実戦教師塾・琴寄政人の〈場所〉

震災と原発で大揺れの日本、私たちにとって不動の場所とは何か

毎日の言葉 実戦教師塾通信八百九十九号

2024-02-09 11:40:43 | 子ども/学校

毎日の言葉

 ~もっと分かりやすく~

 

 ☆初めに☆

だいぶ前から、ストレートに「子ども/学校」を語る記事が少なくなった、と指摘を受けています。子ども食堂関係の記事が多くなっていると思います。また、昔のことを振り返らないといけない出来事が、多くあったせいでもあります。各校長先生からの相談も含め、現場からの声は少なくないのです。報告することはあるのですが、喫緊でもなかったので、という理由です。でも、そろそろまとめに入りたいって変な言い方ですが、最近の話題ばかりでない、もっとラディカルに分かりやすく現場を語りたい、という心境になっています。ラディカルとは「過激」を意味するわけではありません。「根底的」な場所で語れればいいなと思っているのです。これからは月に、少なくとも一回か二回は「子ども/学校」のカテゴリーで話そうと思います。区切りの九百号もそうなると思います。

 1 正しい言葉

 柳田國男が明治の標準化政策を、果たしてその効果はいかがなものか、と批評している。「よい言葉」を優先することで「毎日の言葉」をないがしろにした、という内容だ。方言の排除はいまに始まったものではない。しかし、柳田がここで言うのは、方言ばかりではない。私たちが豊穣に所有している「毎日の言葉」を、量として遥かに頼りない「正しい言葉」に置き換えるのは無理があるし、弊害ばかりが生み出されているんではないかと言っている。この「正しい言葉」を考えることは、現在においても極めて有用なことだ。何度も繰り返し言って来たことだが、くだんの「〇〇させていただきます」は、今や常套句としての地位を不動のものとしている。こいつが「正しい言葉」として、平成・令和のまさに先頭を切って歩んできた先兵・厄介者と言えるだろう。もとをたどれば、敬語は神仏や主君、位の高い人に対する言葉だった。これが江戸から明治と、移動や訪問の盛んになるに連れ使用の必要が発生し、結果として過剰な状態となった。明治の頃には、どうも家族や親しい人との間でも「敬語」は使われるようになったらしい。これと言って必要ない言語の習慣は、だいぶ昔に生まれたのである。こういう風になるに従い、敬語本来の「よそ行き」が「空々しさ」を装うようになっていく。いまのことで言えば、中学校で入試面接練習の折り、普段、父母を尊敬せよと言われていたのが、他人に対しての時は粗末にせよ、と言われたような気分になる生徒の面食らう姿はかわいらしいのだが。しかし、「正しい言葉」は、多くの「毎日の言葉」を排除した。また繰り返すが、「申し上げます」「参ります」は、ほぼ壊滅状態だし、「召し上がって下さい」を「いただいて下さい」で併用する破廉恥も同じと言える。それで別にいいじゃないかと思う方々は、例えば生徒に「授業をさせていただきます」(⁉)と言って(本当にこういう奴、いるのである)平気な顔が出来る方々なのだ。こっちとしては、「ちゃんと責任持てよ」「自信を持ってやれよ」と言ってやらねばならない。こういう方々を称して、けじめがない大人、あるいは立場というものが分かってない大人というのだ。ここで崩壊しているのは、言葉ではない。「相手」や「場所」の崩壊、いや、放棄である。「いただきます」とは、食材に宿っていた命や作ってくれた人に対する感謝だ。自分が向き合ってるものや相手が明確、ということだ。頭の上に「いただく」くらいに、感謝しているということなのだ。一体「いただいて下さい」って、何のことだ?

 2 日常的興奮

 もちろん、原因は「移動・訪問」の増加ばかりではない。これも繰り返し来たことだが、40年前からの急激な「退屈の減少」(これは間もなく「退屈の忌避・憎悪」となる)が、大きく加担している。静かな日々・平凡な日々が、心の平穏とは行かなくなる。それまで穏やかだった日々は、憂鬱や攪乱した道に通じる「退屈」へと変貌を遂げる。昔の子どもは、毎日を楽しいものだと思っていなかった。頬杖をついて口笛を吹いて、時間を費やしたのだ。しかし、今や「今日は外食だ!」という、誇らかで高らかなお父さんの声など遥か彼方に行ってしまったし、草野球は場所も仲間もなくなった。ささやかな楽しみの日常に代わり、常時絶え間ない興奮の誕生と必要が生まれた。ファミレスは家族の負担軽減となっただけではない。週に一度か、月に一度の「興奮」を家族から奪った。家族の団欒を楽しむ利用客にホッとすることもあるが、今の大体は、各々がスマホのディスプレイを眺めながらの「食事」だ。また、草野球にあった仲間内のささやかなヒーローをクラブチームの野球は排し、プロか大リーグへの「夢」を目指す合宿所もどきへと変化を遂げる。子どもにお金をかける必要と強迫(「脅迫」ではない)はスポーツばかりでなく、家庭を進学への合宿所へと変えた。近所のお父さんがコーチを務めても、おじさんの顔は厳しさに満ちている。家族のいるはずの家で待っているのは「ガンバレ!」なのだ。この悪無限的循環と言葉の現状は、恐らく対応している。「よそ行き(ハレ)」と「毎日(平凡)」の二通りだった言葉が、全て「よそ行き」が当たり前となった。一種の興奮状態と言える「晴れの舞台」の言葉が、普段使う「正しい言葉」に舞い降りたのである。近所のおじさんが、コーチの顔になったのと対応する。みんな行き場を失い、逃げ場所を探している。この状態を言うなら、過剰なストレス状態と言える。ストレスははけ口を求める。いじめや虐待の蔓延化、そして、子どもたちの自殺増加として現れている。「十代の子どもの死因『自殺』 1位は日本」という報告は、先日出されたものだ。指導の在り方とか子どもの見守り徹底化などと言われるが、本当は「過剰な興奮状態にある社会」「静かな時間を忌避する社会」の方をどうにかしないといけない。でも、これは決して難しいことを言っているわけではない。先だっての雪の日も「毎日の言葉」、あるいは平穏な日々の幸福が見られた。小学校はもちろん、中学校でも子どもがはしゃぐ姿があったのである。子どもの姿は健在だった。

 

 ☆後記☆

夜中に外に出て見てびっくりしました。静かで明るい夜とくれば、雪です⛄ 寒い中でシャッター📷

一昨日は、近所の子どもたちも雪にはしゃいでました。雪で喜ぶのは犬と子どもだけ。子どもはこうでなくちゃ

私は雪かきの後の一服。手前はガチャガチャのスーパーカブ。800円ですが、十分な見ごたえ。本田宗一郎に万歳🏍

 


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