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1968年、この年は、世界的に政治の嵐の時代で、パリでは学生たちによるデモがあり、プラハの春があり、渡辺さんのお母様も王子の米軍野戦病院設置反対運動にエプロン姿でデモに参加していたそうだ。そうだったのか、今ではとても考えられないママたち。そんな中、日本の大学、東大では、初秋から駒場の教養学部はすでにストライキに入っていた。 やがて運動の飛び火は次々とひろがり各学部が学生大会でストライキを決議し、渡辺さんは東大全共闘と行動をともにし、唯一の写真家として、安田講堂のバリケード内に泊り込み、記録写真を撮り続けた。
時系列で進行していく写真は、祭りのにぎわいと同時に不思議な静けさがただよう。数え切れない多くのヘルメットの波が学生運動のひろがりと熱気を伝え、戦士の休息が若さと真摯さの曳航を予感させて、残された瓦礫が祭りの終焉を宣告している。最後から二枚目の写真には、駅の売店にヤマのように積まれた「夕刊フジ」に、「東大全共闘 山本議長逮捕 日比谷で」と大きく手書きで書かれたチラシがたれている。もっと刺激的で臨場感に溢れる写真を見たこともある。森田童子の歌がいかにも似合う哀しい抒情性をかもす美しい写真もあった。しかし、本書の写真は、それぞれが貴重な記録写真なのだと思う。しかも、幸いなことにジャーナリストとしての視点がない。
さて、もうひとつ大事なことは、前述の夕刊フジのトップニュースを飾った元東大全共闘の山本義隆さんの貴重な寄せ書きにある。
これまでいっさい学生運動について沈黙をしていた山本氏は、彼なりの総括とも言える「六八・六九を記録する会」を作って、東大闘争と日大闘争の記録を残す仕事をはじめたことがあきらかにされている。以下、少々長いが山本氏の記録を残す目的についての記述の一部抜粋。
「東大全共闘なるものの主張や思想と言うべきものがあるとすれば、東大全共闘に結集する各学部や研究所の学生や大学院生や助手・職員よりなる闘争委員会や小集団さらには個人の、ときに奔放でときに過激で、そしてつねにひたむきで真摯な発言の総体こそがそれであろう。(中略)歴史的事実の東大闘争の全容と恣意的な歪曲や隠蔽を許すことなく・・・当時のビラ類を一次資料として保存するアーカイブを作ることから始めなければならない。」
そのために、本書に寄せ書きをするということにもなったのだろう。67年から69年2月までのごく短期間にくぎったのは、後の連合赤軍事件と切り離すことで、純粋な全共闘運動の墓碑として完結したいためであろうか。ビラ、討論資料、学生大会議案、パンフレット、当局文書からメモまでダンボール10箱分を回収。約5000点をパソコンのデーター・ベースを用いて整理、総目録をつけて『東大闘争資料』としてハードカヴァー本全23巻とマイクロ・フィルム3本が国立国会図書館に納められている。コピーを積み上げると1メートル50センチ近くなる資料を6年の歳月をかけて整理したそうだ。この寄せ書きを読む限りでは山本さんたちの怒りももっともだな・・・。
■こんなアーカイヴも
・「総括せよ!さらば革命的世代」
・「マイ・バック・ページ ある60年代の物語」川本三郎著