goo blog サービス終了のお知らせ 

尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

銀座で食べる他-銀座散歩⑤

2014年07月22日 00時32分14秒 | 東京関東散歩
 いつまで書いていても仕方ないから、銀座散歩は今回で一応終わりにしたい。銀座にはいろいろなものがある。例えば、「画廊」が一番多いのは今でも銀座だという話で、検索すると一覧のようなものが出てくる。でも僕が知っているのは「日動画廊」ぐらい。ここは数寄屋橋交差点から外堀通りを少し行ったところにある。今回歩いていて銀座8丁目に「月光荘」があった。今は画材店だけだけど、昔は画廊もやっていた。(月光荘事件というのがあったので、名前だけ何となく記憶していたのである。)映画の「銀座の恋の物語」では、浅丘ルリコが銀座で「お針子」をしている。銀座には昔はシャレた洋服、帽子などの店(ブティック)がいっぱいあったのではないか。今は多分、表参道や代官山などにいっぱいあるんだろう。並木通りを歩いていて「ヒロコ・コシノ」の店があった。コシノジュンコ(小篠淳子)の姉で、ファッション界のコシノ三姉妹の一番上。漢字で書くと小篠弘子なんですね。
  
 数寄屋橋交差点から有楽町マリオン(旧日劇)へ行くところに「西銀座デパート」がある。東銀座という地下鉄駅はあるけど、「西銀座」は今はない。今村昌平監督に「西銀座駅前」という小品があるけど、どなたかのブログに「今村昌平は映画の中で架空の駅名を使った」などと書いているのを読んだことがある。しかし、東京で2番目の地下鉄、丸の内線が出来た時、銀座駅は西銀座駅と言ったのである。銀座線(中央通り)と丸ノ内線(外堀通り)は並行して走っている。そこに1963年に日比谷線が晴海通りの地下に開通した。この結果、三つの地下鉄路線は全部「銀座駅」に統一されたのである。1957年から1963年までという短い間だけ、西銀座駅があったわけだ。その向かい側には、プランタン銀座(もともと今はなきダイエー系の商業施設だった)、丸の内東映銀座教会などが並んでいる。この銀座教会というビルも最初に見た時は結構ビックリしたものである。一度だけ迷い込んだときがある。日時も覚えていて、1972年12月24日、つまり降誕祭前夜のことだった。教会ビルから交差点よりに「塚本素山ビル」がある。塚本素山という人は元は軍人、戦後は実業家で、一種の政商のような人だった。創価学会とのつながりが深かった。ここの地下一階に「日本で一番有名なお店」がある。
 
 それは「すきやばし次郎」のことで、もちろんオバマ大統領来日時に安倍首相と行ったところである。というか映画「二郎は鮨の夢を見る」という記録映画の舞台。ホームページを見ると、前月の一日に翌月の予約開始。8月はもう一杯。おまかせコースで3万円とある。お店の前まで行ったけれど「写真お断り」と英語で書いてあった。だから店の写真は止めて、塚本素山ビルの地下入り口の店名だけ撮ってきた。僕は多分行くことはないだろうと思うけど、それは値段や予約の問題ではない。実はお寿司はあまり好きではなく、人生で寿司屋に行ったことが数回しかない。社会勉強としてなら、まず回転寿司に行く方が先なんだろう。

 ところで、「銀座で食べる」という題名にしたけど、実は「銀座では食べない」。高いということもあるけど、家に地下鉄一本で帰れるので「デパ地下で買って家で食べるか」になりやすい。有名な店は値段もだけど、どうも敷居が高いので、映画を見た後なんかにくつろげない。だから一時はシェーキーズによく行っていた時がある。中央通り(2丁目か3丁目あたり)にあったのである。村上春樹の「ダンス ダンス ダンス」で五反田君と「僕」がよくシェーキーズで会うのと同じで、バイキングという「匿名性」が気楽だった。歳とると行かなくなったけど。

 外で一番食べるのはカレーなんだけど、銀座では2丁目の「メルサ」の4階の「オールドデリー」がお奨め。名前で判るように北インド料理で、ナンが美味しい。サモサもいい。そんなに混んでないのもいい。銀座でカレーと言うと、東銀座の昭和通り沿い、歌舞伎座の近くに有名な「ナイルレストラン」がある。このナイルというのは、ナイル川ではなくて店主の名前から取ったもの。初代は独立運動弾圧を逃れて日本に来た。戦時中は日本軍とも協力した過去があるが、戦後1949年に開店した。昔、池袋西武に店があってよく食べに行ったし、本店にも行ってるけど「ムルギーランチ」ばかりすすめられて「混ぜて混ぜて」というのがちょっと鬱陶しくて最近は行ってない。今回久しぶりに見に行ったら、両隣の高いビルに囲まれ、自分のビルで頑張っていた。他に「カツカレーの元祖」、グリル・スイスもある。巨人の選手だった千葉茂が常連で、その求めで作った。和光裏のガス燈通り。
  
 銀座の「甘いもの」の名物は何だろうか。美味しいケーキ屋なんかが集中してそうだけど、それは昔の話かもしれない。いや、デパートなんかは別。松屋なんか、いくら見てても飽きないようなスイーツが並んでる。洋物はデパートに吸収されてる感じではないか。しかし、和菓子なら有名なものがある。「空也もなか」である。東京のもなかでは最強レベル。僕の中では、上野のうさぎやの「どら焼き」や長命寺の桜もちなどと並ぶ位置にある気がする。でも、これを店で買うのは大変。6丁目7番にある店には、いつも「売り切れ」の紙が貼ってある。もう銀座の風物詩に近い。基本は「予約」が必要なのである。でも、今回探していて、この空也もなかを一個でも食べられる店を発見した。松屋デパートの真裏に花や野草の店があり、そこの2階に「茶房野の花」という、銀座の隠れ里のようなスペースがあるのだ。いや、通り一本隔てただけで、こんなに静かな店があるのか。ここで「空也もなかとお茶(またはコーヒー)」が頼めるのである。非常に小さくて可愛らしい「もなか」だけど、やはり美味しい。
  
 後は銀座の有名な店をピックアップして載せておきたい。行ったことのない店ばかりだけど。新橋寄りに名店が多い。中央通りを8丁目(7丁目交差点)まで行くと、かの有名な「資生堂パーラー」。名前は昔から有名だけど、こういう店は親に連れられて行った経験でもないと、知らずに通り過ぎてしまう。こういう店に入るという文化を身に付けてないので。どこから撮っても自分が映ってしまうので写真が難しい。1902年創業の超有名店。メニューも撮ったので、一応。
  
 もう中央通りが終わるあたりに天ぷらの「天國」。「ハゲ天」とか「天一」とか有名店は多いけど、何しろ1885年開業という歴史がある。中華では「維新號」。1899年神田で創業し、戦後に銀座に開店した。肉まんで有名らしい。どっちも8丁目。7丁目に「銀座ライオン」。1899年創業のビヤホールの元祖である。ここも残念ながら入ったことなし。資生堂パーラーの道向かい、三菱東京UFJ銀行の並びに、「カフェ パウリスタ」がある。この名前は大正時代の文献によく出てきて、大正時代のモダン東京の象徴のような喫茶店だった。震災で焼けて無くなったはずが、同じ経営者のもとで1970年に復活したのだという。そのことを森まゆみさんの本で知っていたけど、今回初めて場所を知った。でも、まだ入ってない。僕のよく行く場所からすると、コーヒーを飲むには遠いのである。いずれ、また。店名はブラジルの「サンパウロ」から来ていて、まあ「パウロっ子」とでも言った言葉らしい。最後に3丁目、和光の裏をずっと道を燃えてしばらく行くと、洋食の「煉瓦亭」。1895年創業の、日本の洋食を始めた店の一つ。カツレツを考案したという。カキフライ、エビフライ、メンチカツなど、皆この店が始まりと森まゆみ「明治・大正を食べ歩く」(PHP新書)という本にある。高いステーキ屋と思い込んでいたけど、銀座にしては手が届く洋食屋と知ったので、いずれ入ってみたいと思う。
    
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

新橋芸者の世界-銀座散歩④

2014年07月19日 23時35分38秒 | 東京関東散歩
 世界はイラク、ガザ、ウクライナとますます風雲急を告げているが、僕にはニュース以上の情報もないし、まだ銀座散歩の続き。今回は、今までよりさらに時代離れした「新橋芸者」の話。半分以上は「荷風散歩」の続きでもある。地名としては銀座を少し出るときもある。というか、そもそも「新橋芸者」というんだから、新橋だろうと思われるかもしれない。新橋というのは、JR山手線で東京駅から有楽町を経て2つ目の駅である。行政としては港区になる。

 ところが、それが違ったのである。荷風の年表を見ると、一度結婚したが父の死後すぐに離婚、なじみの芸者だった八重次と結婚したが、再び一年もたたずに離婚、という有名な話が出てくる。この「八重次」という人が「新橋芸者」だとある。荷風の代表的な傑作のひとつ「腕くらべ」は、新橋芸者の世界を描いたとある。主人公の芸者は金春通りに置屋があるとか、ひいきの役者が新富座で公演するとかという話が出てくる。そこで調べてみると、新橋芸者とは「銀座の芸者」のことだったのである。

 先に新橋の説明として、東京駅から2つ目と書いたけれど、これは今の東京人の脳内地図では大体そう書いてあると思う。山手線(東京環状線)は東京駅が起点のように思い込んでいるからである。でも、東京駅の開業は1914年、つまり今年が東京駅100年なのである。有楽町駅は1910年の開業、神田、秋葉原などはもっと後で、そもそも明治時代には山手線はなかったのである。日本の鉄道は1872年に新橋ー横浜間が開業した。その話は教科書で習っていても、以後のことは意識しない。最初は品川から大きく山の手側にアルファベットのCの字のように鉄道が整備されていったのである。上野-新橋間の敷設が遅れたのは、各地の城下町などによくあるように、中心部の商業中心地には鉄道を引きにくかったためだという。環状運転が開始されるのは、1925年のこととなる。

 東京駅がないんだから、明治時代には首都東京の表玄関は新橋駅(今の汐留)だったのである。もちろん地下鉄なんかないから、銀座というところも新橋駅が最寄り駅である。だんだん路面電車(後の東京市電、今の都電)が発達してくるが、それまでは新橋が銀座の正面出口だったのである。だから、今でも銀座や築地の芸者を「新橋芸者」と呼ぶし、芸者の組合は「東京新橋組合」となるが、場所としては「銀座8丁目」にある新橋会館にあり、その前の通りは「見番通り」と呼ばれている。
  
 もっとも「新橋会館」というのは単なる商業ビルに見える。「見番通り」も特に風情があるわけではない。ホームページによると、「東京新橋組合」は料亭部芸妓部に分かれ、新橋会館の7階に芸妓部の事務所や稽古場がある。でも、この一帯はバーやクラブなどが多く、夕方ともなれば和服姿の女性が多く行き来している。そういう中に芸者さんもいるのかなと思うけど、まあ銀座では歩いていて出会えるという感じではないと思う。見番通りは、中央通りの7丁目交差点、資生堂パーラーのところから花椿通りを西へ行って2本目の通り。1本目が「金春通り」である。ここは江戸時代に能役者の金春家の屋敷があったところだという。屋敷は後に移ったが、跡地に芸者が集まり花街として栄えたと解説プレートに出ている。この通りも今も飲み屋が多いようだが、「金春湯」という銭湯がある。 
  
 京大阪には立派な演舞場があるが東京にも作りたいと作られたのが「新橋演舞場」だという。1925年のことである。後、松竹に興行を委託し歌舞伎などの興行を行っているが、もともと新橋芸者の芸向上のため造られたところで、今も「東をどり」を行っている。ホームページの「演目・出演者紹介」というところを見ると踊りの動画が見られる。これもホームページで見つけたのだが、8月の終りに「なでしこの踊り」という催しが行われる。新橋演舞場地下特設会場にて、「一見さんお断りの新橋花街文化を、夏の涼みとともに味わう特別な五日間」だそうで、「お座敷遊びの体験と新橋芸者衆の芸の神髄を、新橋演舞場の会席弁当とともにお楽しみいただきます。」とのこと。料金は9000円なり。この新橋演舞場の真ん前が、かの有名な料亭の「金田中」である。もちろん今回調べて知ったのである。塀が長く続いて店の名が小さい。料亭は皆そんな感じ。3枚目は夜散歩した時。
  
 新橋組合の役員名簿を見ると、「金田中」(銀座7丁目)や「新喜楽」(築地4丁目)などの超有名料亭の名前がズラッと並んでいる。つまり、花街というのは「一見さんお断り」の高級料亭で芸者を呼んで芸を楽しむところということになるか。「新喜楽」というのは築地市場やがんセンターの真ん前にある料亭で、芥川賞・直木賞の選考会が開かれることで有名である。佐藤栄作元首相が倒れたところとも出ている。この二つの店は僕でも名前ぐらいは聞いたことがあるが、もちろん行ったことはない。この二つが「日本の二大料理屋」なんだそうで、これに「吉兆」(東京店)(銀座8丁目)を加えて「日本三大料亭」なんだという。最初と2枚目の写真が「新喜楽」、最後が「吉兆」。料亭は大体似た感じの外見。
  
 東京で今も芸者のいる街(花街)は、「東京六花街」という。柳橋、芳町、新橋、赤坂、神楽坂、浅草。芳町は人形町の地名、柳橋は浅草橋で降りて隅田川沿いの一帯で幸田文「流れる」の舞台だけど、だんだん衰退して今は一つも料亭がない。そこで柳橋を除き、今は向島を入れて「六花街」と呼んでいるとのこと。昔は柳橋と新橋で「二橋」と言われたらしい。江戸時代は柳橋が一番栄えていたが、その分旧幕びいきで薩長を田舎サムライとバカにした。薩長新政府の中心が霞ヶ関、日比谷などに置かれたため、明治になると新政府は新橋(銀座)を主に使った。ということで、権力と結びつき政治家や実業界と持ちつ持たれつ、花街が栄えてきたという歴史。今は芸者が少ない街もあるが、中では新橋は50人以上いて、ホームページに顔を載せている人も多いので、関心がある人は見ることができる。まあ、もちろん美人ぞろい。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

銀座の建物、今昔-銀座散歩③

2014年07月17日 23時00分00秒 | 東京関東散歩
 銀座もどんどん新しくなる。6丁目にあった松坂屋銀座店が取り壊され、新しい商業施設が建設されようとしている。銀座中央通りで一番北にあった「ホテル西洋銀座」、そしてそこにあった劇場「ル・テアトル銀座」、映画館「銀座テアトルシネマ」も昨年閉鎖され、もうすぐ解体される。2丁目にあってよく行く文具店「伊東屋」も改築中で、今は松屋の裏で仮営業中。ここはもともとは1904年創業だという。写真はホテル西洋銀座、松坂屋跡、工事中の伊東屋。
   
 中央通りは外国高級ブランド店がずらっと並んでいる。どうも銀座にふさわしいのかなあと思いつつも、銀座なら必ずホンモノのブランド品が手に入るというのも、アジア全体を考えれば必要なことなんだろう。1925年に銀座店を開店した松屋銀座店は銀座を代表するデパートだけど、その周りがブランド店集中地域。夜に行くと、シャネルの壁に映像が流れて面白い。松屋の隣がルイ・ヴィトンで、道を隔ててブルガリ、少し行くとティファニーがある。中央通りの向かいがシャネル。
  
 それでも銀座には超高層のショッピングビルはなく、昔からの店も結構残っている。それに古い建物も少しはある。今回知ったのだが、銀座に「東京都指定歴史的建造物」が3つある。2丁目の「メルサ」の裏にあるのが「ヨネイビル」。上の方には会社が入っているようだけど、1階には「アンリ・シャルパンティエ」という神戸のお菓子屋が入っている。1930年建築の非常に趣のあるビルで、震災後のモダンな銀座のムードを今に伝えている。
    
 銀座の外れの方、一丁目の一番東、三吉橋の近くにある「鈴木ビル」というのも歴史的建造物。でも、ここは周りを建物に囲まれて写真が撮りにくい。しかも時間的に太陽が当たって、あまりよく撮れていない。1929年建築で、寄席などに使われた建物らしいが、中を見られないのでよく判らない。
  
 三つ目が「藤村・透谷の碑」のある泰明小学校なんだけど、現役の学校だから、自由に入れない。小学校だから夕方にはもう閉まっている。一方、銀座西6丁目の電通銀座ビルは、都ではなく中央区の歴史的建造物だけど、昭和モダンの様式美が美しい。1934年建築のビルで、当時は電通本社(日本電報通信社)だった。銀座にはこういうビルがまだ残っているのである。銀座散歩も面白い。
    
 一方、昔の姿がないもの、全く影も形も無くなったものも多い。6丁目にある交詢社ビルは、2004年に建て直されて、以前の名残りはファサード(正面)だけ残されている。交詢社(こうじゅんしゃ)というのは、福澤諭吉の提唱で作られた実業家社交クラブである。70年代にここのホールが映画上映に利用されていて何度か行ったことがある。非常に古い感じのビルが残されていて、エレベーターに年寄りの係員がいたのが昔風だった。今は改築されショッピングビルになっているが、上の方にはドレスコードのある交詢社があって、裏へ回ると車がズラッと停まっている。
  
 僕が一番出かけているのは映画館や劇場なので、東京の町はそれで覚えていった。近くの日比谷や有楽町には映画館や劇場が多いが、千代田区だから銀座散歩から除く。普段は区境などほとんど意識していないが。今の銀座にはあまり劇場や映画館が少ない。歌舞伎座は銀座だけど、新築の時に写真を載せたので今回は扱わない。そうすると、銀座8丁目の博品館劇場、東銀座の新橋演舞場ぐらいか。(銀座能楽堂もある。)映画館も少なくなって、丸の内TOEIと和光裏のシネスイッチ銀座ぐらいだろう。シネスイッチ銀座というのは、1997年までは「銀座文化」と言っていた。「ニュー・シネマ・パラダイス」や「ライフ・イズ・ビューティフル」「かもめ食堂」などをやった映画館である。劇場じゃないけど、かつて銀座7丁目に「銀巴里」というシャンソン喫茶があった。調べると、1951年~1990年とある。美輪明宏、戸川昌子、金子由香里などが活躍した場所である。ここは跡地に「元銀巴里跡」の碑が残っている。写真は銀巴里跡、博品館、シネスイッチ。
  
 ところで、跡地の碑もなくすっかり消え去ったけど、僕が一番行った銀座の場所は、「銀座並木座」という小さな名画座である。並木通りの2丁目のビルの地下にあった映画館で、館内に柱が建ってて見にくい場所があるようなホントに小さなところだった。番組は特に最後の頃は古い日本映画に特化していて、小津や成瀬、黒澤などをいっぱいやっていた。僕はここで黒澤と小津を初めて見た。高校生の時で、「天国と地獄」や「東京物語」があまりにも面白く、続けて2回見てしまった。でも古い映画ばかりではなく、土本典昭の「水俣」もここで見たし、文化祭の後で藤田敏八の「八月の濡れた砂」を見たのもここ。大好きな映画で、大学生になってまた見に行った。主題歌を歌った石川セリが来ていて、歌ったことをよく覚えている。井上陽水夫人になった人である。今は何の痕跡もないけど、「銀座並木通りビル」が建っているあたりにあったのではないかと思う。
 
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

銀座の碑-銀座散歩②

2014年07月16日 23時54分35秒 | 東京関東散歩
 「銀座」という地名は、今や「町の中心の商店街」という一般名詞に近いけど、もちろん元々は江戸時代の貨幣鋳造所のことである。「金座」とか「銭座」というのもあったけど、とりあえず「銀座」は今の銀座2丁目付近にあったとされる。中央通りの2丁目に「銀座役所跡の碑」が建っている。そこから始めて、銀座の記念碑をまとめて紹介しておきたい。地図で上の方の1丁目から挙げると、まず「銀座入口」付近に「銀座ガス灯の碑」がある。
  
 4丁目には「真珠王の碑」があるが一回目に載せた。4丁目から有楽町の方に曲がって高速道路の方まで行くと、4丁目と5丁目にかけて「数寄屋橋公園」がある。「数寄屋橋」(すきやばし)というのは、もともとは外濠に架かる橋の名前で、今は新橋とか京橋とか川がないからただの地名と思っているしまう人もいるけど、もちろんちゃんとした橋なのである。「君の名は」で待ち合わせたのが数寄屋橋で、昔の映画を見ればその様子が判る。でも1958年に埋め立てられ、今は東京高速道路になっている。その付近に数寄屋橋公園が作られ、ここまでが中央区銀座。その先の日劇(現マリオン)は千代田区有楽町である。僕は数寄屋橋公園というと、赤尾敏という名前を思い出す。愛国党党首として選挙にいつも出ていた右翼で、日曜日にここを通るとたいてい演説をしていた。ほとんど「銀座の風物詩」に近かったけど、さすがに「赤尾敏の碑」などはない。それはなくていいけど、ここには碑がいっぱいある。4丁目側(マリオン側)からいくと、震災10周年記念の北村西望の彫刻銀座の柳並木の碑。そして「銀恋の碑」。デュエット曲として有名な「銀座の恋の物語」の碑である。これは石原裕次郎と浅丘ルリコ主演で映画にもなっている。
   
 晴海通りを渡って5丁目の方に行くと、「君の名は」の菊田一夫の手になる「数寄屋橋の碑」がある。そこには「太陽の塔」みたいな塔が建っているけど、常に誰かがずっと座っているから写真が撮りにくい。そこから中央区立泰明(たいめい)小学校の方に行く。ここは震災後に建て直された「復興小学校」で、1929年建設。東京都の歴史的建造物である。と同時に島崎藤村、北村透谷がここに学んだという碑がある。また学校の入り口に「みゆき通り」の説明プレートや泰明小100年の彫刻がある。まあ、明治天皇が通ったという「御幸」ということである。戦後に「みゆき族」というのがあったけど。
   
 6丁目6-7に「啄木の歌碑」がある。「京橋の瀧山町の 新聞社 灯ともる頃のいそがしさかな」とある。中央通りに戻ると「一橋大学発祥の地」の碑。8丁目まで行くと、10番地の「御門通り」の入り口に「芝口御門」の碑がある。元々は汐留川に新橋が架かり、江戸時代に「門」が作られていたという地だとある。今は銀座は「高速道路に囲まれた地」なんだけど、戦前までは「川に囲まれた地域」だったのである。皆埋め立てられて、今の人には全然実感がない。
    
 そうして中央通りを8丁目まで歩くと、もう新橋ということになる。そこに「銀座柳の碑」と「新橋の碑」がある。この銀座柳というのは歌の方である。その一帯は高速道路の下、道路のつきるあたりで、団体観光客の集合場所に使われている。今は銀座は外国人客が多くて、特にこの地帯は中国人観光客が多いのか、法輪功がキャンペーンしていた。他にもあるようなんだけど、とりあえず今まで見た碑のまとめ。撮ってあるのもまだあるけど、何しろ探すのが大変なので。
  
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

銀座四丁目周辺-銀座散歩①

2014年07月15日 22時47分16秒 | 東京関東散歩
 日本橋から京橋まで散歩記を書いたから、次は「銀座散歩」の番である。だけど、初めは銀座を散歩するつもりはなかった。銀座は大きな店が多くて、買いもしないのに散歩しても面白くないのではないか。外国高級ブランド店ばかり集中して、昔のような「銀ブラ」の時代でもないだろうと思っていた。世に銀座通、銀座ファンは多くて、僕のように銀座になじみがない人間が語りにくい地域だとも思っていたのである。でも、歩いてみると結構面白いし、今まで書いた場所も別になじみではない。むしろあまり知らない場所を書くから面白いわけで、銀座をブラブラしてみることにした。

 最近京橋のフィルムセンターで昼と夜の2回連続して映画を見る機会が多く、間が2時間ぐらいあると銀座歩きにちょうどいいと知った。でも、僕には昔から銀座の地理がよく飲み込めない。基本的には縦横に区切られた「十字街」をしているわけだけど、そういう京都や札幌みたいな街が東京には少ない。(東京では、駅を中心に東口、西口、または北口、南口などがあり、放射状に広がって行くというような構造になっている街が多い。新宿、渋谷、池袋、上野など皆そう。)それに路面電車が撤去されて以来、銀座の地名がある場所には地下鉄しかない。地下鉄には様々な路線と出口があって、地上での位置関係がすぐには飲み込めない。だんだん飲み込めてきたけれど、判りやすいはずの縦横の区切りが僕にはちょっとラビリンスだった。

 銀座の書き方はいっぱいあると思うけど、やはり「銀座の中心」である「四丁目交差点」を最初に取り上げるべきだろう。昔は「尾張町交差点」と言ったらしいが、僕にはそれは「本で読んだ知識」である。今でも「尾張町」「木挽町」(こびきちょう=東銀座の歌舞伎座あたり)などと使いたいという人もいるけれど、荷風の日記を読むときには必要な知識だけど、僕にはそれほどのこだわりはない。交差点だから四つ角なわけだけど、一番有名なものは和光、つまり昔の服部時計店の時計堂だろう。
    
 最初の時計塔は1894年に出来たが、建て替え計画中に震災があり、今の時計塔は1932年に完成したという。経産省指定「近代化産業遺産」だというが、まさに銀座のシンボル、いつまでも残されて欲しい。映画にはよく出てきて、銀座で出会う日活青春映画では必ず出てくるが、日活のスタジオには銀座の大セットがあったという。「ゴジラ」(第1作)では破壊されてしまうが、和光は激怒して東宝に抗議、東宝は「日劇も破壊されている」となだめたが、東宝映画には2年間情景の使用を認めなかったと出ている。この時計塔の存在は、東京の代表的な風景で、いつまでも残って欲しいものだ、で、和光って何のお店だ。服部(セイコー)系列の高級ブランドショップだけど、中に入ったことがない。

 銀座をタテに貫通する中央通り、ヨコに貫通する晴海通りだけど、和光から見て中央通りの向かいは三越銀座店、晴海通りの向かいは三愛ドリームセンターである。では、対角線側は?「サッポロ銀座ビル」というのだけど、今は再開発中。写真を検索しても、大体が和光と三越を撮っている。三愛ビルは、1963年に出来て有名なものだったらしいが、今は似たような建物があっちこっちにあって印象が弱い。むしろ、隣にある鳩居堂(きゅうきょどう)の印象が強い。京都で昔からある店だというが、1880年に銀座に出張所を置いた。もともとは香や薬種の店だというけど、和紙工芸品や便箋・封筒など和風のものがいっぱいあり、外国人客が大勢来ている。ここが土地の路線価で日本一の年が多いことでも有名で、一度は見ておきたいお店だろう。その隣あたりに竹葉亭(ちくようてい)という鰻屋があり、ここは荷風も愛好した昔からの店である。
     
 僕が割りあい行っているのは和光から中央通りで並んでいる店である。まず隣があんぱん創始者の木村屋。1870年に尾張町に店を出し(創立は1869年)、1874年にあんぱんを、1900年にジャムパンを考案した。東京にはいろんな地方から人が来て、いろいろな店があるので「ソウルフード」的な食べ物は少ないのだけど、「木村屋のあんぱん」というのは有名度から言って誰もが一度ぐらい食べてるような名物だと思う。久しぶりに今度食べたけど、イチジクパンが美味しかった。あんぱんは定番的な味。土日は店外にパンを並べて売っている。2階、3階にカフェとレストランがある。その隣が「山野楽器」で、僕がCDやDVDを一番買ってる店だけど、最近は行かなくなってしまった。1892年創業という古い店だが、今のビルは普通だから写真は撮らなかった。さらに隣がミキモト真珠店。御木本幸吉が成功した養殖真珠を売るために、1899年に銀座に創設した。日本を代表する高級ブランドで、店の前に「真珠王の碑」が建っている。上の方にホールがあり、催し物を見るために入ったことはあるが、ジーパン姿で売り場を通るのはちょっと勇気がいる経験だった。
    
 一つ置いて、もう5丁目の角にあるのが「教文館」で、銀座唯一の平場の書店としていつも賑わっている。そんなに大きくないけど、銀座に関する本なども集まっている。しかし、表を見るだけでは普通の書店だが、ここは単なる本屋ではない。本来はキリスト教書店で、日本のキリスト教の歴史において大きな役割を担ってきた場所である。今は村岡花子が教文館の編集部で働いていて、戦時中に同僚から「赤毛のアン」の原書を贈られた「花子とアン」の生まれた現場として有名になった。14日まで9階のウェンライトホールで展覧会をやっていたが、大好評により7月25日から9月7日まで、3階で無料の展覧会を開くという。9階の方は90歳になった藤城清治の展覧会が25日から。3階のキリスト教書店では、ここで村岡花子が働いていたと白いテープが貼られていた。上の方のホールやカフェ、キリスト教書店などは、裏の方からエレベーター、または階段で行く。この階段がまたちょっと古めかしくていい。6階は児童書の店「ナルニア国」、4階にキリスト教グッズ店「エインカレム」、3階にキリスト教書店がある。キリスト教の本なんか関係ないとか、他の本屋やネットで買えばいいと言わず、一度はここを見てみるべきだ。この本もあるのか、あの本もキリスト教に関係あるのかと知る。僕にとって教文館という場所は上の方こそ役に立つ本屋なのである。
   
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

湯島天神と神田明神-湯島散歩②

2014年06月20日 23時20分10秒 | 東京関東散歩
 湯島散歩の目的が旧岩崎邸、サッカーミュージアム、そして今日書く湯島天神などの寺社巡りというのは、もちろんウソではないんだけど、実はもう一つ目的があった。先にそっちを書いてしまうと、東京新聞土曜日の最終面(東京新聞はテレビ欄が真ん中にあって、最終面は企画ページになっている)に東京散歩案内があって、最近そこに湯島散歩が載った。それを見て、興味深い所を見つけたのである。「舞い鶴」という喫茶店。ここはパンも売っていて、その中に「生地よりブドウが多いぶどう126%入りぶどうぱん」があると書いてあった。ケーキからレーズンを取っちゃう人が世の中に結構いることは知っている。でも、僕に言わせれば、そんなのは不届き者である。概してフルーツが好きで、ドライフルーツ類もすべて好き。レーズンがそんなに入っているパンが世の中にあったのか。うれしいではないか。向島の青柳正家の栗羊かんは羊かんより栗の方が多いぐらい迫力がある。こっちも同じく、確かにブドウがいっぱい。まあスイーツに近い。パンにぶどうが入っているものを「ぶどうパン」というのなら、これはむしろ「パンぶどう」とでも呼びたい逸品である。まあ、作っているのは浅草の方で、仕入れているだけというが。火曜、金曜は「巨峰ぶどうパン」1550円がある。巨峰とナッツというもっと高いのもあった。普通のレーズン入りの小パンは400円。コーヒーもあるし、トーストにしたセットもあった。ラスクもある。(お店は湯島駅から南北に伸びる大通り沿いで、湯島天神の男坂に行く手前。大通り沿いなので、判りやすかった。パンの写真はなし。)

 その「舞い鶴」を少し過ぎて右に入ると、湯島天神へ通じる「男坂」が見えてくる。神社から見たのが次の写真。かなり急である。隣に「女坂」があり、傾斜が緩やかになっている。一方、春日通りから通じる道もあり、「夫婦坂」と呼んでるようだ。最後の写真が春日通りから見た神社。
   
 湯島天神(正式には湯島天満宮)は、なんか古い由緒があるらしいと書いてある。でも本殿は1995年に建て直されたもの。表通りの鳥居は1667年創建で、都文化財。日本じゃ、この程度の古さでは大した文化財とは呼ばない。ましてや近代に作られた神社は伝統とは言えない。(明治神宮とか靖国神社とか。)ここは亀戸天神より有名で、受験合格祈願の絵馬もいっぱい。それは「面白い」とも思うけど、なんで人が行くのか僕には判らないのである。お参りするヒマがあったら受験生がやることはいっぱいあるでしょ。ここへ来るのは二度目で、学校の歴史散歩(授業の一環)で来ただけ。遠足の引率でしか行ってないディズニーランドなんかと並んで、僕には縁遠い場所である。こうしてブログに書くつもりで散歩すると、あまり行ってない場所でも行こうかなとなる。
   
 ところで、この湯島天神が有名なのは、というか最近の人は知らないかもしれないが、泉鏡花の「婦系図」(おんなけいず)に出てくる。僕は学生時代に山本富士子主演の「湯島の白梅」という映画を見て、名前だけ知っていたストーリーを知った。「別れろ切れろは芸者の時に言う言葉」というセリフが有名で新派の名舞台となる。「新派」とか「新劇」とか、何が「新」だかもう伝わらない時代となっているが。その泉鏡花の筆塚というのがあった。その他、碑がいっぱいあって全部載せても仕方ないので絞ると「奇縁氷人石」(文京区有形民俗文化財)は江戸時代に「迷子探し」で信仰されたとかの石だそうである。「新派」の碑もある。「都々逸」の碑というのもあった。裏の方に「努力」という王貞治の書いた碑がある。場所が外れているうえ、説明がなくて場所が分かりにくいけど、見ておきたい碑である。(クリックして大きくして見て下さい。)
    
 神田明神に行く前に、サッカー通りに入る道の反対側にある「鱗祥院」を先に。ここは東洋大学発祥の地という碑があるが、それより春日局の墓がある。徳川3代将軍家光の乳母。
  
 御茶ノ水駅の方に下って行くと蔵前橋通り沿いに「おりがみ会館」がある。折り紙に関するお店、博物館みたいなところである。講習会も開かれるらしいけど、ポッと行ってもあまり面白くなかった。でも折り紙はいっぱい売ってる。1階には折り紙作品もいっぱい展示している。近くに「妻恋神社」と「妻恋坂」がある。妻恋坂交差点というのもあって、前から気になっていた。行って見たら、倭建命に関する伝説から来た名前だった。結構急な坂。
    
 最後に神田明神で、千代田区だから湯島というより「外神田」という地名になるけど、湯島聖堂の近くで、本当は御茶ノ水散歩で扱うべきところ。その時は行けなかったので、湯島散歩で。かの叛徒・平将門を事もあろうに江戸総鎮守として祀ったという歴史には、古代の怨霊という考え方がある。ここも古い由緒が残っているが、まあ江戸の下町一帯の氏神で、神田祭のあるところとして江戸時代から有名になった。震災で焼けて、その後コンクリート建築になったというから、そういう意味では近代建築的意味があるのかも。
   
 ここも碑や歴史的記念物が多い。架空の人物だけど、銭形平次が近くに住んでいたという設定になっていて、映画でも神田明神が出てくる。「銭形平次の碑」がちゃんとある。「国学発祥の地」という碑もあった。天神には都々逸があったが、こっちには「小唄の碑」があった。「大伝馬町八雲神社天水桶」というのもある。ま、いろいろあって面白い。もっとあるけど、逆光でうまく撮れないうえ、蚊が寄ってくるから、さっさと退散。
   
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

旧岩崎邸庭園の周辺-湯島散歩①

2014年06月19日 21時53分58秒 | 東京関東散歩
 東京散歩・湯島近辺。湯島という地域は、東京都文京区の東端の地域で、お茶の水駅のそばにある「湯島聖堂」のように長い歴史がある地名である。文京区一体は「坂の町」だけど、武蔵野台地が広がる中で、坂上に「お屋敷町」が、坂下に「商店街」や職人の町が発展してきた。JRが通っていない区で、地下鉄利用になるので地形を意識しづらい。街を歩いていると、坂の説明によくぶつかり、「市電開業にともない坂が削られ勾配がゆるやかになった」などと書いてあることがある。

 最初に書く「旧岩崎邸庭園」は、住所は台東区池之端になるが、ここだけ行政上は飛び出しているだけで、地形上は湯島から続いている。不忍池の真裏あたりで、もちろん上野駅から歩いて行けるが、最も近い駅は地下鉄千代田線湯島駅になる。駅から出れば案内が各所にある。上野のはずれで低地には「ラブホテル」が林立してるけど、「旧岩崎邸庭園」の入り口を入ると、最初はビックリするぐらい坂を登っていくことになる。やはり、財閥の富豪は「坂の上」なのである。近代日本最大の財閥が作った洋館の極みで、何回か来てるけど驚くような建物である。ただ、中の様子を写真に撮れない。外観だけ。ガイドには少し出てる。では、その外観を。
   
 ここは1896年に、岩崎久彌(岩崎弥太郎の長男で、三菱の三代目社長)の本邸として造られた。重要文化財。現在は洋館、和館、撞球室の三つしか残っていないが、本来は20棟もの建物が並び、現在は3分の1の敷地になっているというから驚くしかない。設計は有名なジョサイア・コンドルで、この前書いた旧古河庭園と同じ。「英国ジャコビアン様式の見事な装飾」「イギリス・ルネサンス様式やイスラーム風のモティーフ」、他にも「コロニアル様式」「トスカナ式列柱」「イオニア式列柱」「英国ミントン社製のタイル」などと書いてあるけど、写真が撮れないから判らない。パンフを引用しただけだが、ジャコビアン様式と説明にある写真はこれ。(ちなみに「ジャコビアン」とは、17世紀初頭の英国ジェームズ1世時代の芸術様式で、イタリア・ルネサンスの影響を受けた。英国バロックとも言われる。)
 
 洋館に入って、1階、2階とめぐり、大食堂、ホールなどを見て回る。中はともかく、2階のベランダから外を撮るのもダメとあるから、全く中の様子は撮れなくて、実際に行って見て下さいと言うしかない。階段を下りて、和館に行くと休憩もできる。靴を持って移動し、和館から外へ出る。そうすると、芝生が広がり、洋館もまた違って見えてくる。遠景の写真(2枚目)の左奥の大きなビルは東大病院。ここは戦後GHQに接収され、キャノン機関などが置かれ、鹿地亘(かじ・わたる)が軟禁されていた。1971年から94年までは、最高裁司法研修所として司法修習に使われた。そういう戦後の歴史も刻まれている。その後、修復され、広く公開されているのは良かったと思う。 
   
 完全に横に回ると、もしかしたら一番この位置がいいのかなという見事な形になる。そこからは「撞球室」が近い。これは読めないし、意味も分からない人が多いと思うけど、「どうきゅうしつ」で「ビリヤード室」という意味である。もちろん今は置いてない。ここは中も撮れる。
   
 ところで、この庭園の奥に興味深い場所が作られた。「国立近現代建築資料館」である。長年の懸案とされていた「近代建築アーカイブ」で、要するに近現代建築の資料(設計図とか)を保管、研究する施設である。まだ開設したばかりで、建築にくわしくないと判らない感じだけど、旧岩崎邸庭園からは無料で行けるので一度行ってもいいと思う。(そこだけ行くには、反対側の湯島合同庁舎から予約して入ることになる。岩崎邸から入るには、岩崎邸の入園料がかかる。)2階にあって、2階から見た旧岩崎邸を撮ることは可能。[(写真の左にある黒い縞はガラス窓の桟。)入り口近くの壁には、三菱マークのもととなった「重ね三菱」が刻印してあった。
   
 さて、この旧岩崎邸の真裏あたりに「三菱資料館」がある。土日はやってないけど、平日だったら一度見ておきたい。ここに「三菱経済研究所」もある。もちろん企業博物館だから、宣伝は宣伝。三菱の軍事的な「貢献」(ゼロ戦も戦艦大和も三菱である)や政府と結びついた「政商」ぶりも批判されていない。それはそれとして、近代を代表する企業グループを一応知ることができる。ただ、三菱にはもっと大きな博物館、宣伝でいいから様々な工夫をこらした博物館を作って欲しい気もする。
  
 旧岩崎邸を出て、左に続く坂をずっと登って壁に沿って曲がると三菱資料館だけど、そこへ行く坂道が「無縁坂」である。そう、お玉が住んでいたところ。えっ、何のことかと言われるかも。森鴎外の傑作「雁」を読むと判ります。豊田四郎監督の映画にもなっている。帝大(東大)に通う学生が通りそうな場所である。「無縁坂」というのは、里中満智子のマンガもあるというけど、今一番思い浮かべるのは、グレープ(さだまさし)の曲「無縁坂」なんだろう。「運がいいとか悪いとか…そういうことって確かにある」とか口ずさみながら歩いて行く。(最後の写真は、坂が終わり、三菱資料館に行く道)
  
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

岩淵水門を見に行く

2014年06月04日 21時23分21秒 | 東京関東散歩
 5月末から、全国的に突然の猛暑である。東京で散歩に適した時期は少ない。これ以上暑くなると、川辺に行く散歩はできないだろうと思って、前から行きたかった岩淵水門を訪れてみた。岩淵水門と言っても、全国はもとより東京の人でも知名度は低いと思うし、どこにあるのという感じだろう。これは「隅田川と荒川を分ける水門」、つまり人工的に作られた「荒川放水路」への導水路にある水門である。新旧二つあって、旧水門は1924年に作られた。1982年に新岩淵水門が作られ、旧岩淵水門の役割は終わった。旧水門は1995年に産業考古学会によって推薦産業遺産に指定され、また1999年には東京都選定歴史的建造物に指定されている。さっそく旧水門の写真を載せると…。
   
 赤く塗られているので「赤水門」と呼ばれる。それに対し新水門は青いので「青水門」である。4枚目の写真は新荒川大橋から遠望したものだが、赤水門の向こうに青水門がよく見えている。さて、この岩淵水門はどこにあるかというと、案外行きやすくてJR赤羽駅(京浜東北線、埼京線、東北・高崎線などが集中する東京23区の北の要衝である)から歩いて20分か30分程度。赤羽駅東口に降りて、しばらく線路に沿って北上する。道路にぶつかると、そこに宝幢院(ほうどういん)という寺がある。歩道に「宝幢院前の道標」の説明プレートがある。その寺に沿って道を右折して真っ直ぐ。環八と北本通りがぶつかる大きな交差点も真っ直ぐ。向かい側に小山酒造が見え、大きな橋(新荒川大橋)が見える。そこからは下流に岩淵水門が見える。でも、先に新荒川大橋を渡ってみる。川風が気持ち良いけど、真夏や真冬は厳しいだろう。下の写真、1枚目は駅で、2枚目はお寺。3,4枚目は橋から見た中洲の公園や川の眺め。遠くに見える鉄橋は京浜東北線などのものである。
   
 橋を渡り切り信号で向こう側に渡る。そこに「綾瀬川・芝川等浄化導水施設」という建物があった。でも中の見学はできない。綾瀬川などに荒川の水を導入して水質を改善する施設とのこと。橋を渡っていくと、先に載せた岩淵水門の遠望が見事。橋を渡って下りていくと、「23区内で唯一の酒造」として著名な「小山酒造」がある。「丸真正宗」という銘酒を作っているが、全く中へ入れない。5人以上で見学ができるということだが。昔はその酒を仕込む名水が飲めたと聞いたように思うのだが、今は全く形跡もない。酒造の中身に関しては紹介しているブログもある。近辺はマンションなどが立ち並び、こんなところで酒を造っているのかと驚くような場所である。がもっと驚くのは、工場に「愛酒報国」と戦時中まがいのスローガンが書かれていることである。「小山酒店」というのが道に大通りにあり、ここで小山酒造の酒も売っているのではないかと思うが、あいにく今日は閉店日だった。(後で東京新聞の2013年9月7日付「東京どんぶらこ」という記事を見直したところ、「愛酒報国」というのは2代目社長による「社訓」だとわかった。)
   
 そこから橋のたもとに戻り、少し下流に歩いて、岩淵橋を渡って中洲へ。正確には中洲ではなく、浮間あたりの土地の東端である。ここにはもう一つ川があって、水門の先で隅田川と合流する新河岸川という川がある。その新河岸川と(まだ水門で分かれない前の)荒川に挟まれた土地なのである。地図を見ると、東京都と埼玉県が複雑に入り組んでいる。その新河岸川を渡るわけだが、このあたりは中洲というイメージがあてはまる。一帯は新荒川大橋をはさんで、野球場やゴルフ場などが整備され、また公園として散歩できる。釣りをしている人も何人かいた。水門に近づくと、歩道が整備され水辺を散策できる。だんだん水門が大きくなる。そして水門を渡って、中洲へ渡ることができる。もっとも近づくと、歴史的建造物も落書きだらけだった。
   
 水門を渡って園地に行くと、大きな彫刻や碑がある。碑は「草刈の碑」で、1938年から1944年まで荒川土手で行われた「全日本草刈選手権大会」を記念して作られたという。「農民魂は先づ草刈から」と書いてある。新水門の方に行くと、こちらも歩いて渡れる。渡るときに川が下に見える。向かい側に「荒川知水資料館」があり、水門を始め荒川のことを知ることができる。もともとは明治中頃の大洪水で東京が大被害を受けたため、その被害を軽減するというのが目的である。日本でただ一人パナマ運河建設に参加した青山士(あきら)という人が水門工事を担当し。資料館のビデオで放水路の説明をしているコーナーがあるが、その中に元伊興小教諭絹田幸恵さんが出てくる。生徒とともに証言を集めて「荒川放水路物語」をまとめた人である。その証言の中で関東大震災時の朝鮮人虐殺の話がたくさん出てきて、後半生は遺骨の発掘と犠牲者の追悼の活動を行った。放水路掘削工事には、朝鮮人労働者が多数いたのである。
   
 さて、最後に川の全景が見える写真を撮ってみたいのだが。1枚目の写真は新水門のあたりから上流を見たもので、左が隅田川、右が荒川である。(現在は放水路を荒川と呼ぶ。)2枚目の写真は、新水門のあたりから下流を見たもので、少し判りづらいが、左が荒川、右が隅田川。
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

亀戸事件と寺社巡り-亀戸散歩②

2014年05月07日 21時46分40秒 | 東京関東散歩
 亀戸で配布している「下町ぶらりマップ」というのがあるが、そこには「伝統と下町人情溢れる街」と書いてある。でも、このマップに「亀戸事件の碑」は載っていない。亀戸事件はそれなりに知られているし、場所を知りたい人もいると思われるが。「下町人情」というのは、権力犯罪を隠ぺいするものなのだろうか。

 「亀戸事件」というのは、関東大震災時の虐殺事件である。当時、亀戸一帯は東京を代表する工場地帯で、労働争議も多かった。まだ東京市ではなく、「東京府南葛飾郡亀戸町」だった時代の話である。当時の日本でもっとも戦闘的な労働運動が盛んな地帯で、「南葛魂」と呼ばれるほどだった。震災以前から亀戸警察とは衝突する関係だったのである。特に南葛労働組合の川合義虎(1902~1923)は、日本共産青年同盟の初代委員長を務めた人物だから警察に狙われていた。また純労働者組合を結成した労働運動家で労働者演劇運動も進めた平沢計七(1889~1923)も亀戸にいた。震災後、3日になって川合、平沢らが検束され、4日亀戸警察署内で習志野騎兵第十三連隊に刺殺された。長く犠牲者数も明らかではなく、「川合、平沢ら」などと書かれてきたが、この「ら」は全部合わせて10名にものぼる大々的な権力によるテロ行為だったのである。

 亀戸事件の碑は浄心寺(亀戸4丁目17-11)にある。駅前の明治通りを天神の方に歩いて行くと、蔵前橋通りにぶつかる。今、そこに「亀戸梅屋敷」という案内所、休憩所が出来ている。(土産やマップが入手できる。)ちょうどその裏手あたりに浄心寺がある。特に解説のようなものがないので、知って行かない限り見つからない。でも亀戸に行くなら、ぜひ立ち寄りたいところではないか。碑の下にある人名は磨滅していて読めない。コントラストなどを調整して写真を修整してみた。言われてみれば、かろうじて川合義虎らの文字が読み取れるのではないか。この碑ができた段階では、中筋宇八が犠牲者数に入ってなくて、9名の名しか刻まれていない。
   
 亀戸というところは、農村から工業地帯、そして高層住宅と商業地と移り変わってきた。今、亀戸中央公園となっている場所が日立製作所の跡地。駅の周辺には、日清紡、東洋モスリン、東京モスリン、東京キャラコ、松井モスリンなどの工場が立ち並び、一大紡績工業地帯だった。日清紡跡地は現在亀戸二丁目団地になっている。この地帯には、紡績女工がいっぱいいて、日本の女性労働運動の先駆けの地だったのである。大杉榮と伊藤野枝夫婦も最初の子ども、魔子が生まれたころは亀戸に住んでいた。「日清紡績創業の地」碑が、川向こうが墨田区という横十間川沿いにある。ちょうどその前あたりに「亀戸銭座跡」の碑もある。江戸時代に「寛永通宝」を作っていたところだという。
 
 亀戸天神の近くには寺社が集中している。「亀戸七福神」になっているので、正月は賑わうのだろう。順々に歩いて写真を撮って行きたい。もっとも全部は見ない。天神から北へ5分ほど、「龍眼寺」は萩の寺として有名だという。小ぶりだが、庭がきれいで碑も多い。芭蕉の碑「濡れてゆく人もおかしや雨の萩」と石田波郷の碑、庚申塔の写真。
    
 そこから少し行くと天祖神社。鯉のぼりが架かっている。「招魂碑」とあったので見に行くと、空襲犠牲者の追悼碑だった。戦後の復興の記念塔も立っている。このあたりには空襲犠牲者関係の史跡が多い。向こうにスカイツリーが見えるのも面白い。
   
 梅屋敷跡(江戸時代に有名だった梅の名所)などを見ながら、ぶらぶらと「普門院」へ。案内板によると、この寺は昔は川筋にあり、移転するときに鐘が落ちてしまった場所が「鐘ヶ淵」になったのだという。鐘ヶ淵というのは墨田区の地名で、カネボウの由来である。また将軍吉宗が鷹狩りの後で休憩したところだという。ここにも戦災犠牲者の碑があるが、それより「野菊の墓」で有名なアララギ派の歌人伊藤左千夫(1864~1913)の墓がある。左千夫は亀戸から千葉方面に一駅行った平井で乳牛の牧場をやっていたことは有名。写真の3枚目は墓地の様子、最後は寺の前面。新緑がきれいで、何となく撮ってみた。
   
 そこからまたぶらぶらと10分行くと、香取神社。香取神社は関東に非常に多い。少し行った墨田区にもある。そこで「亀戸香取神社」とも言う。参道も立派で、スポーツの神社で知られているらしい。境内の白石を拾うと勝ちにつながるとか。境内に「亀ヶ井」がある。亀戸は昔、「亀の島」という島だったそうで、やがて「亀村」となるが、「亀ヶ井」という湧水が有名だったとか。そこで「亀井戸」の地名となり、やがて「井」が落ちてしまったわけである。その実際の井戸ではないが、記念として再現したということで、近くに水をかけるといいという像がある。
  
 ここにはもう一つ面白い碑があり、「亀戸大根の碑」という。大根は亀と並んで亀戸の代名詞。江戸末期から有名だったという。小さな大根なんだけど、江戸前の深川飯に合うという。案内所の梅屋敷の隣にある有名な料理屋「升本」の前で大根を見ることができる。亀戸大根あさり飯で有名だということだが、メニューを見るとなかなか高い。サラダだけというわけにも行かないし。
  
 亀戸駅前には親亀子亀孫亀の噴水がある。これも面白い。特殊プラスティック製だという。もっとも水が出てない時間だったけど。亀戸には面白い店がいっぱいあったが、「立ち食いピッツァ」という店は初めて見た。明治通り沿いにある。天神に行く途中の交差点にある「但本いり豆店」というのも、前から不思議だと思っているんだけど。駅前には一部で知られる「亀戸餃子」。いつも満員で、餃子しかない。というか、焼き餃子と飲み物だけ。ライスも水餃子もない。しかも注文しなくても、二皿出てくる。餃子しかないんだから、最低二皿ぐらいは食べられるだろうが、もう店の決まり。中央通り商店街では、鯉のぼり祭りをやっていて、なかなか壮観だった。
   
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

藤の亀戸天神-亀戸散歩①

2014年05月06日 21時58分34秒 | 東京関東散歩
 「亀戸」というのは、秋葉原から総武線で千葉に向かって4つ目の駅である。江東区の北の方の町で、「かめいど」と読む。(どこから「い」が出てくるかということは②の方で書くが、知らない人は「かめと」としか読めないだろう。でも大体の人は「かめーど」と発音していると思う。)駅前に区立のカメリアホールがあり時々行くことがあるが、大部分の人は「亀戸天神」で知ってる町だろう。それと天神前の船橋屋の葛餅。東京のあちこちでお土産で売っていて、東京では葛餅の代名詞となっている。

 天神様だから当然梅も有名だけど、何と言っても亀戸天神は藤。毎年ゴールデンウィーク頃が藤祭りで、屋台もいっぱい出て外国人の観光客も多い。久しぶりに行ってみようかと思い、4月末に訪ねた。久方ぶりなので、藤棚や太鼓橋のかなたに東京スカイツリーが見えるのが新鮮。クリックして藤を拡大してご覧ください。
   
 ちょうど満開に当たった。せっかく撮った藤の写真をもう少し。枝垂れの藤が池にかかるのももきれい。一週間してまた行ってみたら、もう大分終わっていたが、キバナ藤という黄色い藤が咲いていた。
    
 亀戸天神の創建は1662年ということで、これは日本の神社としてはそんなに古くない。東京では湯島天神もあり、こっちは458年創建と言ってるらしい。それは伝説だろうが、南北朝時代には菅原道真を祀っていたらしい。鏡花の「婦系図」でも有名で、知名度だけなら湯島が上かもしれないが、今はビルの中という感じで、亀戸の方に情緒がある。大宰府にならって作られたという太鼓橋藤の花などは江戸時代から有名で、北斎や広重の絵にも描かれている。著作権は関係ないだろうから、ここに示しておきたい。前者が葛飾北斎、後者が歌川広重
 
 入り口の鳥居を通ると、もう屋台がいっぱい。少し行くと境内の最初に太鼓橋。境内はそんなに大きくはないが、太鼓橋も男橋と女橋の二つある。さまざまの碑も立ち並び、見所が多い。太鼓橋の上から藤棚を一望することもできる。写真向きのビューポイントが多いが、「太鼓橋と藤棚とスカイツリー」3点セットがうまくそろう構図は難しい。
   
 本殿の前に「神牛殿」があり、牛の坐像がある。なでるといいらしく、さすっている人がいっぱい。本殿へ向かう途中に「菅公五歳の像」というのもある。本殿前には「文房至宝」とある文房具の碑とか、いろいろ。解説がないとから由来が判らないが、屋台の裏にずらっとある。
   
 境内のはずれの方には、国産マッチの創始者・清水誠の碑とか中江兆民の碑もある。明治期の自由民権思想家として有名な兆民の碑がどうしてここにあるのか、どうも由来が不明らしい。境内に入ってちょっと左側に行くと「筆塚」というのもある。
  
 ということで大体見てきた感じだけど、本殿の写真も最後に。天神だから受験成就を願う絵馬がいっぱいかかっている。ここの池はとにかく亀が多い。鯉より亀が多い。見てると飽きないけど、少し多すぎないか。亀戸だから亀が大事にされてるんだろうけど。祭り中は屋台がいっぱい出てたが、それより大通りに戻って右に行くと船橋屋本店がある。駅にも売店があり、その他角々に船橋屋売店がある感じだけど、食べられるのは本店だけ。でも祭り中などは並ぶこと必至。ここは昔、中学で就職担当をしていた時に、生徒を連れて工場見学に来たことがある。工場というか、裏で実際に作っているところを見せてくれた。就職すればそこで働くことになるわけだから、職場見学。その後、葛餅をごちそうになった。
   
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日本橋から京橋へ-日本橋散歩③

2014年04月26日 00時18分14秒 | 東京関東散歩
(2014.4.29追記)京橋交差点から東京駅方面へ向かうことはあまりないんだけど、たまたま今日歩いていたら、角のビルが元の片倉館だというプレートがあった。その裏に昔の写真が掲げられていた。興味深いので掲載しておきたい。なお、片倉館と言うのは、片倉工業の旧本社で、今は本社は中央区明石に移転し、跡地に東京スクエアガーデンという大きなビルが建っている。片倉と言えば、最近は富岡製糸場を保存していたことで知られた。また「片倉館」と言えば、長野県上諏訪温泉にある重要文化財の「千人風呂」が有名。でも本社が2009年まで、ここにあったとは知らなかった。
   

 地下鉄銀座線の京橋駅は、国立近代美術館フィルムセンターの最寄駅で、昔の映画を見るためによく訪れる。日本橋周辺のデパート(でやってる展覧会)や美術館などに寄った後で、フィルムセンターまで歩いて行こうかなあという散歩である。ただ歩くだけなら30分程度だが、見たり食べたり写真を撮ったりすれば、1時間半から2時間、さらにそれ以上。足を延ばして銀座まで行くのもいい。東京のど真ん中の散歩である。

 日本橋には老舗(しにせ)が多い。「いい東京」サイトの「東京の老舗」で日本橋を見るのがいい。三越の向かい側あたりに鰹節屋の古そうな建物がある。そこを入って行くと、佃煮の「日本橋鮒佐」(ふなさ)。佃煮を考案したという由緒がある。東京でも一番名前の通った佃煮屋。そこに松尾芭蕉の碑があった。桃青と名乗っていた時代の芭蕉は、江戸に出て8年間ここに住んだという。碑は「発句也松尾桃青宿の春」。その斜め前が、蒲鉾・はんぺんの「神茂」(かんも)だが、有名らしいが食べたことはない。大通りに戻ると「にほんばし島根館」や「奈良まほろば館」があるが、アンテナショップめぐりはまた別に。並びに有名な「山本海苔店」がある。ガラス窓だから、真ん前だと自分が映るので難しい。
   
 橋を渡って少し行くと「日本橋交差点」の手前に「コレド日本橋」がある。三越の真ん前にある「コレド室町」に先んじて2004年に開業した。それまでは「日本橋東急デパート」だったが、さらにさかのぼると、ここが「白木屋」である。江戸時代に越後屋、大丸と並ぶ呉服屋で、明治末からデパートになった。ところが1932年12月16日に、日本初の高層火災である「白木屋大火」が起こったことで歴史に名を残す。(ちなみに、この火事から女性が下着を身につけるようになったという話があるが、これはどうも「都市伝説」のたぐいらしい。)また戦後になると、1954年ごろに横井英樹による「白木屋乗っ取り事件」が起きた。横井英樹も知らない人が多くなったかもしれないが、株の買い占めなどで名をはせたが、晩年にホテル・ニュージャパン火事の責任を問われて禁錮3年の実刑判決を受けた。この白木屋では江戸時代から名水の井戸が有名だったという。その碑がコレドの裏の方にある。そこには「漱石名作の舞台」という碑も。「三四郎」や「こころ」に出てくると言う。その先に有名な洋食屋「たいめいけん」がある。値段は手が出る範囲だけど、人がいっぱい。
  
 大通りを行くと「高島屋日本橋店」で、1933年に建てられた建物はデパート初の重要文化財に指定された。どんどん改築されてしまう中、三越とともに近代の栄華を残す建物として残っていくのはうれしい。横から見ると、ちょっとパリかなんかの風情。デパートから地下鉄に直結してるけど、その途中で地下の水道菅や電気ケーブルを見せてくれる。東京を地下で支えるライフラインを見られる貴重なところである。
   
 さて日銀や三井本館から見てくると、そろそろ少し疲れたかなという時分。店はいろいろあるけれど、老舗で休むとなると、少し戻って橋のそばを入ると、飴で有名な「榮太郎本舗」であんみつなどを食べられる。最近は榮太郎を知らない若い人もいるんだけど、昔は飴では一番有名だった。お菓子もいろいろある。また高島屋の手前に、これも有名な「山本山海苔店」があり、ここでもお茶と菓子で簡単に休める。甘いものにこだわるなら榮太郎、ちょっと散歩の足休めなら山本山か。
 
 さて高島屋から少し歩くと、「日本橋三丁目交差点」。渡る途中で道の真ん中に公園があり、ヤン・ヨーステンの碑がある。江戸時代初期にウィリアム・アダムズ(三浦按針)らと共に日本に漂着したオランダ人で「八重洲」の名のもとになった。交差点の角がブリジストンのビルで、一階に「ブリジストン美術館」。近代のフランスを中心に充実したコレクションを誇る美術館で、都内の企業系美術館ではとても満足できるところ。ブリジストンビルの裏の方に、歌川広重旧居の碑があった。
    
 もう少し歩くと「京橋」で、大規模ビルの再開発が盛ん。ここももともとは「京橋川」にかかる本当の橋だったわけで、日本橋から東海道を歩いて最初の橋だった。1959年に京橋川が埋め立てられ、橋も無くなった。親柱のみ残されている。このあたりも碑が多い所で、銀座のガス灯発祥の碑とか江戸歌舞伎発祥の地などの碑が四方にあるので、どれがどれだか判らないぐらい。
   
 高速道路を超えたところに「警察博物館」がある。白バイに乗れるということで休日は親子連れが多いけど、実物展示が少ないので博物館としては少し物足りない。まあ制服とか警察マニアには興味深いかもしれないが。無料だから行ってもいいかな程度。それなら少し戻って、フィルムセンターの7階の展示施設が日本の映画史が充実していて、そんなに高くない。まあこのあたりは趣味の違いというべきだろうけど。
  
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日銀と日本橋(改)-日本橋散歩②

2014年04月24日 23時58分06秒 | 東京関東散歩
 「三越と三井本館」を4月7日に書き、翌日に「日銀と日本橋」を書いた。でも書き落としや写真の撮り忘れが多かったので、改定することにした。その後「日本橋から京橋へ」を書く予定。(4.24)
 さて、日本銀行本店を見たことがない人もけっこういると思う。東京駅や迎賓館に並ぶ素晴らしい近代建築である。三越の裏手に回ってすぐ。「銀行の銀行」だから、普通の人に用はない。外観を見るだけだけど、写真を撮ってる人がいつもいる。
    
 東京駅を設計した建築家、有名な辰野金吾の作で、1896年にできた。重要文化財指定。日銀大阪支店、京都支店(今は京都文化博物館別館)なども辰野だという。近年では日銀総裁は最高裁長官より知られているのではないか。ニュースによく出てくる日銀は、これかと一度は見るべき東京名所だと思う。平日に4回ほど見学ができる。(要予約)僕も生徒と一緒に行った。ビデオを見てから、地下の大金庫などを見学する。お土産に古いお札をシュレッダーしたものをくれる。社会科見学的な場所としてはとても面白いと思う。壮麗にして堅固な建築で、写真に撮りたくなるスポットである。裏へ回るとこんな感じ。
  
 日銀の真ん前に大きなビルがあり、「貨幣博物館」になっている。和同開珎や慶長大判、日本や世界の珍しい貨幣の数々が展示されている。とても充実したところで、修学旅行生も多い。東京にある入場無料の博物館としては一押しと言ってもいい。
  
 日銀から三越の方に戻って大通りを行くと、日本橋川に架かる日本橋がある。読みは「にほんばし」で、大阪の道頓堀川に架かるのは「にっぽんばし」。東京人は今や日本橋を単なる地名(駅名)だと思って、橋を渡ったことがない人もいると思う。首都高が上を通っていて、風情がないことでも有名だけど。今の橋は1911年に作られたもので、重要文化財。1963年、つまり東京五輪の前年に首都高が開通し、今の景観になってしまった。橋そのものを撮るのは難しいのだが(周囲はビル街で川に近づけないし、ビルにも入れない)、川端に広場があり斜め方向に撮るしかない。
   
 日本橋を遠くから撮ると、首都高を撮影してるようにしか見えない。単なる道路の上を高速道路が通る風景である。でも江戸は水路が発達していて、水運が重要だったわけである。橋そのものは西欧諸国の摸倣に過ぎず、そこに首都高が架かる光景こそ、「残すべき珍しい価値がある」という人もいるらしい。確かに東京の高速道路を「近未来風景」としてとらえる映画が内外にあるのも事実。でも、高速道路がない方がやはり自然ではないか。
   
 ここは道路元標(どうろげんぴょう)があって、日本の道路の起点である。橋そのものは、1603年に徳川家康が最初に架けた。それ以来五街道の起点が日本橋で、それを引き継いでいるわけである。道路元標は道路の真ん中にあって、常にクルマがあるから合法的には(真上からは)撮れない。(車が来ない一瞬を探して、急いで撮るしかないけど、横断歩道がないところで車道に出てはいけない。)元標はここだと上から示す印が、高速道路の間に作られている。最初の写真が元標のアップで、次の写真が場所の印。続いて、橋のたもとにある「道路元標」のレプリカと記念碑。 
   
 日本橋から東西への里程標もある。
 
 川は最近ではクルーズ船も寄るようになり、河岸が整備されてきた。江戸時代には魚河岸があったという碑も作られている。いろんな碑が橋の両側にあるので、全部見ようと思うと行ったり来たりしないといけない。道路元標を撮ってると他を忘れるスポット。本来の日本橋はもっと広くて、人形町とか兜町なんかも入るんだろうけど、今は地下鉄駅の日本橋近辺を日本橋と認識している東京人が多いだろう。このあたりは老舗が多い所で、ブラブラ歩きながら見て歩くのも楽しい。(食べたり買ったりしてもいいわけだけど、敷居が高そうな店が多い。)
  
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

三越と三井本館-日本橋散歩①

2014年04月07日 23時27分43秒 | 東京関東散歩
 暖かくなってきて、ようやく街を散歩する気持ちが戻ってきたので、まず最近話題が多い日本橋近辺を。今年は第一次世界大戦から100年という年だけど、宝塚歌劇100年というのもあった。東京では三越デパートの「ライオン像」設置100年なんだそうだ。第一次大戦を機に、日本の大衆文化が成熟していったことがよく判る。このライオン像は本店本館1階の入り口に、狛犬のごとく左右に2頭が置いてある。しかし、日時限定で、今は他の入り口などにもある。この間、三越は店舗閉鎖を進めてきて、東京でも新宿、池袋店などがなくなった。全国の支店にも置いてあったライオン像がいっぱい要らなくなって、それを保管してあるんだそうである。黄金のライオン像(レプリカに金箔を塗ったもの)や、チョコレートのライオン像まで作った。入り口の2頭も花でお飾りしている。
   
 去年撮影した時は下の写真のような感じだった。このライオン像は、100年前の支配人、日比翁助という人が欧米を視察したときにイギリスで注文したもので、「ロンドンのトラファルガー広場にあるネルソン記念塔の下の4頭の獅子像」がモデルだという。ライオン像が出てくる物語として、北村薫の直木賞受賞作「鷺と雪」があるが、戦前から東京名物みたいな扱いだったのだろう。最後の写真は、裏の方から見た全景。
   
 さて、「三越百貨店」の本店を「日本橋本店」と呼んでいるが、地下鉄の最寄駅は「三越前」である。1927年(昭和2年)に東京初(というか「東洋初」)の地下鉄が浅草-上野間で開通し、以後少しづつ延伸して1932年に「三越前」という駅が作られた。資金難の地下鉄に対し三越が全額負担して作った駅である。以後、この駅名が定着すると、僕なんかは大きくなるまで「三越前にあるから三越デパートと言うんだ」などと転倒した認識をしていたものである。そもそもは江戸時代に三井高利が開いた「越後屋」、三井の越後屋だから「三越」とは、歴史を勉強してから納得したわけである。江戸時代に描かれた「熙代勝覧」というボストン美術館収蔵の大絵巻の複製が地下鉄通路に展示してある。これを見ると、越後屋の繁盛ぶりが印象的である。「現銀掛け値なし」と旗に書いてあるそうだけど、拡大してもよく判らない。日本橋の絵の写真とともに。(写真をクリックすると拡大されます。) 
  
 三越本店は東京都選定の歴史的建造物の指定第一号になっている。近くにある高島屋本店は重要文化財指定でもっと上だけど、これらのデパートは近代日本の発展を今目で見られるような立派な建造物だと思う。戦後に出来た駅直結のデパートにはない趣がある。屋上も何もない広場みたいな感じだけど、漱石の記念碑とか三圍神社(みめぐりじんじゃ)などがある。近くのビルの上だけ見えるから、ちょっと違った感じの風景がある。中央ホールや階段も面白い。階段はよく見ると大理石の中にアンモナイトなどの化石が見つかるという。
   
 さて、日本橋と言っても広いけど、この三越周辺は三井財閥の本拠地だったところである。三菱は東京駅前の丸の内が拠点だが、「三井本館」はここにあった。戦前の三井合名本社があったところで、団琢磨暗殺事件も起きた。三越の隣の風格あるビルがそれで、今は三井住友信託銀行が入っている。三井本館の真裏が日銀本店だが、どちらも重要文化財指定で、歴史的なムードの漂う東京有数の写真スポットになっている。
   
 さらにその隣に「日本橋タワービル」が出来ている。三井は本館建築を残して、そこに三井記念美術館を作った。三井家の持つ美術品を展示することが多い。建物が面白いので、中に入らなくてもエレベーターで登れる8階まで行ってみる価値がある。大体まずエレベーターに圧倒される。トイレも豪華な大理石作りで、ちょっとビックリ。もちろん館内の展示は写真が撮れないけど、そういったところを写真に撮ってみた。エレベーター、カフェ、トイレ。
   
 この日本橋タワーも面白い。入ると超高級果物屋として有名な「千疋屋総本店」が入っている。2階には千疋屋パーラーもある。高いけど、フルーツポンチやケーキに飲み物付けて1500円ぐらいだから、行って行けないことはない。でも一階のフルーツ店の方は、絶対買えないようなすごいフルーツを並べてる。ジュエリーだと思った方がいいかもしれない。天井を見ると、なかなか見事なデザイン。
  
 さて、最近三井タワーの真向いにコレド室町という大型商業施設が出来た。地下鉄三越前駅から直結、そこにTOHOシネマズ日本橋というシネコンも入って、日本橋唯一の映画館である。(昔、三越名画座というのがあった時代もあるが。)3つもある巨大な施設で、日本橋という場所が改めて注目されているわけである。日本橋そのものや日銀は次回に。
  
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

漱石の生誕・終焉の地-早稲田散歩②

2013年12月11日 00時54分39秒 | 東京関東散歩
 太宰治のように、生誕地も終焉地も知ってる読者が大半という作家もある。一方、夏目漱石のように、「坊ちゃん」は道後温泉、「三四郎」は東大の三四郎池などと作品情報は知っていても、作家個人がどこで生まれたか、ほとんどの人が知らない場合もある。まあ東京のどこかなんだろうけど。実は漱石の生誕地も終焉地も早稲田である。終焉の地は10分くらい歩くが、そこは「漱石公園」になっていて、銅像も作られている。そこが「漱石山房」という最後のすみかだった場所。そこへ行く通りは「漱石山房通り」と名付けられている。地下鉄早稲田駅で大学と反対の、神楽坂寄りの出口から地上に出て少し歩く。小さな下宿などが今でも多い地域である。ここは新宿区が夏目漱石記念館を建てようと計画しているので、いずれもっと有名になるだろう。
   
 一方、生誕地の碑は大学方面の出口から1分もしない。いや、僕も今回まで知らなかった。駅から大学方面にすぐ行ってしまうので気付かなかったのである。早稲田通りに沿って横断歩道を渡り、角の酒屋を右に下る。その道が「夏目坂」と出ている。そこにすぐ「漱石生誕地の碑」がある。その酒屋は「KOKURAYA」と看板がある。元は「小倉屋」で、ここが堀部安兵衛が高田馬場での決闘の際に立ち寄って枡酒を飲んでいったというお店。それにちなみ、吟醸酒「堀部安兵衛」とか「夏目坂」、さらに地ビール「早稲田」を売っている。
 
 この地域にはお寺が多いので、まずはまとめて。漱石公園から少し行くと外苑東通りという大通りに出る。そこを渡って牛込保健センターを過ぎると、「多聞院」に松井須磨子の墓がある。あの「復活」のカチューシャで一世を風靡し、師の島村抱月を追って自殺したという日本の女優の草分けのような人。隣の「浄輪寺」には、和算の関孝和の墓がある。そこから早稲田通りに戻り駅に向かって歩くと「宗参寺」という大きな寺がある。ここに江戸時代の軍学者、山鹿素行の墓や中世以来の豪族牛込氏の墓がある。その他さまざまな墓や記念碑もあるが省略。あまり墓を見て歩く趣味もないんだけど、散歩途中にあれば見て行こうかなという感じ。(松井、関、山鹿の順番)
  
 早稲田通りをさらに歩き、馬場下町交差点を右に行くと早稲田キャンパス。真向かいに「穴八幡神社」がある。ここは最近工事でいい写真が撮れない。将軍吉宗以来の由緒ある流鏑馬(やぶさめ)をするところで、その銅像があるけど、晴れた日の午後は日が差して逆光。通りの向かい側あたりも寺が多い。こんな紅葉を撮ったけど、一見どこの観光地かという写真が撮れた。
  
 穴八幡を少し行って左折すると、早稲田奉仕園がある。日本キリスト教会館があるところ。僕はここによく通った時代がある。様々なボランティア活動の中心地で、奉仕園企画の東南アジアセミナー旅行に参加したのである。それ以来、そこで開かれる様々な催しによく行くようになった。30年以上前の話。最近まで宿泊ができる棟があって、様々な団体の合宿や忘年会などでよく使った。今はなくなってしまい、ここに行くこともあまりなくなった。元々は早稲田のキリスト教系学生寮に始まるという。「女たちの戦争と平和資料館」もこの敷地のAVACOビルにある。ここのシンボル的建物がスコットホールで、東京都指定の歴史的建造物である。早稲田奉仕園に行けば、何かボランティアや市民運動の集まりがあるし、またチラシが入手できる。
  
 ちょっと離れるけど、明治通りまで行って副都心線西早稲田駅近くまで行くと、重要文化財の建物がある。学習院女子大学の門で、「学習院旧正門」である。川口市の鋳物工場で作られたという。女子大だから中へは入らず、門だけ眺めて帰る。
   
 西早稲田交差点から北の方へ行くと、「甘泉園公園」がある。元は徳川御三卿の一つ、清水家の庭園だと言うが、一時は早稲田大学が管理し、今は新宿区管轄となっている。それほど大きくないが日本庭園。隣に「水稲荷神社」があって、そこに堀部安兵衛の碑がある。安兵衛の碑はあちこちにあるみたいだけど、討ち入り前の高田馬場決闘の碑である。もっとも1971年に移転してきたものらしいけど。さらに少し行くと新目白通りで都内唯一の路面電車「都電荒川線」の終点(始発と言っても同じだけど)の停留所がある。そこは早稲田大学の裏。これに乗って東京東部に行き来できる。
  
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

早稲田大学-早稲田散歩①

2013年12月10日 00時48分08秒 | 東京関東散歩
 東京散歩シリーズ。早稲田周辺を取り上げる。早稲田と言えば、まあ早稲田大学ということになる。それ以外にも史跡が多いのだが、早大が目的で行く場合が多い。最近も「いまだ知られざる寺山修司―わが時、その始まり」に行った。1月25日まで。これは大隈タワーで行われているが、元秘書の田中未知氏が保管していた資料を早大の演劇博物館と共同で研究しているとのこと。この「演博」、正式に言えば「早稲田大学坪内博士記念演劇博物館」は一度は行きたい大学博物館である。姿もいい。無料。
   
 夏と秋の写真が混在してる。説明の写真を見れば判るように、エリザベス1世時代のイギリスのフォーチュン座を模した建築で、1928年建築。坪内博士というのは、もちろん坪内逍遥のことで、「小説神髄」を書いたりシェークスピアを最初に翻訳した人として知られている。早稲田大学教授だった人で、館内に記念室がある。坪内の古稀とシェークスピア全集完結を祝って建設したという。この人。
  
 中は古い建物らしく、階段がミシミシと音がするのが今は懐かしい感じ。でも少し軋みすぎかも。展示は写真が撮れないけど、民俗芸能や古典演劇から近代、現代、映画など各分野の展示がある。図書室もある。村上春樹は紛争で授業がない時期に、ここにこもってキネマ旬報のバックナンバーを借りてシナリオを読みまくって過ごしたと書いていた。木造建築に照明が当たり、雰囲気的に落ち着く場所だ。ちょっと古典が多いのだが、最近は60年代の「前衛」演劇や映画に関する展示も多くなっている。
  
 早稲田大学にはもう一つ貴重な博物館がある。「會津八一記念博物館」である。うっかり歌人として有名な會津八一の記念館かと思い込んでいたが、そうではなく會津のコレクションを基に貴重な実物資料を展示するもの。元は図書館で、横山大観、下村観山合作という珍しい大作「明暗」という絵がかかっている。また荻原守衛の彫刻「女」もある。他にも様々な民族学、考古学資料がある他、大隈記念室もある。會津八一が若い人向けに作ったという「学規」と言うのも面白い。ここは受付にある案内を参考に、見たものにチェックして行くと帰りに絵葉書をもらえる。是非、トライ。「学規」をもらった。
  
 ところで、早稲田最大の文化財は大隈講堂だろう。重要文化財指定の建築で、大学の象徴と言える。大きすぎて全体を撮るのが難しいが。講堂を過ぎて少し行くと「大隈庭園」があり、ここからは大隈講堂を横から見ることができる。大学の中にこうした庭があるというのはとてもうらやましい。1927年建設である。 
   
 大隈講堂の2階はこんな感じ。7月のドナルド・キーンさんの講演の時に撮ったもの。
   
 大隈講堂という名前は、もちろん創立者の大隈重信にちなんでいるが、早稲田キャンパスに入るとすぐに大きな銅像があるのは有名だろう。これは朝倉文夫によるもので、1932年完成。ところですぐ近くを振り返ってみればもう一つ銅像がある。元総長高田早苗の像だけど、これは知る人が少ない。また相馬御風作詞の校歌碑も近くにある。「都の西北」というアレ。今では西北と言うなら所沢辺りまで行く感じだけど。 
    
 早稲田キャンパスばかりになったけど、キャンパス風景を少し載せて終り。 
   
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする