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最後の皇太子オットー・ハプスブルク氏の葬儀

2011-08-04 23:07:17 | Nonsense
【最後の皇太子の葬儀行う ウィーン、心臓はハンガリーの修道院に】

第1次大戦まで中欧に広大な領土を有したオーストリア・ハンガリー帝国最後の皇太子で、4日に98歳で死去したオットー・フォン・ハプスブルク氏の葬儀が16日、帝国の首都として栄えたウィーンで行われ、欧州の王族や政治家、市民ら千人以上が参列した。
ハプスブルク氏のひつぎはこの日、ウィーンにある帝国皇帝の納骨所に安置された。AP通信によると、ハプスブルク家の伝統にのっとり取り出された同氏の心臓は、本人の希望でハンガリーの修道院に。
ウィーン中心部のシュテファン寺院で行われた葬儀には、スウェーデン国王夫妻やオーストリア、マケドニアなどの首脳らが参列。葬列は、沿道の市民や観光客らが見守る中、納骨所までウィーン旧市街を進んだ。


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ハプスブルク王家の最後の皇太子、オットー・フォン・ハプスブルクOtto von Habsburg氏が7月4日に98歳で永眠した。最後の皇太子オットー氏は、フランツ・ヨーゼフ皇帝の後継者である唯一の息子ルドルフが31歳の若さで情死した後、皇位継承者となった弟のフランツ・フェルディナンドの甥の長男として生まれた。ところが、フランツ・フェルディナンドが、1914年に妻のゾフィとともにサラエヴォで暗殺されてしまったために(第一次世界大戦のきっかけとなったサラエヴォ事件)、1916年にフランツ・ヨーゼフ皇帝が死去すると父のカールが皇帝になり、オットーも皇太子となった。しかし、1916年にオーストリアが敗北するとオーストリア=ハンガリー帝国は崩壊し、18年秋には650年間続いたハプスブルク帝国も崩れ去った。父カール1世は、シェーンブルン宮殿を後にした国外に逃れた。

その後、政治家として生きたオットーだが、オーストリアがドイツに併合された時に、たったひとり、パリからフランスの新聞を通じていち早くヒトラーに抗議をして戦いを呼びかけた。

「押しつぶされた国民の名において、すべての国民に訴えたい。再び独立と自由をとり戻す断固たる意志を持つオーストリア国民を支持してくれるよう、すべての国民にお願いしたい。私は最後まで戦う。」

どこからも反応がなかったのだが、唯一の反応がナチスだった。ヒトラーはナチス政権を倒せるのは伝統あるハプスブルク家の復活だという恐怖感をいつも抱き続けていたために、オットー・ハプスブルクを逮捕、死刑に処するとの布告をし、実際に秘密警察によってパリに刺客が送られたそうだ。ふたつの大戦を経験した長い98年間だけでも邯鄲ものだが、本当に数奇な人生だったのだろう。

ところで、オットー氏の曽祖父の兄、フランツ・ヨーゼフ皇帝が1916年に亡くなった時の葬儀は11月30日のことだった。皇帝の遺体がカプチーナ霊廟に着くと、ハプスブルク家の厳かな儀式がはじまった。宮内大臣が固く閉ざされた鉄の扉を銀の杖で叩くと、霊廟の院長が尋ねる。

「そちは何者か。ここに入るを願う者は?」
「それがしは皇帝。オーストリアの皇帝にして、ハンガリーの王なる者ぞ」
と答えると再び
「予はその者を知らぬ。当院に入るを願う者は何者なるぞ?」と問われ、
「それがしは皇帝フランツ・ヨーゼフなる者。ハンガリーの使徒王、・・・(中略)クラインの公なる者なり」と答える。院長はさらに尋ねる。
「予はその者を知らぬ。当院に入るを願う者は何者なるぞ?」
「それがしは、あわれな罪人の一人。神の恩寵を願う者なり」と3度目に宮内大臣がひざまずき答えると
「さらば、入るがよい」
と許され、鉄の扉が静かに開いた。ハプスブルク家の皇帝といえども、神の前ではひとりの哀れな罪人として恭順の意を示す儀式が行われたのだが、最後の皇太子も同じような儀式で別れを告げたそうだ。
それにしても故人の遺志で心臓はハンガリーへ・・・。最後までオーストリア=ハンガリーの皇太子だった。


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