思へば姉が亡くなって8年、初釜に招かれることもなかった
今回の初釜は12年ぶり「禮庵」という銀座ゆうき丸の中に作られている茶室で行われた
銀座のど真ん中に本格的な茶室だ、待合もあり、何より懐石料理がお手の物
11時半から16時までの長丁場 さすがに膝ががくがく
こちらは表千家、姉は裏千家だったので、微妙に手順が違うが先輩たち(年は私がダントツ上)に優しく助けられどうにか無事終了
始まりは一つだけど、それを伝える人たちによって微妙に手順が違ってくる、これは宗教に著しいかなと思いながらお手前を見る
キリストのいろんなたとえ話も、それを聞く弟子たちの容量によって表現が違ってくる、チャ子ちゃん先生はキリストのたとえ話が大好きで、その奥にあるその向こうにある真実を探す。それもまた自分流かもしれない
キリストは弟子たちの無理解にイライラしてわかりやすくたとえ話をするのだが、それがわかりやすくにならず、かえってむつかしい解釈になったりする
お釈迦さまもしかり、弟子たちによって広められているけど、王子であった釈迦が菩提樹の下で自分は何もわからない、本当に分からないと何もかも手放した時、少女が持ってきた飲み物を一口口に入れ、ああなんとおいしいこれなのだ、このお思いでいいのだと悟る、この話をどう伝えるかで私たちはそれぞれの容量の中で理解する
結局自分の器の容量でしか理解できない、それが人の世界だわ、なんて表裏の手順の違いにつらつらぼんやり考えながら座っていた
それにしても茶道はきもののためにあるような稽古事だ、裾裁きの衣ずれの音がなんとも心地よい、白い足袋が交差する軽やかさ、袖とともに動く流れるような美しさ、無言のうちにお互いに次の所作を決めあう合図、日本人の目で語り合う作法だ、心を込めた懐石料理は日本の自然の中からいただいた調理
それに使う什器や床飾り、日本人の美の結集が茶道にある
この日は市中祐佳さんの古代朱の輪島塗茶碗を持ち込みお薄を立てていただいた