goo blog サービス終了のお知らせ 

尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

死刑制度をめぐる小論①

2012年04月20日 00時13分53秒 |  〃 (冤罪・死刑)
 死刑制度に関して、何回か。僕はずっと昔から死刑制度廃止論者で、廃止運動のまとまった集まりである「死刑廃止フォーラム90」にも90年の発足当時から賛同会員になっている。僕の中では解決してるので、実はあまり書く気がしない。書きだすと100回くらい必要になると思うし、すぐ書けるけど。死刑に反対ならどんどん書けばいいと言われるかもしれないが、「死刑制度は死刑存置論によって存在しているわけではない」と思っている。死刑制度を存在させているのは「死刑存置感情」なので、それに対抗して「死刑廃止論」を展開しても、かえって「またリクツで論を立てている」と思われるだけで、議論が成立しないのではないかと思っているのである。

 では、今回書くのは何故なのかというと、野田内閣や橋下「維新の会」を考える前提として、死刑制度の問題を考えてみたいのである。さて、3月29日に小川敏夫法務大臣の指示で、3人の死刑が執行された。1年8か月ぶりで、2011年は一回も死刑執行がなかった。それは江田五月、平岡秀夫という死刑反対派が法相だったことが大きいのだろうと思う。昨年暮れに、一川防衛相、山岡国務相(国家公安委員長、消費者担当相)に対する「問責決議」が参議院で可決された。それを受けて野田首相は1月初めに内閣改造に踏み切ったが、両大臣の交代、岡田克也副首相の登用が注目される中、その時なぜか法務大臣が平岡秀夫氏から小川敏夫氏に交代した。後から報道されたところでは、平岡法相は死刑存廃の議論を法制審議会に諮問する考えを示していたらしい。どうも死刑制度の問題で異例の法相交代(他の閣僚はほとんど交代していない)が起きたのではないか。

 新任の小川法相は就任当時から執行再開に積極的な意向を示していた。だから執行そのものは意外ではないと言えるが、その理由づけと日付には考えさせられた。(理由づけの問題は次回。)昔は国会開会中は執行しないものだったが、近年はそれは無視されている。多分、「平成23年度内の執行」ということなのだろう。前回は2010年7月、その前は2009年7月で、「4月から3月までの会計年度」で見れば、死刑執行がない年度はなかったことになるのである。

 しかし、ちょうど執行前日の28日の新聞(発表は27日)に、アムネスティ・インターナショナルは、2011年の死刑執行状況を報告している。計198国中、執行があったのは20か国。多い順に、中国(670以上)、イラン(360)、サウジアラビア(82)、イラク(68)、米国(43)、北朝鮮(30)となっている。中国や北朝鮮は完全な執行数は判らないので、もっと多いだろうと思う。これらの国の名前を見れば、人権状況に問題がある国、米国が「ならず者国家」とかつて呼んだ国や、そこに戦争を仕掛けて自らも好戦国家と言われる米国(死刑を廃止した州もある)などの名前がずらっと並んでいる。ここに名前を連ねるのは不名誉なことではないのか。法務官僚はそういう世界の状況を知らないはずはない。このままいつまでも死刑制度を維持していけるのか、何も感じないのだろうか。

 アムネスティのサイトを見れば、1978年には「廃止国60 存置国122」だった。それが2009年になると「廃止国139 存置国58」に大きく状況が変わっている。もちろん世界がどうあろうと、日本が独自の政策を取るということもあってよい。でも他の問題では「世界では」「グローバル化」などと言ってる人が、死刑制度の問題を避けているのが不思議なのである。法務官僚は「議論しなくていい状況」だと本当に思っているのだろうか。この、「世界の状況への鈍感さ」が他の問題にも通じる現在の日本の大きな問題なのではないかと思う。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

藤本(菊池)事件・死刑執行後再審をめざして

2011年09月20日 23時34分53秒 |  〃 (冤罪・死刑)
 今回熊本へ行ったのは、藤本(菊池)事件の再審をめざす集会に行くためです。この事件はハンセン病あるいは冤罪事件の歴史の中ではかなり知られています。しかし、一般的にはまだほとんど知られていないと思います。ハンセン病差別により無実の人が殺人犯とされ、療養所の中に作られた特別法廷で差別的な裁判(具体的な内容は例えばウィキペディア、あるいは国賠訴訟後に厚労省で行われた検証会議の報告を参照)を受け、死刑が確定しました。その後再審に向けた取組のさなかに、1962年9月14日突然死刑が執行されました。そんなひどいことが日本であったのかと思うかもしれないけど、あったんですよ。では、なぜ知らない人がいるんだろう?今回の「50回忌」、来年の「処刑50周年」を機に、再審への機運が高まっていますが、東京ではほとんど報道されていません。地元の熊本ではかなり報道されていましたが
 (なお、この事件は今まで「藤本事件」と呼ばれてきましたが、弁護団から「菊池事件」への呼称変更が呼びかけられています。しかし、そうすると「藤本事件」での検索にかからなくなってしまいます。当面は両方の呼称が必要と考え、表題をそうしました。


 僕は冤罪やハンセン病に関して長く関心を持ってきたので、むろん「藤本事件」も30数年前から知っていて、気にかかってきました。この世の中で何が「一番あってはならないこと」でしょうか。戦争や犯罪で何の責任もない幼児が殺されてしまうこと。しかしその場合でも「それが良いこと」とは誰も言いませんし、犯罪をすべて防ぐ方法はないでしょう。「無実の罪で死刑判決が下り死刑が執行されてしまうこと」はどうでしょう。僕はこれはこの世で一番あってはならないことだと思います。なぜならそれは国家から理由なく殺され、しかも「この世を良くするためにお前を抹殺する」とレッテルを貼られた上での死だからです。国家権力による権力犯罪の極致です。

 では、日本では「無実の死刑囚への執行」はあったのでしょうか。執行前に再審で無罪になり釈放されたのが4件(免田、財田川、松山、島田)、再審請求中の死刑囚が獄中で死亡した例が数件(帝銀、牟礼、波崎、三鷹、三崎など)。これに対し、無実なのに死刑が執行されてしまったと訴えがある事件は、藤本事件、福岡事件、飯塚事件でいずれも九州の事件。福岡事件の西武雄死刑囚は獄中で「叫びたし 寒満月の割れるほど」という句を作っています。他にも疑われている事件はあるようですが、この3事件は具体的に再審の動きがあるのです。(なお、飯塚事件の執行は2009年。)

 さて、集会が開かれたのは、ハンセン病療養所菊池恵楓園(きくち・けいふうえん)。熊本市から北へ1時間程度、もっと遠くかと思っていましたが、案外近い所にありました。園の会館で開かれた集会には約130人が参加、再審への可能性を考えました。自治会副会長の志村康さん(国賠訴訟を始めた人です)から、当時の面会での様子などが語られ、読み書きがよくできないまま有罪にされたという話がありました。続いて八尋光秀弁護士から再審への説明がありました

 この事件への取り組みは東京でも必要だと思います。なぜなら、事件と裁判、死刑執行は九州で起こりましたが、一番の問題である死刑執行は、東京で法務大臣が執行命令に署名したことによるものだからです。中垣國男法務大臣による執行命令は、1962年9月11日付でした。この「日本の9・11」から来年で半世紀。私たちはそれを忘れないという意志表明がなされるべきだと思っています。
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

布川事件、無罪判決

2011年05月24日 21時24分06秒 |  〃 (冤罪・死刑)
 布川事件の再審判決日。午前10時傍聴券受付開始ということで、早起きして茨城県土浦市の水戸地裁土浦支部へ行って来ました。再審なんだし、公判内容からも無罪判決しかないわけで、そういう意味での心配はないけれど、問題はどの程度まで警察、検察の責任へ切り込むかにかかっています。

 朝から冷たい雨の中、朝から傍聴希望者が続々到着、新聞社のアルバイトを含めて1000人以上が集まりました。それでたった25席。この倍率では当たりません。今まで大きな裁判で傍聴券が当たったためしがないなあ。先着順で僕の真ん前で切れた時もあります。日本の裁判は傍聴席が少ないです。傍聴は国民の権利であるだけでなく、裁判そのものが日本の文化の一つです。東京地裁で一番大きい法廷でも100人規模ですから、重大裁判ではいつもマスコミの席取りアルバイトが出ます。

 今回は支部だから大きな法廷がなくても仕方ないけど、そういう時はどこか大きな市民ホールでも借りてやればいいんですよ。外国ではそういう例もあったと聞いたけど。市民の関心がこれほど高い裁判なのに、自分のパフォーマンスを見てもらえなくては裁判官も残念じゃないですかねえ。あるいは音声を外部に流すとか。夕刊の新聞は、裁判所へ向かう桜井さん、杉山さんの写真を大きく取り上げていたけど、顔を大きく撮るため下の旗の字が見えません。

 写真を載せておきますが、「取り調べの全面可視化、全証拠の事前開示を」「無実の43年!雪冤から司法改革へ!」と書いてありました。これを取り上げなくてはいけません。無実は誰もが認めた。裁判所が認める前に、もう周りの人々はみんな認めています。無罪になるのはアッタリマエ。これから責任追及、司法改革が始まるのです。今日の無罪判決はその第一歩。

 傍聴席結果発表は11時半。判決は13時半。すぐに弁護士二人が垂れ幕を掲げて出てきました。判ってはいたけど、感激です。

 でも言い渡しは16時半までかかるということで、帰ってきました。だから判決の詳しい内容はまだ知りません。桜井さん、杉山さんの映画「ショージとタカオ」は前に紹介しましたが、新宿ケイズ・シネマで6月17日まで、毎日午後5時から上映中。桜井さんのブログ「獄外記」もあります。日弁連の宇都宮会長名の声明もぜひ。
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

追悼・阿藤周平

2011年04月29日 21時35分12秒 |  〃 (冤罪・死刑)
 八海(やかい)事件の元被告・阿藤周平(あとう・しゅうへい)さんが亡くなった。4月28日。84歳。
 
 八海というのは、山口県東南部の地区名で、今は田布施町。岸信介、佐藤栄作兄弟宰相の出身地。そこで、1951年に夫婦殺害の強盗殺人事件が起きた。警察は一人ではできない、複数犯だと思い込み、真犯人を強引に攻め、無実の共犯者を作り出した。真犯人は阿藤さんを主犯と「自白」したため、一審で無期懲役が確定した。二人殺害だから当時死刑以外にはありえないから、真犯人と警察の思惑が一致したのである。

 一方、阿藤さんは一審死刑、二審も死刑。他の二人の「共犯」者も有罪となった。
 最高裁になってから、冤罪救援、戦時抵抗で有名な正木ひろし弁護士が担当。無実を確信した正木弁護士は「裁判官 人の命は権力で奪えるものか」を公刊、ベストセラーになった。この著書は今井正監督により「真昼の暗黒」として映画化され、ベストワンになるなど高い評価を得た。今見ても、技術的には難もあるが、非常に力強い冤罪映画の最高峰である。今では裁判中に本や映画を作ること自体が問題になるとは思えないが、当時は「裁判は雑音に惑わされるな」と最高裁がいうなど、進行中の裁判を批判すること自体がとても困難な時代だった。

 最高裁は、1957年に死刑を破棄、高裁に差し戻し、1959年に無罪判決が出た。これで確定しそうなものだが、検察は再上告。ところが1963年に最高裁(下飯坂裁判長)は再び有罪の観点から、無罪判決を破棄、高裁に差し戻し、1965年三度目の死刑判決が下った。決着がついたのは1968年、三度目の最高裁判決で、最高裁が破棄・自判して無罪判決を下したのである。
 
 こういうエレベータみたいな裁判は他にはなく、阿藤さんは無罪になるために、3回の最高裁判決を必要とした。という八海事件は戦後裁判史、人権の歴史に忘れられない事件なのだが、今では知る人も少ないと思い少しくわしく書いてみた。
 
 阿藤さんは、無罪確定後は大阪に住み、冤罪救援運動にも参加していた。僕も2回くらい話を聞いたことがあると思うけど、20年以上前のことでなんだかあまり覚えていない。しっかりと、わかりやく話す人だった記憶がある。

 映画「真昼の暗黒」の最後で、阿藤さん役の青年は、「まだ最高裁がある」と叫ぶ。「まだ」と言えた時代だった。今はなんだか「また最高裁がある」というような裁判が多い。最高裁は人権の砦なんだけど。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする