実戦教師塾・琴寄政人の〈場所〉

震災と原発で大揺れの日本、私たちにとって不動の場所とは何か

桐島聡Ⅲ 実戦教師塾通信九百十号

2024-04-26 11:21:49 | 戦後/昭和

桐島聡Ⅲ

 ~「目的」と「失敗」~

 

 ☆初めに☆

最近、坂本龍一が企画・制作をした『ZERO LANDMINE(地雷をゼロに)』ばかり聴いてます。このアルバム、2001年に発表されたものですが、覚えていますか。地雷が埋設されている世界の国々から、それらを撤去しようと坂本が呼びかけました。CDの売り上げを全て撤去費用に充てる企画です。国内外のアーチストが坂本の呼びかけに応えて集まり(日本からはグレイやドリカム等が参加)、テレビで放映された時には、元皇太子妃ダイアナや、14世ダライ・ラマが朗読部分で登場。さて、地雷埋設は国家(間)で行いますが、1970年に入ってからの日本の爆弾は、民間人が民間&公立の建物(変な言い方ですが)に仕掛けました。新しい事実を追加しつつ、この評価を試みます。

 1 黒ヘル軍団の爆弾

 もう火炎びんでは戦えないと、本格的武装闘争を宣言したのは赤軍派だったが、街頭で爆弾を使用したのは、71年の中核派(一説に実行は赤軍派とも)が初めてと記憶している。デモの隊列から機動隊に向けて投げられたものだ。重装備で屈強な機動隊の崩れるニュース映像を見た時、私たちは思わず声を挙げた。その頃、いわゆる「過激派」と言われた「新左翼」諸党派はもちろん、私たち無党派は爆弾を使用するものではなかった。しかし、中核派の街頭での使用を皮切りに爆弾闘争が始まる。その中で、黒ヘル軍団と自称し報道される集団が、多く実行した。黒ヘル軍団の標的は分かりやすかった。それは、派出所や警察幹部(警視庁・警務部長)の自宅だった。けが人は出たが、何より、民間人に危害は及ばなかった。ところが、71年の暮れ、四谷署管轄の派出所前に置かれていたクリスマスツリーが爆発する。警官が足を切断し、通行人が6名重軽傷を負う。一般市民に危害が及んだとあって、警視庁は非常事態宣言をする。中核派の事件から半年後のことである。私たちの間でも爆弾使用を巡って評価は分かれていたが、このツリー爆弾事件で多くが混乱し、シンパシーを放棄した。この事件後に開かれた学生大会で(私はまだ現役の学生だった)私は賛否の議論に与せず、今回のツリー爆弾に関しては同じ組織がやったかどうかについての判断を留保する、と発言したことを覚えている。手口も爆弾の型式も似ていた。しかし、今までは爆発によるダメージを少なくなるよう注意深く計画しているように見えた。それがツリー爆弾では違っていたからだ。しかし、つい先日知ったことだが、これはやはり黒ヘル軍団の実行したものだった。そしてそれが「失敗」だったということを知った。「失敗」とは、けが人を出した事だ。詳細は夏の恒例「読書特集」において報告する。勿体を付けて申し訳ありません。

 2 無原則だった犯行声明

 桐島聡は「乗り遅れた」世代だったとしか思えない。1954年生まれ。私たちと5つ以上遅れて生まれている。思い出すのは、70年安保闘争後に入って来た学生が2年生になる頃、唐突にバリケードストライキ(以下「バリスト」と表記)をやろうと言い出したことだ。私たちも確かにバリストをやった。しかし、それは正当なる経過があった。私たちは「どんな理由でバリストなのだ?」と駄々っ子どもに問う。ところが、彼らのよって立つ正当性は「革命」だった。「革命」の前ではすべてが許されるのだ。私たちは、それではあまりにも「革命」をバカにしてないか、かつて校舎の屋上にどうして赤旗が翻ったのか分かってるのか等と言った。69年から3年、そこには深い断絶があった。69年を生きたものは、我が子の「過ち」をいさめる凄まじい親の愛にさらされ、就職・卒業の断念はリアルだった。4つ年下となる小池真理子に断絶を感じないのは、彼女が高校時代に69年を生きたからだ。では、東アジア反日武装戦線「狼」(以下「狼」と表記)の大道寺将司はどうか。全く同じ世代だ。69年を生きた私たちの行動や考えの基礎にあったのは、そんなこと聞いてねえぞ/ちゃんと知らせろよ/自分たちだけで決めるなよ、である。全共闘が「直接民主主義を指向した」と言われる所以である。爆弾闘争は計画から製作・実行まで、すべて密室で非公然と行う。当たり前だが、私たちと全く違う路線をとる。大道寺(たち)が大衆闘争の経験を踏まえ爆弾へと進んだのか、つまり「乗り遅れた」わけではなかったのか、資料からは断定しがたかった。しかし「狼」が74年の三菱重工ビル爆破事件を実行した直後に出した犯行声明は、爆弾闘争の継続を高らかにうたっていた。実は、このビル爆破で犠牲者を出したことが「失敗」だったと「狼」が悔やんでいたことも、つい先日知った。しかし、犯行声明は自信に満ちていた。原則を無原則に貫き通す「狼」の態度は、彼らが69年を生きてきたと思えるものではなかった。

 桐島はどうだったのだろう。死ぬ間際に自分は桐島だと名乗った心情を、安易に語れるものではない。でも50年にわたってして来た「仮の住まい」の表札に、桐島は違和感と不安と不満とあきらめを見ていたのだ。それでも、戻って良かったのかと、未だに思っているような気もする。遺骨の引き取りを、家族・親族は拒絶したという。不憫に思えて仕方がない。この「不憫」な気持ちで思い出したことがある。1963年の吉展ちゃん身代金誘拐事件だ。警察のミスで身代金を奪われ、吉展ちゃんもずっとあと悲しい姿で見つかった事件だ。この事件の容疑者には完璧なアリバイがあったのだが、それを伝説と呼ばれる刑事が崩す。死刑が執行されたあと、その刑事が犯人の墓参りに行くのだが、住職が案内したのは犯人の先祖が眠る墓の傍らの小さな盛土だった。オマエはオレのお陰で墓にも入れてもらえなかったのか、と刑事は号泣したという。罪を認め刑に服しなさいと、犯人を追い詰めた刑事が号泣したという。恐らく犯人の家族もひとかたならぬ苦労を強いられたはずだ。桐島の家族もそうだったのだろう。

 

 ☆後記☆

すっかり初夏の陽気で、ビールの季節となりますね🍺 焼きそばとビールを持って、公園で乾杯で~す。先週の子ども食堂「うさぎとカメ」、焼きそばです🎪 「美味しかったです」のたくさんの声、ありがとうございます☺

まだ、麺と具が分離してますが、これからバットの中でかき混ぜます👍

さあ、いよいよ明日からゴールデンウイーク! 疲れた身体を癒しましょう♨ 楽しみましょう🚄

大津川の土手に咲き誇る菜の花🌷

そして、また買っちゃいました。スポーツ新聞🥎


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