展示は商品、刑事、考古の3部門に分かれていて、有名な刑事部門には、日本の十手やヨーロッパの「鉄の処女」などがある。人権発達の裏の歴史を一度見ておく必要もあるだろう。興味本位だけではなく。写真も撮れそうなんだけど、まあ実際に見てもらう方がいいから、撮らなかった。考古部門では有名な岩宿遺跡の旧石器など、明大が発掘してきた貴重な遺物が展示されている。僕は中学生の時に「岩宿の発見」を読んで感激し、そこに出てくる明大の芹沢教授の名前を覚えた。一時は考古学者になりたかったものである。大学史の展示も常設されている。これは大事なことだと思う。ここは生徒と一緒に見学に来た場所。
  
 博物館のある地下1階に、2011年に「阿久悠記念館」ができた。明大出身で、作詞家、小説家として活躍した阿久悠は2007年に亡くなり遺品が寄贈された。レコードジャケットが外の壁に並んでいるが、「北の国から」「UFO」「また逢う日まで」「津軽海峡冬景色」「舟唄」などなど。他にもあれもこれも作っていたのである。「宇宙戦艦ヤマト」とか「ざんげの値打ちもない」とか「もしもピアノが弾けたなら」とかとか。
  
 このあたりは、明大と駿台予備校ばかりという感じだけど、ちょっと裏に入ったところに、明大の米澤嘉博記念図書館というマンガ図書館が出来た。「コミケ」で有名な米澤氏が2006年に亡くなり、マンガやサブカルチャ―関連の資料が明大に寄贈された。明大は国際マンガ図書館も建設予定で、世界に冠たる日本のマンガ研究は明大が中心になるのか。場所が少し難しいし、火水木が休館だけど、会員になればマンガを借り出せるという図書館である。

 明大の角を水道橋方向に曲がっていくと、マロニエの並木道が続いていて、その中に絵の材料を売ってる喫茶店「レモン」が生き残っている。ガロの「学生街の喫茶店」のモデルだと言われることもあるが、それは違うらしい。でもムードのあるお店であるのは間違いない。この辺はパリの一角みたいな感じがちょっとする。
  
 少し行くと文化学院。文化学院という学校も、大正自由教育の名残りをとどめる不思議な場所。
   
 明大から下って行くと、右手に山の上ホテルがある。よく作家が缶詰になって原稿を書いていたという場所だけど、僕は入ったことがない。食事や会合にも使えるんだろうけど、なんだか敷居が高い。ましてや泊ることなどなかろうかと思う。でもここは御茶ノ水周辺の有名な場所では落とせないところなんだろうと思う。聖橋を下った方には、龍名館という和風旅館もある。
 
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ニコライ堂と湯島聖堂-御茶ノ水散歩①

2013年06月29日 00時55分28秒 | 東京関東散歩
 東京散歩シリーズ、御茶ノ水駅周辺の第1回。今まで東京駅や池袋西口を書いたけど、今回のお茶の水も僕にはとても印象深い街だ。今書き分けたように、駅名は「御茶ノ水」で、地名は「お茶の水」だという。元は湯島の高台と駿河台は同じで、江戸時代に神田川を通して江戸城外濠とするとともに、日本橋に引く上水とした。だから隣の駅が水道橋。御茶ノ水駅周辺は、深い峡谷風の景観になってるけど、これがあの「神田川」の一部なのである。ここら辺には、いろいろなものが集中している。大学や予備校、病院、書店、古書店、楽器店、スポーツ用品店、カレーショップ…東京でもとても個性的な街と言える。

 そんな中でも、御茶ノ水駅の真上を通る「聖橋」(ひじりはし)の由来となった、2つの聖堂はもっとも見所が多い場所だと思う。特にニコライ堂。僕と御茶ノ水の関わりは次回に書くが、小学生時代から御茶ノ水周辺に来てた。学生運動を弾圧した催涙弾の匂いに満ちていた、そんな時代にも、時代を超越したニコライ堂の雄姿に感激したものである。単に御茶ノ水だけでなく、東京を代表する宗教建築物だと思う。

 僕が御茶ノ水によく来たのは、東京メトロ千代田線が出来て、自分の家から行きやすかったからである。その新御茶ノ水駅からJR(国鉄)に出るエレベーターは、子供にとっては信じられないほど深く長いもので、最初は怖かった。その出口のところが最近少し変わった。聖橋際の日立本社跡に開発された「お茶の水ソラシティ」が4月に開業、地下鉄駅と直結した。エレベーターで昇って外へ出ると、ニコライ堂の偉容が目に入る。前庭にちょっと高くなっている部分があり、名前はないが「ニコライ堂展望台」という感じ。
 
 近づいて行くと、ビザンチン様式の美しい建物が様々に見えてくる。ここは公開していることは知ってたけど、時間が合わなくて今まで入ったことはなかった。1時から4時(10月~3月は3時半)に300円を払えば、見学できる。ただし、写真は撮れないので、ここに載せることはできない。案内とローソクをくれて、灯をともして静かに瞑想していれば、ここは東京でもとても心落ち着く空間だと言える。
  
 さっきから「ニコライ堂」と通称を書いているけど、本当の名前は「東京復活大聖堂」で、ニコライは幕末から明治時代に、日本に正教会を伝え、この聖堂を建てたロシアの司祭。重要文化財指定で、日本にある最も美しい宗教建築のひとつだろう。1891年に建造、関東大震災でドームが崩壊したが、6年の歳月をかけ復興したという。正教会に全世界を統括するローマ教皇にあたる人はいなくて、ここが「日本正教会」の本山となっている。だから教会に上にある聖画にも日本語が書かれている。
   
 とにかく写真映えするのでいっぱい撮ってしまったので、まあ載せておきたい。近くもいいけど、聖橋の向こう、湯島聖堂のあたりから駅越しに見るのもとてもいい。
   

 さて、もう一つの聖堂が、湯島聖堂史跡に指定されている。日本史の教科書に必ず出ている、徳川綱吉将軍が建てた日本の儒学の総本山と言える場所。ただし、関東大震災で焼失し、現在の建物は1935年に再建され、戦後に補修されたものである。それにしても、江戸時代以来の湯島聖堂が今も生きて活動し、儒学を講じているというのにはビックリである。漢文検定も行い、学力向上の鉛筆なんかも売っている。近くの神田明神などと協力して「イジメを考える」という講演も8月3日にある。ここは今も生きて活動しているのである。でも、僕はそのことは最近まで知らなかった。入ったこともなかった。駅からすぐそばだから、歴史ファンは必ず行くべき場所だ。
   
 聖橋の上から右下に見えてくる緑の場所がそれで、橋を渡ると階段がある。そこから入ると「入徳門」があり、これは震災で焼けずに創建当時(1704年)のものだそうだ。門をくぐり、正面に大成殿がある。一番大きい建物で、お寺の本堂という感じ。少し行くと、孔子像がある。
   
 そこから回って正面に出ると、聖堂を管理する斯文会の建物。購買もある。でもコンクリの建物で、全体として建造物の文化財としての美しさはニコライ堂に及ばないのが残念である。
  

 さて、両者を結ぶ「聖橋」。それ自体が震災復興で1927年に作られたアーチ型の美しい橋だ。駅からも見えるけど、あまり普段は意識しない。でも都市景観として、非常に素晴らしいものではないか。また鉄道ファンにはよく知られていると思うが、聖橋から見ると、地下鉄丸ノ内線、JR中央線、JR総武線の線路が3層になっている。なかなか三つが上下で電車がそろう瞬間に会うのは難しいと思うけど。でも、この景観はとても面白く、飽きない。情報を調べて行こうとも思わないけど、時々見たくなる東京風景である。2回目はお茶の水橋から明大付近。
     
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池袋西口散策②-明日館と東京芸術劇場

2013年05月26日 23時26分00秒 | 東京関東散歩
 池袋西口にある一番ステキな建物は、何と言っても自由学園明日館(みょうにちかん)だろう。今は明治村にある帝国ホテル旧館で有名な世界的建築家、フランク・ロイド・ライトの設計である。重要文化財に指定されたが、今も現役で使われている。(だから結婚式などで非公開の日があるので、見に行く人はホームページで要確認。外観はいつでも見られるが。)東京は国宝の社寺は一つしかないが、近代建築の重要文化財は結構多い。それらは22世紀になれば国宝だろう。(迎賓館はすでに国宝に指定されている。また東村山市の正福寺地蔵堂という国宝があり、前にブログに見に行った記事を書いた。貴重な寺院建築なのだろうが一般的知名度は低い。)
    
 池袋駅の南改札を出てメトロポリタンプラザを上ると、あちこちに案内がある。案内に沿って進むと迷わないで行けるはず。ここは羽仁吉一、もと子夫妻が1921年に開設した自由学園の校舎である。ライトは夫妻の教育理念に共鳴して設計したという。大正自由教育のムードを今に遺す貴重な建築物である。その後学園は東久留米に移り、ここは卒業生の事業活動に利用されていたというが、重文指定を受け修復工事をして今は公開しながら利用されている。建物の内外をいくつか。
   
 明日館の隣に「婦人之友社」がある。羽仁夫妻が1902年に発行した雑誌「婦人之友」は、今も発行されている。26日で終わったけど、「婦人之友」と姉妹雑誌「子供之友」の表紙などの原画展色彩のパレード」が明日館で開かれていた。これは素晴らしい展覧会だった。洋画、日本画問わず近代日本美術史そのものとも言えるラインナップに圧倒される。安井曽太郎、平福百穂、藤田嗣治、堂本印象、奥村土牛、福田平八郎、山本丘人、山本鼎、竹久夢二、福田一郎、三岸節子、片岡球子…メモしてないのでたくさん落としていると思うけど、すごいリストである。表紙の原画だから小品ばかりだけど、素晴らしい作品ぞろい。
 
 戦前の池袋には「池袋モンパルナス」と言われるくらい画家がたくさん住んでいたというが、空襲でアトリエが焼けてしまった。僕の学生時代には西武デパートの上に「西武美術館」(後、セゾン美術館)があり、幅広く展覧会をやっていた。同じ階にアート系の本やレコードを集めた「アール・ヴィヴァン」というお店がありよく行っていた。その後東武美術館もでき、20世紀末には池袋がデパート美術館の中心地だったのである。最近になって、行政も乗り出し美術の町をPRしているのにも歴史的な理由がある。
 
 池袋周辺に今あるのは「豊島区立熊谷守一美術館」。熊谷守一(くまがい・もりかず 1880~1977)という人は、文化勲章の内示を断ってしまったという位の無欲、脱俗の画家として有名である。若い時はフォービズム的な絵を描いていたが、晩年になると虫や猫ばかり描いている。不思議な画家であり、不思議な画風である。亡くなるまで住んだ場所に設立され、2007年に豊島区に作品を寄贈して区立になった。歩くとちょっと遠いが、地下鉄有楽町線要町で降りて、要小学校の先を曲がり案内に沿って行く。最後の写真の蟻は外壁にある。なお、劇団民藝が6月に「無欲の人ー熊谷守一物語」を上演。
   
 いま池袋西口を一番代表する場所は「東京芸術劇場」とその前に広がる「池袋西口公園」かもしれない。西口公園は石田衣良の「池袋ウェストゲートパーク」(IWGP)のモデルの場所。この一帯は戦後は闇市だった場所らしいが、だんだん整備されていった。公園が1970年、ホテルメトロポリタンが1985年、東京芸術劇場が1990年に開設された。芸劇は2009年から野田秀樹が芸術監督をしている。
   
 ここは僕にとっても思い出の場所。自分でも何度も演劇を見たが、それより生徒と来た思い出が深い。六本木高校の演劇部が「六本木少女地獄」で都大会に出た時の思い出は今も鮮烈。また荒商時代の演劇部を連れて、招待されたミュージカルを見に来たこともあった。でも一番は夜間定時制にいた時の音楽鑑賞教室。毎年来ていたけど、クラシックのコンサート最中に写真を撮りまくる高齢の生徒にビックリ。ここの5階にギャラリーがある。演劇や音楽ばかり印象にあるのだが、絵の展覧会もやっている。今、ここで「池袋モンパルナス-歯ぎしりのユートピア」を開催している。これはとても面白かった。「歯ぎしり」という表現も面白い。5階の空間も興味深いし、上から眺めるのも面白い。休憩する空間も多いので、利用しがいがある。
  
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池袋西口散策①-立教周辺

2013年05月25日 22時52分22秒 | 東京関東散歩
 僕はたぶん、JRの駅では山手線池袋駅を一番利用していると思う。特に学生時代はほぼ毎日使ったし、今も週に2回は通る。その間にも映画館の文芸坐にかなり行ってるから、総計すると相当の数となるはずだ。(まあ一番使ってた時代は「JR」ではなかったが。)その池袋の西口周辺には戦前に画家のアトリエが集中し、「池袋モンパルナス」とも呼ばれたという。もっともその時分は、まだ準農村というような地域だったろう。その歴史を生かし、今も池袋西口では「新池袋モンパルナス西口まちかど回遊美術館」という催しを行っている。少し行ってみたけど、こんなにギャラリーが多かったのかとビックリ。

 そこで2回にわたって池袋西口周辺の散歩と思い出を書いてみたい。これは最近チョコチョコ散歩したまとめ。まずは立教大学周辺。長らく池袋西口と言えば立教大学のある地域だった。(今は東京芸術劇場かもしれない。)ここが僕の母校で、何十年も前のことだから、事前見学をしたわけでもなく、自己推薦とかAO入試とか意味不明の入試制度もなかった。浪人した年に難易度ランキングにそって幾つか入学試験を受けたところ、結局2校合格したが立教にした。結果的には、僕の人生を左右したことの一つなのだと思う。卒業後も何度か大きなクリスマスツリーを見に来たことがある。やはり心の落ち着く拠り所みたいな感じがする。

 立教の校舎のいくつかは、東京都選定の歴史的建造物に指定されている。いわゆる「蔦の絡まるチャペル」があるような落ち着いたレンガ作りである。(「学生時代」の歌は青山学院がモデルだけど。)門から本館のヒマラヤ杉もいいけど、そこを過ぎて第一学生食堂を見渡すあたりが特に素晴らしいと思う。学食も歴史的建造物指定で、僕も何度も学生時代に入ったはずだがそんな大切な建物だとは思っていなかった気がする。ここは今はずいぶん美味しそうなメニューになっていて、安くて魅力的である。一般人も入れるらしいが、僕は食べてない。卒業生だから入るだけなら平気だけど、食べるとなると少しためらう感じ。
   
 正門からの風景を最初に載せたかったけど、今は工事中で半分見えない。チャペル(諸聖徒礼拝堂)を直していて、残念ながら全景は見えない。4月当初に行ったときはまだ見えていた。その時の正門からの風景樹齢百年のヒマラヤ杉
  
 門の奥にあるのが本館(モリス館)で、上は時計台。外景もいいけど、廊下や入り口を撮ると白と黒の構図が美しい。学生時代は校舎に美を感じてはいなかったと思うんだけど。
   
 僕にはホンのちょっとしたあちこちの風景も懐かしい。今見ると素晴らしい場所が多かったけど、当時は日常化して意識しなかった。チャペルの脇や掲示板と斜めの木など。
   
 ここまで来たら是非行きたいのが旧江戸川乱歩邸。立教通りの右側を歩いていくと5号館と6号館の角に表示がある。郵便局の斜め前あたりにある。常時公開ではないけど、週2日(水と金)に一部公開している。乱歩は生涯に何十回も引っ越して、ここ西池袋が最後になった。ぼう大な蔵書を納めた蔵があり、ガラス窓越しに一部見られる。今は立教大学大衆文化研究センターに移管され研究を進めている。乱歩と立教の関わりは、単に建物が隣と言うだけでなく、子息の平井隆太郎氏が立教大学の社会学部の教授だったという縁の深さ。講義は聞いていないけど、乱歩の息子が教授にいるというのは有名な話だった。3枚目の写真の奥の黒い建物が蔵である。
   
 立教大学へ行くには、今は地下通路も長く出来ているが、昔は西口を出て道を進んでいった。丸井を過ぎると、道が大きく二つに分かれる。向かいに交番があり、二又交番と昔から呼んでいる。右は地下鉄の有楽町線(副都心線)に沿った通りで、左が立教通り。少し行くと、今でも帽子屋さんが残っている。これは学生街らしい。立教のTシャツなんかが並んでいる。
  
 ところで西口を出て北側へ行くと歓楽街が広がっている。ロマンス通りと言うけど、別にロマンスは生じなかった。映画館も下にあるロサ会館も健在。まあ店は入れ替わってるんだろうけど。ここは先生とよく飲みに来た。近くには落語常打ちの4館の一つ、池袋演芸場が残っている。このあたりの雑然としたムードも、また池袋の特徴でもある。
  
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戦国武将展と土浦散歩

2013年04月25日 21時25分20秒 | 東京関東散歩
 茨城県の土浦市立博物館開館25周年記念で開かれている「婆裟羅たちの武装」展(5月6日まで)が異例の人気を呼んでいるという話である。この基となった「戦国BASARA」というゲーム、アニメがあるというんだけど、それには全く関心がない。新聞記事で知ったという程度の話だけど、戦国武将がゲームで人気になってるくらいは知っていた。それが博物館とコラボで人気になるというのを確かめたいのと、土浦を歩きたい、霞ケ浦を見たいという気持ちで出かけてみた。

 平日で行けそうな日も数少なくなり、昨日は大雨だったけど今朝方は晴れ渡ったので行く気になった。土浦はおよそ2年前に、布川事件の再審無罪判決の時以来。あの時は雨が降っていたし、震災の直後で閉まっていた施設が多かった。お城のあちこちが壊れていて、近づけないようになっていた。早くも2年経ったのか。案外小さな博物館で、非常に充実したというまでの内容ではない感じもあって、戦国時代に関心が薄い人が頑張って土浦まで行く必要があるかどうかはビミョー。とりあえず、1階は刀の展示。2階に各武将のよろいかぶとの展示。エントランスにゲームのキャラクターが飾ってあって、それは撮影可。(中の写真が1階、最後が2階)
  
 土浦藩と言っても大名が誰か、ほとんど知らないと思う。僕も知らなかった。武田家家臣から続く土屋家というのである。もちろんそれ以外の大名もいろいろあるんだけど、1687年以後は幕末まで土屋家の統治である。その時の土屋政直と言う人は綱吉から吉宗までずっと老中を務めたという極めて異例の人物だという。先祖は長篠の戦いや天目山で戦死しているが、やがて子どもが家康に見いだされて徳川譜代の扱いとなるわけである。名家として諸家から贈られた刀などがたくさんあって、それが1階に展示されている。本当は国宝指定の刀もあるけど、それは展示されていない。(市のHPによると毎年秋に公開しているという。)2階はゲームに出てくる武将たちのよろいを勢揃いで展示。こういう手があったのかと他の博物館はしてやられた思いかもしれない。そんなにすごく貴重なものがずらっとあるわけではないのだが、何しろ数が多い。ゲームではロボットだか剣闘士だかという格好をしてるようだが、実際の本当の鎧をそろえているという趣向。まあそれぞれはあちこちのお城なんかでよく見るもので、文化財に指定されているものは少ないのだが。

 本当に女子大生の友人かと思われるような二人組が結構来ている。親子連れも。平日でそうだから連休はさぞやいっぱいになるのではないか。企画のヒットである。スタンプラリーをやっていて、HPでは品切れで終わったとのことだったが、追加でまたやっていた。これも数に限りがあるので、またなくなってしまうかもしれない。町のあちこち(および市内の重要施設等)に武将の名を書いたスタンプが置いてあり、15集めるとクリアファイルをくれる。これで皆街並みを回っている。どれだけお金を落とすかは不明だが。僕も集めてみた。最初がスタンプラリー帳の表紙、集めたスタンプ、クリアファイル(中身が見えないからクリアと言うのはホントはおかしい。)
  
 博物館は城跡にあり、常磐線土浦駅からは少し歩く。土浦城は「亀城」(きじょう)と呼ばれて、今は「亀城公園」になっている。堀に守られた平城で、天守はもともとなかった。櫓が復元されていて、東櫓は登ることができる。城と言えば上り下りで疲れるところが多いけれど、ここはほとんどフラットで小ぶりな公園になっていて、格好の散歩道と言う感じ。お堀はこいのぼりがいっぱいかかっていた。気持ちのいい城跡公園である。(東櫓の写真はいいのがなくて省略。)
   
 亀城公園を抜け、裁判所を過ぎると蔵などが立ち並ぶ歴史の道も近い。スタンプを置いてある店も多く、そのあたりを散策。蔵が多く、案内所や喫茶店に利用されている。前はその一角にある風情のある蕎麦屋(吾妻庵)で食べたけど、今回は大きな通り沿いにあり、よくガイドに出ている天ぷら屋の「ほたて」に入った。別に帆立貝の天ぷらが名物なんではなく、「保立」さん。歴史学者に保立道久さんと言う人がいる。この店は100年以上続いているらしい。(最初はまちかど蔵「大徳」、二つ目の写真が「ほたて」)
 
 近くに由緒のあるお寺なども複数あるようだけど、今回は車で来てるので霞ケ浦総合公園に。そこにある国民宿舎「水郷」は震災で休館してお風呂だけやっている。まだ震災のあとが完全になくなったわけではない。しかし、公園ではオランダ風車の前でチューリップが満開。風車に登れば霞ヶ浦がよく見える。関東の人間にとっても、名前はもちろん知ってるけど、あまり観光で来ることも少ないと思う。少なくとも僕はちゃんと霞ヶ浦を見たことがない。形も複雑だし、電車から見えたり、温泉が湧いてると言うこともないから、なかなか近くに来ない。でも、まあ立派な湖だから、また別の場所で見てみたい。茨城県は東北3県に次いで震災の被害を受けた県だけど、あまり来ることがない。今年は少し茨城の観光をしてみようかなと思っている。
  
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東京駅散歩と木村荘八展

2013年04月08日 00時37分40秒 | 東京関東散歩
 風が強いけど土日が晴れるのは久しぶり。フィルムセンターで映画を見ようと思い、その前に東京駅周辺の歴史散歩散歩。東京駅は去年秋に全面改装が終り完成時のレンガ建築が甦りました。いつ行っても写真を撮る人でいっぱい。スカイツリーに加え、東京駅と新歌舞伎座が出そろい、連休の混雑が今から心配です。でも、東京駅は何度見ても美しく、確かに面白いと思います。

 家からは地下鉄大手町駅の方が近いので、大手町で降りて地上に出ると、「将門の首塚」がすぐそばにあります。この「首塚」は大手町のビル群の中にあって、「動かすと祟りがある」とされて動かせないという伝説があります。そういう恐ろしいパワースポットかと思っていくと、案外そうでもない場所ですね。いつも花が供えられています。周りにカエルがいるのは「筑波のガマ」なんだろうか。立札を見ると、ここは「酒井雅楽守の上屋敷の中庭」だった場所で、伊達騒動の伊達安芸、原田甲斐の殺害されたところとあります。やはり「暗い歴史」がしみ込んだ場所のようです。
  

 そこから少し歩くと東京駅。その間は日本の資本主義の中枢と言うべき大企業の本社ビルが立ち並んでいます。「丸の内仲通り」などは彫刻が置かれて、オシャレなカフェなんかがあります。少し行くと「日本工業倶楽部」。1920年に完成した歴史的建造物でしたが、2003年に南側を保存したうえで立て直されました。歴史を感じる美しい建物ですが、真ん前に観光バスがずっと停まっていて写真に撮りにくい感じです。

 ここまで来るともう東京駅は目の前。写真を撮る人でいっぱいですが、時間帯と天候によっては、逆光だったり陽光が際立ち過ぎたりして、なかなか難しい写真スポットだと思います。しかも、人や車がひっきりなしに通るし、いい場所にはかならず写真を撮る人、ポーズする人がいるということで、難しい場所ですね。後ろのビルをどういう風に入れるかも結構大変。とりあえずいくつかを。
   

 さて、東京駅は近代史の上で非常に重大な事件が起きた場所です。1921年11月4日、原敬首相が東京駅で19歳の少年に暗殺されました。また浜口雄幸首相が、1930年11月14日、東京駅で狙撃され重症を負い、1931年8月に死亡しました。そういう重大な出来事が起きた場所で、記念のプレートもあるのですが、皆全然気にしていない感じ。知っていればすぐ見つかる場所にあるのですが、知らずに探そうと思えば案外見つけにくいかもしれません。

 まず、原敬首相から。場所は丸の内南口の切符売り場のすぐ左。説明のプレートが壁にあって、足元のタイルに銃撃場所を示す印があります。付近の写真を撮ったけど、プレートを見てる人は誰もいない。原は事実上初の政党内閣を「米騒動」後に組織した人で、「平民宰相」と言われました。ただ「政友会」への我田引水というか、「我田引鉄」(支持基盤に鉄道を持ってくる)とまで言われた利益誘導政治に批判があったことも確かでした。足尾鉱毒事件当時の古河鉱業副社長でもあります。生きていれば、西園寺公望に続く「最後の元老」に指名されたと思われ、長い政治生命があれば日本の歴史は少し変わったかもしれないと思います。
   

 続いて、浜口雄幸首相。こちらは駅の中にあります。南口から入り、新幹線中央乗換口に向かい階段を上る手前にあります。左側の柱にプレートがあり、やはり近くのタイルに印があります。浜口首相はロンドン軍縮会議に対して「統帥権干犯」と反発する右翼青年による狙撃でした。重症ながら生命は取り留めましたが長期入院を余儀なくされ、翌年になって退院した後に無理を押して国会に登院して病状を悪化させました。8月に死去。「統帥権干犯」という言葉が一人歩きし、軍部を批判することができない時代が来てしまったきっかけとなる事件でした。
  

 この日本史を変えた事件の詳細は、詳しく記述されている他のホームページもありますから、ここでは詳述しないことにします。案外、この「遭難現場」は知られていないのではないかと思うので、東京駅を訪れた時は是非探して欲しいと思います。さて、中央郵便局が一部を残して立て直された商業施設「KITTE」(キッテ=切手から)が3月21日に完成しました。ここも今は人がいっぱい。6階に屋上庭園があるそうですが、今日は強風のため閉鎖されていました。
 

 東京駅には他にいろいろ見所があります。丸の内南口、北口の天井もきれいな装飾です。また「東京駅ステーションホテル」もあり、泊らなくても利用できる施設があります。中には小奇麗だけどひどく高いカフェもあれば、地下にはスパもあるようです。日本を代表するクラシックホテルですから一度泊ってみたいと前から思っていますが、まあ東京にいる人間が泊らなくてもいいか。
 
 
 さて東京駅にはもう一つ重要な施設があります。「東京ステーションギャラリー」です。前からあったけどリニューアル・オープン。今は生誕120年記念で「木村荘八展」をやっています。(3月23日から5月19日まで。)僕は昔から好きな画家で、練馬区立美術館で行われた大展覧会にも行ったことがあります。
 木村荘八(きむら・しょうはち、1893~1958)は、大正から昭和の戦後にかけて活躍した洋画家、版画家ですが、随筆でも知られたくさんの著書があります、特に遺稿となった「東京繁昌記」は有名で、岩波文庫にも入っていました。絵の作品としては、永井荷風が朝日新聞に連載した「濹東綺譚」の挿絵で一番知られていると思います。今回も出ていますが、何度見てもとても素晴らしいです。しかし、元々は洋画家をめざしたわけで、油彩の作品がたくさん出ています。初期は風景や自画像も描いているけど、だんだん風俗画が多くなりました。「新宿駅」(1935年)や「牛肉店帳場」(1932年)、「浅草寺の春」(1936年)などは非常に見応えがあります。特に「牛肉店帳場」は歴史的、伝記的にも貴重な作品だと思います。

 というのも、荘八の実父は、明治時代の東京で牛なべ屋チェーン「いろは」を作った木村荘平と言う人物です。この人は「艶福家」(えんぷくか)で知られ、この言葉も死語だと思うけど、要するに愛人(妾)を何人も抱えたことで有名な人で、「いろは」の名の通り47店舗を開き、それそれ違う妾に店をまかせると豪語したというほどの人物なのです。実際に20数店舗はあり、それぞれ違う女性に経営させていたようです。従って、木村荘八には異母兄弟がたくさんいることになります。長女は木村曙のペンネームで作家、4男荘太も作家(「新しき村」に参加したことで有名です。荘五、荘十二も参加しています)、荘八が画家、荘十は1941年に直木賞を受賞した作家、荘十二は映画監督(「あにいもうと」の最初の映画化の監督です)とこの一家からは、父の実業的才能ではなく、文化的才能が輩出しました。非常にとんでもない父親から生まれた近代日本文化史の不思議です。その「いろは」の様子がうかがわれるのが「牛鍋店帳場」です。

 ステーションギャラリーはまずエレベーターで3階まで行き、階段で2階に降ります。そのときレンガの壁を見ることができます。出口を出ると、駅の2階ギャラリーになってるので、駅を上から見られます。周りがすごく混んでるのに、美術館だけすごく空いててもったいないと思いました。
 
 
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国宝・正福寺地蔵堂を見に行く

2011年09月25日 00時35分55秒 | 東京関東散歩
 東京都東村山市にある国宝正福寺(しょうふくじ)の地蔵堂を見に行きました。ここは一年に3回、内部を公開します。8月8日、9月24日、11月3日と決まっていて、今回はその公開に合わせて見に行きました。東京にあるこの国宝建築物は東京の人でもほとんど知らないと思います。僕も前から気になっていたけど、なかなか行く機会がなく、今回が初めてです。駅からの案内板などはなく、事前に地図を調べて行かないとわかりません。

 大体国宝建築物というものは、京都、奈良に集中していて、東京には国立博物館蔵の美術品ならあるけど、震災、空襲を経験したので古い建築物はあまり残ってないわけです。(なお重要文化財は70件位あります。近代建築の東京駅や三井本館、日銀本店、ニコライ堂などは重文指定です。)東日本全体を見渡しても、国宝になってるのは、日光の東照宮と輪王寺、平泉の中尊寺金色堂、鎌倉の円覚寺舎利殿などの他、山形の羽黒山五重塔、松島の瑞巌寺、宮城県の大崎八幡宮、いわきの白水阿弥陀堂、それだけ。長野、山梨にはありますが、他の県にはありませんでした。最近、静岡の久能山東照宮と東京の赤坂迎賓館が指定されましたが。(迎賓館は近代建築物では現在ただ一つの国宝。)

 という超レアものなのに、都民であっても知らないでしょ?何故だ?しかし、国宝と言ってもマイナーなものがあるのは事実で仕方ないというか、日光、鎌倉、平泉クラスがそんなにあちこちにあるわけもないわけです。建築様式的または歴史的に価値ある神社やお寺が国宝に指定されても、ひっそりと住宅や田園の中にたたずんでいるというようなことは結構よくある風景です。ここも住宅地の近くにあり、見物客以外にも地元の方が参拝に訪れていました。

 正福寺は鎌倉時代創建の臨済宗の禅寺。地蔵堂は室町時代の1407年建立(こんりゅう)と判っていて、禅宗寺院様式の反り返った屋根が特徴です。しかし、そこが写真を撮るときは難しく、すぐにはみ出してしまうくらい飛び出している。晴れていてなかなか撮りづらかったですね。
 
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