実戦教師塾・琴寄政人の〈場所〉

震災と原発で大揺れの日本、私たちにとって不動の場所とは何か

逞しく、おおらかに  実戦教師塾通信四百四十二号

2015-05-15 11:21:04 | 福島からの報告
 逞(たくま)しく、おおらかに


 1 「こんなこともあったんだな」

 元気で良かった! 杖ついて散歩していたおばちゃんだが、もともと元気だった。でも医者のすすめで、心臓に関係する手術をした。おばちゃんは、帰って来れんのがなと、不安そうに手術前つぶやいた。医者は、突然死んだらどうするんだと言った。おばちゃんはそれでいいのにと答えたという。私もそう思った。手術に耐える力がおばちゃんにどれだけあるのだろう、なによりも元気なのにと腹立たしくさえあった。しかし、結果は十日間で退院だったのである。こんなこともあるのだと、私は感心するばかりだった。
 豊間復興住宅の駐車場を歩いていたら、顔なじみのおじちゃんと、ちょうどごみ捨てに行くところで鉢合わせした。そこでおばちゃんのその後を聞いたのだ。

「オレも心配でよ。でもここは不便だよ。歩いてても、すれ違わねんだよな。住んでっかどうかさえ分かんねえ」

一階はかろうじて人影がうかがえるものの、二階から上は、窓ガラスが無表情に光っていた。ベランダで洗濯物や布団が揺れている。仮設の時はもちろんすべて平屋だった。それで窓越しに、あるいは窓から体を乗り出し、みんなおしゃべりした。
 二人しておばちゃんの部屋まで出向いた。ブザーを押しても返事がないので、おじちゃんはロックしてないドアを開けてしまった。するとちょうどおばちゃんが、廊下をこちらまで歩いてくるところだった。おばちゃんと私たちは、お互いアラアラとすっとんきょうな声を上げたのだった。
 風は穏やかで、暖かい日だった。三人で外のベンチに腰掛け、おばちゃんの持ってきてくれたパック入り野菜ジュースを飲む。高台にあるこの住宅の、五百メートルほど下ったところが海岸である。区画整理と堤防工事の進む海岸はいま、津波以前・以後、どちらの景色でもない。ダンプとクレーン、ブルドーザーのけたたましい音はここまでは聞こえない。
      
      
   下の写真中央の奥に、小さく塩屋崎灯台。見えるだろうか

 おばちゃんの実家は越後である。こっちの家に嫁(とつ)いだ。それからは姑(しゅうとめ)の顔を見ずにすむように、昼間は田畑で働いた。漁師の旦那さんと、自分たちの収入で暮らしを立てた。ずいぶんいい暮らしだったんですねという私の言葉は、冗談にしかならなかったようだ。
「旦那は雇(やと)われだしよ、アタシんとこの田んぼはちっちゃいんだ」
今、おばちゃんは、息子の嫁に気づかい、なるべく散歩をし料理もやめてしまった。そして散歩がてらの買い物は、
「怖くてできないよ」
という。向かいにできたプレハブのお店の手前には、広い道路があるのだった。そんなおばちゃんの話は、今の日本のあちこちにあるような話に思えた。
 通りがかった人がひとり、ベンチに加わって、やはりあの日の話になる。
 あの日、みんなに逃げろと言われて、走っていると、後ろでものすごい音がするので振り向くと、ずっと向こうの方に黄色い煙がたち昇るのが見えた。
「家が津波で壊される音と煙だったんだよねえ」
そして、避難先で知る「その人となり」。
「物資の受け取り方で、この人ってこういう人だったんだって思ったね」

 この住宅に引っ越してしばらくたち、四年の間の写真を見ていたら、去年の夏の写真が出てきたそうだ。
「仲村トオルさんと撮った写真も出てきてさ」
「こんなこともあったんだなあって思ったよ」
おばちゃんはしみじみ言うのだった。
      

 2 まずい弁当?
「なんだ、朝来るって言うがらよ、何時になるんだって思ってたよ」
あんまり早く行っては失礼と思ったのだが、久之浜に私がついた10時ころ、待ちかねたようにおばちゃんたちが言った。朝早く起きて野菜の煮物を作って待っていたというおばちゃんは、有り合わせなんだけどと言った。もうひとりのおばちゃんは、もらったんだけど、とお新香を出してくれた。
 久之浜の復興住宅に移る段になって、おばちゃんは体調を崩(くず)した。二月のみんなと一緒のお醤油支援の頃は、私もおかしいなと気づいた。その後、しゃんとしていた背中は曲がり、口数もすっかり減ってしまって、もうホントのおばあちゃんになってしまったよと、その頃、職員がおばちゃんを案じて話した。だからこの日、機関銃のように話すおばちゃんは、まさしく「帰って来た!」のだった。
 煮物はじゃがいもに椎茸、昆布とニンジンだった。美味しくないわけがない。私は二人の話を聞きながら頬張る。すると、いや出る出る、悪口が。こんなふうにあの人を思っていたのかとか、もらった親切を仇(あだ)で返すかなどと、私は呆気(あっけ)にとられた。この調子だと、私もなんて言われてるか分かったものではない、などと思ってしまった。

「あんなにまずい弁当いらねえんだけどよ」

と、せっかくの善意におばちゃんたちが言うのである。月に一度のイベントでのことだ。思わず、それはあんまりですよ~と言う私である。しかし聞けば、おばちゃんたちはこの「善意のお弁当」をていねいに断(ことわ)って来たらしい。もう他のことで充分お世話になってるし、出来合いの弁当は、
「ホントにおいしくねえんだよぉ」
と、声を下げる。それで食べ物は必ず自分たちで持って行くそうだ。何度かそうしたという。

「でも聞かねえんだよな」

とこぼすのである。人の善意というものも難しいものである。おばちゃんたちは、ときに顔をしかめ、ときに大声で笑った。ちっとも悪びれない姿を、私はやっぱり大好きなのだった。私もおばちゃんたちの言葉や態度から、しっかりおばちゃんたちの胸の内を見ておかないといけない。
 おばちゃんたちを見ていて、なぜか御年91歳の評論家佐藤愛子を思い出した。原発事故のあと、彼女は、人間が神の存在を黙殺した罰が下ったと言った。そして、

「私は原発反対だったといってもしょうがない」
「自分の無知無力を省みて覚悟を決めるだけである」

と言うのである。おばちゃんたちにも、似ている覚悟があると思っている私だ。

 おみやげにと、柳ガレイの干物までもらってしまった。


 ☆☆
楢葉のレポートまで書けませんでした。帰還をめぐる説明会の様子も聞けました。次の機会に書こうと思っています。
            
         手賀沼沿いの田んぼで、田植えが今年も始まります

 ☆☆
BSプレミアムの『アナザーストーリー』見ましたか。セナを見ると悲しくなります。でも見たかったので。part1だけは我慢ならんでした。セナが亡くなって数日後、このレポーターの女は「セナが、ボクは死ぬかも知れないと私に電話をくれた」と、あの時すでに言ってましたよ。なにが「初めて語る」だよ。とにかくセナは追い込まれていました。前年、マンセルが操(あやつ)るウィリアムズは、圧倒的な強さでした。ホンダもセナも太刀打ちできなかった。F1当局は、このウィリアムズのマシンが持っていた「自動制御装置」を規制したのです。翌年、セナがせっかく手にしたウィリアムズのマシンは不安定でした。前年ダントツだったマシンで、セナが勝てない。周囲もセナ自身もざわついてました。いつも陰りを帯びていたセナの顔は、あの年いっそう孤独に見えました。
でも、ブラジルのサッカーチームのエピソードは知りませんでした。ワールドカップ優勝決定の瞬間、チームは「勝利はセナとともにある」の横断幕を掲げたんですねえ。いやあ涙そうそう、でした。日本を大好きだったセナ。皆さんも会いたいですよねえ。
            
            台風にも耐えた我が家のバラです

最新の画像もっと見る

コメントを投稿