イタリア北部のポー川河口のひなびた小さな村。美しい平原が広がり、のどかな村人がまったりと暮らしている以外、な~~んにもない村。
(以下、内容にふれておりまする。)
そこへ、精神状態が不安定になった老女教師のかわりに代理教員としてやってきたのが、真っ赤なコートを着たマーラ(ヴァレンティーナ・ロドヴィーニ)。バスから降り立った清潔な美貌に、なんの刺激もたいした娯楽もない村の男達の視線が、くぎ付けになってしまうのは自然の摂理であろう。ジャーナリスト志望の18歳のジョヴァンニは、得意のIT知識をいかしてネットの接続を手伝ってマーラーの信頼をえるが、自宅のパソコンで彼女のメールをこっそり読むことに成功する。こんなルール違反の青年だが、未成年ゆえになんとなく罪が軽い感じもするのが、こんな悪巧みが最後に伏線となる。結婚を控えたバスの運転手の若者グイド、ルーマニア人の妻の尻にしかれている店を経営するアモスも彼女の存在が気になるのだが、所詮彼らにとっては、彼女はくどいて寝られればラッキーな単なる遊び相手。お気楽な雰囲気の彼らにくらべて、チュニジア人の移民で自動車の修理工、独身のハッサンは彼女を遠くからじっと見つめるだけである。寡黙なハッサンは、仕事ぶりは真面目で誠実。そんな彼がストーカーのように、林の中のマーラーの自宅で寛ぐ彼女のエロチックな姿態を夜眺めるために庭までやってくる。”のぞいている”わけではないのだが、なんともあやしい。。。フェルザン・オズぺテク 監督の映画『向かいの窓』やあの!『マレーラ』ではないが、窓の向こうの憧れの女性を男どもがひそかに鑑賞するのは、イタリアの伝統、文化だろうか。見てもいいわよ・・・なんちゃってそそられるようにさえぎるカーテンもない。
しかし、ハッサンが他の尻軽でお調子のよい男どもと違って、気楽に彼女をくどけない事情や忖度もじんわりとわかってくる。じっと遠くから彼女を見ていたのも、実は思いのたけが大きいからだという理由にも、恋の経験者だったら納得するだろう。やがて最初は彼をストーカーと思い(実際の行為はストーカーに近いのだが)嫌っていたマーラーも、生真面目で男気があるハッサンを知るうちに惹かれていくようになる。相手に好意をもてば、自宅を暗闇のかげがら眺めていても許せるのは古今東西共通か。ハッサンの恋は急転直下のごとく成就。それもマーラーが感情を優先する自由奔放な女性だからなのだが、そのマーラーの生き方と男女の性愛を一時のものと考えられないハッサンは、互いに愛しあいながらもすれ違っていくのだったが。。。
小さなコミュニティの中で、代理教員のマーラーも移民のハッサンも所詮よそ者であり、『ブロデックの報告書』ではないが、誰も本気で彼らとつきあおうとしていない。地元の人々から自分たちよりも格下扱いを受ける彼らチュニジア人家族の複雑な心情が、イタリア映画鑑賞の要。と言っても政治的でも社会派でもなく恋愛にサスペンス要素をあわせて、ジョヴァンニが本物のジャーナリストへと成長して村を卒業していく過程が映画のタイトルにこめられている。小さな村にやってきた美しい女性の登場が、次々と波紋をよぶさまを淡々と描くところに、ハッサンの絶望が深い。そんな小さな村の閉塞感から抜け出すように、もっと広い世界に飛び立っていく少年の姿は、これまでも繰り返し描かれてきたイタリア映画らしさがある。本作は、2008年恒例のイタリア映画祭でも好評をはくした作品とのこと。画像は、マーラーがハッサンの逃げられた婚約者の花嫁衣裳のベールを見つけて被っている場面だが、ここで彼女がその婚約者のことをたずねるとハッサンが「綺麗な人だった」と応え、マーラーははっとする。はじめてハッサンの孤独な心の痛みにふれたからだろう。心に訴えるものはそれほど大きくないが、ヴァレンティーナ・ロドヴィーニが本当に綺麗でさりげない伏線の効果がよく練られた作品である。
監督:カルロ・マッツァクラーティ(Carlo Mazzacurati)
■イタリア映画祭に出品された作品
・『ベッピーノの百歩』
・『輝ける青春』
・『夜よ、こんにちは』
・『風の痛み』
・『ぼくの瞳の光』
・『向かいの窓』
・『マルチェロ・マストロヤンニ 甘い生活』
(以下、内容にふれておりまする。)
そこへ、精神状態が不安定になった老女教師のかわりに代理教員としてやってきたのが、真っ赤なコートを着たマーラ(ヴァレンティーナ・ロドヴィーニ)。バスから降り立った清潔な美貌に、なんの刺激もたいした娯楽もない村の男達の視線が、くぎ付けになってしまうのは自然の摂理であろう。ジャーナリスト志望の18歳のジョヴァンニは、得意のIT知識をいかしてネットの接続を手伝ってマーラーの信頼をえるが、自宅のパソコンで彼女のメールをこっそり読むことに成功する。こんなルール違反の青年だが、未成年ゆえになんとなく罪が軽い感じもするのが、こんな悪巧みが最後に伏線となる。結婚を控えたバスの運転手の若者グイド、ルーマニア人の妻の尻にしかれている店を経営するアモスも彼女の存在が気になるのだが、所詮彼らにとっては、彼女はくどいて寝られればラッキーな単なる遊び相手。お気楽な雰囲気の彼らにくらべて、チュニジア人の移民で自動車の修理工、独身のハッサンは彼女を遠くからじっと見つめるだけである。寡黙なハッサンは、仕事ぶりは真面目で誠実。そんな彼がストーカーのように、林の中のマーラーの自宅で寛ぐ彼女のエロチックな姿態を夜眺めるために庭までやってくる。”のぞいている”わけではないのだが、なんともあやしい。。。フェルザン・オズぺテク 監督の映画『向かいの窓』やあの!『マレーラ』ではないが、窓の向こうの憧れの女性を男どもがひそかに鑑賞するのは、イタリアの伝統、文化だろうか。見てもいいわよ・・・なんちゃってそそられるようにさえぎるカーテンもない。
しかし、ハッサンが他の尻軽でお調子のよい男どもと違って、気楽に彼女をくどけない事情や忖度もじんわりとわかってくる。じっと遠くから彼女を見ていたのも、実は思いのたけが大きいからだという理由にも、恋の経験者だったら納得するだろう。やがて最初は彼をストーカーと思い(実際の行為はストーカーに近いのだが)嫌っていたマーラーも、生真面目で男気があるハッサンを知るうちに惹かれていくようになる。相手に好意をもてば、自宅を暗闇のかげがら眺めていても許せるのは古今東西共通か。ハッサンの恋は急転直下のごとく成就。それもマーラーが感情を優先する自由奔放な女性だからなのだが、そのマーラーの生き方と男女の性愛を一時のものと考えられないハッサンは、互いに愛しあいながらもすれ違っていくのだったが。。。
小さなコミュニティの中で、代理教員のマーラーも移民のハッサンも所詮よそ者であり、『ブロデックの報告書』ではないが、誰も本気で彼らとつきあおうとしていない。地元の人々から自分たちよりも格下扱いを受ける彼らチュニジア人家族の複雑な心情が、イタリア映画鑑賞の要。と言っても政治的でも社会派でもなく恋愛にサスペンス要素をあわせて、ジョヴァンニが本物のジャーナリストへと成長して村を卒業していく過程が映画のタイトルにこめられている。小さな村にやってきた美しい女性の登場が、次々と波紋をよぶさまを淡々と描くところに、ハッサンの絶望が深い。そんな小さな村の閉塞感から抜け出すように、もっと広い世界に飛び立っていく少年の姿は、これまでも繰り返し描かれてきたイタリア映画らしさがある。本作は、2008年恒例のイタリア映画祭でも好評をはくした作品とのこと。画像は、マーラーがハッサンの逃げられた婚約者の花嫁衣裳のベールを見つけて被っている場面だが、ここで彼女がその婚約者のことをたずねるとハッサンが「綺麗な人だった」と応え、マーラーははっとする。はじめてハッサンの孤独な心の痛みにふれたからだろう。心に訴えるものはそれほど大きくないが、ヴァレンティーナ・ロドヴィーニが本当に綺麗でさりげない伏線の効果がよく練られた作品である。
監督:カルロ・マッツァクラーティ(Carlo Mazzacurati)
■イタリア映画祭に出品された作品
・『ベッピーノの百歩』
・『輝ける青春』
・『夜よ、こんにちは』
・『風の痛み』
・『ぼくの瞳の光』
・『向かいの窓』
・『マルチェロ・マストロヤンニ 甘い生活』
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