桐島聡
~「私たち」の場所~
☆初めに☆
ニュースに驚き、連続企業爆破事件を覚えているかと仲間に聞きました。すると、自分はその時生まれてなかったから覚えてるも何もない、と言われました。50年という歳月を思い、愕然とするしかなかった。すっかり色あせ、指名手配のポスターは朽ち果てそうでした。本人はどんな気持ちで駅や道々のポスターを、通り過ぎていたのでしょう。あの頃の「私たち」は報道後、この50年の中にすっかり沈み込んだはずです。安らかに、と思わずにいられません。
1 ふざけるな
こういう時どうしようもないクソどもが、分かった風な顔して必ず出て来る。「あさま山荘事件を機に学生運動に対する学生の熱はさめて行った」だと? 当時オマエは何をしていた(このクソを同世代と想定してだが)? こんな愚劣な連中が当時言っていたことといえば、「これでは一般学生(⁉)がついていけない」だのという、私たちを支持するでもしないでもない無責任でノンポリなおしゃべりをしていたか、「大学の混乱状態が続けば就職がだめになるんではないか」「このままで卒業出来んのかなぁ」などと、びくびくしていただけだ。5年後の2029年、この連中が今度は「東大安田講堂事件(⁉)を境に学生運動は、急激に衰えて行った」なんぞと吹聴するのは間違いない。その時に自分が生きてるかどうか定かでないので今のうち言っとくが、本当は逆だ。東大は確かに安田講堂攻防戦ののち後退を強いられるが、全国にくすぶっていた学生の思いが日大・東大闘争に触発され一気に噴き出した、というのが本当のところだ。ついでに言えば、あさま山荘は言われる通り節目だった。しかし、1972年に至るまで、私たちは全般的な限界を感じていた。私たちはいわば「反国家」を、間違いない正しいとしていたが、1970年代に入る頃は、それでよかったのかという迷宮状態にあった。「あさま山荘」以前、すでに私たちは混沌の場所にいた。
2 胸を張っていた
一方で私たちは、あさま山荘までの戦いを積極的にとらえていた。怖かったが、ひるむことはなかった。大学をバリケードで封鎖する十分な理由はあったし、機動隊で解除するとあれば実力で立ち向かった。今となっては恥ずかしいのだが、火炎瓶はともかく投石やゲバ棒を「武装闘争」などと言った。当時、大人たちは「言ってることは正しいが、方法が間違ってる」と良く言った。少し後の世代からは、あざけられ「ゲバ棒で革命が起こせると思ってたのか」と言われた。しかし、何といわれようと「私たちはとにかく、みんなまじめだった」(小池真理子)。1970年、赤軍の田宮高麿が「我々はあしたのジョーだ」と言って、日本刀で!よど号をハイジャックした時、無事に解放された乗客たちが口々に「そこらの男どもよりもずっとカッコよかった」と言ったことは、記憶に鮮明だ(この時たまたま搭乗していた聖路加病院の日野原重明先生は違っていたようですが)。付け足し。2002年に日本テレビから配信された「よど号事件」は、ちゃんと調べ上げた作りのいいドキュメンタリードラマだった。また、あさま山荘の時、人質となったK(名前は伏せます)さんが解放された時も「あの(連合赤軍の)人たちは、いい人たちだ」と言って、二人も殉職者を出している関係者を困らせたのも思い出される。一般の人々を巻き込む時の覚悟と節度と配慮があったことは、当時の経過から明らかだ。これも2002年なのだが、NHKが『プロジェクトX』であさま山荘を取り上げた時、人質だったKさんの手記が最後に紹介される。しかし、彼女から「犯人たち」を責める言葉は出されなかった。あの頃まで、私たちは自分たちのやって来たことに、胸を張っていた。これが大きく変容する。
3 刑に服していた?
1974年に起こった、三菱重工ビル爆破事件だ。まだ噴煙が立ち上る現場に踏み込んだカメラが、こちらに這いながら助けを求める会社員の姿をとらえていた。その姿も凄惨だったが、救護せずに撮り続けるのかと思うぐらい長回しだった。この事件に、今までと違う強い嫌な感じに襲われた。そして、間違ってると思った。「爆弾を仕掛けた。すぐに退避しろ。これは冗談ではないぞ」という警告があったという。しかし、三菱の社員もビル周辺を歩く人々も、アジアを食い物にする会社と同罪だということか。ここには一般の人々を巻き込む時の覚悟や節度や配慮は、微塵も感じられなかった。こんなので胸を張れるのか? これら一連の事件に、桐島聡は名を連ねていた。
桐島がどんな思いでいたか、知る由もない。報道は「保険証も持っていなかった」と平気な顔して書き立てる。しかし免許やキャッシュカード等の類は、どうやっても入手出来るわけがない。通帳発行はもちろんDVDのレンタルさえ、この世に存在しない「内田洋」には不可能なのだ。給料も現金で受け取り、カバンや押し入れに保管する。身内のものとの連絡や仲間はもちろん、かつて行きずりにすれ違った人との接触などの一切合切は、自分の生存と存在を教えるのだ。しかし、桐島は自分の存在を消して、刑に服する選択をしなかった。あるいは死刑になる位の関与があったのか、理由は計り知れないが、とてつもない孤独、明日を知れない日々と共に過ごしたのは間違いない。逃亡が始まって10年かかって、自分が潜り込める場所を見つけた。何かわけがありそうな奴だぐらいに、周囲は思っていたに違いない。それ以上踏み込まなかったのは、桐島がまじめだったからだろう。もめ事を起こさない、仕事は休まない桐島は、40年勤務するその間に周囲から「うーちゃん」と呼ばれる。私はついこの間見た映画『パーフェクトデイズ』に重ねてしまった。朝起きて小さな植木に水をやり、公園のトイレを磨き、仕事が終わった後のお風呂と一杯の酒を楽しみにひっそりと生きる男の話だ。この平山の様々なわけありを、映画はほのめかす。かと言って、平山は桐島と全く違う。車を運転するし、本名を名乗る。何より、平山の過去・現在を知るものが、近くを行き交い言葉を交わす。桐島は日々、後ろに近づく影におびえ、風が窓を叩く夜を震えて過ごしたのである。刑に服していた、と言えるのかも知れない。
安らかに、と思わずにいられない。
☆後記☆
大学の闘争戦士は、その後は企業戦士として出世街道まっしぐら、とかいう皮肉をずい分聞きました。例えば、元都知事の猪瀬直樹あたりもそう? 最近ではハルノ宵子(吉本隆明の長女)も『隆明だもの』(晶文社)で言ってましたね。でも、一体何人がそんなレールに乗れたのかな? 非常勤や非正規の現場しかなかった多くの仲間、自ら死を選んだ、あるいは精神の病に取りつかれた仲間。多くは企業戦士とは行かなかった。今となっては信じがたいのですが、関東圏の小中あわせて10回受けるチャンスがあった50年前の教員採用試験。その10回目がまた数々の幸運のお陰で、私は採用となったのです。「生き残ったもの」としての道は外せない、ぐらいは思っています。
寒い庭に、今年も山茶花が咲いてます。ありがたいです🌺
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二月になりました。今月の子ども食堂「うさぎとカメ」は、只見町との合同イベント『雪まつり』に参加します。雪合戦の合間に、おにぎり🍙とトン汁、食べにお出で⛄
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