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尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

オウム「B級戦犯」の死刑執行

2018年07月26日 22時42分19秒 |  〃 (冤罪・死刑)
 オウム真理教事件では13人の死刑が確定していた。そのうち教祖の麻原彰晃(松本智津夫)など7人の死刑が6日に執行された。残る6人はどうなるかと思っていたら、26日にすべて執行されてしまった。これは僕には信じられなかった。「共犯者は同時に執行するのが通例」という人もいる。「残されて執行に怯える日々は残酷」という人もいる。しかし、1年ではなく、1月の間に13人の死刑を執行するとは、現在の「先進国」の例としては考えられないと思っていた。

 「現場」にかける負担が大きすぎるんじゃないかと思っていたのである。命令する法相の方も普通なら大変だ。大体の内閣で、通常国会終了後の夏から秋に内閣改造がある。今の第4次安倍内閣は、2017年10月の総選挙後の11月1日に成立した。今年は9月に自民党総裁選があるから、常識的にはその後の新総裁(恐らく安倍総裁)が決まるまでは今のままだろう。7人を執行したことで、上川陽子法相の役目はおしまい。次の執行は次の法相かと思っていた。

 執行場所を見てみると、6日の執行では東京=3人(松本、土谷、遠藤)、大阪=2人(井上、新実)、福岡=1人(早川)、広島=1人(中川)だった。26日の執行では、東京=3人(端本、豊田、広瀬)、名古屋=2人(岡崎、横山)、仙台=1人(林)である。大阪と名古屋は、両日に分かれているが、ともに同じ日に二人が執行されている。これは恐らく移送の時点で死刑執行の順番が決められていたということだろう。(なお「懲役」囚は「刑務所」で服役するが、死刑囚の場合は執行されるのが「刑」なので、刑の確定後も拘置所で拘置されている。)

 以上で見たように、東京拘置所では3週間の間に6人の執行があった。刑務官は命令が下れば従わざるを得ない立場だが、いくらなんでもこれでは精神的負担が大きすぎるのではないだろうか。どんなに重い罪を犯した重罪犯と言っても、今では長い間拘束されていた弱い人間にすぎない。死刑は執行する側の負担も重い。何でも特別手当が出るらしいが、お金の問題じゃない。ホンネを言うなら、誰かの答弁じゃないけど「それはいくら何でも、いくら何でもご容赦ください」と言いたいんじゃなかろうか。しかし、森友・加計問題を見るまでもなく、「現場」に苦労を押し付けてなんとも思わない安倍内閣である。一月の間にまた大量執行があることも予想しておくべきだった。

 今回執行された死刑囚は、オウム真理教事件では「B級戦犯」的な存在である。ドイツおよび日本に対する戦争犯罪裁判では、A級が「平和に対する罪」、つまり戦争そのものを起こした戦争責任が問われた。一方、B級は「通常の戦争犯罪」である。それをオウム事件に当てはめれば、事件全体の首謀者、立案者的立場だった教祖、幹部クラスがA級、命令されて従っただけの兵士レベルがB級と言ってもいいだろう。もちろん「命令されて従っただけ」でも刑事責任はある。それは当然だけど、しかし自ずから刑罰には軽重がある。今回執行されたメンバーの中には、恩赦で罪一等を減じてもいい死刑囚もいたように思う。

 オウム真理教事件そのものは別に書きたいと思いつつ、なかなか気持ちがまとまらない。「これでオウム真理教事件の法手続きはすべて終了した」などとマスコミは報じている。何を勘違いしてるんだろうか。無期懲役囚が懲役刑を務めている間は、「法手続き」が続いているじゃないか。無期懲役は終身刑じゃないけど、現在は事実上果てしなく終身刑化が進行している。それはともかく、オウム事件の懲役囚がいる間は事件が続いている。

 「自首」が認められて無期懲役になった林郁夫の場合、地下鉄サリン事件で二人の死者と多くの重傷者を出している。一方「自首」しても軽減されなかった岡崎一明、地下鉄サリン事件で死者が出なかった横山真人、坂本弁護士、松本サリンで裁判所も「従属的立場」と認めた端本悟の場合などを考える合わせると、重大犯罪に関わったと言っても刑罰の軽重を人間が決定できるのかと思う。

 今回のような大量の死刑執行を見ると、安倍内閣は「外からの批判に聞く耳を持たない」ということがよく判る。アメリカのトランプ大統領、ロシアのプーチン大統領、中国の習近平国家主席、皆同じだ。あるいはトルコのエルドアン大統領、フィリピンのドゥテルテ大統領、カンボジアのフン・セン首相…。そう言えば同じようなタイプの指導者が増えている。安倍首相の「お友達」が多い。後のアメリカ大統領、テキサス州知事のジョージ・ブッシュは大量の死刑を執行したことで知られる。(その中には国際人権規約で禁じられた犯行時未成年の死刑囚も含まれる。)ブッシュがイラク戦争を始めることを思えば、やはり死刑制度と戦争は深い関係があると思う。
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オウム死刑囚、刑執行の問題点を考える

2018年07月17日 20時20分40秒 |  〃 (冤罪・死刑)
 時々つながる不思議なネット接続、つながってない間にワールドカップは終わってしまった。日本代表に関してはもっと書きたいことがあったが、もういいかな。西日本の集中豪雨に関しては、また後で。まずはオウム真理教の死刑執行の問題点について書きたい。

 オウム真理教幹部7名の死刑が執行されてだいぶ経ったけれど、僕にはいくつもの疑問点がある。日本政府は死刑制度存続に固執し、21世紀に入ってからも毎年執行してきた。執行の人数や順番は秘密とされ、誰がいつ執行されるのかはよく判らない。大まかには死刑の確定時期をもとに、再審、恩赦の請求の有無などによって判断されるが、今までにもまだ順番にならないはずの死刑囚が執行されたことも多い。

 その意味では、今回のオウム真理教の場合も、一般的な日本政府の「死刑執行に関しては秘密にする」方針から外れているわけじゃない。だから「疑問」なんてないという考え方もあるだろう。単に共犯者の裁判が終わって順番が来ただけだと。だが、7名もの大量執行の人数はどうして決まったのか麻原彰晃(松本智津夫)の遺体はなぜ拘置所側が火葬したのか当日朝の大々的な報道ぶり(僕は見てないが)は何故可能になったのか。それらは僕にとって疑問である。

 死刑の執行命令は7月3日(火)に上川陽子法相が署名した。実際の執行は6日(金)で、その前日夜に「自民党酒場」が開かれていた。5日夜から西日本の集中豪雨が激しくなっていて、(麻原処刑後の)6日から各地で大きな被害を出した。そんなときに「宴会」かと批判されているが、この席に上川法相が出席していた。それも普通だったら、死刑執行を命じている最中に宴席に出るだろうかと思う。部下が明日の死刑執行を控えているんだから、上司が飲んでる場合じゃないだろう

 オウム真理教事件は普通、「狂信的なカルト宗教によるテロ事件」と思われている。それに間違いないけれど、オウムの主観ではちょっと違うんじゃないか。普通のテロ事件の場合、「自分でもテロと判っている」。2001年9月11日のいわゆる「アメリカ同時多発テロ」の場合、実行犯は自分も死ぬことが判っていた。だから、その事件がどういう結果をもたらすかは、後に残る仲間に託す問題である。自分がアメリカ大統領になって世界を変えるつもりなど最初からないわけである。

 一方、オウム真理教の場合、あまりにもチャチで拙劣な団体だったから、誰も本気にはしなかったけれど、日本政府に戦争を仕掛けているという意識だったのではないか。だから「自爆テロ」はしない。自分たちは国家に準じた組織を持ち、既成の日本政府にとって代わる存在なのだから。もともとオウム事件は「内乱罪」で裁くべきなのではないかという主張があった。麻原彰晃の主観にあっては、それは確かに「内乱」だったのかもしれない。日本政府もそれを判っていて、一種の「国事犯」と考えたのではないだろうか。

 現在の日本の憲法では、特別法廷は作れない。オウムも「単なる殺人犯」以上のものではなく、現行の法体系のもとで死刑判決を受けた。だが当時はオウム信徒は何か理由を付けて「微罪逮捕」された。日本は事実上の「緊急事態宣言」のもとにあった。当時を知る人なら、そもそもそれを覚えているだろう。だから、事実上の「オウム特別法廷」で裁かれたとも言える。そこでは事前に決められていたかのように、地下鉄サリン事件実行犯は死刑、送迎役は無期懲役になっている。刑事責任上、それは当然とも見えるけれど、何だかどこかで基準があったような気もする

 そういうことを考え合わせてみると、今回の死刑執行の疑問が解けてくる。これは一種の「内乱勝利宣言」だったのではないか。だから事前に執行をリークして、一部のテレビは刑務官が出勤してくるところを映像で撮影した。そんなことは事前に知らなきゃできない。そして麻原執行をいつもの死刑執行よりずっと早くリークして、大々的な報道を可能にした。執行されたのが7人だったというのは、たまたま幹部級の数だったという以上に、「極東軍事裁判」(東京裁判)の死刑執行数を意識していたのではないかと思う。占領下の戦犯裁判の「屈辱」を晴らすことを念願とする安倍政権だから、きっと同数の処刑を考えたのではないか。

 麻原彰晃(松本智津夫)の遺体をめぐる問題はもっと深刻である。拘置所側は4女へ渡すという「遺志」があったとする。でもこの4女は昨年、家裁に父との相続関係を断つ申し立てを行い認められた。相続は「財産」「負債」だけではなく、遺体(遺骨)、遺品も「相続」者が受け継ぐべきものだ。死者の財産を受け継ぐ代わりに、葬祭も担当するのが普通だろう。だから相続権を放棄した人には、もともと遺体、遺骨の引き取り資格はないはずだ。他に遺族がないのならともかく、引き取りを申し出ている他の遺族がいるにもかかわらず、拘置所側で火葬したのは何故か。

 それが「故人の遺志」だということになっているが、拘置所側の説明はあいまいだ。口頭で表示があったというが、後々揉めないためには書面による指示が必要だったと思う。それは可能なはずだ。「心神喪失」状態なら死刑は執行できないんだから、執行時は心身喪失じゃなかった。だったら書面で指示できるはずだ。僕が想像するには、多分麻原彰晃は執行時にはっきりとした意思を明かさなかったのではないか。拘置所側が4女でいいかと問いかけ、はっきりしないまま「いいんだな」となったのかもしれない。

 麻原が自覚して4女を指定したとは考えにくい。相続を断った子どもに遺体を渡すとは普通理解できない。拘置所側が「誘導」しないとそうはならないと思う。そう思われないためには、本人の自筆の書面さえあればいい。心身喪失じゃないんだったら、可能なはずである。でもそれはないというなら、逆に考えて「心神喪失」状態にあったと疑われても仕方ない。4女指定という中に、僕は心神喪失状態の死刑囚を無理やり執行してしまったという事態を想定してしまう。

 その結果、「麻原遺体の神格化を避ける」の名目で、4女側が遺骨を海に散骨すると言われている。遺骨の「奪還」「襲撃」が予想されるとして、国家がやってくれと弁護士が要請している。これはまずいんじゃないか。それでは「国葬」である。引き取りたいという遺族がいたら、引き渡せば良かったのではないかと思う。それが神格化に利用されたとしても、そのことが「可視化」された方がいい。見えない「伝説」になるより、ずっといいと思う。

 「日本国対オウム真理教」の戦争だったら、当然のことだが僕は日本国の側に立っている。しかし、その日本国が現行の法規を守らないで、無理やり死刑を執行したように思える。それでは「法治」ではなくなる。安倍政権はいろいろな場面で「立憲主義」「法治主義」をないがしろにしてきた。また原発など多くの問題で「世界の情勢」を無視してきた。そういう安倍政権ならではの死刑執行だった。政治利用を考えたところに、集中豪雨が重なった。その日の夜のニュースでは、死刑執行は二番目のニュースだった。もう「麻原死刑の日から大雨が続いた」という印象しか残らない。
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「予告された殺人」、オウム真理教事件の死刑執行

2018年07月06日 23時11分06秒 |  〃 (冤罪・死刑)
 朝9時前後にスマホでニュースを見たら、「オウム真理教、松本智津夫死刑囚を死刑執行」とトップに出ていた。いや、今か。通常国会が長く延長されたので、ついワールドカップと天気(関東は猛暑、西日本は台風と集中豪雨)に気が取られていた。去年は7月13日だったが、3年前の上川陽子法相前任時の執行は6月25日だった。国会でも死刑に関心がある議員がどんどん引退、落選したので、会期内でも気にしないのだろう。法相は3日前に署名したと語っている。7月3日だったら、ワールドカップで日本が敗退したことで、諸外国の動向を気にしなくてよくなったのか。

 この問題に関しては先に「オウム死刑囚、執行してはならない4つの理由①」(5.28)、「オウム死刑囚、執行してはならない4つの理由②」(5.29)を書いた。近年6月に死刑執行がある年もあるので、5月中に書いておかなくてはと思ったのである。もちろんそれで何か現実的な影響を与えられると考えたわけではない。これは国家的な「予告された殺人」なのだから。(ガブリエル・ガルシア=マルケスの傑作「予告された殺人の記録」をどうしても思い出すので、言葉を借りた。)

 今回は麻原彰晃(松本智津夫)の他、幹部クラスの6人を一斉に執行した。7人同時というのは、現代の世界でちょっと考えられない大量の執行である。しかも今回執行された中には、再審請求を続けていた人がかなりいる。再審にあたる事由があるのかは僕が判断する材料がない。今回のような死刑執行を見ると、やはり「死刑制度を政治的に利用している」気がする。「平成の事件は平成のうちに」などと検察幹部も語っているという。天皇の交代や東京五輪のある年には執行できないということらしいけど、僕には全く理解できない。

 今回の執行に関しては、先に書いたことと重なるけれど、一番大事なことが判らない。「麻原彰晃は心神喪失なんじゃないか」という疑問である。僕は心神喪失だとは言わない。判るわけがない。でも、常識的に考えて「心神喪失の疑い」があるのは間違いない。その疑いを法務省が国民に向かって晴らしているとは思えない。法務省が執行するんだから、刑事訴訟法に違反することをするはずがないということなんだろう。お上が判断することに従えばいいんだということだろう。

 しかし死刑執行は国民の税金で行われる。国家の名のもとに「合法的な殺人」を認めるものだ。しかもオウム真理教のテロ事件は、世界各国に衝撃を与えた事件である。各死刑囚の具体的な心身の状態、執行時のようす、再審請求中の死刑囚を執行していいのかなどを国民に説明する必要がある。上川法相の記者会見は事実を報告するだけで、肝心の問題に答えていない。さらに、今までの死刑執行時と比べて、ことさら早い時間帯に麻原の執行だけが報道された。どういう経過か、そこも疑問である。死刑制度全体の議論も大切だけど、オウム事件個別の事情に沿って、まず多くの疑問を解明していかないといけない。

 「もっと真相を話して欲しかった」という人もいるが、そういうことをしたくない、されても困るということで死刑制度があり、死刑執行が行われる。「教祖の死刑で神格化が進む」「関連教団の反発や復讐テロが心配」なんて今さら言う人もいる。それが「死刑制度を持つ国のリスク」なのであって、そんなことをいうなら死刑制度を廃止すればいいのだ。僕の理解では、選挙敗北を機に「陰謀史観」に囚われ、「秘密の大量破壊兵器」を持った時に「軍事組織化」が進行した。

 そのようなテロ事件が社会全体を「陰謀史観化」したと思う。日本やアメリカの現政権のあり方は、「オウム」や「9・11」が生み出したものではないだろうか。ニーチェのいうところの「怪物と戦う者は、その過程で自分自身も怪物になることのないように気をつけなくてはならない。深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいているのだ。」という言葉を思い出す。(なお、「オーム事件」なんて書いている人があまりにも多いのでビックリした。)
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オウム死刑囚、執行してはならない4つの理由②

2018年05月29日 22時51分02秒 |  〃 (冤罪・死刑)
 前回が途中で終わってしまったので続き。麻原彰晃こと松本智津夫死刑囚は、刑事訴訟法が執行を禁じる「心神喪失」の状態にあるのか。麻原彰晃は一審途中から不可解な言動が多くなり、やがて弁護士や家族ともコミュニケーションが取れなくなった。一審の死刑判決後、控訴審では弁護団の問いかけに答えず、控訴趣意書が提出できなかった。弁護側は公判停止を求め、精神鑑定が行われた。裁判所が依頼した鑑定では訴訟能力が認められ、控訴棄却となった。それを最高裁も認め、2006年9月には死刑判決が確定した。その状態をどうとらえるか。

 一審で弟子たちの離反が相次ぎ、厳しい判決が予想された。その頃から不可解になったので、麻原は「詐病」だという考えがある。「詐病」(さびょう)とは「病気のふりをする」ことで、精神状態は正常だという判断になる。「都合が悪い現実から自己逃避して精神が崩壊する」というのは、まさに病気なのだから「詐病」とは言わない。当初は「詐病」的な部分がなかったとは言えないかもしれないが、ここまで長く「詐病」を続けることが人間には可能なのだろうか

 「詐病」そのものが可能なのかどうか僕には判らないが、今では「詐病」説はむしろ麻原彰晃の「偉大さ」を主張するものじゃないだろうか。食事はしているんだから病気じゃないなどと言う意見も見たことがあるが、重い精神疾患の患者は餓死してしまうのか。「摂食障害」じゃないんだから、そりゃあ食事は取るだろう。「詐病」説の人の多くは、「統合失調症」などの精神疾患は「こんな症状」があるはずだと自分なりのイメージを持ち、そうじゃないから詐病だいうことが多いように思う。病態には様々のヴァリエーションがあって当然で、あまり簡単に判断できないものだと思う。

 長い拘束があると「拘禁反応」が起きるのは間違いない。およそどんな人にも起こり得るだろうが、近年まざまざと見ることになったのが袴田事件の袴田巌さんである。無実を訴え続けていた袴田さんが、いつしか姉の面会にも応じなくなり、不可解な言動をするようになった。再審請求が認められ、確定前だけれど釈放が認められた。釈放後の様子は映像で伝えられているが、釈放されたあとになっても不可解な言動はすぐには無くならない。紛れもなく無実である(と考える)袴田さんでさえそうなんだから、麻原彰晃に異常な「拘禁反応」が起こっても不思議はないだろう。

 いや、もちろん精神医学の専門家でもなく、本人に面会したわけでもない僕には正確な判断はできない。もっと重い精神疾患(統合失調症など)であるかもしれず、また「詐病」なのかもしれないが、それにしても何らかの拘禁反応は生じていると推測するのが常識的な判断ではないだろうか。問題はそれが「心神喪失」とまで言えるかどうかである。その場合、刑事裁判なら罪の軽減をしなくてはならない「心神耗弱」状態に止まっているとしたならば、どう判断すべきか。

 刑事訴訟法にきちんと規定されている以上、「心神喪失」者の死刑を執行したら、それは「殺人」だろう。問われている罪の大きさから、麻原彰晃は単なる死刑囚の一人とは言えない。執行には一点の曇りがあってもいけない。それは死刑制度の存廃などの議論とは関係ない。むしろ死刑賛成者こそが論じるべき問題だろう。少なくとも法務省が誰の意見も聞かず、急いで執行してしまうようなことはあってはならない。麻原彰晃の精神状態をどう考えるか、多くの人が関わる議論が必要だ。多くの報道機関がこの問題をスルーしているのはおかしいのではないか。

 「第一」の論点で長くなってしまった。第二の論点はオウム真理教事件の特異な性格である。オウム真理教にはあまりにも多数の犯罪行為があり、多数の人が複数の事件に関わった。そのため「統一的なオウム真理教法廷」などはなく、個々バラバラに裁かれたが事実認定と量刑は同じ構造を持っている。教祖である麻原彰晃が自ら実行した事件はないわけだが、主要な事件、坂本弁護士一家殺害事件、松本サリン事件、地下鉄サリン事件などは麻原彰晃が主犯とされた。すべては教祖の命令によるものという認定になっている。だから、「主犯」が「心神喪失」で死刑執行ができないとしたら、命じられて従った実行犯だけを死刑にしていいのかという問題が起きる。

 地下鉄サリン事件を例にとると、サリン製造と散布は死刑、運転手は無期懲役である。一般的に言って、実行犯は重く、運転手だけなら軽い。銀行強盗なんかの映画では、そこから分け前をめぐって争いが起きるのが通例である。でも、この事件では運転手になるか、車内で散布するかの違いは本質的なものではない。運転手でも坂本弁護士、松本サリンの実行犯である新実智光は死刑だが、彼の車に乗っていた林郁夫は霞ヶ関駅で2人の死者が出たにもかかわらず自首が認められ無期懲役になっている。

 それは理解できるのだが、丸の内線荻窪発池袋行列車の実行犯横山真人の場合、唯一死者が出なかった。もしこの事件だけだったら、殺人未遂や傷害では死刑判決にはならない。死者が出るか出ないかは偶然であって、刑事責任に変わりがないとも考えられるが、それを言えば、散布役か運転手かも本人が決めたことではない。地下鉄サリン事件では、実行犯の広瀬健一横山真人豊田亨林泰男の4人が死刑判決だが、それぞれの車内での死者数には違いがある。しかし、総体として地下鉄サリン事件という一体の犯罪として裁いた。刑法上問題はないけれど、なんだか裁判官が事前に打ち合わせしたかとさえ思えるほど同じ判断をしている。

 この特異な事件と裁判結果を見ると、決まった以上は死刑を執行しなくてはいけないと考えるのもどうなんだろう。世界的に注目された事件だけに、世界でテロ実行犯に関する死刑論議が起きるだろう。だからと言って、この事件だけ新しい仕組みを作るのも確かにおかしい。じゃあどうするべきか。とりあえず「主犯」である麻原彰晃の精神状態に関する判断をどうするかを法務省が考えるべきだ。そして「恩赦」制度がある以上、可能性を考えるべきではないかと思う。無罪であるとは到底考えられないので、もし「終身禁錮」という刑があれば、比較的にはふさわしいかと思う。
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オウム死刑囚、執行してはならない4つの理由①

2018年05月28日 23時22分04秒 |  〃 (冤罪・死刑)
 オウム真理教事件死刑囚の執行が近いという観測がなされている。2018年1月18日付で、最後まで続いた高橋克也被告の無期懲役判決が最高裁で確定した。これで1995年に摘発されたオウム真理教事件の裁判が、逃亡していた人も含めてすべて終わった。3月14日には、12人いる死刑囚のうち7人が東京拘置所から他の拘置所に移送された。(死刑囚は「懲役刑」ではないので、死刑確定後も刑務所ではなく拘置所で拘束され執行される。)死刑執行とは直接関係ないと法務省は言ってるようだけど、やはり執行の準備なんじゃないかと言われている。

 この問題は一度ちゃんと書いておきたいと思っていた。国会会期末も近づいてきたから、そろそろ書かないと。(年によって違うが、近年は国会終了後の6,7月頃に死刑執行が多い。)僕はそもそもが死刑廃止論者なので、原則的には世界各国のすべての死刑に反対なんだけど、ここで書くのは死刑廃止論の理由ではない。オウム真理教事件の特別な事情を考えたいのである。

 4つの理由と書いたけど、それらは別々のものではなく関係している。第一の理由は主犯とされる麻原彰晃こと松本智津夫死刑囚の現状が不明で、「心神喪失」の可能性があることである。第二の理由は、オウム真理教裁判の独特な事情である。第一と第二は書きだすと長くなるから後に回す。第三は「再審や恩赦の検討が不十分である」ということだ。

 死刑に関しては様々な考えがあっても、現に死刑という制度が厳然とあるのは間違いない。だから法に決まっている執行をしないわけにはいかないというような発想の人が時々いるけど、そんなことを言うなら死刑囚にも再審や恩赦という制度が厳然とある。そっちも尊重しないといけない。再審請求をしている死刑囚もいるんだから、その決着がつかないままでは執行できないはずじゃないのか。仮に本人に再審や恩赦の意向がなくても、今や再犯可能性がゼロというべき死刑囚に対して恩赦は十分考えていいのではないか。

 第四はオウム真理教事件が「大量破壊兵器」を使った「宗教テロ」だったことだ。21世紀を迎えると、毎日のように宗教テロや大量破壊兵器(核兵器や化学兵器)に関するニュースを見聞きしている。世界が最初に衝撃を受けたのが、1995年の地下鉄サリン事件だった。そういう事件は完全な解決が難しい。指導者(教祖)を死刑にすれば、かえって伝説的なカリスマとして語り伝えられないか。また、オウム死刑囚はある意味で世界的に非常に重要な存在かもしれない。なぜ易々と「マインド・コントロール」されたのか。なぜ「サリンの製造」というすごい技術が可能だったのか。人類史的には「生かしてその体験を全人類で検証する」ということがあっていいのではないか。

 さて第一に戻って、麻原彰晃はどうなっているのか。言うまでもなく、刑事訴訟法では「死刑の言渡を受けた者が心神喪失の状態に在るときは、法務大臣の命令によつて執行を停止する」(479条)と規定している。刑法39条でも、犯行時に心神喪失者は罰しない、心神耗弱者は罪を軽減するとある。この規定に関して一番大きな問題は精神医学的に「心神喪失」「心神耗弱」の定義が難しいことだと思う。確かに昔は精神疾患は「難治」だった。ほとんど「不治の病」と思われていた。でも今では適切な薬物療法でかなり抑えられる。一方、人格障害など薬では治せないケースばかり重い刑事責任が科せられている。

 そういう大きな問題はこれ以上書く余裕がないけれど、近代の刑事裁判は「理性が身体性に優先する」という大原則がある。どんなに貧しくて腹が減っていても、コンビニで万引きしてはいけない。社会福祉制度を利用するなど、自分で対策を講じなくてはいけない。それを逆に考えると、自分を抑えられる理性が働かない人間には罪を問えない。同じことが死刑の執行にも規定されているわけで、本人が自分の行為が判らないようになってしまっては、「刑罰」を科す意味がないと考えるわけである。とにかくそういう規定が法にある以上、それはきちんと遵守されないといけない。では麻原彰晃は今どのような状態にあるのか。大分長くなってしまったので、ここでいったん切って2回に分けたいと思う。
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死刑囚の恩赦問題②

2018年01月14日 22時49分34秒 |  〃 (冤罪・死刑)
 「死刑囚の恩赦問題」一回目では、天皇退位、皇太子の即位が予定されている以上、2019年には必ず一定規模の恩赦が行われるに違いない。その機に際して、あまりにも長い間を死刑囚として処遇されてきた人には恩赦を検討するべきだという提起を書いた。大方の広い賛同は得にくい論題だとは思うけれど、さらに具体的に検討して書いてみたい。

 まず最初に「恩赦」という制度について。日本では大規模な恩赦が実施されて来なかったため、なんとなく「行政権による司法権侵害」のように思う人がいるんじゃないかと思うが、それは違う。司法権は「裁判で事実を認定し、有罪者には量刑を決定する」という役割を持つ。だが、裁判で決まった刑罰を実際に執行する権限は「行政権」にある。それは刑務所や少年院などが法務省管轄の行政機関であることで判る。恩赦も憲法で内閣の権限と明記されている。

 外国では(特に大統領制度の国)、幅広い恩赦が実施されている。アメリカではオバマ前大統領が、退任間近の時期にプエルトリコの独立運動家、オスカル・ロペス・ リベラの恩赦を決定した。もともとシカゴで人権派弁護士として頭角を現したオバマ前大統領は、在任中に非常に多くの恩赦令を出している。一方、トランプ大統領もアリゾナ州マリコパ郡のジョー・アルパイオ元保安官に恩赦を行っている。この人は裁判所の命令に反して差別的な不法難民取り締まりを行ったとして法廷侮辱罪で有罪になっていた。良し悪しは別にして大統領には恩赦の権限があるわけである。

 日本でも「事実上の政治犯」はいっぱいいる。デモや座り込み、あるいは労働組合の団体交渉、街宣活動などで「微罪逮捕」されている人はたくさんいる。裁判では無罪を求めて活発な支援運動が行われたりするが、形式的に有罪を構成していると、裁判所も有罪判決を下すことが多い。(量刑では配慮する場合もあるが。)こういう場合、「恩赦による免訴」があっても良いと思う。裁判が社会を分断するよりも、行政権の判断で「裁判をやめてしまう」のもありなんじゃないか。

 問題を「死刑囚の恩赦」にしぼりたい。1960年代末に「死刑囚の恩赦」が政治的に取り上げられたことがある。当時は帝銀事件の死刑囚・平沢貞通など何人かの死刑囚が無実ではないかと大きな問題となっていた。一度50年代に再審開始決定が出た(後に取り消された)免田栄さんもその一人である。また同情すべき事情があると思われた死刑囚もあった。それらの事件は占領下の裁判であり、また憲法や刑事訴訟法が変わって間もない時期だった。

 そこで「占領下」ということに着目して、再審の要件を緩和してはどうかという「再審特例法案」が野党側から提出されたのである。提案者は社会党の神近市子議員(大正時代に恋愛のもつれから大杉栄を刺した日影茶屋事件の当事者)である。それに対し、法務省は死刑囚の再審に抵抗し、対象とされた7人の死刑囚には西郷吉之助法相が「恩赦を検討する」と国会で答弁したのである。(西郷は参議院議員で、西郷隆盛の長男寅太郎の三男。)しかし、帝銀事件の平沢の恩赦は最終段階で中央更生保護審査会で却下された。免田事件、財田川事件は再審を求めて恩赦を申請せず、80年代になってようやく再審で無罪となった。

 結局、この時に恩赦で無期懲役に減刑されたのは、今は忘れられている二つの事件の二人の死刑囚(一人は戦後初の女性死刑囚)とこれから詳しく書く福岡事件の一人だけだった。その事件は1947年という戦後の混乱時代に、中国人との間で起こったやみ物資をめぐる殺人事件である。旧日本軍の拳銃が使われるなど、いかにも戦後の混乱期という感じだ。その事件では7人が起訴されたが、「主犯」とされた西武雄は立ち会っただけで共謀していないと否認した。一方、実行犯の石井健二郎は拳銃発射を認めたが偶発事件と主張した。この二人には死刑判決が下された。当時は占領下で、中国は戦勝国だから裁判にバイアスがかかったという指摘もある。

 冤罪を訴える西と面会していた教誨師の僧侶、古川泰龍は無実を確信し、全国的に支援運動を行った。(そのため古川は知られるようになり、連続殺人犯として有名な西口彰が古川宅を訪れ、それが逮捕のきっかけとなった。西口は佐木隆三「復讐するは我にあり」のモデル。)このような事件ではなかなか「明白性」のある新証拠を見つけにくい。再審請求がはかどらない中で、結局法相の答弁を信じて再審をあきらめ恩赦一本にしぼることになった。しかし、1975年6月17日に、中央更生保護審査会は実行犯の石井には恩赦を認めながら、「否認」していた西の恩赦を却下した。そして全く不可思議なことに、同日直ちに西の死刑執行が行われた。法相の答弁を信じて再審を取り下げたことによって、だまし討ち的に殺されてしまったのである。

 この時の石井健二郎に対する減刑が、今のところ最後の死刑囚恩赦である。(なお石井は無期懲役囚として14年を過ごし、1989年12月に仮出所が認められ、2008年11月に死去した。)このように恩赦を申請しても認められるとは限らず、認められなかった場合には何の猶予もなく即時に死刑が執行されてしまう前例ができたわけである。本来は一回恩赦が却下されても、その後再び恩赦を申請したり、再審を請求することは出来るはずだが、そういう余裕を与えないために即時処刑が行われたと思われる。(その後遺族が死後の再審を請求している。)

 福岡事件のケースを見てしまうと、死刑囚が恩赦を申請しなくなるのも当然だろう。多くの死刑囚、弁護士が恩赦請求ではなく再審請求を行うのは、そういう理由があるからだ。「恩赦」というものは、本来「反省しているものに恩典を与える」ことだから、再審請求をしていては通らない。だから、今後も「個別恩赦」を求める死刑囚はいないのではないか。僕が今言っているのは、個別に審査するのではなく、政府の方針として一括的に減刑を行うという方向である。本来、「大赦」は本人が希望するかどうかにかかわらず、国家の側で一方的に減刑、免訴にするものである。

 現在、「昭和時代に確定した死刑囚」は袴田巌さんを含めて5人いる。一番古いのは「マルヨ無線事件」と呼ばれる尾田信夫死刑囚で、1970年11月に確定した。(事件は1966年12月。)強盗傷害は認めているが、放火は否定し再審請求を続けている。犠牲者は一人で焼死だった。再審は日弁連が支援していて、ストーブを足で蹴って倒したという「自白」対し、足で蹴っても倒れず仮に倒れても鎮火することが証明されたが、再審は棄却された。強盗傷害の最高刑は死刑ではないから、執行できないままになっている。再審制度が機能しない以上、恩赦で対応するべきだ。

 他にも渡辺清死刑囚など、一審は無期懲役だった人もいる。1988年に確定しているが、認定事実は4人殺害だから、それが確かなら死刑は免れない。だが、一審では4件中2件は無実と主張して認められた。最高裁でも調査官は無実の心証だったと言われている。部分冤罪で、殺害2人でも死刑になることは多いが、複雑な経緯をたどり再審請求が続いている。あるいは本人が控訴を取り下げたピアノ騒音殺人事件の大濱松三死刑囚は恐らくは精神的に執行できないような状態が長く続いているのではないか。他に連続企業爆破事件の益永利明死刑囚もいる。(共犯の大道寺将司死刑囚は昨年5月に死去。)ちょっと事情が違うけど、確定は87年である。

 他にも「平成初期」の確定死刑囚にも冤罪可能性が高い人が何人か見受けられる。再審が認められるほど「明白」な「新証拠」は、なかなか見つけられないものだ。血液が残っていれば、DNA型鑑定で真犯人かどうかが判明するケースがあるが、そういう事件ばかりではない。冤罪可能性ばかりではなく、獄内の状況、事件内容など様々な問題を考えないといけない。今は被害者感情がまだ厳しいケースもあるだろう。だが30年以上も死刑執行ができない事件というのは(今のところ、2012年確定の死刑囚まで執行されている)、「死刑」という刑罰を超えている。何かの特別事情があると思わざるを得ない。それは「行政権」による「恩赦」で対応して然るべきではないだろうか。
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死刑囚の恩赦問題①

2018年01月13日 23時14分41秒 |  〃 (冤罪・死刑)
 このブログに書いてない問題はいっぱいある。もちろん世界のあらゆる問題について一人で独自の見解を述べるのは不可能だ。関心があまりない問題(SMAPの解散とか安室奈美恵の引退とか)もあれば、勉強してから書こうと思っているとなかなか大変で書けない問題もある。いろんな人があちこちで書いているから、まあいいかと思う問題もある。(僕が政治的な見解を書いても実現可能性はないけれど、映画や本を紹介すれば見たり読んだりする人もいるかも…。)

 ということで天皇の退位問題が表面化した時も特に書かなかった。以上の理由の複合みたいな感じで、基本的には関心がない。実際の成り行きも事前にこうなるだろうと考えたのと大体同じあたりで決着した。ただ、退位・即位の時期に関しては、僕も含めて予想外だったのではないか。5月の連休に合わせてしまって「10連休」になるだろうという話。それはいいと思う人ばかりではない。病院や福祉施設などがどうなるか、今から心配な人も多いに違いない。

 天皇退位問題を聞いたときに、僕がまず思ったのは「昭和天皇の時のような死刑囚の悲劇を繰り返してはならない」ということだった。そりゃあ一体何のことだと言われるだろう。その説明は後に回して、要するに新天皇の即位があれば、それを「国家的慶事」と考えて「恩赦」が行われるだろうということだ。戦後に行われた「政令恩赦」は12回に及ぶというが、大規模なもの(「大赦」)が行われた例として、日本国憲法公布講和条約締結国連加盟昭和天皇大喪の礼がある。

 そこまで大掛かりではないが、皇太子結婚(2回)や明治百年、沖縄返還、天皇即位などに際しても恩赦として復権令が出された。復権というと、選挙違反等で公民権停止になっていた政治家が復帰できたりするので評判がよくない。前回は昭和天皇の葬儀に際して大規模な大赦があったので、天皇即位時は小規模だった。2018年は「明治150年」式典があるらしいが、百年ならともかく恩赦を行うほどの盛り上がりにはならないだろう。翌年に新天皇の即位が予定されているわけだから、恐らくは2019年にある程度の規模の恩赦が行われる可能性が高いと思う。

 天皇は日本国の「象徴」だが、政治的な権能は持たない。日本国の主権は国民にあるのだから、国民が選んだ国会議員が選出する内閣総理大臣が交代する方が重大事である。そう考えると、天皇の交代で「恩赦」を行うこと自体がおかしいと考えられる。天皇が交代することは、果たして国家的慶事なんだろうか。天皇が死去し、新天皇が即位する。前天皇や新天皇の温情をあまねく国民に知らしめる一環として、罪あるものにさえ天皇の仁慈が与えられる。要するにそういうことなんだろうけれど、天皇に主権があった時代の名残りというべき慣習ではないか。

 僕はそう考えるが、だけど恩赦反対運動を行っても、恩赦は実施されるだろう。官僚は前例を踏襲するものだから。今から前例を調べて、該当者のリストアップを始めているのではないか。この問題は関係する人が少ないから、ほとんどまだ論じられていない。そして、僕が思うに、恩赦が行われるのであれば、死刑囚に一括して恩赦を与え無期懲役に減刑して死刑廃止国にしてはどうか。まあ、そういう主張もできるのではないか。僕も実現可能性を考えて書いているのではなく、やはりそれは無理なやり方なんだろうと思う。

 日本では戦前戦後を通して、何人かの死刑囚に恩赦が与えられてきた。1911年、大逆事件の死刑囚24人のうち半数の12人が「明治天皇の仁慈」で無期懲役に減刑されたケースが有名。戦後も何件かあるが、最近は絶えてしまったので知らない人が多いだろう。死刑を宣告された人は、執行されるか獄死するか、はたまた無実が証明され再審が開かれるか。とにかく生きてシャバに出るには再審以外はないと思っている人が多いと思う。しかし本来は死刑囚にも「恩赦のご仁慈」が与えられなければおかしい。(そういう恩赦という制度がある以上は。)

 ところで先に書いた昭和天皇死去に際しての「死刑囚の悲劇」とは何だろうか。あの「昭和最後の日々」を覚えている人も少なくなってきただろう。昭和天皇の病気が1988年秋に公表され、全国で運動会などの学校行事をどうするか大騒ぎになった。実際に死去したのが翌1989年1月7日。かなり長い時間があったのである。「昭和」は戦争と高度成長を含んで64年(実質は62年と2週間)続いたから、多くの人に「天皇交代」のイメージがなかった。そんな中で、獄中では天皇の死去、新天皇即位に際して大規模な恩赦が死刑囚にも行われると噂が飛んでいたのだ。

 どんな大規模な恩赦があっても、「恩恵を施して赦す」ためには、本人が「罪を認めて反省する」必要がある。だから、無実を主張している人には意味がない。本当に無実で一刻も早い人権回復が必要な人ほど、恩赦の恩恵には浴せない。そして、もちろん刑が確定していなければ恩赦の対象にならない。(罪になる対象そのものを一括して免訴にするようなケースでは、裁判の途中であっても、あるいは無罪を主張する人でも、裁判打ち切りという形で「恩赦」になることはある。)

 裁判途中の死刑囚(一審あるいは二審で死刑判決を受け、高裁に控訴、最高裁に上告している人)は、噂を信じれば控訴、上告を自ら取り下げて、死刑を確定させた方が「有利」かもしれない。そう思う人が出てきた。自分は犯情が悪いから絶対に恩赦はないと思う人(殺害人数が特に多いなど)は、もともと関係ない。自分は事件への関わりが少ない(と自分で思う)死刑囚ほど恩赦に期待してしまう。しかし、そういう人は元々控訴審などで減刑される可能性だってあったわけである。3回は裁判を受けられるというのに、自らその権利を放棄してしまい、噂に減刑可能性を賭ける。実際に上訴を放棄してしまい、その後死刑が執行された人もいるのだ

 そのような事例を指して、僕は「悲劇」と書いたのである。そんなおかしなことが起こったのも、天皇の重体報道が長く続き、どうなるのかが判らなかったからだ。今回は事前に判っているんだから、そのような噂が飛ぶこともないだろう。そして、前回は死刑囚の恩赦がなかったわけだが、今回は限定的に死刑囚の恩赦を実施してはどうかと思うのである。

 ここ何十年か死刑囚の恩赦がなかったのは「もう一つの悲劇」があったことが大きい。(詳しくは次回。)今回は事前に改元が判っている。昭和から平成へ、そして次の元号へ。元号制度の問題はさておき、昭和の時代から死刑囚だった人が何人もいるのである。再審もならず、執行もされず…。自民党内閣は積極的に死刑を存置し、執行しようとしてきた。それでも執行されないのは、なんらかの「執行できない理由」があるのである。それならば、「獄中死」を待つような死刑囚には、今や国家の恩典として無期懲役へと減刑する措置があってもいいのではないだろうか。
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再審事件と「死刑冤罪」という本

2016年08月04日 23時00分33秒 |  〃 (冤罪・死刑)
 参院選と都知事選と続いて、選挙や政治の問題を書くことが多かった。教育問題がたまっているので、いずれまとめて。内閣改造やスタートした小池都政に関しても書きたいことはあるけど、今は止めておく。毎月の訃報特集は7月は重要な訃報が多く、もう少ししてから。映画は公開時期の問題があるので、折に触れて書いてるけど、本の話がたまっていく。今日は最近読んだ里見繁「死刑冤罪」という本の話。せっかくだから同時に最近の再審問題の状況を書いておきたい。

 まず、再審事件では8月10日に「東住吉事件」の再審無罪判決が出る。このブログでは、大阪地裁で再審開始決定が出た時に、記事を書いた。東京ではあまり知られてない事件で、再審開始後も支援集会などはなかった。僕も再審決定確定、再審開始時点では書かなかった。当日のニュースでも、リオ五輪に紛れて小さな記事になってしまう可能性がある。「放火殺人事件で無罪判決」などと報じるかもしれない。他に犯人がいるのではなく、そもそも放火ではないのである。

 無期懲役事件で収監中に再審開始になって釈放されたのは、この東住吉事件の他に、足利事件東電社員殺害事件がある。(足利事件は開始決定を待たずに釈放された。)仮釈放後に再審が開かれ無罪となったのは、戦前に起きた吉田巌窟王事件加藤老事件、戦後の事件では梅田事件布川事件。無期懲役確定者の再審無罪は、これしかない。いったん再審開始決定が出た日産サニー事件は上級審で取り消された。無罪を主張しながら有罪が確定してしまい、再審請求を繰り返し、ようやく無罪を勝ち取る。死刑や無期事件では特に重大である。

 無期事件はやがて仮釈放される可能性はあるが、仮釈放されても一生選挙権もない。再審で無罪となって、初めて公民権も回復される。日本の裁判史の中でも10件も起こっていない出来事がもうすぐ起こるわけである。どうして捜査の過程で、あるいは裁判の過程で、ただされなかったのか。冤罪事件が大きく報道されても、いつも一過性の報道で終わってしまう。今回もそうだろうけど、国民の側で「制度改正」を考えていかないといけない。

 事件の中身を書いてると終わらないので、次に松橋事件。7月1日に熊本地裁が再審開始を決定した。そもそも名前も知らなかったし、読み方も「まつばせ」である。熊本県松橋町(現・宇城市)で1985年に起きた殺人事件で、51歳の被告が懲役13年の判決を受けた。もう刑期はとっくに終わっていて、請求人は82歳になっている。2012年に再審請求して、「自白」では焼却したはずの「凶器に巻き付けたぼろ布」を検察側が隠し持っていたことが明らかになった。このように「検察側は自白が違うことを知っていた」のである。それにもかかわらず、検察側は高裁に即時抗告して争う姿勢を変えていない。とんでもないことだ。高齢の元被告を考えると、一刻も早い無罪判決が望まれる。

 また2002年に愛知県豊川市で起こった「豊川事件」(豊川幼児殺人事件)で、現在収監中の被告により再審が請求された。2016年7月12日付。この事件も「自白」のみに頼った事件で、2006年の一審判決は無罪だった。当時は大きく報道され、「自白」のいい加減さが強調されていた。ところが、2007年に名古屋高裁で、懲役17年の逆転有罪判決が出て、2008年に最高裁で確定した。この年を見れば判るように、一審で無罪になるほどの事件が、上級審であっという間に逆転してしまった。上級審の審理が十分でないのは、明らかだろう。ほとんど報道されていないが、こういう事件があるのだ。

 さて、現状の紹介だけで長くなってしまった。里見繁「死刑冤罪」(インパクト出版会、2015)は、1980年代に相次いだ死刑再審事件を振り返ったルポである。80年代には大きく報道され、支援運動も盛り上がった(支援運動がほとんどなかった事件もあるけど)4つの事件も、今では若い人には知らない人が多い。里見氏はテレビの報道記者として取材し、今は関西大学教授とある。学生が知らないのも当然で、今は全然報じられない。だから、当時の記録をあたり、当事者や関係者を訪ねて書いたのがこの本である。

 死刑冤罪事件として、無罪を勝ち取ったのは、免田事件(熊本県)、財田川事件(香川県)、松山事件(宮城県)、島田事件(静岡県)の四つである。免田事件の免田栄さん、島田事件の赤堀政夫さんには会いに行っている。財田川事件の谷口繁義さん、松山事件の斉藤幸夫さんはすでに亡くなっている。これも事件概要を説明していると、いくら書いても終わらないので省略。ここで判るのは、「捜査側は証拠をねつ造する」ということである。恐ろしいことだけど、そういうことが証拠で証明された事件がいくつもある。証拠を偽造して、誰かを死刑判決に追い込んだら、それは「殺人(未遂)」だし、少なくとも「特別公務員暴行陵虐」だろう。でも処分された捜査関係者はいない。

 裁判で無罪になっても、地域では完全には受け入れられないという事が多い。「それは証拠がなかっただけ」で「灰色無罪」だと思われる。マスコミが、アリバイがあったり、証拠が作られたものだと報じても、ちゃんと読む人は少ない。そういう事件ばかりではないだろうが、免田さんはそう語っている。もう20年近く前、記録映画「免田栄 獄中の生」の上映会をやったことがあり、そのあと免田さんとは飲んだ思い出がある。明るく元気よく講演し、その後は一緒に飲んだわけだが、そういう苦しみの奥底までは感じ取れなかった。免田さんは、無罪判決後も、国連人権委に出かけたり、年金を求める運動を行い(特別法ができた)、実に立派な方で敬服している。多くの人に読んでほしい。

 そして、さらに再審決定が出た後、検察側が抵抗している袴田事件、そして死刑執行されてしまった飯塚事件について書かれている。両事件に関係するのは、そして無期懲役だった足利事件も含めて、「DNA型鑑定」という難問である。DNAという遺伝子情報だから、ピンポイントで犯人かどうかわかると普通思いやすい。そうではないことが、この本でよく判る。「指紋」は個人で異なる。DNAももちろん個人ごとに違うけど、各個人のゲノム情報を完全に解読する(そのこと自体はできるけれど)ことは効率上できない。だから、DNAの型を判定するということになる。それでは「その人だけの情報」とは言えない。足利事件では「1000人に一人」とされた。今では当時の鑑定はまったくいい加減なものだったことが判っている。だけど、それは別にしても「1000人に一人」では人口何十万かの足利市近隣地域では該当者が何十人もいることになる。証拠力が弱い。というか、科学鑑定はもともと「犯人ではない」証明はできるけど、犯人だという証明はできない

 そして、飯塚事件。冤罪を主張しながら、死刑が確定し、再審の準備をしている間に、死刑執行されてしまった事件である。死刑執行は2008年の話で、執行を命じた法務大臣は森英介。21世紀の日本に起こったとは信じられないが。その事件がどういう事件かは、この本に詳しく書かれている。必読。こういう「権力犯罪」が起こっているにもかかわらず、「国家が大切」とかいう人がいるのは何故だ。無罪を訴えている死刑囚が何人もいる。言い逃れに決まってるなどと決めつけず、ちゃんと自分で調べていけば、「国家」とは何なのかと気づくだろう。
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「今市事件」有罪判決への疑問

2016年04月13日 23時06分02秒 |  〃 (冤罪・死刑)
 4月8日(金)に宇都宮地裁で、「栃木女児殺害事件」(ここでは「今市事件」と呼ぶことにしたい)に対し、有罪判決が出された。刑期は無期懲役である。判決はもともと3月31日に予定されていた。それが突然に延期された。弁護側は無罪を主張して激しく争っていたから、評議がまとまらないのか、無罪判決が出るのではないかなどという観測もあったと思う。日本の裁判報道には珍しく、被告・弁護側の主張もかなり紹介されていたように思った。  

 ところが、裁判員裁判で自白の信用性が認められ有罪判決が出たことで、マスコミの批判がほとんどない状態になった。僕には疑問が多い判決だと思うので、あえて批判的に検証しておきたいと思う。裁判員を務めた人の発言によると、「難しい判断」だが「録画が判断材料」になったという。それは問題なのではないだろうか。「自白」だけでは有罪に出来ないと憲法で定められている。

 この判決を第三者が批判する場合、でも「録画を見ていないだろう」と言われるに違いない。その録画に「迫真性」があるというが、それを見ていないものには判断ができない。だから、国民から選ばれた裁判員が判断したことに合理性があるというのも一つの考えだろう。だけど、僕は判断の前提となる「証拠の手続き」に問題があると思う。それは他の裁判にも影響すると思うから、書いておきたい。

 まず「録画の問題」。裁判というものは、検察側が有罪を立証し、それに対して弁護側が反証するという仕組みで行われる。だから、取り調べ過程の録画をどのように立証に使おうが検察側の裁量だという考え方もあるだろう。実際、取り調べすべての録画を裁判で検証していたら、裁判員裁判は成り立たない。何時間たっても終わらないから、誰も引き受けられない。そこで今回は「7時間超」に編集されたものが法廷で再生された。だけど、それは「検察側が編集したもの」である。

 本当は全部で80時間余りになるという。これを時系列に沿ってきちんと検証したら、自白の強要や変遷などが明らかになる可能性はないのか。もちろん、全部見れば、取り調べに問題はなかったということになるのかもしれない。それは判らない。だが、フェアではない感じがする。この時間の長さからすると、立証に使うには編集が必要である。だから、検察が編集して裁判員に見せたのは当然だと思うが、同時にすべての録画を弁護側に開示しない限り、録画を立証に使うのはアンフェアなのではないだろうか。弁護側も開示された録画を反証に使えない限り、「録画に迫真性がある」と判断してはいけないように思うのである。

 冤罪事件では「取り調べ段階で認めていた事件」(公判では否認)ばかりではなく、「公判中も認めていた事件」さえ存在する。富山県で起きた「氷見事件」は最近の例として有名である。裁判で有罪を認め、すでに懲役刑を終えていた人が実は無実で、真犯人が現れたことで再審無罪となった事件である。他にも一審で認めていた事件はかなりある。「無実」であっても裁判で無罪を勝ち取ろうと闘える人ばかりではないのである。完全に取り調べ側に「屈服」していた時点だけを「録画」で示す。それでは、取り調べの適正化を目的に行われる「取り調べの可視化」が、逆に検察側にのみ有利な材料を与えることになってしまう。録画は検察側だけのものではなく、被告・弁護側のものでもあるはずだ。

 次に「Nシステム」の通行記録の問題である。通常は明らかにしない、というか設置の法的根拠もはっきりしない「Nシステム」。どこに設置されているか明らかにしてしまうと、すり抜けも可能になるから、今までは裁判に使わなかった。(捜査には使っても。)今回は「直接証拠がない」ということで、状況証拠の一つとして通行記録が提出された。それによると、深夜の1時50分(鹿沼インター通り)と2時20分(国道123号)に宇都宮駅周辺で茨城県方向への通行があった。そして、同地点を逆方向に朝の6時12分と6時39分に通行している。また、両地点に近い国道121号で、朝の6時27分に通行記録がある。ところで、これは何なのだろうか。宇都宮市の中心部だけである。この間に遺体の発見現場である茨城県常陸大宮市に行って、戻ってきたのだという可能性は確かにある。だけど、それは何の証拠もないことである。何故なら、犯人がそのルートを使ったかどうか不明だからである。

 今書いた時間はいつの事かというと、2005年12月2日の話である。被害女児は、前日の12月1日、下校中に行方が判らなくなった。場所は当時の今市市(今は合併して日光市)である。被告の当時の住所は出てないから判らないが、Nシステム記録が立証に使われたのだから、宇都宮市内の中心部近くにあったのだろう。だから、そもそも事件を起こすには、12月1日に宇都宮から今市方面に出かけないといけない。1日の夕刻にNシステムに記録があれば、検察側は明らかにしたと思うから、被告の車が昼間今市方面に向い、夕刻に帰ってきた記録はないんだろうと思う。それは何故だろう。たまたまNシステムがなかったのだろうか。検察側が「死体遺棄」に向かうと見なした深夜のドライブは5回も記録されている。だから、Nシステムに引っかからないように小さな道しか通らなかったという可能性はない。

 茨城方面への深夜ドライブ(かどうかも不明だが)も重要だが、一番大切なのは「今市方面への昼間のドライブ」だと思う。それがないと、そもそも犯罪が起こせない。どうしてNシステムに記録がないのか。Nシステムをどこに設置してあるかを明らかにしないと、それが「行ってないのか」「記録がないのか」が判らない。さらに、被告はときどき深夜のドライブをしていたという供述もあるようだ。それが本当かどうか、他の日の記録も全部出すべきだ。地図をここで示さないけど、行方不明現場と死体発見現場は、宇都宮市内を通らずに行ける。県境の山の中には、もちろんNシステムはなかっただろうが、他にはどこにあるのか。それが判らない限り、被告のNシステム通行記録を有罪立証に使うのは慎重でないといけないように思う。

 僕の批判は、上記のようにまず「証拠の扱い方」に問題ありというものである。だけど、一応「自白」の任意性と信用性の問題について書く。この事件の捜査は典型的な「別件逮捕」である。2014年1月29日に、まず母とともに「商標法違反」で逮捕される。(偽ブランド品所持)その事件は2月18日に起訴されるも、拘置が続き、続いて5月30日に銃刀法違反で起訴される。その間に殺人への関与をほのめかしていたというが、6月3日に殺人容疑で再逮捕され、24日に起訴された。つまり、殺人事件として逮捕される前に、すでに4カ月以上も身柄を拘束されていた。そのうえでの「自白」なんだから、そもそも「任意性」を認めるべきかどうか、僕にはそれも疑問がある。

 だから「信用性」の判断には慎重にならないといけない。「自白」は鑑定結果と合わないという証言もあったのに、マスコミに載っている「判決要旨」ではどう判断したのか判らない。「運転席を通して被害者を助手席に引き込んだなどといった、想像にしては特異とも言える内容が含まれている」などと出ているが、これは何だろう。それが果して真実かどうかも判らないし、この程度を「想像」するのは「特異」でも何でもないと僕は思う。全体的にいって、録画記録に寄りかかった判断にように思う。控訴審では、ぜひ弁護側に録画記録を全面的に開示するべきである。それなしで有罪判決を出したのは、おかしいという判例を作って欲しいと思う。(なお、当時の今市(いまいち)は日光、鬼怒川温泉などとともに大合併して日光市になっている。市庁舎は旧日光市ではなはく、今市にあるのだが。湯西川温泉や奥鬼怒温泉郷、それどころか山の反対側の足尾まで日光市である。日光では広すぎるので、「今市事件」と書いた。「栃木…」と言うと、栃木市が別にあるので間違えないようにするべきだと思う。)
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名張事件・奥西勝「死刑囚」が死去

2015年10月08日 21時29分35秒 |  〃 (冤罪・死刑)
 いわゆる名張毒ぶどう酒事件(名張事件)で、無実を訴えて長年にわたって再審を訴えていた奥西勝さんが亡くなった。89歳。10月4日12時過ぎに、移送されていた八王子医療刑務所で死去。僕は4日から7日まで旅行していて、ここに書くことができなかったが、この訃報は記録しておかないといけない。この事件については、ここで何回か書いている。この事件を真正面から描いた映画「約束」の記事中に、それまでの記事も紹介してある。それ以後も、最高裁での棄却決定などがあったのだが、もう改めて追加する中身も正直言ってなかったので、書かなかった。

 三重県名張市で、1961年に起きた事件である。管轄としては、名古屋地裁、高裁ということになる。死刑囚は拘置所に収監されるから、奥西さんは名古屋拘置所で拘束されていた。しかし、2012年に体調を崩して八王子医療刑務所に移送され、その後はずっと「入院」していた。「司法は獄死を待っている」などと批判されてきたが、事実上その通りだろう。僕も、恐らくはそうならざるを得ないだろうと思ってはいた。帝銀事件の平沢貞通さん、牟礼事件の佐藤誠さん、波崎事件の富山常喜さん、三崎事件の荒井政男さん…などに続き、戦後の冤罪救援運動がついに獄から解放できなかった名に連なる。

 僕がこういった問題に関心を持った70年代後半に、「無実を叫ぶ死刑囚たち」(三一書房)という本が出版された。その時点では袴田事件は、まだ最高裁上告中で死刑は確定していなかった。その本に出ていたのは8件の事件だったが、結局のところ、再審無罪で釈放されたのが4件(免田、財田川、松山、島田)で、獄中で死亡して再審請求も終わってしまったのが4件(帝銀、牟礼、波崎、名張)という結果になった。日本の残酷なる司法界において、なんとか4件の死刑再審を開始させたという評価もできるだろう。だけど、多くの再審請求事件はほとんどまともな理由も示されずに、却下され続けてきたという思いが強い。足利事件の菅家利和さんは、再審請求が一回却下され、即時抗告した東京高裁がDNA鑑定をやり直して、無実が明らかとなった。では、なぜ再審請求したらすぐ再鑑定しなかったのか。大きな問題となった事件や事故が起きれば、普通は「検証のための第三者委員会」が作られる。でも、無実の人が死刑や無期になったという出来事があっても、司法界だけは「検証」しない。

 名張事件では、一審の津地裁は無罪判決だった(1964年12月)。それが検察側控訴による名古屋高裁で、逆転して死刑判決が出た(1969年9月)。これは日本の裁判制度では、そういうこともあるわけである。そういうのに慣れてしまうと当たり前に思ってしまうが、世界には「一審で無罪」ならば、もうそれで終わりという国もある。「有罪」の場合、被告側が上級の裁判所に訴えるというのは、侵してはならない人権である。だけど、国家権力の側が国民の税金を使って捜査活動を行い、その結果一回目の裁判で「無罪」だったら、国家がより上の裁判所に有罪を求めて裁判を続けるのは、権力の濫用だと考えるわけである。そういう考えを日本が取っていれば、この事件はそこで終わりだった。

 その後、1972年6月に最高裁が上告を棄却し、死刑が確定する。以来、2015年10月まで、確定した死刑囚として43年以上の歳月が流れた。最初は本人が再審請求を行い、4回も棄却された。1977年の第5回請求になって、ようやく弁護団が結成され、本格的な再審請求運動が広がり始めた。(1997年棄却)以後、1997年に第6次(2002年棄却)、2002年に第7次請求が行われた。この第7次請求になって、2005年4月に再審開始決定が出たのである。先に述べたことと同じことになるけど、一度再審開始決定が出たら、検察側は抗告(異議申し立て)をせずに、やり直しの裁判の中で主張して行けばいいではないかという考え方もある。日本の再審制度がそうなっていたら、ここで再審が開かれていた。

 その後、検察側の異議申し立てを認めて、2006年12月に再審開始が取り消される。それに対し弁護側が特別抗告し、2010年に最高裁が審理を差し戻す。しかし、差し戻された名古屋高裁は2012年に再審請求を棄却、最高裁も2013年10月にそれを追認した。この第7次再審請求は非常に複雑な経過をたどり、内容も科学鑑定の評価が中心でよく判らないところもあったが、日本の裁判史上に残る攻防のすえに「再審請求棄却」で決着したのは本当に残念だった。2013年11月に第8次再審請求、棄却、異議申し立て、棄却を経て、最高裁への抗告中に第8次請求を取り下げ、あらためて2015年5月に第9次請求を申し立てていた。再審はこれで終わりかと思っていたら、親族で引き継ぐ人が現れたということで、その勇気に敬服している。かつて、徳島ラジオ商殺人事件で、富士茂子さんが再審請求中に亡くなり、姉妹が引き継いで再審が認められたという例がある。(ちなみに、この事件の支援集会で、本人とともにずっと支援をしてきた市川房枝、瀬戸内寂聴の講演を聞いた思い出がある。)

 事件の中身について触れる余裕がないが、僕は江川詔子「6人目の犠牲者」を読んで、初めてこの事件の構造をよく理解できた。今は岩波現代文庫で「名張毒ブドウ酒殺人事件」として出ている。確定死刑囚と面会することは(特別に認められた場合を除き)できないから、ジャーナリストも直接会って話を聞くことが半世紀近く出来ていない。人柄などを語ることはできない。写真を載せたが、当然昔のものである。そんな中で、映画「約束」は劇と記録映像を交えながら、この事件の構造を暴き出していた。若い時は山本太郎が、年取ってからは仲代達矢が演じている。実在の死刑囚を演じるのも大変だろうが、このキャスティングに妙味もあった。この事件は内容そのものも不可思議なものだが、結局一番不可思議なのは、日本の司法制度だという気がしてならない。
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SAYAMA みえない手錠をはずすまで

2014年06月17日 22時56分36秒 |  〃 (冤罪・死刑)
 金聖雄監督の記録映画「SAYAMA みえない手錠をはずすまで」をポレポレ東中野で見たので紹介を。20日までは、12時10分~、21日からは15時50分~、一日一回の上映。狭山事件で無実を訴える石川一雄さん夫妻の日々を追うドキュメントだけど、非常に面白いので紹介しておきたい。
 
 僕が今ごろ見るようではいけないんだけど、昨年度に作られてキネマ旬報文化映画3位に入選している。文化映画の1位は「標的の村」、2位は「ある精肉店のはなし」で、劇映画より最近は面白いかもしれない。上映会や映画祭などでやってるのは知ってたけど、ピンポイントで見ようとすると、なかなか日程が合わない。いずれポレポレ東中野でやってくれるんじゃないかなどと、どうも最近は待ってしまう気持ちが強い。案の定上映はされたけど、一日に真昼一回だけなので見に行くのが大変。来週から15時50分からになるので、もう少し行きやすいかなと思うので、是非お勧めしたい。東京以外の人も、今後各地の劇場上映、または自主上映などが相当たくさん予定されている。

 狭山事件というのは、1963年5月に埼玉県狭山市で起きた「女子高生誘拐殺人事件」で、当初警察が失態を重ねたこともあり、大きな問題となった。石川一雄被告が逮捕、起訴され、一審でも「自白」を維持して死刑判決が出た。ところが二審になってから、「自白」はダマされたものとして無実を主張し、大きな問題となった。被告は被差別出身で、警察が青年に的を絞って「見込み捜査」を行ったとして、解放同盟が「狭山差別裁判」と訴えた。70年代に非常に大きな問題となったが、1973年に東京高裁は無期懲役の有罪判決。1977年に最高裁が上告を棄却して有罪が確定した。その後、2回の再審請求が棄却され、現在は第3次再審請求中

 石川さんは1994年に仮出所し、支援者の女性と結婚した。この映画は2011年から2013年頃の日常生活を淡々と描くのだが、石川さん夫妻の人柄が伝わり、とても気持ちがいい。布川事件を追った「ショージとタカオ」という映画も素晴らしく面白いが、今度の映画もとても面白い。その布川事件の桜井昌司さん足利事件の菅家利和さんと会う場面も出てくるが、「無実の人」というのはこういう人のことかと誰でも伝わるような名場面だと思う。桜井さん、菅家さんはポレポレ東中野のトークも予定されている。

 それ以上に非常に心打たれるのは、徳島県の被差別に育ち、狭山支援運動に関わってきた妻の早智子さんの姿だった。仮出所後に結婚するに至るが、二人の日常生活のようす、食事や散髪、体をきたえるためのジョギングなどを映し出す。もちろん裁判所前の訴えとか、現地調査に来た人々の様子とか、冤罪事件を扱う映画ならではのシーンもある。しかし、それ以上に「重いもの」を背負いながらも、「不運だったけど、不幸ではない」という二人の様子が「魅力的」なのである。だから多くの人に見て欲しいと思うのである。

 映画の中で、二人が毎夏、妻の故郷の徳島に行って交流したりするシーンがある。そこで剣山にのぼるシーンがある。この山は1955mの標高で、映画にも出てくる長大なリフトがあり、それを使えばおよそ2時間で頂上だけど、それでも高齢の二人が登るのは大変だろう。それを石川さんはあまり苦にせず登頂している。仮出所後も再審に向け心身の健康を保っている証である。ここは僕も登っているんだけど、ちょっと感心してしまった。

 狭山事件は様々の本(野間宏や鎌田慧など)もあり、劇映画や記録映画もかなり作られてきた。特に小池正人監督の記録映画「狭山事件-石川一雄・獄中27年-」(1990)は、裁判終了後の本格的なドキュメントだった。その当時は、まだ石川さんは千葉刑務所在監中である。その代り、当時の警察関係者への直撃なども出てくる。今は関係者はほぼ亡くなってしまったが、代わりに本人が映画に出られる。70年代には解放同盟と共産党の対立が激しく、狭山事件も大きな影響を受けた。そういうイメージが残っている世代もあるだろうけど、「狭山事件の冤罪性」は明らかだと思う。

 最近は「重大事件での再審開始が続いている」と思っている人も多いかもしれない。足利事件布川事件東電女性社員殺害事件はいずれも無期懲役の事件。今年の袴田事件は死刑事件。しかし、名張毒ぶどう酒事件を始め、福井女子中学生殺害事件(高裁で再審取り消し)、大崎事件、筋弛緩剤事件など、むしろ再審棄却が相次いでいて、「再審の壁は今もなお厚い」というのが現実である。では足利、東電女性社員、袴田などの事件ではどうして再審が開始されたか。それは「DNA型判定」の再鑑定によるのである。もともと血痕などが問題になってない事件では、再鑑定しようがない。

 そう言う事件で唯一再審無罪となった布川事件は、検察側が長く隠していた証拠が開示されたことが大きい。狭山事件でも近年裁判所が証拠開示勧告をだし、ある程度は出てきた。でも、もっとあると言われている。映画内で石川さんが言っていることによれば、「被差別への見込み捜査」が明るみに出る「差別調書」がプライバシー保護を理由に開示されていないのではないかと語っている。僕もそれは正しいのではないかと思う。日本の自由や民主主義の指標になるような事件の一つで、この映画を通して若い人にも新しく知って欲しい。
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佐藤一という人-映画「黒い潮」と下山事件をめぐって④

2013年04月09日 23時30分32秒 |  〃 (冤罪・死刑)
 「黒い潮」「下山事件」の自殺説報道をめぐる毎日新聞の苦闘を描く映画だった。その下山事件を生涯をかけて追跡し、ほとんど完全版だと思う「下山事件全研究」(時事通信社、1976)という本がある。著者は佐藤一という人である。この本は長く入手が難しかったが、2009年に「新版・下山事件全研究」がインパクト出版会から出された。6,300円と高い本だけど、それだけの価値はある。僕が持っているのは旧著の第2刷(78年)で、当時は2500円で、当時の僕には相当に高い本だった。

 著者の佐藤一(1921~2009)の名前は多分その前から知っていたと思う。この人は松川事件の無実の死刑囚で、1審・2審で死刑を宣告された。1審は5人、2審は4人が死刑だったが、特にこの人、佐藤一の名前は松川事件に関心があった人はよく知っているはずだ。東芝の組合活動家で東芝松川工場にオルグに行っていた時に、東北本線脱線転覆事故が起きた。そのためオルグの佐藤が「首謀者」であるとされたのだが、その「謀議」をしていたとされる時間に、ちょうど東芝で団交中だったことを示すメモが会社側に残されていた。いわゆる「諏訪メモ」である。それは検察が押収していたので、検察側は佐藤の無実を事前に知っていたのである

 国鉄事故だから東芝労組だけでは起こせない。国鉄・東芝の労組関係者「謀議」がなければ、東芝労働者が事件に関わることはできない。従って、諏訪メモの出現で検察の構図は全面的に崩壊していくのである。世論が検察を批判し、ついに最高裁は異例にも「諏訪メモの取り調べ」に踏み切った。事実審理をしない最高裁としては、以前も以後もない「最高裁の職権による事実調べ」だった。その結果、最高裁は仙台高裁に差し戻しを決め、全員無罪判決となるわけである。
(佐藤一)
 63年に松川事件の完全無罪が確定して、佐藤一はようやく「被告」の肩書きがとれた。その佐藤に「下山事件研究会」の事務局担当という仕事が回ってきた。当時の佐藤はもちろん共産党員で、党員として担当したのだと思う。60年に「日本の黒い霧」が出て、左翼勢力に「下山事件謀殺論」が広まっていた。佐藤もどちらかと言うと当初は他殺説だったらしい。だが、くわしく調べていくほど他殺説は消えて行き、自殺説の可能性が高まる。清張が怪しいと書いた「総裁を轢いた列車」は、清張説では占領軍列車とされたが、清張は乗車員に当たっていなかった。佐藤が調べると、ちゃんと乗務員の話を聞けて普通の列車だった。細かく書かないが、怪しいとされたのが全部否定されていくのである。
 
 古畑鑑定も調べていくと、70年代当時でははっきり否定されている見解だった。さらに下山総裁の(清張説では最後は「替え玉」とされるが)不可思議な行動の様々は、その後の心理学の発展で「初老期うつ」と判断されるというのである。事件の前に様々な奇怪な行動があったのだが、技術畑で国鉄の初代総裁になったばかりだった。(鉄道省から日本国有鉄道となったのは、1949年6月でわずか数週間前だった。)戦争からの大量の復員者を抱えて人員整理が避けられない辛い立場に立たされた。

 「心のケア」などという言葉もなかった時代だが、中年から老年にかけ、今までと違う仕事に「抜てき」でついたマジメ一途の人が、頑張れば頑張るほど自分を追い込み、精神的に不安定となるというのは、今になれば誰でも知っている。「中年クライシス」と言ってもいいし、「男の更年期」などと言う人もいる。下山総裁の奇異な言動を今見ると、そういう「うつ症状」で理解した方が納得できる。佐藤一の本を読めば、皆納得すると思う。

 僕は著者の自殺説に全面的に同意したが、自殺説に傾いた頃から佐藤一は党内で孤立する。やがて党を離れるが、「進歩的知識人」の中にも彼を避ける人が出てきた。困るのは「自殺説」を無視して、その後も「他殺説」を唱え「怪しい人脈」などと書きたてる本が何冊も出たことだ。「全研究」というほどの佐藤の本について、証拠を基に否定するならともかく、全く触れない本ばかりである。この本に触れずに下山事件を語るのがまずおかしい。「全研究」という位だから、この本に論点は皆出ている。他殺説を唱えるなら、佐藤一「下山事件全研究」を「全否定」するのがまず最初だろう。そういう作業をしないで、佐藤本を無視している。そういう人の狙いはまた別のところにあるのだろう。

 佐藤一には「被告」という本もあるようだが、僕は読んでいない。下山事件研究をまとめた後は、他の冤罪事件を調べている。当時、死刑再審事件として大きな注目を集め始めていた松山事件島田事件である。自分の体験もベースにあるだろうが、どちらの事件も古畑鑑定が大きな問題となっていた。その意味で、下山事件研究から引き続くものがある。「松山事件 血痕は証明する」(大和書房、1978)と「不在証明 島田幼女殺害事件」(時事通信社、1979)の2冊の本は、どちらも再審無罪が勝ち取られた現在では忘れられた本だ。僕も今回佐藤一氏の本を振り返ろうと思うまで忘れていた。(松山事件は宮城県北部の事件。1984年無罪。島田事件は静岡県島田市の事件。1989年無罪。)
 
 その後の佐藤は、1949年の「謀略の夏」史観を批判し続けた。「下山・三鷹・松川事件と日本共産党」(三一書房、1981)、「一九四九年『謀略の夏』(時事通信社、1993)、「松本清張の陰謀」(草思社、2006)と続いて行く。「謀略の夏」というのは、49年の「三大怪事件」の結果、占領軍の謀略で左翼勢力は壊滅させられ、以後の「逆コース」が仕組まれていったという「陰謀史観」のことである。

 佐藤は49年の国労大会の原史料を発掘し、全部読んで解読した結果、占領軍の謀略など要するまでもなく、国労内の共産党勢力は退潮し支持を失っていたことを明らかにした。また「松本清張の陰謀」では、「日本の黒い霧」の様々な項目について反論している。僕が思うに、清張「黒い霧」が主張した「伊藤律スパイ説」は本人が北京に実在して帰国後の反論があって崩壊した。また「黒い霧」で様々な怪事件が発生したのは、50年6月の朝鮮戦争勃発がアメリカの陰謀であるという方向でまとめられている。それはソ連崩壊後の諸資料ですでに、朝鮮戦争は金日成(キム・イルソン)が主導して、スターリンと毛沢東が承認して始まったことが証明された。それだけで、「黒い霧」の根拠は崩れている。

 ところが「下山事件謀殺説」だけは生き残っていくのである。何故か?21世紀になっても、そういう本は出てるし、そこに佐藤著は登場しない。09年に亡くなった後、遺著「下山事件 謀略論の歴史」(彩流社、2009)が出たが、これは存命中に手を入れられなかったこともあり、ほとんど語りおろしというか、いくら何でも流れ過ぎだろうと思う箇所も見られる。「謀略論批判のトーンの高さに違和感を持たれる方もいるかもしれない」と編者も書いている。しかし、いくら論理的に批判しても、反論ではなく無視されるということが続いたのである。そういう怒りを感じることができる。
   
 戦後日本では左右を問わず「陰謀史観」が大好きなのだ。「自分では決められない」国際的位置にある不安と屈辱は、「すべては占領軍の陰謀」という言葉に魅力を感じさせるのだろう。右は右で「占領憲法」が諸悪の根源のように言うし、左は左で「占領軍が革命を阻止した」かのごとく語る。自分の過去の過ちを認識できないのである。戦後史の思想状況を振り返るために、佐藤一氏の本は意味を持っている。事実に基づかない主張が結局は誰を利するか。少なくとも「下山事件全研究」が出てこない下山事件の本、いや戦後史の本は信用できない。(井出孫六「ルポルタージュ 戦後史」(岩波書店、1991)は数少ない、佐藤説を評価して自殺説に立つ本だった。そういう例外もある。)
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古畑鑑定という壁-映画「黒い潮」と下山事件をめぐって③

2013年04月07日 01時19分05秒 |  〃 (冤罪・死刑)
 映画「黒い潮」をめぐって、「下山事件」を考える話の続き。中村伸郎演じる東大の法医学者が「死後轢断」(れきだん)、つまり「死んでから轢かれた」と鑑定したために、映画の中で「毎朝新聞」速水(山村聰)は自殺説を積極的に打ち出せなかった。この法医学者は古畑種基という人である。
(古畑種基)
 下山事件の古畑鑑定に関しては、慶応大学の中舘久平教授が「生体轢断」(生きたまま轢かれた)と反論した。当時としては珍しく公になった論争だが、その頃は法医学界の大御所・古畑が「東大の権威」を身にまとっていて、官学対私学の争いとみなした人が多かった。下山事件について書かれた中にも、昔のものにはそういうニュアンスが感じられる。

 下山事件については、この法医学的問題がすべてである。他殺がはっきりしていて、犯人は誰だ、起訴されている人は有罪なのかという事件で、よく法医学鑑定が問題になる。一方「自殺」の場合は、多くは「自殺か、事故か」というケースが多く、それは法医学では判断できないことが多い。薬の飲み過ぎで死んだ場合、死因ははっきりしていて、問題はそれが意図的かどうかである。医学的には同じだから状況証拠の積み上げで判断するしかない。(もちろん遺書があってすぐ判る場合もある。)断崖やビルから落ちて死んだ場合は、「自殺か、事故か、他殺か」が問題になる。でも、意図的な殺人で「自殺に見せかける」ケースは、あったにしても数は少ないだろう

 謀殺説を主張する場合、「違う犯人をでっちあげることが犯罪の真の目的」なので、自殺に見せかけて殺す意味がない。法医学者や警察が謀殺を見抜けず、偽装のはずの自殺で決着してしまったら、せっかくの陰謀が意味を持たない。だから「誰が見ても他殺」と判断するように死体を工作する必要がある。わざわざ自殺に見せかけるもはおかしい。特にこの事件の場合、「左翼勢力に罪をなすりつける」のが目的とすれば、「いかにも左翼勢力は非道なことをする」と人に思わせる殺し方をしないと意味がない。(寄ってたかってリンチして殺すとか。)

 「左翼勢力」には下山総裁の血を抜いて殺す必要がないから、逆効果になる。結局、世の中には「自殺に見せかけた殺人」は、非常にまれなのだと思う。普通、自殺工作をしている時間があれば早く逃亡した方がいい。それも法医学的に見抜けない薬物や投身自殺などの場合である。下山事件他殺説のように、「殺しておいて、死体を列車に轢かせる」というのは、絶対に不可能かと言えばやってできないことはないだろうけど、わざわざやる意味があるとは思えない。失神させておいてビルの屋上から突き落とすと言ったやり方の方がずっと簡単ではないか。

 だから普通に考えれば、列車にはねられた場合は「事故か、自殺か」なのである。もちろんホームから突き落とすという殺人もあるが、下山事件とは性格が違う。下山事件について他殺説を主張する本が最近も出ているが、この鑑定問題に触れていないものがほとんどだ。「下山事件は鑑定がすべて」だという本質を考えずに、「下山事件をめぐる怪しい人脈」などと書きたてる本がある。注意が必要だ。下山事件を追求し続けた人物に佐藤一という人がいるが、その人のことは次回に書きたい。佐藤一「下山事件全研究」という大部の本が1976年に出ている。(時事通信社)この本を読めば、常識的には自殺説で納得するはずである。列車に轢かれた事件の鑑定がその後進んできて、今では「生体轢断」を誰も疑わないだろう

 僕の理解するところでは、生きた人間が刃物で刺された場合など、一瞬では死なないので心臓が動き続け多量の出血をして失血死する場合もある。死後に刺した場合は、傷からはもう出血などの「生活反応」がない。下山事件の場合、確かにそういう「生活反応」はなかったから、東大法医学教室は「生体轢断」と鑑定したわけである。しかし多くの轢断死体も同じような反応がほとんどだという。その事例研究が進み、ますますはっきりしてきたという。そうなるのは、列車にぶつかった瞬間に一瞬にしてショック死してしまうため、生活反応がないというのである。これは今の通説ではないかと思う。その後の研究の積み重ねから見ると、当時の古畑鑑定は不十分だったわけである。

 古畑種基(1891~1975)は、日本の血液研究の第一人者で、特にABO型血液型の権威だった。1956年に文化勲章を受賞している。高校生のころ、生物の宿題で「夏休みに理科の岩波新書を読む」というのが出た。そのとき僕は古畑種基「血液型の話」を読んだ。それなりに面白かったんだけど、この本はしばらくすると絶版になった。その本で「血液型鑑定で有罪がはっきりした事件」として挙げられていた「弘前大学教授夫人殺人事件」が、実は冤罪であり再審で無罪判決が出たのである。

 「針の穴」より小さいと言われた再審が開かれたのは、獄中で改心した真犯人が名乗り出たためである。「血液型で有罪」と言うけれど、それは全く間違った鑑定だった。どうしてそうなったのか。強烈な治安意識、戦前以来の権威主義などで、途中で間違いから引き返せず詭弁的な議論で鑑定書を書く体質があったのである。裁判官は科学を持ち出されると反論できず、「鑑定の結果、有罪」とあれば頭から疑わないのである。(実際の事件をみると、鑑定資料自体が警察のねつ造だったり、古畑鑑定と言われるが実は大学院生が実験して検証していなかったものなどがあった。)

 70年代に日本の再審は大きな壁にぶつかっていた。最高裁の「白鳥決定」で再審の門が開かれつつあったが、死刑事件の再審の壁は特に厚かった。それらの事件の多くで古畑鑑定が有力証拠とされた。僕はその頃から冤罪救援運動に関わっていた。日本には冤罪を訴えている「無実の死刑囚」が何人もいる国だったのである。後に再審無罪となる4つの死刑事件の中で、九州で起きた免田事件をのぞき、松山事件(宮城)、財田川事件(香川)、島田事件(静岡)の3事件は、いずれも古畑鑑定が有罪の大きな柱になっていた。だから「古畑鑑定という壁」が再審開始の前に立ちはだかっていたのである。

 ところが下山事件謀殺説を主張する場合は、古畑鑑定の権威に頼らざるを得ない。古畑鑑定を否定したら他殺説が成り立たない。そこで結果として古畑を持ち上げ、東大鑑定の権威化に貢献することによって、「無実の死刑囚」の再審請求を妨害することになる。1981年に公開された熊井啓監督「日本の熱い日々 謀殺・下山事件」という映画がある。いまどきそんな映画を作る人がいるのかと思ったのだが、「革新勢力」が映画を積極的に支援していた。当時冤罪事件の救援を行っていた団体が集まって、この映画に対する疑問を訴え、上映反対を申し入れたことがあった。僕もその協力者だったので、この映画はその後も見ていない。

 僕が思うに、どうも古畑種基という人が死ぬ(1975年)まで、「古畑鑑定の呪縛」があって、死後にようやく死刑再審が認められたという思いがぬぐえない。ハンセン病問題では、隔離政策を強力に進めた光田健輔という人物がいる。古畑に先立ち、1951年に文化勲章を受賞した。この人物も強烈な治安意識が背景にあり、権威主義的にハンセン病政策を進めて行った。そういう人物が昔はいたものだと思うが、大物になりすぎて権威となって、科学の世界で批判を受け入れない体質が出来上がっていた。下山事件で謀殺を主張したいがために、古畑鑑定を持ち上げるということはあってはならない。
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菊池事件-ハンセン病と無実の死刑囚

2012年05月23日 23時57分34秒 |  〃 (冤罪・死刑)
 ちょっと時間が経ってしまったけれど、ハンセン病市民学会での分科会「今、菊池事件を問い直す」に参加したので、その時の報告。というか、菊池事件については、昨年このブログでも書いている。その後の進展を含めて報告。

 菊池事件と言うのは、1952年に熊本県で起きた殺人でFさんが逮捕、起訴され、死刑が確定した事件である。Fさんはハンセン病を疑われ、療養所への入園を強要されていた。そのため菊池恵楓園に特設されたハンセン病の特別法廷で裁かれ、裁判は一般に公開されなかった。無実を訴え、再審請求を繰り返したが、第3次再審請求が却下された直後の1962年9月14日、死刑が執行された。今年はその死刑執行から50年という年に当たる。あらたに菊池事件弁護団が組織され、死刑執行後の再審請求ができないかどうか、50年目の年に改めて再検討が行われているところである。

 現在、毎月のように「菊池事件連続企画」が行われている。毎月のように熊本まで行くことはちょっと難しいので、これには参加していないけれど。詳しくは画像、およびホームページ参照。その成果として、連続企画実行委員会発行で「菊池事件」というパンフも作られている。(連絡先は、菊池恵楓園入所者自治会。連続企画のホームページに、連絡先が記載されている。
 

 今回の分科会では、国賠訴訟西日本弁護団の国宗直子弁護士がコーディネーターを務め、最初に事件概要を説明した。続いて、当時から入所していてFさんと「最後の面会」をすることになった志村康さん(自治会副会長、国賠訴訟西日本原告団副団長)、西南学院大学の平井佐和子さん、熊本日日新聞記者の本田清悟さんが貴重な体験や知見を披露し、意見を交わしあった。

 ちょっとびっくりしたのは、当日配布された事件当時の地元紙、熊本日日新聞の記事死刑執行の記事が掲載されたのは、処刑後5日目の19日、「Fは処刑されていた」という見出しである。当時は(というかつい最近まで)、死刑執行は原則的には秘密にされていて、特に社会的関心の高い死刑囚の場合を除き、法務省から特別の発表がなかった。しかし、園の中ではもちろん大きな問題になっており、当時全国ハンセン氏病患者協議会(全患協=現在の全国ハンセン病療養所入所者協議会)では抗議活動が起こっていた。マスコミとハンセン病療養所との関係が非常に遠かったため、情報が伝わるのが遅かったのである。事件当時も当然「患者の犯行」と決めつけるような記事が掲載されており、判決も極めて小さな事実のみ伝える記事である。やがて救援運動が盛んになってくると、1962年8月26日付で「現地調査」の記事も掲載されている。しかし、それはあまりにも遅かったのである。

 また、この事件の背景に「戦後の無らい県運動」があることも大きな問題として指摘された。ハンセン病(らい病)は差別されていたが、特に戦時期には国家的に患者をなくす(=患者全員を療養所の隔離する)動きが強まった。「無らい県運動」と呼ばれ、各県が競うようにして患者を「発掘」し、療養所の送り込んだ。送り込む側の多くは患者に対する「人道的措置」と信じ込んでいた者も多かったが、当時としても感染力の弱い病であるのに、国家が強制していくことにより差別が厳しくなっていく結果をもたらしていったのである。これは戦時下の出来事ととらえられがちだが、戦後になっても「隔離の思想」は日本において生き続け、患者を追い立てていた。特に熊本の菊池恵楓園が大拡張され「世界一の規模」を誇る療養所となった。そのきっかけは朝鮮戦争である。戦争による難民としてハンセン病患者が韓国から大量に「密航」してきたらどうしようという、病気と民族の複合差別があったのである。しかし、もちろんそういうことは起こらなかった。大増床したのに空いていては問題なので、熊本では患者の入所への動きが強力に進められたのである。

 こうした中で、けっして重症ではなかった(ハンセン病ではなかったのではないかという説もあるし、自然治癒していたのではないかとも言われる)Fさんに入所の勧めがあった。1951年8月1日、役場の衛生課に勤めていた経験がある被害者宅にダイナマイトが投げ込まれて、ケガをした。Fさんが「被害者が(自分が病気だと県に)密告した」と被害者をうらんだ犯行とされ、特別法廷で懲役10年を言い渡された。この「ダイナマイト事件」がまずあり、その控訴中の1952年6月16日、Fさんは脱走した。その捜索中の7月7日に、先の事件の被害者が刺殺されているのが発見されたのである。この殺人もFさんの犯行とされ、ハンセン病のための特別法廷で死刑が言い渡されたわけである。ハンセン病患者のための特別法廷は、1972年までに95件の刑事裁判が行われたという。死刑の事件はもちろんこの事件だけである。この事件の裁判は、弁護士も含めて、「病気への恐れ」のためだろうが、きちんとした証拠調べが行われなかった点が指摘されている。小さな村落での事件で、様々な疑わしい点がいっぱいあるようだ。

 僕が前からこの事件に関して思っていることは、そもそも「特別法廷」で裁くということが、憲法違反なのではないかということだ。憲法第76条に「特別裁判所は、これを設置することができない」と定められている。76条の規定は、現行の司法権の外に「軍法裁判所」などを置くことの禁止規定で、ハンセン病特別法廷で裁かれたFさんも、最終的には最高裁判所で死刑が確定している。だからこの裁判も憲法違反ではないというのが、通常の理解だろう。しかし、「らい予防法」はそもそも違憲の法律だとも考えられ、その法律で隔離された療養所内におかれた「特別法廷」は「本来はあってはならないもの」だった。もし隔離しなければならないような病気なんだったら、精神疾患や他の出廷できない病気にかかった場合と同じく、病気が治癒するまで裁判は停止されるべきものなのではないか。また憲法第82条には「裁判の対審及び判決は、公開法廷でこれを行ふ」とある。Fさんの裁判は明らかにこの条項に違反している。

 また死刑執行に関する疑問もある。法務大臣の執行命令は1962年9月11日。第3次再審却下決定は13日。つまり再審請求中に執行命令が出ている。(法律に違反するわけではないが、現在は原則的に行われない。)この却下決定がピタリと執行直前になっているのも怪しく、裁判所と法務省が連絡を取り合っていたのではないかとさえ思わずにいられない。再審却下決定は熊本地裁のもので、福岡高裁に即時抗告する余裕を与えずに死刑執行してしまったのも、「みんなハンセン病死刑囚を葬ろうとグルになっていた」という印象を持たざるを得ない。
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死刑制度をめぐる小論②

2012年04月20日 22時06分12秒 |  〃 (冤罪・死刑)
 死刑制度についての続き。小川法相は執行にあたって「国民の声を反映した裁判員制度でも死刑が支持されている」と述べている。また世論調査でも死刑容認派が85%を超えていることも理由に挙げている。これが納得いかないのである。世論調査は確かにその通りだけど、では原発や消費税の問題も世論調査で決めるのか。そうだったら首尾一貫しているが。

 これは市民運動や評論家などにも言えることだけど、リーダー層は世論調査の結果を自分の言動の理由として語るべきではないと思う。民主主義なんだから最終的には国民が決めることになる。しかし、政治家や「知識人」は自分が正しいと思うことを発信すればいいのである。それを聞いた国民の方が、それが正しいかどうかを判断する材料にするわけである。ところが、逆にリーダー層の方が「世論調査はこうなるだろう」と「空気を読んで」言動を決めたのでは本末転倒である。そういうことをしていたら、国民に人気がない政策は誰も打ち出せないし、世論調査通りに政治を行うんだったら政治家もいらない。かつて1980年にフランスのミッテラン政権で死刑を廃止したときも、世論調査では死刑賛成の方が多かったのは有名な話である。しかし、国家のあり方をめぐる基本問題だから国会の議論で決定したわけである。そしてその後、与野党は入れ替わったりしているが、死刑廃止は定着している。

 その世論調査であるが、「基本的法制度に関する世論調査」(平成21年12月)の結果を見ると、確かに賛成派が多いようにも見える。しかし、この調査は「どんな場合でも死刑は廃止すべきである」と「場合によっては死刑もやむを得ない」という二つの意見の二択という変な聞き方をしている。その結果「どんな場合でも死刑は廃止すべきである」が5.7%「場合によっては死刑もやむを得ない」が85.6%ということになる。なお「わからない」が8.6%である。だから「わからない」と答えるのはありなんだけど、「どんな場合でも反対」と「場合によっては賛成」を聞くだけでは正しい調査とは言えない。(「場合によっては反対」「どんな場合も賛成」を選択肢にいれないと論理的におかしい。)逆に考えれば「どんな場合でも賛成」が誰もいないのだから、これは廃止論の根拠にもなりうる結果ではないのか。他の調査にも言えることだが、行政の行う世論調査というのは、聞く設問がおかしいことが多い。

 「裁判員裁判で死刑判決が出ている」ということも死刑制度そのものの議論とは関係ない。現に刑法に死刑がある以上、「判例」を全く無視していいなら別だけど、中には死刑判決があるのは当然である。死刑制度を置いているから死刑判決が出るだけなのであって、死刑を置いている側の法務省や国会議員がそれを「死刑賛成」の理由にするのは不当である。

 ということで、僕は死刑を執行する理由としてどれも納得できない。それは「こういう理由で死刑に賛成で、死刑制度は意味のある制度である」という発信を国家の側で全くしないことへの不信である。今現在「死刑制度がある」のでそれを維持し続けるというだけで、以前の原発政策と同様である。「すでに原発があるから続けて行く」というだけで、思考停止状態である。そして具体的な細部の問題は全然情報を公開しない。議院内閣制だから行政府の長は(ほとんど)立法府の一員である。「つらい職責」なんだったら法を改正して廃止すればいいではないか。自分がルールを決定する立場にある人が、「ルールがあるから変えられない」というのは変である

 よく「法律にあるのだから法相は死刑を執行すべきである」などという人がいる。しかし法律にあることを実行していくだけなら官僚の仕事である。政治家である国会議員が大臣をしている意味は、法律の改廃と言う「政治的行為」を課しているということであるはずだ。こういう風に死刑存廃の議論を打ち切って執行を再開するというあり方の中にも、「政治主導」が全く意味を失い、単なる「官僚主導」に戻ってしまった野田内閣の現在があると思うのである。
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