実戦教師塾・琴寄政人の〈場所〉

震災と原発で大揺れの日本、私たちにとって不動の場所とは何か

実戦教師塾通信六十四号

2011-08-05 12:04:03 | 福島からの報告
「今日まで、そして明日から」

仲村トオルがやってきた! ~6年3組応援記録~その1


(いきさつ)

 いきさつを話さないといけない。
 6年3組は私が教師を始めて最初に担任したクラスである(より正確には違っている。それは私がこの3組を「2組」と言ってしまうことと関係がある)。そこに仲村(以下ナカムラと表記)たちがいた。私としては若さのせいもあったが、あんまりほめられた教師ではなかったと、自分で思う。でも、子どもたちの方ははそう思っていなかったのだろうか。ありがたいことだ。大体が5年にいっぺんの同窓会に私は招かれ、そこで懐かしい話や「今」の話に華を咲かせた。そんな楽しい同窓会は、幹事たちが実に細やかで気が利いており、また来ようとみんなをその気にさせることで支えられていた。それでまた幹事は新たな出席者を開発しようという目論見に燃えるのだった。「常に20人以上の参加が目標です」と幹事長テラカドは言う。最近この同窓会のインターバルが縮まっている。ナカムラは「もっと縮めてくれ」と提案している。
 出席できないときがあった。この時も配慮の行き届いた幹事は、私にその時の写真とみんなの寄せ書きをした色紙を届けた。ナカムラが「今の自分の基礎を築いたのは先生です」と書いている。もちろん社交辞令である。
 そう思っていた私だが、あるきっかけがあってそれが社交辞令ではなかったと分かる。そんな直後、震災が日本を襲う。私がブログで福島への支援に向かう表明をすると、心配の声とともに応援の声が立ち上がった。6年3組もそうだったことは言うまでもなく、ブログに紹介したとおり何度か避難所に物資の支援を受けた。そして極めつけのプロジェクトが「現地で先生を応援しよう」だった。信じられなかった。みんな忙しい中で休みをとり、あるいは休みを都合し、いわきまでやってくる。
 次である。私がホテルサザンの受付さんをえらく気に入ったことはすでに書いている。私の活動が夏に入って受付さんに「6年3組の連中が支援に来る。その時支援物資を持ってきたいと言っているが何かないか」と尋ねた。受付さんはフライパンと鍋がいいという。このサザンは板長さん(以下、板さんと表記)が食事をすべて調えているため、調理道具や食器がまったく不要な場所なのだ。ここにいる楢葉の人たちは、いわき市内に建てられている仮設住宅を中心に二次避難をする。そのため引っ越しをする人たちが必要としているものなのだ。このホテルはそれでも空き部屋ができない。郡山や会津に避難している人たちが「故郷により近い場所を」と、このいわきのサザンにやってくるからだ。「自転車もあれば便利だ」と受付さんは言った。自転車をナカムラが担当した。
 初めは送り主のことを言うことはないと思った。成り行きといい趣旨といい、送り主のことは当日に分かればいいと思った。しかし、サザンに行って届いた自転車を確認した一週間前の7月28日、改めて送り主のラベルを見て、また「届いていますか」というナカムラの連絡を思い、そこまで伏せることはないだろうと私は考え直した。
 「あの自転車の送り主は」と私が言った時、受付さんはよく分からない様子だった。でも、次の日電話がきた。「2日は何時ごろ来る? サインとかもらえるのかと言われてね」受付さんはそう言った。



(たくさんの、満面の笑い)

 8月2日午後一時、ホテルサザンの駐車場に幹事長の運転するワゴンが停車すると、待ちかねたように二、三人がカメラを持って走り寄ってくる。ホテルの玄関から何人か顔をのぞかせている。おそらく今日の出来事を信じていたのは、この最初に走り出てきた三人だけだ。あとは信じられない思いでいた。あるいは信じていなかった。サイン会はもちろん予期していたが、サイン会場となったその広間で「ガセだと思って来たらよぉ、本物だよ」と驚きの電話を入れていた女子高校生の声が「信じていなかった」ことを示していた。
 テーブルに座ってサインするナカムラを、ホテルの皆さんは遠巻きに待つので、私は「近くまで行って一緒に写真とってください」と呼びかける。すっかり広間を埋めた人たちは、ホントに?とどよめく。ご高齢の方が多いので、私は果たしてこの俳優を知っているのか少し気にしていたのだが、そんなことはなかった。どうしよう、そのままの顔で来てしまって、と言い、マスクをしている方は、このマスクを外したら恥ずかしいと言い、笑っている。さんざん躊躇した板さんもこの広間で撮影。
 いつもいろいろ細かな段取りをつけている幹事のワシオがサインの宛て先名の漢字を確かめつつナカムラに色紙を渡し、その下準備をテラカドお気に入り(私もだけど)の、同じく幹事のハクネがしている。マネージャーと思われたのか、そんな風情を漂わせたこれも幹事のサジマまで写真を撮られている。また、いつも同窓会不参加だったクミコは、なぜか今回の「応援イベント」に急遽参加。ワシオの下働きだ。
 会場の熱気に押された格好で私は隣の事務室に避難する。そこまで隣でたかれるストロボの光が入ってくる。私は嬉しいと思い、嬉しいと何度もつぶやいた。あの失意に満ちた姿の人たち、肩を落としうつむいて、力なく座り込んでいた人たち、やっと歩いていた人たちが、今日は腰、背筋がピンと伸びて満面に笑みをたたえている。サインを終え、記念撮影を終えても広間をあとにせず、ある人は座って、ある人は立ったままこの場を見守り、この場にいる。
 私がボランティアとしてあちこちの避難所を回った時、確かに人々は少し笑った。ある時は今もこうして生きられるという健気な、ある時はあきらめの弱々しい、そんな笑いを私たちに見せた。それでも私たちはそんな被災者に心打たれた。必ず「ありがとうございます」のあいさつが私たちの口からいつも出た。
 しかし、この日の笑いは違う。心の底からの笑いだ。この人たちはいつの頃からこんな笑いを忘れていたのだろう、みんなの笑いの中心にナカムラがいる。一心不乱にペンを奮い、撮影に応じている。スゴイ。俳優仲村トオルの力が、原発で追い出され、希望や暮らしを奪われた楢葉の人たちの心を動かしている。ありがとう。そう思わずにいられない。そして、その影となりいそいそと動く幹事たち。ありがとう。オレ、オマエたちの担任なんだよな。嬉しいよ。そう思わずにいられない。
 いやあ、気さくなんだねえ、助かったと受付さんが事務室にいる私のところまで顔を出す。来てもらってもこっちの胃が痛くなるんじゃねえかって思ってたけど良かったよ、そう何度も言った。その受付さんは私たちが到着したあと、近くの養護学校と、同じく楢葉の避難所になっているすぐ近くのホテルに「(呼んでも)いいかね?」と言って電話した。広間はそれでさらに膨れ上がった。この話はプロダクションでもスポンサーでもない、私も絡んだが、この受付さんの存在をおいては成立しなかった話だ。このホテルに避難して来た楢葉の人たちの話に耳を傾け、ホテルのオーナーを動かしてカラオケルームの使用法やら料金やらを都合し、館内設備の修理を要請し、また「整髪」や「整体」やの多くのイベントを助けてきた。自身が大変な被災をしていてそんな余裕などないはずなのに、楢葉の人たちとある意味「つかず離れず」という必要な距離を保ちつつやってきた。この時広間で談笑していた人たちに私は少しいきさつを話したのだが、皆さんの受付さんへの支持は、絶大だった。この人のアナウンスだからこそ、今回の訪問もストレートに皆さんに行き渡っている。
 以前、このブログ上で「好感の持てるタレント・アスリートの被災地支援」を報告したが、中には敬遠されたものもあったという。アナウンスの仕方と「回り方」に原因があると思う。それによっては「売名行為」と受け取られるのかも知れない。今回のやり方は、何より目的が「物資お届け」が第一だった。出向く理由そのものが「物」であって「人」ではなかった。そしてこちらから「回る」でなく、意図せずにだったが「良かったら来てください」なのだ。
 最後になった。私はナカムラに挨拶を促す。「どうしてオレが」と言いいつつナカムラはあいさつした。「頑張ってください」と「応援してます」は注意深く封印したという。私はそのあと引き継いで少しだけお礼を言った。楢葉の皆さんがこんなに笑っている、ということだけはしっかり言おうと思った。最後は思わずうわずってしまった。うーむ、不覚であった。
 あとで思った。やはり私がいきさつを話して、ナカムラに引き継いだ方が順序正しかったのではないか、でも、そうしたら多分もっと後悔した。あの場の空気がそういう流れを作っていた。あれで良かった。
 ロビーにナカムラが送った自転車が展示してある。私は「乗って下さいね」と近くにいた女の方数人に話しかける。すると高齢のその方たちは、顔の前で手を横に振って「乗れませんよ」と笑った。We can not ride.かと思ったが「もったいなくて」乗れない、という意味だということにすぐ気付いた。「ずっとこうして飾っておきます」、間を置いて一人の方が言った。
 なんて素敵な日だったのだろう。きっとこの人たちは何かの時に、またこの日のこのことを思い出す。握手をしていた女子高校生は泣いていた。あの子も何かの時にこの日のこのことを思いだす。きっとそんな出来事だった。また胸が一杯になる。
 私はこの日の次の日の活動を最後に、長い夏休みに入ることにしていた。6年3組は毎月一度「お楽しみ会」というイベントをやっていた。長期の休み前の「お楽しみ会」はいやが上にも盛り上がった。この日のサザンの出来事は、夏休みを前の私にとっておおいなる手土産となった。あの楢葉の人たちの笑顔に免じて2日の出来事を「お楽しみ会」と言わせてもらってもいいだろうか。
 ありがとう、仲村トオル! ありがとう、6年3組! ありがとう、楢葉の人たち! ありがとう、受付さん! 板さん!

 そうだ、この日はサザンで終始したわけではないことを書いておかねばならない。6年3組のみんなは、非常時避難区域・警戒区域となった広野町→被災地久之浜→被災地豊間という順で被災地を回った。瓦礫の処理をしようと思ってその用意をしてきたメンバーもいたが、それは無理だと私は踏んでいた。実際それで一杯だった。
 「見る」ということのためらいを、被災地のすぐ近くに暮らす人たちでさえ持つのだが、私は近くや遠くの仲間や友人に、ためらわずに「見てくれ」と言うようになった。
 被災地を回るみんなの足どりは実にゆっくりだった。「重く」なるにはもう少し時間がたってからだ。初めての人は圧倒されて「ゆっくり」になるのだ。皆もここを初めて訪れた人が言うように、
「この(壊れた家の)人たちはどこにいるの?」
「どうして周りの家はみんな流されているのに、この家だけ残っているの?」
「そうか、この道も瓦礫で埋まっていたのか」
と言うのだった。どんよりした海岸に、波が静かに音をたてている。重機の音が遠くで聞こえていた。

 「柏に帰る前に寄ってね」
 そうサザンの受付さんから電話があった。あの2日の日は曇天の空だったが、この日は朝の雨があがって夏の日差しが容赦なく照りつけていた。愛車マグナ750を駐車場に置き、ロビーに入るが人影がなかった。呼び鈴を押して受付さんを待つ。「全室オーシャンビュー」の呼び込みどおり、ロビーからも真っ青な海と入り江が見える。まったく片づいていない入り江の車や全壊した家屋も見える。波の静かな音が聞こえてくる。海と同じ色の夏の空。そんな静かな中にいると、あの二日前のあの賑わいがもうずっと前の出来事のように思えて来る。ずっとずっと昔のきれいな景色がいざなっているように思えてくる。
 ロビーの出口付近に「夏のイベント焼肉大会」参加申し込みのボードがある。ホテル前駐車場でやるのだ。あの日皆さんに促されて、名簿の一番あとにナカムラも参加者として名前を連ねた。「気持ちだけですが」というただし書きを添えて。そのナカムラの名前のあとにさらに十名ほどの皆さんの名前が加えられていた。

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1 コメント

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忘れてはならないもの (リーガルハイ☆半澤直樹☆)
2013-07-11 10:34:33
我れ日本の柱とならむ
我れ日本の眼目とならむ
我れ日本の大船とならむ
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